【完結】無惨様が永遠を目指すRTA   作:佐藤東沙

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小ネタ集その五

〇猗窩座の山籠もり(大正)

 

 

 鬼狩り達を殺し尽くしたその数日後。猗窩座は念のために人間に擬態し、深い山奥へと足を踏み入れていた。目的は単純、修行だ。つい先日に垣間見た、『透き通る世界』。それを猗窩座は求めていた。

 

「……いたな」

 

 闘気を探知する羅針盤をレーダー代わりに、しばらく歩いた猗窩座の目の前に現れたのは巨大な熊だ。ツキノワグマのサイズは通常1m半前後だが、この個体は2mを軽く超えている。そんな規格外のツキノワグマは、見慣れぬ人影に低く唸った。

 

「グルルルッ……!」

 

 鬼殺隊が消滅した今、猗窩座が求めるような“強い人間”は少ない。かといって鬼同士では手詰まりを感じている。従って気分を変えるべくこうして熊を戦闘相手に選んだのだが、猗窩座の顔は晴れなかった。

 

「ガアアァァッ!!」

「弱い……」

 

 熊は巨体故に負け知らずだったのか、逃げずに襲いかかって来たところまでは良かった。だが良かったのはそこまでだった。猗窩座からすれば、弱いのだ。

 もちろん体格や身体能力は人間の比ではないのだが、鬼、それも上弦の参に及ぶほどでは全くない。おまけに技術もないので動きが直線的で読みやすい。猗窩座は期待外れだと言わんばかりに深い溜息を吐いた。

 

「……まあいい」

 

 役に立たないのなら()()にしてしまおうと、猗窩座は軽く構えを取る。漏れ出た殺気に反応したのか、熊はびくりと身体を強張らせて逃げ出す素振りを見せた。だがそれも猗窩座にとっては遅すぎる。急所を狙い拳を突き出そうとしたその瞬間、横合いから声が飛んで来た。

 

「伏せろ!」

「何ッ!?」

 

 黒色火薬の間延びした銃声が響き、熊の横腹から血がしぶく。熊はそれでも目の前の()に爪を振るおうとするが、猗窩座の手刀がその首を刎ね飛ばした。余人には成し得ぬ絶技ではあったがしかし、猗窩座の意識はすでに熊から離れていた。

 

「どういう……事だ……!?」

 

 戦いの羅針盤に不調はない。熊だろうが赤子だろうが、闘気を探知できないという事はあり得ないし、銃で熊を撃ったのなら闘気がないという事もまたあり得ない。にも拘わらず、羅針盤は一切の反応を示さなかったのだ。

 機械的な罠なら闘気はないが、そのような仕掛けは見当たらなかった。大正のこの時代、便利なセンサー類は存在しないので、罠なら仕掛け用の紐等が必要なのだ。

 

 猗窩座は信じられないと言わんばかりに目を見開き、首と胴を泣き別れさせぴくりとも動かなくなった熊を見つめていた。

 

「無事か?」

 

 茂みから出て来た男に、猗窩座の視線が素早く向けられる。四十絡みのその男は長い銃を持ち、腰に毛皮を巻き付けいかにも猟師といった風情だったが、猗窩座の目には全く強そうには映らなかった。だが状況からして、彼が闘気もなしに銃を撃って熊を倒した事は疑いようがなかった。猗窩座の中で、興味と関心が一気に膨れ上がった。

 

「今のはどうやった!?」

「は?」

 

 今にも喰らい付かんばかりの勢いで詰め寄る猗窩座に、男は目を白黒させて戸惑った。

 

 

〇 ● 〇 ● 〇

 

 

 猟師は猛る猗窩座をなだめ、とりあえず熊を解体する事を提案した。その結果二人は焚火を囲んで座り込み、熊肉を棒に刺して焼く事となっていた。

 

「危ないと思ったからとっさに撃ったが……余計なお世話だったか?」

 

 彼は『熊に人が襲われている』と思ったがために危険を承知で撃ったのだ。猗窩座に当たる可能性はあったが、普通なら熊に殺される方が早かっただろうから判断としては間違っていない。尤も猗窩座が熊に負ける事などありえないのだが、それは彼の知り得ない事である。

 

「そんな事はどうでもいい。それより、さっきのはどうやった?」

「さっきの?」

 

