横須賀の町は、夜に支配された。
墨汁のような波が打ち付ける岸壁。そこから海を眺め、二人の女性が立っている。その後ろ姿を、舞原は黙って見つめていた。海風に混じる話し声は辛うじて聞き取れるが、これ以上近づいていい雰囲気ではなかった。
「見ないうちに、随分と立派になったものです。この国も――貴女も」
感慨深げに呟いたのは、謎の婦人の方であった。まるで全てを見てきたように、婦人は御子を見る。それに対して、御子は真に無表情を貫いていた。
婦人の言葉に何かを返すことなく、御子は厳しい口調で切り出した。
「立ち退きなさい。この国からも、現世からも。それで全て終わりです。死者たる黄泉の国が、生者に関わることはまかりなりません。これは主神としての命令です」
断固たる言葉。「主神」と名乗ったからには、今の御子はただの使いではなく、天照大神そのものと言っていいのだろう。気を張っていなければ、今にも足が後退しそうなほどの迫力が、容赦なく辺りへ振り撒かれる。
しかし、一方の婦人は、微動だにしない。御子の威圧を、そよ風でも吹いているかのように、何事もなく受け流している。その表情は、一向に変わらない、慈愛の色で溢れていた。
婦人の正体については、ある程度推し量れる。御子の、これまでに見たことのない、表情の変化、感情の発露。黄泉の国という言葉。そして、あらゆる会議の席で、御子はハワイを占拠した深海棲艦の主を、「彼女」と表現していた。
すなわち、目の前の婦人こそが、深海棲艦の首魁。ハワイを占拠し、太平洋各地を襲撃し、日本海軍と砲火を交えた敵だ。
こちらはこちらで、別の意味の汗が噴き出る。
「こちらにも、事情というものがあります。いかに娘の頼みでも、こればかりは曲げられません」
「貴女の娘になった覚えはありません」
御子の表情が一段と険しくなる。それに優しく微笑むだけで、婦人は首を振った。
「同じことですよ。同じことなのです。私と
(――まさか)
全身の毛が逆立つのを、舞原は感じた。
今、目の前で、日本最高神たる天照大神と堂々と向き合っているこの婦人こそが――
「何と言われても変わりません。我が父は
婦人――国造りの神・伊邪那美は、「そうですか」と穏やかに呟くだけで、微笑を崩すことはなかった。
「話を戻しましょう。貴女たちには、私に訊きたいことが、山ほどあるはずです」
そう言って、伊邪那美は御子を、それから舞原を見た。金色の瞳が真っ直ぐに舞原を射抜く。ごくり、緊張と共に唾を飲む。
御子もまた、ちらりと舞原を窺い、改めて口を開いた。
「何が目的なのです。なぜ今、改めて
「黄泉の国が――正確には、醜女たちが望んだからです。現世に復讐を。神に報復を。私は、その望み通りに、準備を整え、門を開き、魂を導いたに過ぎません」
淀みなく答える伊邪那美。しかしそれに、御子は「ありえない」と首を振る。
「
「けれどもそうはならなかった。
伊邪那美は笑顔のまま、御子を見た。御子の眉が、ピクリと跳ねる。重苦しい沈黙を貫いたまま、御子はじっと、伊邪那美を見つめるだけだ。
その代わり、なのだろうか。伊邪那美はくるりと舞原を見た。薄い唇から、問いを発する。
「神の試練を、ご存じですか?」
慌てて、思考をフル回転させる。頭に浮かんだのは、日本神話とは関係ない、旧約聖書の一節だった。
「それは……ノアの方舟伝説のような、ものですか」
舞原の答えに、「ご名答」と言わんばかりの笑みを浮かべる伊邪那美。
「神とは、究極的に言えば、自然そのもののことです。自然は、恵みも、災いも、等しく与えるもの。時には試練を与えるのも、神にとっては役割の一つなのです」
そこはご理解くださいね、と前置いて、伊邪那美は話を続ける。
「試練の種類も多種多様です。地震、台風、疫病、洪水もそう。さすがに、ノアの方舟伝説は誇張のし過ぎですけれどね。――今回も同じですよ。神は人類に試練を課そうとしている。いえ、
伊邪那美の言っている意味が、舞原にはわからない。彼女の存在、引いては深海棲艦の存在が、神の与えた試練だとでも言うのだろうか。だがそれでは辻褄が合わない。「すでに一度課している」という伊邪那美の言を信じるならば、今人類に課されているのは二度目の試練だ。だが、有史以来、深海棲艦なる存在が現れた記録はない。それに、伊邪那美が御子へ、すなわち天照大神へ問いかけたということは――
黙ったままだった御子が、ようやくその口を開く
「……私たちが、人類へ新たに課した試練。それは
「それで、先の大戦を起こしたのでしょう?……そして、もう一度、起こそうとした」
淡々と語る、御子と伊邪那美。
約三十年前、欧州で繰り広げられた、人類史上最も凄惨とされる戦争の記録を、舞原は頭の中で紐解く。戦闘員九百万人、非戦闘員七百万人という、途方もない死者を出した、四年間の欧州大戦。「戦争を終わらせるための戦争」とまで評された大戦を通して、人類は戦争のない世界を一度は目指した。海軍だけに限っても、ワシントン海軍軍縮条約や、それに連なるロンドン海軍軍縮条約が採択されている。
しかし、今やそれは幻想となってしまった。一九三九年、ドイツのポーランド侵攻を機に、欧州では二度目の大戦が勃発している。直接参戦はしていないものの、米国もイギリスを支援する形で大戦に関わっていた。
深海棲艦への備えを国是としていなければ、今頃は日本も、この大戦へ関わっていたかもしれない。その時の敵国は、またドイツか、あるいは中国か、それとも――
