「ク~ン・・・。」
「何だよ、そんなに臭いのか?」
リエスの嫌そうな声が響く。結葵の足下には腐った木の実のようなものがあり、彼がソレを足で剥く度に嫌な臭いがリエスの鋭い鼻を襲う。
たまらずリエスは家の中に逃げ込んだ。それでも興味事態はあるのか玄関から皮むきの様子を伺う。
生きた化石と言われるイチョウの木から取れる木の実、通称銀杏である。
腐らせないと食べられる核の部分を取れないとはいえ、結葵自身もあまり好きでは無かった。
しかし昨日気まぐれな父親から「銀杏獲っておいてくれ。」という電話が入り、泣く泣くやらざるを得なかった。
ちなみに結葵自身銀杏は大好物ではある。
「串焼き・・・揚げ物・・・炊き込みご飯・・・茶碗蒸し・・・串焼き・・・揚げ物・・・炊き込みご飯・・・。」
臭いを忘れるためにまるで呪文のように銀杏料理を呟く結葵。端から見ると、少し怪しくも見える。
「あの、おはようございます・・・。」
「茶碗蒸し!?」
突然声をかけられ、先ほど呟いていた単語を大声で叫んでしまった。
「茶碗蒸し?ゆうゆう茶碗蒸しなのん!?」
案の定食いついてくるれんげに、結葵は笑いながら誤魔化す。
「あはは・・・おはよう、お二人さん。・・・茶碗蒸しと言えば茶碗蒸しかな。今銀杏剥いてるんだ。できたられんげちゃんの家にも持って行くから。」
宮内家の母親が作る茶碗蒸しは絶品だったりする。
「たのしみなのん!」
「それで、二人は何か用事できたの?」
「いえ、前にいつでも来て良いと言ったので・・・。」
「遊びにきたのーん!」
越谷家も今日は忙しいらしく、小学生二人は桐生宅へ遊びに来たようだった。
最後の銀杏を剥き終わり、結葵は二人を家の中へ入れる。
「ワンワン!」
突然の来客に興奮したリエスが蛍に飛びかかる。
「うひゃあ!?」
「へっへっへっへ。。。」
溜まらず尻餅をついた蛍にリエスの先制攻撃。これでもかと顔中を舐め回そうとする。
れんげに飛びかからないのは、結葵のしつけのたまものである。
そうでないと、あとで楓に何を言われるか分からないからだった。
「ストップ!止めなさいリエス!」
「ワン!」
結葵は、歯止めがきかなくなりそうになった愛犬を引きはがし、蛍に蒸しタオルを差し出した。
「あ、ありがとうございます・・・。」
「ユウユウ、あのお芋さんたちはどうしたのん?」
れんげが指さす先には、大きめの段ボールいっぱいに詰め込まれたサツマイモがあった。畑仕事の手伝いと、鹿肉のお礼に頂いたものだった。
「サツマイモだよ。この前いっぱい貰ったんだ。・・・あ、じゃあ今日はあのサツマイモで何か作ろうか。」
この時期になると、焼き芋屋が『石焼~き芋~』と定番のメロディに乗せて、近所を徘徊して回る。
「二人は焼き芋はもう食べた?」
「まだなのん。」「しばらく食べてないです。」
「じゃあ、焼き芋は決定だね。それから・・・何作りたい?」
「もんぶらん!もんぶらんが熱いのん!」
れんげが目を輝かせて、あるお菓子の名前を連呼する。
「モンブランかぁ・・・ごめんね、れんげちゃん。俺、作り方知らないんだよ。」
「ぐぬぬ・・・残念なん。」
残念そうと言うよりも、なぜか悔しそうな表情をするれんげだった。
「蛍ちゃんは?何かリクエストある?」
「えっと・・・じゃあ、芋羊羹が良いです。」
蛍の控えめな性格からして何でも良いと言うと思ったが、彼女の口から出たのは予想外の単語だった。
「芋羊羹・・・渋いね。」
「す、すみません・・・。」
なぜかしゅんとする蛍を見て、結葵は慌ててフォローをする。
「いやいや、良いと思うよ。俺も芋羊羹大好きだから。じゃあ、寒天もあるから作ろうか。」
「は、はい!」
「おぉぉ!芋羊羹作るん!?」
なぜか興奮するれんげを見て、結葵はある疑問を口にした。
「れんげちゃん、モンブランって何だか知ってる?」
「知ってるん、おっきなお山なのん。ユウユウ何でも作れるから聞いてみたん。」
「・・・おぉ。」
れんげが頭に思い描いていたのはアルプス最高峰のモンブランだったようだ。下手なこと言って、妙な誤解を生まないで良かったと結葵は少し安堵した。