 単刀直入に本題に入る猗窩座に、猟師が不思議そうな顔を見せる。そんな彼に向け、猗窩座は半音下がった声で言い募った。

 

「とぼけるな、闘気もなしに銃を撃っていただろう」

「闘気……ってのはよく分からんが、気配を消して撃つ方法って事か?」

「そうだ。どんな人間でも攻撃する時には闘気……分かりやすく言うなら殺気が漏れる。だがお前にはそれがなかった。そんな人間を見たのは初めてだ」

 

 闘気のない人間はいない。赤子にも、蟲の生まれ変わりか何かかと猗窩座が内心で疑っている童磨にすら闘気はある。だがこの目の前の猟師は、確かに闘気を出す事なく熊を撃ってみせたのだ。猗窩座の驚愕はいかばかりか。

 

「どこか、あの男(上弦の壱)に通じるものを感じた……。俺にもそれが出来るようになれば、もっと強くなれるかもしれん」

「お前さん、強くなりたいのかい」

「そうだ。俺はもっと強くなる。強くなりたい。だから知りたいのだ、闘気なしで闘う方法を」

 

 猗窩座は真剣な瞳で男をまっすぐに見つめる。彼はいかにも自然な仕草でついと目を逸らすと、棒に刺さった肉を地面から抜いて猗窩座に差し出した。

 

「まあ食え」

「あ、ああ……」

 

 その流れるような動きに流され、反射的に肉を受け取る猗窩座。火に炙られた野趣溢れる香りが鼻をくすぐる。食っている場合ではないと強く男を睨むが、睨まれた当の男は飄々と肩をすくめてみせた。

 

「それじゃ駄目だ」

「何がだ」

「どうも殺気が強すぎるな。それじゃあ亀にだって逃げられるぞ」

「…………」

 

 心当たりでもあったのか、猗窩座は憮然として押し黙る。男は自身も肉を取ると、一口噛みちぎって飲み込み言葉を続けた。

 

「まあ強くなりたいのは分かったが、何でまたそんなに強くなりたいんだ?」

「何、で…………」

 

 どうという事のない質問だったはずだが、それを聞いた猗窩座は石のように固まった。猟師は怪訝な顔で猗窩座を見るが、猗窩座の意識はすでにここにはなかった。

 

 猗窩座の脳裏に映像がフラッシュバックする。いや映像だけではない、感覚すらもが蘇ってゆく。肌を撫でる水気を含んだ風、空で爆ぜる火薬の音、濃い群青の空に色鮮やかに咲く花火。そして、見知らぬ女。

 

(誰、だ?)

 

 二十歳にも届かぬだろう、若い女だ。まるで淡雪のような儚い印象を与える女で、髪をきちんと結い上げている。大正ではそうでもないが、百年前の江戸時代ではよく見かけた髪型だ。だが猗窩座の目が引き付けられたのは、髪型ではなかった。

 

(この、髪飾り、は……)

 

 雪の結晶のような形をした髪飾り。戦いの羅針盤そっくりの髪飾り。()()()()()()()()の髪飾り。見覚えがないはずなのに、何故か目を離せない。

 

『私は――さんがいい――す』

 

 女が何かを言っている。だがところどころ音が掠れ、完全には聞き取れない。どうにか聞こうとするも、集中すればするほど逃げ水のようにするりとすり抜けてしまう。

 

『私と――になって――すか?』

『俺は――――くな――――必ずあ――守――す』

 

 音だけではなく、映像も掠れてゆく。それを契機に、全てが蜃気楼のようにぼやけていってしまう。思わず手を伸ばしかけた猗窩座だったが、その視界に映ったのは見知らぬ男だった。

 

「兄ちゃん?」

 

 猗窩座ははっと気を取り直す。知らない顔は先程出会った猟師であり、その顔が訝しげに猗窩座を覗き込んでいた。

 

「どうした? 大丈夫か?」

 

 どうやら急に黙ってしまった猗窩座を心配したものらしかったが、猗窩座はそれに構わずうわ言のように呟いた。

 

「…………まもる」

「ん?」

「守る…………。……そうだ……あのお方は、あいつら(下弦)を守れと仰った……」

 

 見知らぬはずの女に代わって脳裏に浮かぶのは、下弦の鬼たちの顔だ。珠世、空木(うつぎ)(しきみ)鳥兜(とりかぶと)馬酔木(あしび)、堕姫。同じ鬼とは思えぬほど弱く、しかして必ず守れと無惨に命じられた対象。その命令は、鬼殺隊が消滅した現在でも依然生きている。

