唯我成幸、高校3年生。
それは特別VIP推薦のために日夜勉学に励んでいるーーある日のことだった。
道端に一冊のエロ本が落ちていた。
「………」
二宮金次郎の如く教科書を読みながら下校していた成幸は、エロ本を視認した瞬間に、二宮金次郎像の如く固まった。
(……な、何を気にしてるんだ俺は。早く家に帰り、今日の復習、明日の予習をやらないと)
ふー、と一息、成幸は呼吸を落ち着かせる。
教科書に視線を戻し、いつものように歩き出す。これぞ自然体。道端に落ちているエロ本など意にも介さぬ不動心。正しく学生のあるべき姿とばかりに、成幸は歩く。
ーー道端に一冊のエロ本が落ちていた。
(なっ……!? デジャヴ!?)
ただ名残惜しくて逆再生のように後ろ歩きで戻ってきただけである。
(ダメだ落ち着け、唯我成幸。エロ本なんかに惑わされている場合じゃない!)
しかし成幸とて男子。それも思春期真っ只中の男子高校生である。スマホも持っていない成幸にとってエロコンテンツは雲の上の存在……否、太陽である。
その存在はあまりにも眩しすぎる故に目を向けられず、常に天上に有り続けるが故に諦観する。届くはずがないと……それが当然なのだと、手を伸ばすことすら諦める。
それを太陽と呼ばずに何と呼ぶか。
エロ本である。
千載一遇のチャンス!
(くっ、ダメだ! 受験生が
据え膳食わぬは男の恥!
(俺は何としてでもVIP推薦を勝ち取らねばならないんだ!)
我慢はむしろ集中力を下げる!
(いや……でも……! こんな……!)
適度な
(そんなことがあるわけ……!)
本能の赴くままに
(くっ……!)
さぁーー
成幸の今までの努力を思えば……これくらいはしてもいいはずだ。
(ごめんみんな……ッ。お兄ちゃんは……お兄ちゃんは……!)
周囲確認! 人影なし! 監視カメラなし!
(変態だぁあああああああああ!)
バッグ解放! 速攻収納!
………
……
…
(自分の家なのに、何故か酷く敷居が高く思える……)
成幸にとって、これだけ緊張したのは高校受験ぶりであろう。
エロ本を拾うという
「お兄ちゃんお帰りーっ!」
「見て見てー! ナズナ見つけたのー!」
「ハルジオンとヨモギも見つけたんだー!」
(うっ……そんな純粋な目で俺を見ないでくれ……! 心が……痛む……!)
「そ、そうか。ちゃんと調べたか? 似たような食べられない草もあるかもしれないからな」
震える声を抑え、何とか平静を装う成幸。
次女の葉月、次男の和樹はそんな成幸のぎこちなさに気付くことなく、楽しそうに話し続ける。
「大丈夫! 学校で植物図鑑借りて、それ見ながらやったから!」
「本当にたくさん書いてあってね! 凄いんだよ!」
「え、偉いぞぅ葉月、和樹。さ、部屋に戻ろうか。そろそろ水希がご飯を作ってくれる時間だ」
「「はーい!」」
(うっ……。泣いて……いいですか……ッ)
ただでさえ
だが、もはや引くに引けないところまで来てしまった。
(心を鬼に……いや、心を変態にして臨むんだッ!)
ただの変態である。
「お兄ちゃん帰ってきたー」
「ごはんごはーん!」
「ーーただいまッ、帰りましたッ!」
「その挨拶なに〜? ま、お帰りお兄ちゃん。もうすぐごはんできるから待ってて!」
「お、おう」
(いかんいかん。固くなり過ぎた。自然体自然体)
「お帰り、成幸」
「た、ただいま、母さん」
「んぅ? どうしたの成幸、そんなにバッグ握り締めて」
(はっ!? しまった、無意識のうちに
「い、いや、別に……」
「……はっはーん? さては成幸ぃ、あなたまさかぁ」
悟る母、焦る成幸。
成幸は嘘が得意ではなく、顔に出やすいタイプだ。それは家族全員が知るところである。故にこそ信頼されている面もあるが、
流石に母もまだ小学生の葉月や和樹、それに中3の水希もいるのでそれ以上は言わないものの、むちゃくちゃニマニマしていた。それはもう凄くニマニマしていた。
成幸の羞恥心は振り切れていた。
(どうするどうするどうする! もうダメだ! もう耐えられない! やっぱり俺は間違ってたんだ! あっそうだ!)
成幸は妙案を思い付く。
(今からでも遅くはない! 忘れ物をしたと言って学校に戻るフリをしてーー)
「ごはん出来たよー!」
手遅れだった。
「葉月、和樹ー。配膳手伝ってー」
「「はーい!」」
(くっ。仕方ないーーとにかく
「俺ちょっと手ぇ洗ってくる!」
とはいえ、この家には個人の私室というものはない。食事は勿論、寝るときだって家族全員で川の字ーー厳密に言えば川+Ⅱの字ーーで寝る。成幸や水希が勉強する際も食卓で勉強する程である。
故に、エロ本を隠せる場所はかなり限られている。
(いっそ外の草むらにーーいや、葉月と和樹が可食植物を探している間に見つけてしまう。外はダメだ。だが中は……くっ、時間がない。今はバッグごと廊下にーーうっぐぅ、それはそれで怪しまれる!)
