北欧神話といえばオーディン率いるアース神族が中心とも言えるほど、様々な逸話が伝承されている。
アース神族は自由気ままで欲に走りがちなところがところがあり、人間味に溢れた種族だがその行いは大胆かつ豪快でとても人が真似できるものではない。
また自然を司り、人間に豊かさを与えるのも彼らである。故に人々から信仰され、彼らは神たるのだ。
これはまだアース神族が彼らの国アスガルドを作り上げてから間もない頃の話だ。とはいえ、人間の基準にするならば、ひと時代ふた時代も過ぎるほどの長い時間になるだろう。
その頃のアスガルドは巨人や余所者から国を守るための柵で囲まれていた。しかしそれは防御というにはあまりにも乏しい木の柵であった。
もっと頑丈で強固な防壁が必要であり、いつか造り上げなくてはと解ってはいたが、神々の誰一人として造り始める者はいなかった。
そんなある日、アース神族のもとへひとりの石工が訪れた。やや薄汚い身なりの大男で、その顔も端正とは言い難く、普通ならば神々に謁見することも叶わないような者だった。しかし、男の口から出た聞き捨てならない言葉によって、彼は神々の前に招かれたのだ。
「このアスガルドに、城壁を造らせていただきたい」
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荘厳なヴァルハラの館の広間の中央に石工は跪いていた。
「表を上げよ」
低く威厳のある声が響く。石工が顔を上げた先には、少しうねりのかかった白髪と、刻まれた顔の皺が往年の威厳を感じさせる神がいた。眼帯をつけた隻眼、左手には鋭く磨かれた穂先の槍を持つ者。アース神族の主神オーディンである。
「貴様が我がアスガルドに城壁を造ると?」
主神から放たれる圧に気おされ、額に脂汗をにじませながら、石工は小さく頷いて肯定する。オーディンは玉座に腰掛けながら、じっと石工の瞳を覗き込んだ。見透かされるような感覚に、石工の脂汗が冷や汗と変わり頬にたらりと垂れる。
「──して、貴様は何を望む?」
「え、は?」
「煩わしい……貴様が我らアース神族のため、ひいてはこのオーディンの為に無償で奉公し、城壁を献上しようとする殊勝な者ではないことくらい一目でわかるわ」
目の前のこの主神はどこまで己を見抜いているのか。片方しかないはずの瞳に射抜かれ焦燥に駆り立てられる石工。だが後戻りはできないと心決めて、石工は自らの計画を語り始めた。
「まずあっし、じゃなかったワタクシが──」
「よい。聞くに堪えん稚拙な言葉より、自分の言葉で話せ」
「へい、では失礼して……あっしの造る城壁は分厚く強固な代物になりやす。それこそこの国を襲う
石工の語る城壁の設計にオーディンは低い声で小さく唸った。オーディンの目の色が変わったのを見ると石工は勢いづいて、本題へと移ることにした。
「期限を守って城壁を完成させた暁には、褒美として太陽と月、そして女神フレイヤ様をいただきたいんでさぁ」
「なんだと!?」
オーディンとは異なる驚きの声と、ざわつき声が石工の周りから聞こえてきた。石工が周囲を見回すと、そこにはアース神族の神々が彼を囲むように立っているではないか。石工はオーディンに目を奪われていたため、周りの神々の存在に気づけずにいたのだ。
ざわめきがおさまらない神々に、オーディンが喝を入れて静まらせる。自分の置かれた状況を理解しきれず苦笑いを浮かべた石工に、オーディンは下がって待つように命じ、石工はおとなしくそれに従って部屋から出ていった。
「さて皆は先ほどの男の提案をどう思うか?」
オーディンは静まり返ったままの神々に、石工と対峙していた時とは変わって明るく問いかけた。
「敵に備えるため、城壁は必要でしょう。それは間違いないだろう」
まず声を出したのはヘイムダルという男神だった。非常に優れた目と耳を持ち、睡眠を一切必要としないといわれる、アスガルドと人間の国ミドガルドをつなぐ虹の橋ビフレストの番人である。
「しかし太陽と月が無くなってはみんな困ってしまうのではないかい?」
褒美の心配を始めたのはアルヴヘイムの支配者、男神フレイである。フレイは豊穣を司る神とされ、人々に実りを与える存在であり、それに必要な太陽が無くなることに不安を覚えたのだ。
「息子よ、自分の妹の心配もしてあげなさい。私は娘の嫁ぎ先が急に決まりそうで気が気でないんだから」