危うく神話の一人にされかけたのは置いておき、結葵は早速芋羊羹作りの準備を始めた。
サツマイモ、砂糖、寒天、牛乳、塩、水。羊羹の材料はこれだけである。
「まずは芋をすりつぶしまーす。」
「「はーい。」」
蒸かした芋の皮を取り、適当に切ってからすり鉢に入れる。ペーストになるまですりつぶすので、結構な根気がいる作業である。
「むむむむぅ・・・。」
案の定、上手く芋をつぶせないのかれんげが苦戦していた。
「れんちゃん、最初は一つずつ押しつぶした方が良いよ。」
「ふんぬ!おぉーつぶせたのん。流石ほたるん。」
和気藹々と芋をつぶしている二人の横で、結葵は特大サイズのすり鉢(お手製)とこれまた特大サイズのすりこぎ(お手製)で芋をつぶしていた。
ある程度ペースト状になっていくと、粘りけのある芋がくっつき中々力がいる作業になってくる。
「よい・・・せっと。そおぅれ!」
それでもなお、結葵の手を動かす速度は衰えを知らない。
「ユウユウ、職人さんみたいなん。」
「すごいね~・・・。」
芋がペースト状になったら、次の作業。
砂糖と牛乳を鍋で温めてから、寒天を入れて溶かす。その時牛乳は沸騰させない。寒天を溶かし終わったら、ペーストにした芋と合わせて再び混ぜ合わせる。
そこでなぜか結葵は、二つの器を用意して別々に混ぜ合わせ始めた。
「結葵さん、何で分けてるんですか?」
「秘密。できてからのお楽しみ~。」
そう言って、結葵は一つの器にある液体を混ぜていた。知りたそうな顔をする二人をよそに。結葵はさっさと次の作業を進めてしまっていた。
材料を混ぜ終われば、後は冷やすだけである。
「ほたるんガンバなのん~。」
「せーの・・・えい!」
蛍が振り下ろした斧はガッという音と共に、薪に食い込んでしまった。深く刺さった斧は抜ける様子が無かった。
「ゆ、結葵さーん、抜けなくなっちゃいました。」
「もう一回そのまま叩きつけてみて。」
「はい!・・・せーの!」
斧に食い込んだ薪を切り株に叩きつけると、今度は綺麗に真っ二つに割ることができた。
「薪割り終わりました。」
「お疲れ様ー、こっちにお茶があるから飲んでー。」
「ありがとうごさいます。」
最後の薪を割り終わったら、石釜に火を入れる。
「ゆうゆう、お芋さんなのん。」
「ありがとうね。よし、それじゃあ焼き始めるかな。れんげちゃんもお茶飲んで。」
「うーい。」
れんげから芋を受け取り、石の上にサツマイモを並べ始める。熱した石を使って、間接熱で芋を焼く。すなわち石焼き芋である。
後は焼き上がるのを待つだけである。結葵も椅子に座って、小休止をすることにした。
「そういえばそろそろ、クリスマスだねー。二人は何お願いするか決まってる?」
「えっと・・・私はまだです。」
「ウチ、もう決まってるーん!・・・でも秘密なのん。」
「そっか、それは残念。」
結葵の携帯電話がなり始めた。慌てて、家の中から電話を取りに行き通話ボタンを押した。
「・・・もしもし?」
『もしもし~お母さんですよ~。』
画面に名前が出るので、そう名乗る必要は無いのだが律儀にそんな声が聞こえてきた。
「前回は楽しい宴会をどーも。」
火の元から離れないために、結葵は再び外に出ながら会話に興じる。
『それで?上手くいったの?そこら辺どうなの?』
「・・・おかげさまで。」
『あらーそれは良かったわね~。』
向こうのニヤニヤした顔が簡単に思い浮かぶ言い方だった。少々げんなりしながら結葵は用件を尋ねた。
「・・・で、用件は何?また帰ってくるの?」
『そうね、クリスマスイブに帰ってくるわ。それから年末年始を過ごして~箱根駅伝中継を見たら帰るわ。』
と言うことはおよそ10日間桐生宅で過ごすことになる訳である。
「随分休みが取れたね。」
『そうよ~親子水入らずで過ごしましょうね。それと・・・息子の未来のお嫁さんにも挨拶しなきゃね~。』
むしろそちらの方が真の目的なのだろうと、結葵は確信していた。
「はいはい、鹿肉用意して待ってるよ。それと、冬用タイヤを忘れずに。」
『分かってるわよ~それじゃあねー。』
