──black out──
暗い、暗い。真っ黒い空間の中、どこまでもゆっくりと落ちていくような感覚だけがある。私は…………ここがどこなのか、どうしてここにいるのか、何も分からない。少しすると、背中が地面に当たった感触がした。立ち上がって周りを見渡しても、今までと何も変わらない暗闇がただただ広がっているだけで、何もない。それにものすごく寒い。特に寒さは耐えられない程で、震えが止まらなかった。考えても何も始まらないし、ここに立ち止まって震え続けるのもごめんだ。私はとりあえず歩き始めた。
しばらく進んだところで、突然周りが眩い光に照らされた。この場所、見覚えがある──ライブのステージだ。会場は満員で、サイリウムの光が波打っている。
「え、何」
透を、小糸を、雛菜を、そして私を応援する声が聞こえる。いつの間にか私はステージ衣装を身に付けていて、私の少し前に三人がいることに気がついた。困惑する私をよそに、曲が流れ始める。練習で何度も何度も聞いた、私達の曲。三人が振り付け通りにダンスを始める。
「──ッ!」
完全に出遅れた。まずい、踊らないと。急いで修正……したかったのだけど。
「え?」
足に力が入らず、その場に崩れ落ちる。
「なんで……⁉ どういうこと……⁉」
足元を見ると、左足が無かった。何が起きているのか、頭が追いつかないが、ただ一つだけ分かることは、曲は進行しているということだ。まずい、まずい、まずい。続けなくては。起き上がるために手をつく──手が、無い……⁉ 起き上がることが出来ない。それでも曲は止まらず、私のパートに差し掛かる。せめて、せめて歌わないと……!
「────ッ!」
思うように声を出すことが出来ない。何も出来ない。ファンも、透たちも、何の反応も示さずにライブが進んでいく。嫌、待って。置いていかないで。嫌だ、嫌……! そんな無様な主張さえ、悲痛な叫び声を上げることさえも出来なかった。
「ぁ……」
曲が最後のサビに入った瞬間。透の──いや、三人ともだ──の背中に翼が見えた。透の背中には清らかな──神々しいという表現をもってさえ誇大ではないかもしれない──真っ白な翼が。小糸の背中には小さいもののパタパタと可愛らしく存在を主張する翼が。そして雛菜の背中には一番大きく、見る者全員を包み込んでしまえそうなふわふわとした翼があった。
──私……私は……。
曲が終わり、ステージの照明が落ちるのと同時に、私の意識は暗転した。
「……! さっきのは」
目が覚めると、最初とほとんど同じ暗闇にいた。最初と違うのは、一直線の道のようなものが見えることと、その先に大勢の歓声で満ちたステージが見えることだ。そして、目の前には。
「こんな場所でもあなたに会うとか。……最悪」
そこには見飽きた顔の男、プロデューサーが立っていた。彼は手を差し出してくる。「こっちに来い」ということだろうか。
「…………私は」
そっちに──ステージに……? 恐怖が体中を駆け巡り、呼吸が荒くなる。思わず後ずさって後ろを振り返ると、そこには真っ暗な空間の中に浮かぶようにして私の家があった。少し向こうには透の家も。向こうに行けば平穏な日常に帰ることができる。…………だけど。
プロデューサーは、こうやって立ち竦んでいる私に失望するでも期待するでもなく、いつものようにお気楽な笑みを浮かべている。
「その表情……ものすごく腹が立ちます。もう少し引き締められないんですか」
私がそう言うと、彼の表情は更に緩み、私の方に歩み寄ってきた。何か口を動かしているが、声は聞こえない。
「……そうですね、あなたには無理な話でしたね。謝罪します。ミスター・能天気」
ああ、認めたくはないけれど、こうやって口を動かしていると心が落ち着く。本当、最悪。
プロデューサーは私の目の前まで来ると、左手で優しく私の手を取り、右手で私の頭を撫でた。
「──ッ!」
その手はこの空間にある何よりも優しく、温かかった。…………。
……いつもそうだ。この人は、優しく私を支えようとする。そして事実、私はこの手の温もりに安心感を覚えていた。それが何よりも癪でたまらない。
軽く手を振り払い、ステージの方に向き直る。
「触らないで。手を握ってやれば私が喜ぶとでも思ってるんですか? 思い上がらないでください。離れて」
彼の表情は変わらない。どこまでも優しく、私を包み込むような。でも、だからこそ。
「あなたに心配されるほど弱くはありませんので」
彼を軽く小突いて、歩き始める。振り返らずに、ただ前だけを見て進む。歓声が近づいてきて、光も強くなっていく。眩しい、でも止まらない。むしろ足の動きは早くなっていき、最後には走り出していた。もう視界一面真っ白で何も見えない。足取りは軽く、ブレない軌道でまっすぐに。怖いけれど、それでも。
輝くステージに、飛び込んだ。
──white out──
目が覚めると、見知らぬ天井が視界一面に広がっていた。体が痛むので大きく動くことは出来ないけど、軽く首を動かすくらいなら問題なさそうだ。周りを見ると、白衣の人たちが忙しなく働いている。