渋い顔を浮かべるのは海の神ニヨルズだ。フレイとフレイヤは彼の双子の子供であり、元はヴァン神族であったが戦争の終結の際に人質として子供たちと共にアース神族となった。
「父上! 城壁などなくともこのテュールとトールがいれば巨人など恐れるに足りず。すべて蹴散らし見せましょう! なあトール! あれ、トールは何処だ?」
力強く宣言するのはオーディンの息子である軍神テュールだ。アース神族で最も勇敢な神とされ、自身を裏付けるだけの実力があったのだ。
「トールは東方に巨人討伐に出かけているよ。本当に戦に関しては頼りになるからな」
テュールの疑問に答えたのは、立派な顎髭を生やした男神ブラギだ。詩の神であり、彼もまたオーディンの息子である。
「それとこれとは別の話よ。城壁は要るに決まってるじゃないの」
話の腰を折るように割ってきたのは美と愛の女神フレイヤだ。この世で最も美しい女神で、兄のフレイと同じく豊穣の神ともされる。石工が褒美として所望した女神は彼女のことに他ならない。
「でもいいのフレイヤ? 城壁が完成したら貴女はあの石工のお嫁さんになるのよ?」
おっとりとした口調で問いかけるのはブラギの妻イドゥン。アース神族に永遠の若さをもたらす黄金の林檎の管理者であり、フレイヤに負けず劣らずの美貌を持つとされている。
「嫌に決まってるじゃない。あんなさえないやつの妻になるなんてごめんだわ」
「そうよねえ。私も同じ立場ならそう思うわ。あんな弱そうな男なんてありえないって思うもの」
フレイヤに同意するのは女神シヴだ。雷神トールの妻であり、黄金の髪を持つ美しい女神とされている。
「待ってください、話が逸れていますよ。ここまでの意見をまとめると城壁は作るべきだけど、褒美はどれも渡したくない……ということでいいでしょうか?」
ここまでの意見をまとめるのは光の神バルドルだった。裁きの神とも言われ、光り輝く美貌を持つもっとも美しい男神とされており、オーディンと本妻のフリッグの息子である。
バルドルの言葉に皆は口を噤んで、静けさが空間を支配した。相反する意見が議論の進行を止めてしまったことに各々が気が付いているためだ。しばらくするとそんな静けさを打ち消すようにクククという嘲笑が響いた。
「何がおかしい、ロキ!」
怒鳴り声をあげるヘイムダルに名を呼ばれ、薄ら笑いを浮かべながら一歩前に出てきたのは悪神ロキだ。北欧神話のトリックスターと呼ばれ、魔法を得意とし、特に変身魔法に秀でている。巨人の血を引いていながらもオーディンの義兄弟となり、アース神族の仲間入りをした神だ。
「いや、皆が一様に頭を抱えているのが面白くてな。城壁くらい造らせてやればいいじゃないか」
「それでは太陽と月、なによりフレイヤが奪われてしまうではないか!」
「なら渡さなければいいだけだろう」
「それでは城壁を造らせられないだろう。それとも褒美をとらせずアイツに城壁を造らせる方法があるとでも?」
「あるさ」
不敵に笑うロキに、神々からおおっと声が上がる。神々はロキの口からその続きが出てくるのを今かと待ちわびた。
「要は期限までに城壁が出来上がらなければいいのだろう? なら、期限をもっと短くしてやればいい」
「というと?」
「あの石工は三年と言っていたが、私の見立てでは完成までざっと一年半といったところだろう。あの手の
「その読み通りだったとして、何ではじめから一年半で出来ると言わないんだ。短い期間で出来ると言ったほうが優秀だと思われ、話が早いだろう?」
「バカめ。余裕を持って切り出すのは交渉の基本だろうが。そのまま話が通れば、ゆっくりと仕事を進めてもいいし、早く終わらせたと言って追加の褒美を強請ることもできる。期限を持ち合いに出されても、強気で短く交渉出来るだろう」
なるほど、と納得する神々に、大丈夫かコイツらと思いながらもロキは話を続けていく。
「そうだな……期限は半年くらいにしてやればいい」
「それじゃあ城壁が完成しないじゃないか! お前の見立てじゃ一年半と言ってたろう!」
「完成しなくていいんだよ、それが目的なんだから。んー、ヤツが頑張れば半分程度は出来上がるんじゃないか?」
ロキは手悪戯をしながら鼻で笑って答える。神々はロキに不満を訴えるも、ロキは意にも介していない。
「いいか? 城壁が完成しなければ褒美は渡せない。つまり、奴は半年のタダ働きをされられて褒美は何も無し。我々は苦労もせず半分の城壁を手に入れられるんだ。最高だろ?」