通話終了と同時に、どっと疲れが押し寄せてきたような気がした。
「ゆうゆう、誰からなのん?」
「オカーサンから、年末に帰ってくるんだって。」
「結葵さんのご両親って、東京にいらっしゃるんですよね?」
「うん、帰って来たら騒がずにはいられない嵐みたいな夫婦なんだ。」
そんな彼女らの息子である結葵だが、性格に両親の仕事は把握していない。なにしろずっとおじいちゃん子で山に住んでいたのだ。
東京に移住したときも、帰りが遅かったり早かったりする程度の認識しかしていなかった。
「でも、楽しそうな家族ですよね。」
「まあ、そうだね。退屈はしないかな。」
言葉ではそう言うが、肉親が帰ってくるのだ。結葵自身嬉しくないわけが無かった。
「さて、そろそろ焼けたかな?」
釜の扉を開くと、良い感じの焦げ目が付いた芋が鎮座していた。「へへ・・・食べ頃っすよ。」という芋の言葉が今にも聞こえそうだった。
「はい、お二人さん。焼きたてですよー。」
新聞紙に包んだ焼き芋を二人に手渡す。
結葵も自分の分の芋を持って、それを二つに折る。すると真っ白な蒸気と共に、サツマイモの甘い香りが漂う。
黄金色に輝くサツマイモは、焼き加減十分のまさに食べ頃だった。
「美味しいです!」
「美味いんなん。」
小学生二人も満足そうに焼き芋を頬張っていた。
「リエス、お前も食うか?」
「ワンワンンワン!!」
焼き芋の放つ美味しそうな臭いに、既にリエスは狂喜乱舞だった。
「ほれ。」「ガッガッッガッガッガ・・・。」
ほぐして冷ましたサツマイモを、皿にのせるや否や夢中になって食し始めた。そしてあっという間に食べ終わる。
もっと食べたいと結葵の顔をじーっと見つめるが、生憎焼いた芋は4本のみ。追加で訳予定は無かった。
「・・・夕飯までお預けな。」
グシグシとリエスの頭を撫でる結葵だった。
「今日はご馳走様でした。羊羹ありがとうございます。」
「ゆうゆう、また来るのーん!」
完成した羊羹を持った二人は満足そうな顔を浮かべて帰って行った。
現在およそ二時を回ったところだった。冬支度が本格的に進む中、結葵は”あるもの”を制作中だった。
「これでリエスの運動量が飛躍的に上がるはず・・・。」
それは一見椅子に見えるが、足下にはスキーのような長い板がくっついていた。
そう、犬ぞりである。リエスのためと言うのは半分建前で、楽しそうだからと言うのが制作の動機だった。
「よし、大体完成かな。」
本格的に雪が降ってしまったら、バイクは役に立たなくなる。車を使うにも、雪かきをしなくてはならない。そのための犬ぞりでもあった。
「さて、じゃあ乗り納めに行ってこようかな。」
そう言って結葵はクーラーボックスを取り付けたバイクにまたがった。乗り納めと言うが、ツーリングでは無くただの配達であった。
400ccの排気音を響かせて、結葵は駄菓子屋に到着した。
「なんだ、今日はバイクかよ。」
「雪が降ったら乗れないからね。はい、これ芋羊羹。サツマイモいっぱい貰ったから作ってみた。」
クーラーボックスから出した羊羹を二つ楓に差し出す。
「なあ、ユウのところにれんげが来なかったか?」
「来たけど?」
「・・・だかられんげのヤツも、それ持ってたのか。」
「ははぁ、てことはれんげちゃんが来たんだ。それでれんげちゃんが『駄菓子屋食べるん?』って聞いたら『いらねー』って答えたと。」
言い回しをそっくり真似た結葵の言葉に、楓は明らかな動揺の色を見せた。
「なっ・・・なんで分かるんだよ!?」
「いや、楓ちゃんの天邪鬼はすっごく分かりやすいもの。それで、食べる?」
「・・・食べる。」
今にも舌打ちが聞こえてきそうな顔で、楓は羊羹を受け取った。その実、心の中では踊り狂っているのだが。
「片方は普通の芋羊羹で、もう片方はラム酒入りだからね。」
「ラム酒?そんな良いもんがあったのか?」
「夏に俺の両親が帰ってきたでしょ?その時に一本余ってたんだ。」
「へぇ、まあ、ありがとよ。それで、このみとは上手くやってんのか?」
つい数時間前に同じような質問されたなと、結葵は苦笑した。
「おかげさまで。今や押しかけ女房にまでランクアップしてるよ。」