「病院? そうだ、私……」
思い出した。私、車に……。テレビの横に置かれているデジタル時計の日付が目に入る。どうやら一週間も眠りこけていたようだ。思わずため息をつくと、近くにいたナースが起きている私に気付き、先生を呼びに行った。窓から入ってくる朝の光……久しぶり。眩しいけど、暖かく気持ちよくて、生きてるという感じがした。
「樋口さんの意識が回復したとご両親にご連絡させていただきました。夕方にお見舞いに来るとのことです」
「はい。ありがとうございます」
両親が来る夕方まで、しばらくは一人の時間を過ごすということか。テレビはお金を入れないと見られないし、本も置いていない。私が持っていたスマホは引き出しに入れてあったが、充電器がない。一週間も眠っていたので頭がスッキリしていて眠れそうにもない。とにかく暇だったので窓の外の雲を眺めながらボーッとしていると、ドアをノックする音がした。
「はい」
そこに立っていたのはプロデューサーだった。私が嘆息している間に、彼は椅子に腰掛けながら勢いよく話しかけてきた。
「円香……! 良かった! 本当に、本当に良かった!」
「うるさい。私は怪我人なんですから、少しは考えて下さい。ミスター・熱血漢」
「はは、その様子だと、本当に大丈夫そうだ」
そうやっていつものように私の言葉を受け流して笑う彼に和まされた……と口に出すことはない。墓場まで持っていく。というか、何でよりにもよって最初に来るのがあなたなの。最悪。私のぐるぐると回る感情をよそに、彼は話を続ける。
「大きい声を出したのは悪かった。でも、本当に嬉しかったからさ」
「……そうですね。売出し中のアイドルがいなくなったら困りますもんね。……でも、目が覚めたからと言って安心するのはまだ早いですよ。例えば、どこかに後遺症が残っていてちゃんと動けないかもしれません」
「円香、それは違うぞ」
彼を見て思わず息を呑む。彼が今まで見たこと無いほど険しい目つきをしていたのだ。
「アイドルのことなんてどうでもいいんだ」
耳を疑った。彼の口から出てくる言葉とはどうしても思えなかったから。
「俺個人として、円香に生きていてほしかったんだよ。本当に、生きていてくれるだけでいいんだ。平和に円香が生きていってくれるなら、それで十分なんだ」
「…………はぁ、まったく。あなたは本当に、すぐそういう事を言う」
彼から目を逸らし、窓の外に目をやる。いつものことだが、よくもそんなセリフを恥ずかしがらずに吐けるものだ。本当に……ミスター・王子様。
「……もういいでしょう? 帰ってください。あなたといると暑苦しくて傷口が開いてしまいそうですから」
私がそう言うと、プロデューサーは軽く笑い、頭をかいて立ち上がった。
「ん、長居をするのも良くないな。あ、そうだ。雑誌と本をいくつか持ってきたから置いていくよ。入院中は暇だろうからさ。手元にあったのを適当に持ってきただけだからまとまりはないけど、まあ無いよりはマシだろ?」
そう言って彼がテーブルに置いたものは、私には合わなさそうな服を特集した女性誌(大崎さんが表紙に大きく写っていた)だったり、下巻しかない小説だったりと、確かに慌てて有りものを詰め込んだという感じだった。それでも、退屈していたところにはありがたいものだ。
「持ってきた本の内容は置いておいて、その気遣いは素直にありがたいです。実際問題、さっきまで退屈していたので」
「それは良かった。次来るときにはちゃんと選んでくるからな」
「はい、そうしていただけると。……あ、あと、充電器貸してくれませんか。スマホの」
「ああ、分かった。はい……じゃあ、これで。透たちは仕事が終わったら来るってさ」
「そうですか、では」
プロデューサーを見送って、大きく息を吐きだす。本当、嵐みたいな人。さっきまでは一人で退屈していたのに、今はやっと一人になれたという心境だ。充電器を接続して、スマホの電源をつけると、案の定透からメッセージが届いていた。
『よかった』
『二人も喜んでる』
『小糸なんか泣いてたし プロデューサーも』
『さっき事務所出た。何かほしい物とかある?』
「……泣いてたの」
メッセージを見た瞬間、一気にあの暗闇──死の淵で私が見ていた夢を思い出した。そこで見たあの人の顔も、手を握られたり撫でられたりしたことも。
「…………っ」
──少し前の自分だったら、きっと目覚めることはなかった。何となくだけれど、そんな気がする。きっと、私がいま生きているのは……。
頭に手をやって下唇を噛む。最悪。なんでよりにもよってあなたなの。誰よりも最初にあなたが来てくれたことが嬉しいと思ってしまっている私も、最悪。
顔が熱い。火照った顔を窓から入ってくる爽やかな風が冷ましてくれる。……今頃あの人も「気持ちのいい風だな」とか思っているのだろうか。
「…………すいません、窓閉めてもらってもいいですか」
看護師さんに言ってから、私はふとんを顔まで被り、透にメッセージを返した。
『了解。待ってる』
『欲しいものは特になし』