得意気に言いきるロキに、神々は次々と賛成していく。マンパワーで工期を縮められても困るので、ひとりで行うことを条件に加え、話がまとまったところで、再び石工が神々の前へと呼び出された。
「期限は半年、誰の手も借りずにあっしひとりで完成させれば、褒美として太陽と月、フレイヤ様を嫁に貰えると……そういうわけですかい」
石工はオーディンから告げられた条件を復唱し、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。神々は条件を厳しくしすぎて断られるのではないかと少し不安になってきた。
「かなり厳しいですな……」
「貴様の望む報酬にはそれほどの価値があるということじゃ。褒美を変えて期限を伸ばしてもよいぞ?」
「いえ、その条件でやらせていただきやす。変わりと言ってはなんですが、あっしからも少しお願いがありやして……」
困り顔の石工はオーディンに頭を垂れる。伏せた顔に一瞬だけ悪意が隠れた笑みを浮かべたことに、悪神であるロキだけが気が付いていた。
「まず石を引くのに馬を一頭使わして貰いたいんでさ。スヴァジルファリっていう
「馬か……まあよいだろう」
「おい、そんな安請け合いをするんじゃない」
「馬の一頭くらい良いではないか、ロキ。我々の出した条件を考えれば、そのくらいはな」
「しかし……!」
「くどいぞロキ! この儂が良いと言った!」
オーディンにぴしゃりと止められ、ロキは口を閉じた。主神の言葉は絶対。オーディンが白と言えば白、黒と言えば黒になるのだ。それを聞いて石工は礼を言いながら笑顔を浮かべた。ロキはその笑顔にどこかひっかかりを覚えながらも大人しくすることにした。
「それと、今ここには居ないトール様なんですが、トール様が工事現場に近付かないようにしてもらいたいんでさ。なんでもかなりの暴れん坊だと噂を聞いてましてね、造りかけの城壁をうっかり壊されちゃ堪らないんで。それに機嫌を損ねて殴られようもんならあっしは死んじまいやす」
「ふむ。確かにあり得ん話ではないな。わかった、トールが城壁に近付かないよう言い説いておく」
「それと──」
「──まだ何かあるのか?」
「い、いえ。ただこの契約に保証人を立てて貰いたいとおもいやして……」
「宜しい。ではアース神族の長たる主神オーディンの名の下に此度の契約の履行を約束しよう」
「へへ、ありがとうございやす、オーディン様」
早速作業に取りかかる、と言って石工はその場を後にした。
神々はこれで安心だと談笑に耽っていたが、ロキだけは胸に一抹の不安を抱えていた。
「私の思い過ごしならば良いのだがな……」
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そして城壁の建築が始まった。石工は1日たりとも休むことなく、朝早くから夜遅くまで働き次々と城壁を造り上げていった。
神々は石工の働きに驚いていたが、それ以上に驚いたのは彼が連れてきた馬、スヴァジルファリの働きであった。スヴァジルファリは自身よりも大きな石を黙々と運んでいく。それこそ石工が休んでいる合間にも、石を運び続けたのだ。
石工の言葉に偽りはなく、トロールや巨人が襲いかかろうともびくともしないような、分厚く高い頑丈な城壁が出来上がっていった。
それから月日は流れ、約束の期限の三日前になった。
この日、主神オーディンから召集がかかり、アース神族の神々は再びヴァルハラの宮殿に集まっていた。
「よく集まってくれたアスガルドの同胞たち。今日は皆に良い知らせと悪い知らせを持ってきた。どちらから聞きたい?」
「勿論良い知らせからで! ポジティブは皆に勇気を与える! そのあとどんなことを聞いても勇気があれば大丈夫さ!」
オーディンに意気揚々と返事をした軍神チュール。彼の明るく元気な笑顔につられて、オーディンも笑みを浮かべながら、良い知らせを告げた。
「間も無く、アスガルドの城壁が完成する!」
神々からわあっと歓声が上がる。素晴らしい、最高だ、など次々と歓喜の声が聞こえて、中には小躍りを始める者もいるほどだ。
暫くして熱気が落ち着いてきた頃合いに、神々の中でも一際冷静なヘイムダルが「して、悪い知らせとは?」とオーディンに尋ねた。
「石工との契約が成立し、太陽と月、そしてフレイヤを渡さなければならない……」
なんということだ、そんな馬鹿な、と神々から続々と落胆の声が上がり、盛り上がっていた神々の雰囲気は一転して、お通夜のように静まりかえった。