「そっか。そりゃ良かった。でも、たまにはウチでメシ食ってけよ?」
「新しく食材が手に入ったらそうさせて貰うよ。」
それじゃあ。と駄菓子屋を後にして、結葵は次なる目的地に向かった。
「こんにちは。」
「あら、結葵君いらっしゃい。どうしたの?」
「羊羹作ったので、良かったら召し上がって下さい。」
食べ盛りが三人いるので、越谷家には四つ渡した。
「上がっていったら?このちゃんも来てるのよ?」
「それじゃあ・・・お邪魔します。」
そう言われてしまうと、お邪魔するしか選択肢は無く、下手に断るわけにもいかなかった。
このみの靴の隣に、自分の靴をそろえ廊下を歩く。すると、居間の方から楽しそうな声が聞こえてきた。
「「いただき!ヘッタレンジャーイ!」」
引き戸を開けると、柿のへたを目に当ててそう叫ぶ三人娘がいた。
「・・・・・・。」
あはははと楽しそうに笑いながら、三人はへたを皿に置いた。
「あーおかしい、なにヘタレンジャイってー。」
「まったく、そうだよな~。」
結葵の声が聞こえた瞬間、このみが笑顔のままでピシッと凍り付いた。そしてギギギギ・・・と錆付いたロボットのようにぎこちなく、首を回した。
「ゆ、結葵?いつからいたの?」
「ついさっき。」
「・・・見てた?」
「ばっちり。」
みるみるうちにこのみの顔が紅く染まっていく。まるでリンゴが熟す様子を早送りにして見ているかのようだった。
「あ、あのね結葵・・・ちがうの、これは・・・その・・・。」
「楽しそうだったね。」
「あ、あぅ・・・・・・。」
羞恥心に耐えきれなくなったのか、このみはこたつに突っ伏してしまった。アニメだったら、頭の上から湯気が出てきているところだろう。
「ねえねえツナギ、その手に持ってるのはなーに?」
めざとい夏海が、早くも結葵の手に持っている羊羹に目を付けた。
「自家製芋羊羹。今日小学生二人組が家に来てね。それで作ってみたんだ。」
小学生二人組と言う言葉で、このみの体がピクッと反応した。
「おぉー!マジで?食べよう食べよう!ほら、このみちゃん隣詰めてよ。ツナギが座れないよ?」
「・・・・・・はーい。」
少し復活したこのみは体をずらして、一人座れるスペースを空ける。そのスペースに結葵が座り、いつの間にか来ていた卓もこれまたいつの間にか座っていた。
「ちょっと、待って!お茶持ってくるから!」
そう言って夏海がこたつを抜けだし、台所へ向かった。あの夏海が、である。
「なっちゃん文化祭以来すっかり気遣いやさんになったね。」
「そうだね。根は良い子だからなー。」
「ほんとに、ダレノオカゲナンダロウナァ・・・。」
このみが人差し指で結葵の脇腹をぐりぐりとめり込ませる。
「はいはい、妬かない妬かない。」
子犬をあやすように結葵は、このみの頭を撫でる。結葵は暴力に対して包容力で対抗する。その時点で勝ち目はほとんど結葵にあった。
「・・・ふんだ。」
へそを曲げたような様子でそっぽを向くが、彼女は口元が緩むのを必死に押さえつけようと四苦八苦しているところだった。
その一連のやりとりを見た小鞠も、笑いをこらえるために口を押さえてぷるぷる震えていた。
「お待たせーって、どしたの?」
「いや、何でも無いよ。さ、羊羹食べよう。」
そんな三人を見て疑問符を浮かべる夏海にそう答えて、結葵は羊羹の入った箱を開ける。
鮮やかな黄色の芋羊羹に、少し赤身が掛かったラム酒入り羊羹が並べられる。
「おー上手そう!ねえ、この赤いのは何?」
「ラム酒入りの芋羊羹だよ。普通のよりも大人の味かな。」
大人の味。その単語に反応した小鞠は真っ先にラム酒入りの方に手を伸ばした。
「・・・・・・うげ、変な味。」
慣れない味だったのか、小鞠は途端に顔をしかめる。彼女にはまだ早かったようだ。
「もぐもぐ・・・えーそう?結構美味しいと思うよー。」
対する夏海は美味しそうにラム酒入りの羊羹を食べていた。一切れで見限った小鞠は普通の芋羊羹を食べることにしたようだった。
そちらの方は口に合ったようで、表情が綻んだ。