関係のない思考を、今は頭から振り払う。
「単純な武力では足りなかった。第一次では、自律にまで至らなかった。だからいよいよ、第二次をもって、この試練を完遂する。力に見合う倫理と自律の獲得を、人類に促す。――武力を超えた神の雷をもってすれば、それが可能になる。貴女たちはそう判断した」
確認するように伊邪那美は言う。御子は肯定も否定もしない。彼女はその強い瞳を、ただ静かに、伊邪那美へ向けるばかりだ。
「痛みを伴う試練を、否定はしません。痛みは最大の教訓です。けれど、此度の犠牲は大きく、そして深すぎた。――怒り心頭、という様子でしたよ。『そんなことのために、我々は殺されたのか』、と」
微笑を湛えたまま言った伊邪那美に、御子は再び表情を険しくする。
「……まさか、教えたのですか」
「ええ。彼らには知る権利があると思いましたので」
理解しがたい、と言わんばかりの表情で、御子は首を振る。溜め息交じりの呟きは、「残酷すぎる」と舞原には聞こえた。
「今、黄泉の国は、現世と神への、怨嗟の声で溢れています。それらの怨讐は、黄泉の醜女に吸収され、最早黄泉の守り人でも抑えることはできなかった。恨みは今、黄泉比良坂より溢れ出し、現世を侵そうとしている」
「……では、深海棲艦の目的は、」
舞原の言葉を遮って、伊邪那美は言葉を続ける。
「人類への復讐、それを目的とした攻撃。それが、具体的にどの程度を――人類の殲滅までを目的としているかは、定かではありませんが」
そこに興味はないと、伊邪那美の怪しい瞳が告げていた。
「生ける者への、際限ない恨み、妬み。けれどそれでは……手当たり次第に破壊するだけでは、全く意味がない。彼らが戦争という試練の犠牲者であるなら、その恨みの晴らし方も戦争の形をしていなければなりません」
待てよ、と舞原は一度思考をまとめる。深海棲艦の目的はわかった。しかし、その恨みに「戦争」という形を与えたのは、伊邪那美だということだろうか。
日米英を相手とした宣戦布告は、深海棲艦の主を名乗る者から届けられたと聞いている。伊邪那美が「戦争」という形を選んだのなら、矛盾はしない。
だが、何かが引っかかる。まだ何かを忘れている、そんな気がする。
(そういえば――)
舞原は、伊邪那美ではなく、御子へ目を遣った。彼女は災厄の到来を――深海棲艦の襲撃を予言した。しかし、黙って伊邪那美の話を聞く彼女は、深海棲艦の目的については知らなかったようだ。
今まで深く考えたことがなかったが、なぜ御子は、予言を託され、遣わされたのだろうか。
彼女はどこまで知っていたのだろうか。
「……本当に、残酷なお方です、貴女は」
舞原の疑問に答えるように、御子が口を開く。
「魂に安寧をもたらすことなく、貴女はもう一度、彼らを犠牲にしようというのですか。
「……死人に口はありません。犠牲になるのは、魂ではなく恨み。深海棲艦は、所詮は魂を受け止める器としての、黄泉の醜女の一側面でしかありません。――それに、もう、十分でしょう」
わずかに憐みの混じった声。伊邪那美は微笑みを崩すことなく、憐憫の眼差しだけを向けてくる。
「もう、痛みは十分、味わったでしょう。これ以上苦しむなんて――
伊邪那美の微笑みは、今宵で一番、不気味であった。
「――時間です。そろそろ戻らなくては」
言うべきことは言ったとばかりに、伊邪那美は唐突に切り出した。宙空を撫ぜた彼女の左手には、いつの間にか半透明の球体のようなものが握られていた。クラゲのように波打つ表面と、黒い水晶のような中身を持つそれを、彼女は軽く宙へ放る。すると、球体は急速に大きくなり、伊邪那美の背丈とほとんど同じくらいの大きさになった。
隣の御子からは、「黄泉比良坂……」という小さな呟きが聞こえて来た。
「天照」
球体の中へと足を踏み入れかけたところで、伊邪那美が御子を振り返った。彼女は御子を、隠そうともせず「天照」と呼んだ。太陽のオーラを纏う御子は、やはり今この時に限り、天照大神そのものだったのであろう。
伊邪那美が語りかける。
「痛みとは生者が背負うもの。もっともです。それが正しい。ですから、貴女がその正しさを曲げないのなら、ハワイを訪ねなさい。私はそこにいる。――私は、あなた方の前進に、全力をもって立ち塞がりましょう」
御子は――天照大神は、それに真っ向から言い返す。
「決して、貴女の目論見通りになど、なりません」
「……ええ、今はそれで、よしとしましょう」
それではごきげんよう。などと、場違いな微笑みとお辞儀を残して、伊邪那美は球体へと入っていった。半透明の膜の中で、彼女の姿は稲妻のようなものに包まれ、やがて霧散する。後には、脈動する球体のみが残された。
その球体も、程なくして収縮を始め、しまいには米粒よりも小さくなって消えてしまった。先程まで伊邪那美のいた場所には、微かな潮騒のみが残される。
「……東京へは、戻れますか?」
呆然としたままの舞原へ、御子が尋ねた。それまでの他を圧する迫力は鳴りを潜め、元のように穏やかな微笑みを湛えた女性が、そこにはいる。黄金の煌めきを纏っていた白髪も、いつの間にか黒に戻っていた。
腕時計を見て、舞原は答える。
「最終列車までは、まだ時間があります。戻りましょう」
どちらからともなく踵を返し、心持ち早くなった足取りで駅を目指す。今は早く、この場所を離れたかった。
ついに明かされた、深海棲艦首魁の正体。
敵が黄泉の国であるのなら、ある意味当然かもしれないですね。