「……いや、笑えない。すくなくとも、貴女は自分の中の優先すべきものを誤っていないように思う」
「それはどうして?」
「表情だ。それに話し方も、か」
訥訥と話す口調に淀みがなく、表情も静謐な美しさを湛えている。ブルネットの髪は美しく日光を反射し、その淡い光はやはりどこか海の底から仰ぐ陽の光を彷彿させる。
「そう、そうね。私は今の私に満足している」
その後に、「でも貴方は今の自分に満足していない」という言葉は出てこなかった。彼女は、スネイプの心情に必要以上に踏み込むつもりはない。最初にいったようにあくまで「相談相手」としての姿勢を崩すつもりはないようだ。
スネイプにとって、やはり初めて出会うタイプだった。彼女からは高い知性を感じさせるが、同時にそれをひけらかすような態度も示さない。それでいて、相手を慮る姿勢も見える。
いや、単純にこんな陰気な男に興味がないだけかもしれない。興味がないから踏み込まない、そういうことかもしれない。
ふと、叡智の寮たるレイブンクローとは彼女のような人物のためにあるのでは、と心に浮かんだ。創始者ロウェナ・レイブンクローが仮にここにいたとして、彼女を何と評するだろうか。
「……」
だが、今は沈黙の間こそがありがたい。まったく知らない赤の他人だから、誰にも話せない内心を吐露できる。彼女の言うとおりだ。
しばらく静寂が続く。カフェのテラスでは、心地よい風が吹き、観光地に相応しい落ち着いた陽の光が町並みを美しく彩っている。彼女はそんな景観を静かに眺めながら上品な所作で紅茶を口につけている。一方のスネイプは、テーブルの一点を凝視しながら、自身の葛藤を話すべきかを逡巡している。
……どれほど時間が経っただろうか。1分、2分、もしくは1時間は経ったかもしれない。少なくとも、スネイプにとってはとても長い時間を要した末に、終に口を開いた。
実際には、ブルネットの彼女がもう一杯の紅茶を飲み終える程度の時間しか経っていなかったが。
「さきほど話したように私には、大切な幼馴染がいる… 今でも愛している女性だ。そして彼女の身を危険に晒してしまったのは他ならぬ私自身。これから、私は彼女に何が出来るだろうか。私などが行動を起こして、それが彼女の為になるだろうか…」
今、スネイプは弱気になっている。アルバス・ダンブルドアに事情を打ち明け、死喰い人を裏切ったからには、もう自分の身はどうなってもいいが、リリーのことはなんとしても守りたい。
しかし、自信がないのだ。今更自分に何ができる…… そうした自嘲と自棄の気持ちが際限なく湧いてくる。理性の声は「お前は何もせずに、ダンブルドアの言うとおりにしておけ」と囁き、臆病な性根は「自分が余計なことをしてリリーに何かあったら耐えられない」と叫んでいる。
心の袋小路に、スネイプはいるのだ。
スネイプの吐露の後、彼女は紅茶で口を湿らせたのか。カップを音を立てずにソーサーに戻し話し始めたが、それはスネイプの問いに答えるものではなかった。
「私の恋人、体が弱いのよ。去年生死の境をさまようほどの重体になったわ」
「……! それは…意外だ」
スネイプは驚いた。これまでの話を聞く限り、そうとうエネルギッシュな女性を想像していたのだ。何故かイメージは赤毛。鉄の心臓でも持っているかのような、殺しても死なないような頑強な人物像だったのだが。
「そうでしょう? みんな驚くのよ、あの子が病弱なこと。ふふ、だってそうよね、あれだけ無闇矢鱈に走り回るくせに、すぐ息切れして倒れるんだから。でも、去年のことは流石に私も動転したわ」
初めはただの風邪だったが、そこから様々な症状を誘発し、一時は寝たきりになったと聞き、スネイプはそうなったリリーを想像した。そして同時に、今自分はリリーをそんな症状より遥かに危険な状態へ追いやった事実にも向き合わざるを得ない。
そんな陰鬱な表情になったスネイプを敢えて無視しながら、女性は話を続ける。
「その時ね、流石にあの子も命を危険を感じたのか、珍しく弱気になったのでしょうね。ベッドで横になりながらポツリと言ったわ、『私が死んだら、天国へいけるのかな』って」
マグルにとっての死後の世界の概念は、スピナーズエンドで育ったスネイプでも知っている。例えどれほど酷い親でも、キリスト教徒ならば必ず教える概念だ。天国…… おそらく自分には絶対にいけない場所だろう。もしそんな判決を受けようものなら、自ら地獄の大穴に飛び込むことも辞さない。自分は、それだけのことをしでかしたのだ。
「そう言われた時の私は、どういう心境だったのでしょうね、今でも分からないわ。でも口からでた言葉は『どうかしら。煉獄へ行ってダンテと地獄めぐりも悪くないんじゃない?』だった」
それはきっと、無意識に弱気になった恋人を慰めるために、冗談めかした言葉だったのだろう。僅かな言葉しか交わしていないが、スネイプはこの一期一会の女性が、淡白な言動とは裏腹に実は情が深い人だということは感じられていた。それを言葉にしてそれを指摘することはしなかった。今は彼女の語り終えるのを待つ時だろう。