「普通のも美味しいけど、こっちもまた違った美味しさだよねー。うんうん、流石私のゆうきだよ。ふふふ~。」
そう言ってこのみも件の羊羹を食べる。その顔は朱い。結葵は嫌な予感を感じ取った。
「このみ?コレが何本だか分かる?」
結葵は指を三本出してこのみに見せた。正常なら三本と答えるだろう。
「・・・舐めて良い?」
数云々を置いておいて、彼女はもはや正常な受け答えもできていなかった。決してアルコール分は強くないはずだが、このみは確かに酔っていた。完全に結葵の油断だった。
このままでは彼女の尊厳に関わる。結葵の直感がそう告げる。
「それじゃあ、この辺でお暇させてもらうよ。ほら、このみも行くよ。」
「はぁ~い。」
おぼつかない足取りのこのみを何とか歩かせて、玄関に座らせる。そして靴を履いたところまではスムーズに進んだのだが。
「おんぶして~。」
ここから富士宮家はそう遠くない。ひとまずバイクは置かせて貰おう。そう考え、結葵は黙って彼女の要求に従った。
「んふふ~ゆうき~あったかーい。」
富士宮家に向かう道中、このみはずっとその調子で結葵の頬に自分の顔をすりつけていた。
このみから発する甘い香りと、くすぐったさに耐えながら結葵は真っ直ぐ富士宮家を目指す。徒歩数分の富士宮家がやけに遠く感じた。
「はいはい・・・あら、二人ともどうしたの?」
「ただいま~。」
「えっと・・・実はですね―」
結葵は事細かにこのみはがこのような状態に至ったかを説明し、最後の羊羹をこのみの母に手渡した。
「あらら、それは大変だったわね~。そうね・・・とりあえずこの子を部屋まで連れてってくれるかしら。」
「・・・分かりました。」
このみを背負ったまま、結葵はこのみの部屋まで運んだ。
部屋の明かりを付けて、このみをベッドに寝かす。
「とりあえず、今日はゆっくり寝なさい。」
「うん、そうする~。」
「じゃ、俺は帰るから。お休み、このみ。」
立ち去ろうとする結葵の服を、このみは掴んで阻止した。
「・・・何か用ですか?」
「・・・チューして。」
「は、はい?」
何を言い出すかと、結葵は少し動揺した。
「まだ一回しかしてないでしょ、チュー。おやすみのチューして。ほっぺとかおでこじゃなくて、ちゃんとしたチュー。」
キス事態は結葵もやぶさかでは無い。最愛の彼女とのキスを誰が拒もうか、いや拒まない。しかし、いくら親公認でもここはアウェーの地である。
十数年間大切に育てた場所でその娘さんの唇を奪うという行為に、多少なりとも後ろめたさも感じていた。
「・・・遅いよゆうき~。罰としてぎゅーも追加ね~。ほらほら、はやくぅ~。」
越谷家にバイクが置いてあり、早く帰ってリエスの散歩にも行かなくてはいけない。
ならば早く済ませてしまった方が良いのではないか、と結葵は考えた。考えることにした。
「分かったよ、じゃあ腕広げてー。」
「は~い。」
このみが腕を広げたところを見計らって、結葵は思い切り抱きしめた。少しこのみが息苦しさを感じる程度に。
「ん~これ好き~。」
惚けきったこのみの声を間近に聞いて、結葵は後頭部がしびれるような感覚を覚えた。必死に保っていた理性がほんの少しだけ緩む。
今ならば、キスの一つや二ついくらでも簡単にできそうだった。
そんなテンションに身を任せると、いつの間にか二人の唇は重なっていた。
「ん・・・ふ・・・。」
先に息が続かなくなったこのみが、鼻息を漏らす。それを合図に結葵は唇を離した。その瞬間、ぬらっとした感触を歯茎に感じた。
「はぁ・・・う~ん、しあわせぇ~。」
恍惚とした表情を浮かべたままこのみはベッドに倒れ、小さく寝息を立て始めた。
「お騒がせしました・・・帰ります。」
「あら、お夕飯食べていかないの?」
「はい、まだ仕事が残ってるんで。」
後頭部のしびれのようなものが引いていくと、後にはどっと疲労感が襲ってきた。
重い足取りで越谷家に戻る。一言二言礼を言ってからバイクにまたがる。ヘルメットを被る際に、結葵は無意識に口元を手の甲で押さえていた。
先ほどのぬらっとした感触がまだ歯茎に残っていた。
その夜、結葵はなかなか寝付くことができなかった。