アズールレーン ─メイドインアビス─ 作:志生野柱
ま、待たせたな(震え声)
「ねぇ、指揮官。そろそろ止めにしない?」
防音加工の施された実験室内で、珍しく苛立ちを露わにしたその声はあまり響かなかった。
いつもの気だるげな表情でも、時折見せる妖艶なものでも悪戯っぽいものでもなく、嫌悪感と悲壮感に怜悧な容貌を歪めて。重巡洋艦プリンツ・オイゲンはずっと同じ嘆願を続けていた。つまり、返事もずっと同じだった。
「そうもいきません。なるべく早く、これの扱いに慣れないといけませんから」
ボンドルドがぴらぴらと片手を振って示す。ぴくりと柳眉を震わせ、オイゲンは表情を隠すように俯いた。
「実戦想定型対セイレーン拘束兵装、『
「えぇ。オブザーバーの艤装を利用したモデルは、既に習熟したと言っていい程度には使えます。ですが・・・・・・」
「扱いやすい代わりに、弱すぎた。・・・それは聞いたわ」
氷山要塞──新生『
黒衣の袖口、手首の下から小口径のノズルが顔を出す。
「『
ぞる、と、無理に形容するのならそんな音を立てて、ノズルから黒い触手が飛び出す。見ているだけで気分が悪くなるような蠢きを繰り返すそれは、絞め殺す相手を探す蔦植物よりも悍ましかった。
それらは飛び出した勢いのままにスカベンジャーに纏わりつき、一息に締め上げた。
めき、ぶち、という破砕音に湿った音が混じり、布巾を絞ったようなぼたぼたという水音が続き。ふと静かになる。
「・・・・・・ご覧の通り、こちらに関してはまだまだ精密性が──」
嘆息したボンドルドの動きに反応し、触手が拘束を解く。のみならず、それらは素早くその矛先を変え、ボンドルドの腕に絡みついた。
「──おっと」
ぶち、ぐちゃ、と、聞くだに吐き気の催す水音を上げながら、ボンドルドはそんな間の抜けた声を上げただけだった。
明らかに人間の可動域を超える動きで左腕を動かし、『枢機に還す光』が右腕を上腕部から斬り落とす。焼かれた傷口からの出血は無い。
「まだまだ練習が足りませんね」
触手たちは潰し切った腕に飽き、辛くもその触手から逃れたボンドルドの首に狙いを付けたらしい。蛇が鎌首をもたげるようにその先端を指向する。
「ですがオイゲン、今回の私は死んでいません。この一歩ずつ着実に進歩する感覚は、やはり素晴らしいですね。・・・・・・オイゲン?」
オイゲンは仏頂面でそっぽを向いていた。
何度も何度も目の前で指揮官が自殺紛いの実験を繰り返し、絞り切った雑巾のようになった死体から仮面を回収する役割を課せられていればそろそろブチ切れてもおかしくないが、彼女は例外だった。
過去に一度やらかしているビスマルクは論外としても、かつて実験中に人格バックアッププログラムと観測機との干渉による疑似的なタイムリープを経験したオイゲン以上に『死』に寛容なKAN-SENもそうはいないだろう。
ボンドルドが複数存在するということを、最も正確に理解している、と言い替えてもいい。
可愛らしい反抗の意の表れに苦笑して、ボンドルドは襲い掛かってきた触手を左肘の光剣で斬り払った。
切り離したとはいえ自分の腕に何の執着もないのか、残った触手と一緒にそれも解いて消す。跡引く大気の悲鳴じみた爆風に黒衣を揺らして、同じく銀髪を揺らすオイゲンの頭を左手で撫でた。
「そんなに怒らないでください。分かりました、今日はもう終わります」
「もう23時を回るのだけど?」
「・・・・・・分かりました、明日も休みにします。これで機嫌を直してくれますか?」
ボンドルドにしてはやけに物分かりがいいと訝しみつつ、オイゲンはまぁ妥協点かと頷く。
そしてその直後、ふと思いつくものがあった。
「ねぇ指揮官、明日は確かユニオン陣営との会合──もともと実験の予定じゃないわよね?」
「えぇ、まぁ・・・・・・そうですね」
◇
冷たく、昏い、海の底で、彼女は目を覚ました。
ここは何処で、今がいつで、自分は誰か。根本的な知識がすっぽりと抜け落ちた自我の中に、はっきりと刻まれた名前がある。
口遊もうと息を吸い、流れ込んできた海水に顔を顰めた。
窒息はしない。活動に酸素を必要としないから。
だが、食事を必要としない肉体ながら、味覚はしっかりと備わっている。
食事と言えば・・・・・・何だ? いま何を想起しようとした?
思い出せない。知識の忘却という整理機能を持たない身体に、記憶回想の制限が掛けられている?
いや、記憶ストレージは間違いなく空だ。
自己の機体情報。カンレキ。基礎記憶。人造の兵器である自分が生まれた頃から持っていたはずのものが、何もない。
では、『彼』とは誰だ?
ジャンクファイルすら残っていない記憶領域に、戦友や知り合いの知識など無い。
記憶領域に由来しない記憶などというものは在り得ない。
そう、合理的な判断を下す。だが同時に、空白の記憶領域が軋む。
声が聞こえる。
守護。殺戮。兵器。存続。復讐。
要領を得ない単語の羅列が、在りもしない記憶を呼び起こす。
黒衣の長身。奇妙な仮面。穏やかな声と、優し気な言葉。燃える世界。終わる世界。侵略者の波。
いつの間にか浮上していた身体は水面を破り、太陽の光が目に刺さる。
ゆっくりと体を起こせば、水面がしっかりと足裏を支えてくれた。
つい先ほどまで海水に浸っていたはずの服も、髪にも、一滴の水も付いていない。
陽光を浴びて、しかし、くすんだ銀の髪に煌めきは宿らない。
黒いガスマスクを取り出し、鼻と口を覆う。潮風を含むすべての匂いが遮断されるが、彼女はむしろ現実感を強く意識できた。
「倒さなきゃ・・・・・・」
幽鬼のようにそう呟く。
懐かしさなど覚えるはずもないが、妙にしっくりとくる表現だった。
「れいめい、きょう」
シクシクと痛みを訴える記憶領域から意識を逸らして、彼女は眼前に聳える自由の女神像に向き直った。