御子と島田が会談している頃、舞原さんも別の場所を訪れています。
3
御子と島田の会談と同じ頃――
軍令部に御子を預けた舞原は、都内のとある大学を訪れていた。
もちろん、授業を受けるためでも、あるいは講義をするためでもない。出身の大学でもないから、講堂を懐かしんだわけでもない。彼がここにいるのも、れっきとした連合艦隊参謀としての役割だ。
すでに散りかけの桜並木を、緑を見上げながら歩いていく。講義中だからであろうか、学生の姿は見えない。真新しいアスファルトの敷かれた道を、舞原は目当ての建物へと向かった。
やがて、アスファルトと同じくらい、真新しい建物が見えてくる。塗りたてのペンキの香りがしそうなほど、汚れ一つない白い建物。コンクリート製二階建ての建物の玄関には、「海軍預施設」の札がかかっていた。さらに、水兵が二人、建物へ入るものを見張っている。
建物の前に立った舞原へ、水兵たちが敬礼する。右手を軍帽のつばに当てて、舞原は答礼した。
「立ち入り許可証の提示を願います」
水兵に言われた通り、五十嵐と宇崎のサインが入った許可証を、水兵へ見せる。上から下へ、十秒ほどをかけて許可証を確認した水兵は、再度敬礼して、許可証を返却してくれた。
「ご協力ありがとうございます」
「ご苦労」
短く労いの言葉を残し、舞原は開かれた扉の中へと足を踏み入れた。
リノリウムの廊下は、建物の外観と同じく、汚れ一つない真新しさだ。蛍光灯の光を浴びる床の表面に、舞原の姿が映るほどである。カツカツと小気味のいい靴の音が響く中、舞原は目的の部屋を目指した。
廊下の奥、「三号研究室」と書かれた部屋の前に立ち、間髪入れずノックする。部屋の中からは、すぐに返事があった。
扉を開く。建付けがよく、扉はすんなりと開いた。
一瞬、舞原は部屋を訪れたことを後悔した。
うず高く積まれた本の数々。報告書が入っていると思われる封筒が開封された時の状態で床に散乱する。壁一面に貼られているのは、何枚も焼き増しされた写真と、走り書きのメモ、ひどいタッチのスケッチ。後から持ち込まれたのであろう製図台(ドラフター)の上には、書きかけの設計図らしきものが幾枚。
そして、肝心の部屋の主の姿が、本と資料とメモ(万里の長城)に隠れて全く見えない。
「少しは片づけたらどうなんだ。今日行くぞって、連絡もしといただろ」
「いやぁ、全くもって、君の言う通りだ。だがね、君が来ると聞いた途端、いつも以上にやる気が出てしまったんだよ」
「そのやる気を、何割か片付けの方へ割いてくれ」
苦言を呈しても、高い壁の向こうから押し殺した笑いが聞こえてくるばかりだ。
がさがさという音とともに、ようやく、部屋の主が動く気配がした。壁の向こうでのそりと立ち上がる影。現れたのは、痩せ型長身の男だ。部屋の汚さとは対照的に、身だしなみのきちんとした、美男子である。口元に蓄えられた髭と、彫りの深い顔立ちも相まって、英国紳士のような印象を受ける。
かっちりと固めたオールバックを、申し訳なさそうに掻きながら、男は笑った。
「五分くれよ。片付けるから」
「ああ、頼む。足の踏み場もありゃしない」
「もっともだね」
散らばった資料の合間に、わずかに見える床を、男は華麗なステップで踏んでいく。封筒を拾い上げ、本を掴み取り、メモを回収しながら、テキパキと片づけを進める男。その宣言通り、部屋はわずかに五分で、見事に綺麗な執務室になった。本の下より現れたソファを勧められ、舞原は遠慮なく腰掛ける。
「紅茶でよかったね」
「ああ、よろしく」
頷いた男は、ポットとカップを手にして、上機嫌で部屋を後にした。
ソファへ深々と腰掛け、舞原は整理された部屋を見回す。棚に収まっているのは、「造船工学」や「構造力学」、「ターボ動力工学」と書かれた分厚い本。どれも兵学校時代に見た覚えがある。他には、「ジェーン海軍年鑑」を代表とする、古今東西の軍艦や兵器に関する資料。そして、壁に沿ってずらりと並べられた、手製の軍艦模型の数々。
相変わらずの好事家っぷりに軽く溜め息を吐く。
