たまには散歩をしようと思い立って、ラフな格好に着替えて家を出る。玄関を開けただけで春が流れ込んでくるようで、青空には雲ひとつない。まさに散歩日和といった陽気だ。少し前までばりばりの冬だった気がするのだが……時間が過ぎるのは早いものだと苦笑する。最近の記憶に残っているのは都会の味気ない風景ばかりだから、今日は自然の中でリラックスするとしよう。目的地はあの大きめの公園がいい。俺は軽く準備運動をしてから、通勤ルートとは逆方向に歩き始めた。
「いつの間にか、こんなに緑でいっぱいになってたんだな……」
公園のベンチに腰掛けて呟く。冬の彩度に慣れきった目には、春の緑は眩しく映った。アイドルのプロデューサーという仕事柄、毎日あちこち駆け回ってはいるが、周りの風景を楽しむ余裕なんてなかった。仕事が充実しているのは良いことだが、もう少し余裕を持って周りを見られるようになった方がいいだろう。アイドルの新しい可能性や知らなかった魅力に気付くのは、総じて日常の中のふとした一瞬なのだ。忙しさにかまけてそうした一瞬を見逃すなんて、本末転倒だ。
……こんなうららかで柔らかい日差しの中でも、結局俺の思考はアイドル達のことに行き着く。もはや俺とプロデューサーという職は切っても切り離せないものになっているのだから仕方ない。「休日くらい仕事のことは忘れてゆっくりしてください」と心配してくれた甘奈や灯織(他の皆も同じことを思っているかもしれない)の気遣いは嬉しいけれど、一瞬だって忘れられそうにないよ。だって俺は、プロデューサーであると同時に皆のファンでもあるんだから。むしろ、休日に皆のことを考えることが癒しになっているくらいなのだ。
かれこれ一時間くらい寛いでいる。気温が上がってきてウトウトとしてきたその時、爽やかな風に吹かれて目が覚める。碧い風は俺を透過して心地よく駆け抜け、不安や弱気な自分をどこかへ連れ去っていってくれるようだった。俺はこの風に吹かれて、ふと少し前からプロデュースしているユニット【ノクチル】に思いを巡らせた。彼女たちもこの清涼な風のように、ステージを、会場を、世界を駆け抜けて人々の暗い気持ちをどこかへ連れ去っていくようなユニットだ。「W.I.N.G」も終わって、彼女たちはこれからどう羽ばたいていくのだろう。俺はどんな空を作り出せるのだろう。天に向かって手を伸ばし、拳を握る。ああ、今から楽しみでたまらない。
不意に、スマホの着信音が鳴り響いた。画面を見ると、「はづきさん」と表示されている。仕事関係の連絡だろうか。ちょうどいい、やる気に燃えていたところだ。
「もしもし?」
「あ、プロデューサーさん……」
「……?」
はづきさんの声がいつになく重い。嫌な予感がしたが、とりあえず聞いてみないことには何も分からない。
「何かありました? 自分にできることならお手伝いを──」
「いえ、それが……それがですね──」
俺の言葉を遮り、はづきさんが続ける。用件が語られていくにつれて、俺の顔から血の気が引いていくのが感じられた。
「そんな……! 本当に……?」
はづきさんが冗談でそんなことを言うわけがないのは分かっている。この話が事実だと受け入れるのを俺の脳が拒否したがっているだけだ。それでも、受け入れなければならない。
「そ、そうですか……分かりました。すぐに、すぐに向かいます……!」
そう言って電話を切る。激しく動いたわけでもないのに呼吸が乱れて、汗をかいていた。生ぬるい風が頬を撫でる。
「円香……!」
電話の用件、それは円香が交通事故に遭ったということだった。俺は病院に急いだ。
既に円香の手術は始まっていた。聞いたところによると、出血が多い上に頭を強めに打ったようで、一刻一秒を争う事態らしい。俺にできることは、手術室の前で手を合わせて神様に祈ることくらいだった。
赤々と光を放つ手術室の表示灯をただただ見る。そのランプが消えて「もう大丈夫です」という言葉を聞く瞬間が早く来てほしい。でも、こうも思うのだ。赤という円香をイメージさせる色のランプに消えてほしくない──消えたら円香がいなくなってしまうような気がする、と。透き通った円香に触れようとして、触れられずに通り抜ける……そんな映像が頭の中で流れる。嫌な汗が背筋をつたって、震えが止まらなかった。