静寂が、神々を包み込む。
「嫌よ! あんな奴のモノになるなんて絶対に嫌ぁ!!」
静寂を切り裂くフレイヤの叫びが響く。女神シヴにすがりながら、目尻に涙を浮かべ、髪を振り乱し叫ぶ姿は、心の底から嫌なのだと見る者に分からせた。
「でも約束をしてしまったし……」
「約束がなによ! 嫌なものは嫌なの!! 皆、私がアイツに連れられてアスガルドを去ってもいいの!? この私の姿を見られなくなっちゃうのよ!!?」
それは困る。皆思うことは同じだった。美という概念を集結させて極めたともいえるフレイヤの美貌は、ただ佇んでいるだけでその風景を至上の絶景へと変えるからだ。
「ああ、どうにかして約束を反故にしなければならない。しかしどうすれば……」
「誰かなんとかしなさいよ! 皆、私がアイツに独占されてしまってもいいの!? もう誰一人としてこの私と語らうことが出来なくなるのよ!!?」
それは困る。皆思うことは同じだった。愛の女神たるフレイヤとの語らいは、それが例え天気のことのような、他愛ない話だったとしてもそれ自体が極上の娯楽へと変わるからだ。
「しかしどうしてこんなことに……誰がこんな約束を始めたんだ」
「確か、ロキが言い出したことだったと思うが?」
記憶を振り返りながらヘイムダルが落ち着いて言った一言に、ロキはギョッとした。なんてことを言い出すんだ、空気を読めこの堅物……みんなの批判が私に集中するじゃないか、と思った頃には神々の視線はロキへと殺到していた。
「待て待て待て、お前らだって賛成してたじゃないか!」
「でもロキがあんなこと言わなきゃ、石工と約束なんてしなかっただろうしなあ」
「おいフレイ! 待ってくれ、確かに奴の仕事の速さを見誤ったのは認めよう。すまなかった。でもあんな馬が仕事をするなんて思わないだろう!?」
「そうだが、ならばあの馬に仕事を手伝わせなければ……」
「私は反対してたぞ! それなのにオーディンが……!」
「ほう、これは儂のせいだと言うのかのう、ロキ?」
オーディンに睨まれたロキは背筋を冷やし、言いたいことが言えず口ごもってしまう。そして神々は誰が悪い、あれがダメだった、やめておけば、などと無意味な討論と後悔を始めた。なにひとつ進展しないまま、
だがすぐに終止符が打たれた。フレイヤが絹を裂くような悲鳴を上げたからである。
「もういい加減にして! 今はそんなどうでもいいことより、どうすれば契約を無くせるかでしょ!!」
フレイヤは顔を真っ赤にしながら、真珠のような涙をぽろぽろと流して、神々にうったえた。
「皆、私を抱けるのはあいつだけになってしまうのよ!? もう誰一人としてこの私と身体を重ねることが出来なくなるのよ!!?」
それは困る。皆思うことは同じだった。フレイヤと過ごす一夜は他に並ぶことのないこの世で至高の快楽であった。下世話な欲望によって、ばらばらになりつつあったアース神族の神々が一致団結した瞬間である。
神々は口々にロキが悪いと言いそろえ始めた。身の危険を感じたロキがこの場から逃げ出そうとしたその時、ついに主神オーディンが決断した。
「ロキ、いかなる手段をもちいても良い、あの石工を
オーディンの目はマジだった。おいおい冗談だろなどと軽口を叩こうものなら、この場で殺されかねないとロキが思うほど、オーディンの目は血走り殺気立っていた。
「返事は、ハイか分かった、もしくはイエスだけだが?」
「ハイ・ワカリマシタ・イエス! なんとかする。どんな犠牲を払ってでもあの石工との約束を果たせないようにしてみせるから! だから槍から手を放せオーディンッ!!」
ロキが宣言をすると、オーディンは頭目がけて構えていた槍を置いた。ロキはふうと大きく息を吐きながら、額から流れる冷や汗を拭った。
オーディンはやると言ったらやる男だ。かつて霜の巨人ユミルを殺した時のように、親族だろうと義兄弟だろうと、躊躇うことなく命を奪うだろう。
それ故、ロキは必ず成し遂げなくてはならない。自らの命がかかっているのだから。
続く
三行でわかる今回のまとめ
アース神族の前に石工が現れアスガルドに城壁を作ると言った。
神々は石工を嵌めてタダ働きをさせようと企んだ。
馬の働きがヤバくて褒美の支払い待ったなし!なんとかしろロキ。
一話完結のつもりが長くなったので分割します。
次回、タイトル回収予定。お楽しみに!