結局、成幸は食事の場所からエロ本を遠ざけられなかった。せめてもの抵抗として部屋の隅に置いたが、そこまで広くない空間においてはあまり意味を成さない。
「「「「いただきまーす!」」」」
「いただきまーす……」
唯我成幸。18歳。
彼は
(あぁ、そうだ……)
唯我成幸。18歳。ーーついに悟りを開く。
(俺は今、幸せなんだ……。それ以上望むことがあるだろうか、いや、ない。ましてや己の下劣な欲求を満たすためだけに、この幸せを危険に晒すような真似をしていいのか……? いいや、してはいけないんだ……)
涙を呑まざるを得ない。
その諦念、その心情ーー察するに余りある。
かのイカロスは、空を駆ける喜びのあまり、忠告を無視して太陽に近づき過ぎて……蝋の翼は熱で溶けてしまった。
だが唯我成幸という男は、
手にしたはずの
けれど、成幸には……家族の、ぬくもりがあったのだ……。
「ごちそうさまでした」
「「「「ごちそーさまでした!」」」」
(燃やそう……
成幸は覚悟を決めた。
その表情はきっと、世界の誰よりも凛々しい。
とはいえ、家の庭で直接燃やすわけにはいかないし、そもそも野焼きは禁止されている。近くに古本回収場があるので、その古本の中にさりげなく置いていくつもりだろう。
(明日は丁度土曜日……。朝に買い物がてら置いていくか。今晩は隠し通さないといけないけど……まぁ、一晩なら大丈夫だろ)
「じゃあごはんも食べたことだし、お母さんと一緒にお風呂入ろっか。葉月、和樹」
「「はーい!」」
(いや、今か!? 今のうちに行くべきじゃないか!? ま、待て待て。それじゃあ水希に怪しまれる。やっぱり明日にーーん、待てよ。そもそも明日俺一人で買い物に行くとは限らない。誰かが手伝ってくれることの方が多いくらいだ。……つまり、やはり今のうちに……)
「ねぇねぇお兄ちゃーん。お兄ちゃんって緑色のペンって持ってる? あったら貸して欲しいんだけど」
「あぁ。緑ペンなら筆箱に入ってる」
「ありがと! ちょっと借りるね!」
(けど多少のリスクは仕方ないか? どちらにせよ一切怪しまれずにエロ本を処分するのは難しい。多少怪しまれたとしても処分してしまえばこっちのもの。
「お兄ちゃん……これ……」
「あっ……」
成幸は己の失敗に気付く。
筆箱はバッグの中。即ちエロ本が入ってるのであった。
「ち、違うんだそれはーー」
焦りと羞恥が爆発し、成幸はとにかく弁解しようと水希の方を向きーー瞬間、背筋が凍った。
成幸に背を向けた状態で、エロ本を手に取っている水希。
その、表紙が目に飛び込んできた。
そう!
(い、『妹って最高!』だとぉーーーう!?)
成幸はエロ本の拾うことに精一杯で、肝心の中身については全く知らなかった。そのえっちぃ肌色成分たっぷりの表紙に気を取られ過ぎて、表紙の文字は一文字たりとも頭に入っていなかったのだ。
それは成幸には知る由もない禁断の領域。太陽の向こう側ーーブラックホールである。
だが、推察することはできる。
エロ本の表紙に『妹って最高!』などと書いてある。
それはつまりーー
(い、妹を、せ、せせせ、性的な目で、み、見るってことじゃーー)
「もーぉ! お兄ちゃーぁん? お兄ちゃんも年頃だしぃ、そういうことに興味あるのは分かるけどーぉ、せめてちゃんと隠してよねー?」
(あ、あれ……? もっと怒られるか嫌われるか縁切られるかと思ったのに……)
「お、あ、う、うん……ごめん……」
予想外の反応だったため、成幸はとりあえず謝った。
この様子では無理に弁解しても返って逆効果だろうと判断し、成幸はエロ本を水希から取ろうと、手を伸ばす。
「その、えっと……ごめん。捨ててくるわ」
だが水希はその手をするっと躱し、成幸の目を見て質問する。
「これ、拾ったの?」
「え、あ、あ、うん……。その、つい、出来心というか……」
羞恥ここに極まれり。妹にこんなことを説明するなど、顔から火を吹くほど恥ずかしい。
「ふ、ふーん。で、出来心、ね……」
「あ、ああ……」
(恥ずかしい気まずい恥ずかしい気まずい恥ずかしい気まずいーー!)
「で、でもこれ千円近くもするっぽいし、結構綺麗な状態だし……だ、だからその……ね? わ、私はぜぜぜ全然気にしてないし!」
「え……」
「も、持っててもいいんじゃないかな……?」
くいっ、くいっと何故か胸を反らしながら、水希はそう告げる。
成幸は見るーー水希のエプロンに書かれたSEISAIの文字を。
(SEISAI……………
外れである。
(そうか、これは制裁ーー
大外れである。
(……あぁ、分かった。その制裁、甘んじて受け入れようーー!)
「分かった。……水希、俺は絶対に無くさないからな(この罪の証を)」
「へっ!? な、何もそこまでは言ってないよ!?」
「いいや、俺は無くさない。だから……水希」
「は、はい!」
「こんな俺と……これからも、(家族として)一緒にいてくれるか……?」
「えっ……えっ!? お兄ちゃん、それ、それってーー」
「どうか……ッ! 水希……!」
「え、あ、う、あ、う、あーーう、うん! います! ずっと! 一緒に! います!」
「ありがとう! 水希!」
「お兄ちゃーーううん、なりゆ」
「こんな情けない俺をまだ家族として受け入れてくれて!」
ッパァン!(ビンタ)
ッパパパパパパパパァン!(高速ビンタ)
「バカ! お兄ちゃんのバカ! バカぁ〜〜〜〜!」
水希、逃走。
成幸はパンパンに膨れ上がった頬を抑えつつ……フッ、と息を漏らした。
「効いたぜ水希……お前の
だから大外れである。