「あの子は笑ってくれたわ、『それもいいね』って。でも……」
そこで彼女は言葉を止めた。おそらく、その時の情景を思い浮かべているのだろう。彼女の美しいブルネットが、風に吹かれてさらりと流れる。まるで上質な絹糸のようだった。
続きを促すべきか迷ったが、スネイプは黙って待つことにした。そして十秒ほど思いを過去に馳せた後、彼女の語りは再開される。
「こう言われたわ。『でも、天国にしろ煉獄にしろ、神様が作った場所だよね。そんな会ったことがない人が創った場所に、行きたくないなぁ』って。おかしな子でしょ?」
「それは、確かに……」
スネイプもマグルの、イギリス国教会の宗教的なことは多少知っている。『神』というものをマグルがどう思っているかは理解しているつもりだ。なにしろ、その文化は魔法世界にも影響している、イースターやクリスマスも、魔法世界に持ち込まれている文化だ。その『神』を指して「知らない人」とは、よくもまあ大胆な女性である。
スネイプがそう見ず知らずの女性に関心とも呆れとも言えない感想を抱いていると、次に彼女が発した言葉に、瞠目する。
「あの子はこう続けたわ『だから、私が行く天国はリリィに創って欲しい』って」
リリィ。
その単語を聞いた瞬間、スネイプの全身に落雷が走ったような衝撃を受けた。唐突に発せられたその単語。このブルネットの女性と自分は自己紹介も何もしていない。あくまで「名も知らない他人」という関係で会話をしていた。その方が話せることもあるから。
そして、スネイプも彼女も、互の想い人に関しても固有名詞で語らなかった。そうした方がなんとなくいいだろうと、思っていたから。
それを破って彼女がその単語を出したのに、特別な意図はあるまい。あくまで彼女の最愛の人物が発した言葉を、そのまま変えずに語ったまでだ。彼女にとってその言葉はおそらく大事な言葉であろうから、それは省いたり変えたりすることを意識してか無意識かは分からないが、厭ったのだろう。
だが、いずれにしろ、彼女はその単語を口にした。
リリィ。それが果たして彼女の本名か、愛称かは分からない。だが、その単語はスネイプにとってこの世の何よりも重い言葉なのだ。
これも縁というものだろうか、だとしたら、なんという奇縁だろう。この女性の名前は『リリィ』。彼が想ってやまない女性と同じ響きであったのだ。
今までは、泥濘のように重く溜まっていた気分を少しでも晴らすために、敢えて見ず知らずの女性に腹の中を話した。だが、彼女の名前を知った今となると、この出会いの意味がまるで違って見えてくる。
今日この時、『リリィ』という女性と出逢い、これまで誰にも話したことなどなかった心の内を語ったことは、それこそ天の配剤ではないのだろうか。
「…………」
しばしスネイプが呆然としているうちも『リリィ』の話は進んでいく。
「困ってしまうわよね。そんなこと言われても、どうしていいかなんて思いつかないわ。……でも、当時の私は真剣に考えたのよ。あの子に相応しい天国はどういうところだろうって、持っているアルバムをかき集めて、今まで付けていた日記を片っ端から読み返して…… おかしいわよね。普通、『そんな馬鹿なこと言わないで、貴女はこれからも一緒に生きるのよ』って怒ったりする場面よ、これ」
「そう、だな。……うむ、それではまるで」
「ええ、あの子が死ぬことを前提にした行動だもの。我ながら薄情だと思うわ」
スネイプは、目の前の女性の行動が理解できなかった。なにしろ彼は今、『リリーを失うことを恐れて』もがいている真っ最中なのだ。だというのに、1年前の彼女の行動は、『最愛の人の死を許容していた』ということを意味するのだから。彼女の言葉通り、普通なら最愛の人を失う事態など、想像するのも嫌だ。だというのに、この女性は……
「私も、きっと混乱していたのよ。昔からそうなの。私は混乱すると、明後日の方向に行動しちゃう癖がある」
その『癖』のために過去にどんな行動をしたかの詳細は語らなかったが、確かに混乱していたというのならば頷ける話だ。ただ彼女の場合は、自分のように分かりやすく態度にでないのだろう。
「でも、そうしている内に気づいたの。これは特別なことじゃないって」
「特別じゃない? 恋人と死別することがか?」
「ええ。だって、私もあの子もいつかは死ぬわ。そして一緒に死ぬなんて選択は、私たちはしない。なら、いずれかは『片方だけが残される』時が来るんだ、って気づいたの」
彼女たちはごく当たり前の人間だ。一部の魔法族のように不死を夢見たり、実現しようとはしていない。心中でもしないかぎり、いつかはどちらかが先に死ぬ。
そう、いずれはどちらかが先に死ぬのだ。スネイプもその事実に、幾ばくかの衝撃を受けた。