この部屋の主――今、鼻歌と共に紅茶を運んで来た男は、名を天野巌という。舞原とは幼少よりの腐れ縁だ。見ての通りの、軍艦マニアである。
三十半ばにして大学教授まで上り詰めた秀才は、慣れた手つきで紅茶を淹れている。どこかで聞いた鼻歌は、「月月火水木金金」だと今気づいた。
程なく、暖かい紅茶が、舞原の前へ差し出された。
「しかし、君も忙しそうだね」
向かいのソファに腰掛けるなり、天野はそう切り出した。否定する要素もなく、舞原は頷いて、紅茶のカップへ手を伸ばす。右手を差し出すジェスチャーで紅茶を示し、天野は話を続けた。
「連合艦隊の参謀とは。やんちゃだった君が、随分出世したものだね」
「天野こそ、その若さで教授だろう。出世なら、君の方がずっと上だ」
「なに、僕の場合は、たまたま席が空いていただけさね。僕自身はこの通りだ」
おどけた口調で、天野はチラリと部屋を見遣った。なるほど、大学教授になっても、彼は子供の頃のままだ。好きなものに囲まれて、目を輝かせる様子は、軍港を見つめる子供の姿と容易に重なった。
近況報告など軽く雑談を交え、紅茶を半分ほどにしてから、舞原は改めて、今日ここを訪れた用件を切り出した。
「それで、本題の方だが。――深海棲艦の研究は、どこまで進んでいるんだ?」
天野の目が、鋭くぎらりと光った。
天野が部屋を与えられているこの施設こそ、深海棲艦の研究を目的として、海軍主導で設立された機関――通称「草薙機関」の研究所だ。いまだに謎の多い深海棲艦を、様々な方面から暴こうというのが、その大きな目的である。
前身である研究会の発足は一九三五年。一九四〇年一二月の開戦を契機に、正式な研究機関として、予算と人員が増強された。大学構内のこの施設も、つい先日完成したばかりだと聞いている。
天野は大きく息を吐き、席を立った。
「進んでいるも何も……正直なところ、あらゆることが憶測の域を出ないね。何しろ、深海棲艦のサンプルと呼べるものは、どこにもないわけだ。四号研究の連中など、文句たらたらという様子だね」
深海棲艦の研究は、一号から五号に分けられている。一号は黄泉の醜女に関する研究。二号は深海棲艦の戦略・戦術に関する研究。三号は深海棲艦の艦体・兵装に関する研究。四号は深海棲艦に通常兵器が利かない理由の研究。五号は深海棲艦に占拠されたハワイに関する研究。
天野の担当は、三号研究室の名前の通り、深海棲艦の艦体や兵装に関する研究だ。すなわちその目的は、深海棲艦の性能を評価することにある。
「君の研究はどうなんだ」
「資料が少なすぎたから、憶測で一から設計した」
さらっととんでもないことを言い出した友人に、思わず紅茶を吹き出しそうになった。
「一から設計って、深海棲艦をか?」
「もちろんだとも。わかってるだけで十種。いやあ、中々に骨が折れたがね」
涼しい顔で肯定し、天野はドラフターの横に置かれた黒い筒を取る。それが、設計図を仕舞っているものであることは、容易に想像がついた。
蓋を外し、中身を取り出す天野。丸められた特大サイズのケント紙を広げると、均一な太さの線で描かれた、見事な軍艦の設計図が現れた。
「駆逐艦四隻、巡洋艦五隻、戦艦一隻。君たちの撮った写真には、それだけの艦が映っていた。海軍さんがどうかは知らないが、僕はこれに、暫定的にイロハの名前を付けて呼んでるよ。設計図を引いた順にね」
一枚一枚、天野が設計図を広げていく。描かれているのは、側面図と上面図。船の設計図で、最も基本的な図面だ。図名の欄には、丁寧な文字で「仮称イ型駆逐艦」などと書かれている。
「これを……あの写真だけで、描いたのか?」
「そうだとも」
どうだと言わんばかりに、天野は胸を張った。
壁一面に貼られている通り、天野には三号研究の資料として、海軍が二度の海戦で撮影した深海棲艦の写真を渡していた。もっとも、それらは戦闘中に撮られたものであり、深海棲艦の艦型を鮮明にかつ詳細に捉えたものはほとんどない。
目の前に並べられた設計図は、どれも実物を見て来たかのように、鮮明な深海棲艦の姿を映している。