「ねえ」
怖い。円香がどこか遠くへ行ってしまう……。
「ねえってば」
肩を叩かれてようやくそれが自分への呼びかけだと気付く。顔を上げると、そこには透が立っていた。透は俺を見ると、少し驚いたような表情を浮かべた。
「……泣いてる」
「え?」
目元に手をやると、手に水滴がついた。どうやら俺は泣いていたらしい。言われるまで気付かなかった。
「そうみたい、だな……悪かった。こういう時こそ俺がしっかりとしないといけないのにさ。こんなんじゃ皆を余計に不安にさせてしまうよな」
そう言って涙を拭い、透と向き合うが、俺を見る透の表情はより困惑の色を濃くしていた。
「……ダメだよ」
「ダメって……?」
「無理しないでってこと。私がいるせいでプロデューサーが辛いのを隠すの、嫌だし」
「すまん、気を遣わせたいわけじゃなかったんだ」
謝罪して項垂れると、涙がまた溢れ出してきた。正直に泣いたほうがまだ気持ちが楽だ。
「謝らなくてもいいよ。隣、座るね」
透が隣に腰掛ける。硬いクッションの振動を通して透を感じた瞬間、少しだけ心が軽くなったような気がした。
透によると、小糸と雛菜は遠出をしているため、急いではいるものの到着まではまだ時間がかかりそうだということだ。それからは透と話しながら手術が終わるのを待った。透は落ち着いていて、話すほどに俺の気持ちも落ち着いていった。
「ありがとうな」
礼を言うと、透は感謝される理由がわからないといった表情を浮かべる。
「透が落ち着いてるからさ、俺もすこし冷静になれたよ。透も円香のこと、心配で仕方ないはずなのにな。本当は俺のほうが透を元気づけないといけない立場なのに」
そう言ったら、透は再び戸惑ったような表情を浮かべた。何か変なことを言ってしまっただろうか。
「辛いことに立場も何もないでしょ。誰だってそうだよ。それに……冷静、なのかな。今は何も出来ないし、頑張って信じてるだけだよ。大丈夫って」
「……そうか、そうだな」
透の言葉はもっともなことだ。立場も何もない。今までも、支えるだけが彼女たちとの関係ではなかった。「心配くらいはさせて欲しい」と言われたことも少なくない。支えられることも人と人のつながりには大切なこと、なのかもしれない。
「なあ、やっぱり感謝は伝えさせてくれ。透のおかげで色々なことに気付けたからさ」
「そっか」
それからしばらくは無言の時間が流れた。その無言は決して苦痛ではなかった。もう気持ちは前を向いて、円香の無事を心から信じていたからだ。
赤の輝きが消え、手術室の扉が開く。俺は跳び上がるように立ち上がって、先生に駆け寄った。
「先生! 円香は、大丈夫ですよね……⁉」
「落ち着いて下さい……はい。大丈夫です。手術は成功しました。決して予断を許さない状態ではありますが、最悪の状態は脱したと言っていいでしょう。いつごろ目を覚ますかまでは分かりませんが」
その言葉を聞いた瞬間、一気に肩の力が抜ける。後ろで透が大きく息を吐くと、一層安心感が体中に行き渡った。
「よかった」
「ああ……ああ!」
透に向かって笑いかけると、透も俺に向けて笑みを向けた。
「泣いてる」
「え?」
「いいじゃん。きれいな涙だよ、それ」
「……そうだな」
透の目も少し潤って明かりをきらきらと反射していた。
小糸と雛菜に手術が無事終わったことを連絡して、運ばれてきた円香と対面する。俺は眠っている円香の手に軽く触れて、語りかけた。
「生きてくれ円香。それだけで、十分だから」
円香が看護師に運ばれていく。事故当日で時間も時間なので、これ以上の面会はできない。そのまま今日は帰ることになった。
透と一緒に病院を出る。外はもう暗くなっていた。
「送ってこうか」
「ん、ありがと」
透と一緒に歩き出す。少し肌寒いが、爽やかに吹き抜けていく風は心を和ませてくれた。
「いい風だね」
「俺も同じこと考えてたよ」
「そうなの? ちょっと嬉しい」
二人の足音は風と共に街に溶けていった。