想い人の『死』を意識しながら、そうした冷静な思考を持てることに。想い人の『死』を前にして、それを受け止めることができる心の強さに。
「そう気づいた後に、私は以前より積極的になったわ。それまで照れくさくて言わなかった『愛してる』という言葉も口に出すようになったしね」
「………驚かれはしなかったのか」
「されたわよ。『いったい、どうしたの』って。私も最初の頃は自分の変化に戸惑ったけど、そのうち理解して、あの子に話したわ」
「なんと?」
「貴女が生きているうちに、やれることは全部やっておきたい、って。もちろんあの子に抗議されたわ、『私が死ぬこと前提で話するなー』って。まあ、あの子も笑っていたけどね。自惚れじゃなく、きっと私の言いたいことが伝わったんだと思う」
それつまり先ほど話していた「いつかは」ということだろう。例えその時病気で死なずとも、いつか「その時」は訪れる。ならばそれを闇雲に恐怖するのではなく、その事実を受け入れた上で、後悔無いように生きようという決意。
もっと、2人の思い出を作り、もっと語りたい言葉を語り、もっと重ねたい肌を重ねる。
その彼女の言葉に、スネイプはこれまでの会話の中で受けたような衝撃は無かった。代わりに、なにかバラバラになっていたパズルのピースが填ったような、頭の中にかかっていた靄が晴れたような心地になった。
『貴女が生きているうちに、やれることは全部やっておきたい』
なんだ、そんな単純なことだったのか。
そうだ、この女性に語った自分の恥の記憶を思い返してみろ。自分はいつだって「やらなかった後悔」の方が多いじゃないか。彼女に暴言を吐いたことすら、結局はリリーに何も伝えなかったことの反動だ。
ならば、人生で一度くらいは、『セブルス・スネイプらしからぬ行動』を取ってみようではないか。これで後悔する羽目になるかもしれない。あんなことさえしなければ、と思うことになるかもしれない。
しかし、自分の人生はいつだって「あの時ああしていれば」の連続だったのだから、やろうではないかセブルス。
『リリーが生きているうちに、自分が出来ることを全てやろう』
セブルス・スネイプはたった今そう決めた。
これは、熱に浮かされた衝動かもしれない。陰鬱に沈む自分が嫌だからという現実逃避かもしれない。
だが、もうそうした考えはやめよう。熱に浮かされた結果であろうとなんだろうと、もう決めた。
悩むことはもうやめだ。やれることは全部やろう。
迷いに沈んでいた自分に告げられた『リリィ』からの言葉。それがセブルス。スネイプにとっての運命でなくてなんだというのだ。
ダンブルドアに守ってもらう? その間自分は指を咥えて待っている? 馬鹿な、いつまでお前は何もしないでいるつもりだ。
自分が、このセブルス・スネイプが、『リリー』を救うのだ。
「……何か、貴方の助けになる言葉があったかしら」
スネイプの表情の変化を察したのだろう。今まで『陰気』という言葉の生きた見本であった男の表情が、急に決意に満ちたもの変わったのだから、この女性ならずとも気づいたかもしれないが。
それでも、あくまで静かに尋ねてくれる彼女の性格が、今のセネイプには有難い。
「ああ。貴女の人生の話を聞かせて貰い、私がすべきことが見えてきたような気がする」
「……そう。それなら私も相談相手になった甲斐があったわ。慣れないお節介をして、余計に気持ちを沈ませてしまうようなことにならずに良かった」
「いや、今日この瞬間貴女に出会えて話を聞けたことは、おそらく私にとって何よりの幸運だったのだろう」
「そうまで持ち上げられると面映ゆいけれど…… 私もこんな性格だし、貴方が冷静に自分を分析できる人だから上手くいったのね。それも幸運だったのかしら」
確かにスネイプは明晰な頭脳は持っているが、対人関係でその能力が発揮されることは少ない、彼女の言うとおり、この出会いは幸運だった。今のスネイプの心理状態と、『リリィ』の物静かな語り口や雰囲気が、見事に填ったのだ。
「本当に世話になった。もう出会うことはないだろうが、貴女のことは忘れない」
決意したからには、あとは行動あるのみだ。スネイプは席を立ち、今や恩人となった女性に別れを告げる。再び臆病な自分が帰ってくる前に、一刻でも早く動き出そう。
「あら、もう行くの?」
「ああ、クズグズしていると、再び陰気な自分に戻ってしまうから」
「フフ、そう。なら、さようなら、私と似て非なる過去を歩んだ人」
「さようなら。私と異なり強い心を持った人」
こうして、呆気なく2人は別れた。
この出会いは一期一会。もう2度と再びまみえることはないだろう。だが、それでいいのだ。この出会いには意味があった。それはスネイプにとっても、彼女にとっても。
カフェから立ち去っていくスネイプの背中を、『リリィ』はただ静かに眺めていた。
序章はここまでとなります。
次回は少し時間が経過し、シリウスが登場します。