「話を聞くに、どうも深海棲艦というのは、人類の持つ軍艦の運用思想から、そうかけ離れていないようなのでね。となれば、軍艦の設計思想も、人間と似通ったものになるはずだ。そう考えてしまえば、後はそれほど難しい作業でもなかったさ」
そう言って、天野は一枚、「仮称イ型駆逐艦」と書かれた設計図を指差す。
「例えばこの駆逐艦は、味方の大型艦を護衛するのが主任務だ。『八丈島沖海戦』で、二水戦を相手取っていたのは、ほとんどがこの駆逐艦だね。雷装が最低限で、代わりに砲火力が高い。主砲の口径は、四インチないし五インチ級というところかな」
想定される性能を、天野はスラスラと並べていく。生粋の軍艦マニアが語る深海棲艦の姿を、舞原は黙って聞いていた。
設計した十種の深海棲艦、それぞれについてある程度性能の解説をしたのち、天野は再び舞原の正面へ戻ってきた。ソファへ腰を落ち着けた彼は、随分と冷めてしまった紅茶を一口すする。数秒とせず、天野はもう一度、話し始める。
「とまあ、ここまでが海軍さんに依頼されていたお話だね。で、ここからは、僕の私見というか、ここまでの総評になるわけだけど」
カップに残った紅茶を飲み干し、十枚が並べられた設計図を順繰りに見てから、天野は舞原の目を見た。ある程度察しがついているんじゃないか、とその目が語っている。
腕を組み直し、舞原は天野が求めたであろうことを口にする。
「性能が低いな。少なくとも、今の海軍のレベルより、十年は遅れている」
「そう、その通りなんだ。特に戦艦の性能が、圧倒的に足りていない。第一次大戦ならいざ知らず、今の太平洋で幅を利かせているのは、一六インチ級の砲を積んだ戦艦だ。一四インチでは明らかに見劣りするね。だから海軍は、二度の海戦とも、数的に互角でも、性能差で勝つことができた。――航空戦力については、最早語るまでもないね」
呼吸を一つ挟み、天野は話を続ける。
「僕の中で、その理由は二つ考えられる。深海棲艦を設計した者が、世界の軍艦の動向を把握していなかった。あるいは、数を揃えることを優先して、若干型落ちの軍艦を作った。――僕は前者の理由が強いんじゃないかと思ってる」
「根拠は?」
「さっきも少し話したけど、深海棲艦の艦型は古臭い。型落ちというより、そもそも現代の軍艦の水準まで至っていない、というのが僕の所感だ。空母という艦種がないのも、根拠の一つだね。あの艦種はまだ、登場して日が浅いからね」
そこまで話し終え、紅茶も最後まで飲み切った天野。ティーポットを手に取った彼は、「おかわりを淹れてこよう」とソファを立った。
扉を開きざま、天野は思い出したように舞原を振り返る。
「……一番気になるのは、これだけの深海棲艦を、いつから、いかにして、整備したかだね。かの工廠は、もしかしたらとんでもない能力を有しているかもしれない」
意見交換と、他愛もない雑談を交えているうちに、紅茶は四杯目になっていた。ぬるくなりだした四杯目を最後まであおり、舞原は時刻を確認する。そろそろ、軍令部へ御子を迎えに行かなければならない。
「そろそろ戻らないとかね?」
散々広げたメモをかき集めて束ねながら、天野が尋ねた。
「ああ。明後日には司令部に戻るよう、言われている」
「やはり忙しい身だね、君は」
何とも言えない苦笑を、天野は浮かべていた。
天野がまとめたノートと、設計図の写しを受け取る。ノートを鞄に仕舞い、設計図入りの筒を背負って、舞原は立ち上がった。
「久しぶりに、いい息抜きになった。君の顔が見れてよかったよ」
「それは何より。僕も昔馴染みと会えて嬉しかった」
特に意味もなく、お互いに手を伸ばした。握手をし、肩を叩き合う。戦場は違えど、戦友のようなものだ。高揚感と共に、妙な気恥しさもある。
「深海棲艦を拿捕したら、いの一番に報せてくれよ」
わざわざ玄関まで送ってくれた天野は、最後にそう言い置いて、手を振った。
深海棲艦の研究をしている機関は、これからもちょくちょく登場することになるかと。