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扉を開けるとそこにいたのは…月詠くんだった。
この部屋では、他のみんなは僕を相手に妄想をし始めるんだよな…。月詠くんは、僕を相手にどんな妄想をしているんだろう?
「…………」
「……………」
「こむぎ!」
「はっ、はい!?」
突然名前を呼ばれて素っ頓狂な声を上げてしまう。目の前の月詠くんは、腰に手を当てて険しい顔をしている…。
「こんな時間まで何してたの?おにーちゃん心配したんだからねっ、メールにも返信しないし、全く……」
「ご、ごめんなさい……」
気圧されて頭を下げる。いつもの優しい月詠くんとは違うけど、なんというか、愛のある怒り方というか。
おにーちゃん……もしかして、月詠くんが本物のお兄ちゃんってことか……?
「うん、謝ればよし。それじゃあ今日も始めよっか」
そう言う月詠くんの手元には、数学のワークとノートが見えた。
「す、数学かあ……」
「うーん…やっぱり、まだ苦手意識が抜けないみたいだねえ…」
顔を曇らせた僕に対して、月詠くんは小さくため息を吐く。
「1回公式を覚えちゃえば、後はそれを応用していけばいいだけだから。ね、お兄ちゃんと一緒に頑張ろう?」
「うん……わかったよ」
それから、月詠くんにしばらくの間数学を教わることになった…。
「ここは、因数分解して…あれ……?」
「あぁ、このもう一個の方の公式を使えばいいんだよ。こうすれば……ほら、やってみて」
「……ほんとだ!解けたよ!」
「すごいすごい!頑張ったねえ。こむぎはどんどん賢くなっちゃうなあ、お兄ちゃんも追いつかれないように勉強しないと」
教え方がわかりやすい上に、僕が一問解く度にものすごく褒めてくれる。彼はもしかしたら、"超高校級の家庭教師"とかにもなれるんじゃないだろうか…?
「じゃあ今日はこのぐらいね。お疲れさま」
「こちらこそ。今日もありがとう」
「ふふ、かわいい弟のためならこのぐらい、安いものだよ」
月詠くんはそう言ってにこにこと微笑んでいる。本当に弟のことを大切に思ってるんだろうなあ。
勉強を終えた僕らは、何となくベッドの上に移動する。
それにしても、夢の中でさえお世話を焼いてもらうなんて…。
「…お兄ちゃんは、他の人のお世話をしてて疲れたりすることないの?」
「え?」
「人助けをしてたって、必ず自分が恩返しされるとは限らないと思うから。そういうのがしんどくないのかなって…」
前から、僕達が彼に負担をかけてしまっていないか不安だった。見返りもないのにみんなのために動き続けるなんて、よほどの精神力がないと難しいだろう…。
「…そりゃあ、お兄ちゃんだってしんどいことだってあるよ。自分に出来ないことがあったら辛くなるし、自分の行動がその人にとっては、余計なお世話なんじゃないかなって思っちゃうこともある…」
「…………」
自分一人で何でもやりたいと思う人や、助けを不快に思う人も中にはいるだろう。そう思うのは、当たり前だ…。それなのにどうして、人に手を伸ばせるんだろう…?
「でも、お兄ちゃんのお手伝いの原動力って、結局は誰かの笑顔を見たり、感謝されたりすることなんだ。ありがとう、って言われると心があったかくなるでしょ?その気持ちって、お金とかよりもよっぽど価値のあるものだと思うんだ」
「だから、人助け、とは呼べないかな。きっとみんなにとっては、お節介に過ぎないと思うから…だめだねえ、お兄ちゃんは。欲張りなんだ、いっぱいみんなのためになることをして、いっぱいみんなの喜ぶ顔が見たい…」
「……………」
「喉から手が出るほどかわいい子達が、周りの環境や境遇のせいで素敵な笑顔を浮かべられなくなるのはあまりに残酷だよ。
…僕は、誰もが笑顔で過ごせる環境を作ってあげたい。そのためなら何でもできるよ…さすがに、自分の命はお父さんとお母さんからもらった大切なものだから、投げ打つようなことをする訳にはいかないけど」
「…………」
「……ごめんね!こんな自分の話ばっかりしちゃって、もうそろそろ寝る時間……」
「お兄ちゃん!」
僕は彼をぎゅっと抱きしめた。
…理由は自分でも分からない。ただ、その夢を彼が1人で叶えるのは、あまりに大変すぎるような気がした。このままだと、いつか月詠くんが働きすぎて壊れてしまうんじゃないか、とか思ったりして。
こうしてくっつけば、僕にも少しは彼の辛さが分け合えるんじゃないかって、子供じみたことを思った。
「こむぎ、どうしたの……大丈夫?どこか痛い…?」
「……………」
僕は静かに首を横に振る。でも、彼に何もうまく伝えることができない…。
「………」
月詠くんは黙ったままの僕を見つめて、
「ありがとう」
小さく呟くと、ゆっくりと僕の背中を叩いてくれた。泣きそうになった時にお母さんに抱きしめられたような、小さい頃の感覚が蘇る。
なんだかすごく、安心する。その体勢のまましばらくすると、丁寧にベッドに寝かせられ、ふかふかとした布団が上からかけられる。
そして、とん、とん、と規則的な音が肩に優しく響く。彼が歌う優しい声の子守唄は、頭の中を丸ごと包み込んでいるみたいだ。その歌声に身を任せていると、だんだん瞼が重たくなっていく…。
「…おやすみ、こむぎ」
…結局、またお世話されちゃったなあ………。