 

 猗窩座は弱者は嫌いだが、無惨の命とあらば是非もない。それに理由は猗窩座にも分からなかったが、不思議と彼女らには不快感は抱かなかった。

 

「あのお方ってのが誰だかは知らんが、それが兄ちゃんの強くなりたい理由ってやつかい?」

「…………ああ」

 

「(そうだ、強くなりたい理由など、ましてや知りもしない女などどうでも良い。無惨様の命を果たすためにも、強くならねば)」

 

 猗窩座の頭のどこかに何かが引っ掛かる。だが彼は頭を振ってそれを錯覚だと振り払うと、闘気なしに銃を撃つ方法について男に尋ねる作業に戻った。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

〇社章(大正)

 

 

「あの、この会社って何か目印みたいなものはないんですか?」

 

 無惨達が会社を立ち上げてしばらくの頃。取引先に薬を運んで戻って来た獪岳が、そんな事を言い出した。

 

「目印? どういう意味ですか?」

「ええと……」

 

 訝しそうな空木に獪岳が答えて曰く。今現在薬は箱に詰めて届けているが、届けた先でその箱が他の似たような箱と混じって区別がつかなくなってしまう事があるという。そこで、いちいち開けずとも一目で分かるように箱に何か目印をつけてほしい、と要望されたという事だった。

 

「知った事か」

 

 そんな要望を、無惨は鼻を鳴らして切り捨てた。『お客様は神様です』を鼻で笑う所業だが、元よりそんな精神の持ち合わせは無惨にはないし、何より間違っている訳でもない。薬の品質に問題がない以上は()()()()の問題だ、と言えなくもないのだ。

 

「うーん……でも、会社の象徴となる記号を作るのは良いと思いますよ?」

 

 とそこで、馬酔木(あしび)が横から口を挟んだ。元商家の娘らしい意見だった。鳥兜(とりかぶと)がそれに続く。

 

「まあ確かに、一目でうちの商品だと分かるならこの先便利な事もあるでしょうね」

「そ、そう……?」

「ええ、今のように直接取引先に持って行くのではなく、店先に並べる時ですね。一目でうちのものだと分かるなら、効能を知っている人が買って行きやすくなるでしょう」

 

 鳥兜と(しきみ)の会話に、堕姫が自身の過去を思い出す。

 

「家紋みたいなもの? そういえば昔、自分の持ち物に必ず家紋を入れてた遊女がいたわね」

「そんなのいたかぁ?」

「ほら、小紫よ。あの人、櫛や簪には必ず桔梗の紋を入れてたの。それをお客に渡す事もあったから、桔梗を見るたびに小紫の事を思い出してまた来たくなるって訳」

「あぁ、そういえばそんな奴もいたなぁ。まあ俺達には家紋なんて関係ねえ話だったけどなぁ」

 

 家紋という言葉に脳を刺激された鳥兜が、ぽろりと自分の過去を漏らした。

 

「家紋か……うちは確か、丸に揚羽蝶でしたねえ」

「え、揚羽……? ひょっとして、土御門家……?」

 

 樒が驚いたように聞き返し、鳥兜が肩をすくめる。

 

「分家ですがね。昔の話ですし、何よりその家を飛び出した身ですから、さすがに使えませんよ」

「飛び出した……?」

「ええまあ……死病を患った際、医者として呼ばれた珠世様に治して頂いたんですが、俺もどうしてもそれと同じ事が出来るようになりたくなって飛び出したんです。その先はご存じの通りですね」

 

 長男ではなく次男だったとはいえ大概とんでもない事をしているが、その執着こそが無惨に気に入られた所以でもある。鬼に向いているのは、強い執着がある者や他人を顧みない者であるからだ。童磨? 部下の心が直接的に分かる無惨でも、分からない事くらいある。

 

 ちなみに鬼から人間に戻ると免疫が出来て再度鬼にはならなくなるが、そうなるかは体質に左右される。鳥兜の受けた鬼化治療なら鬼になっているのは極短時間なので、大抵の場合免疫は出来ない。

 

「樒はどうなんです? さらりと家紋の知識が出てくる辺り、それなり以上の生まれのようですが」

「お、俺は、人間の頃の事はほとんど覚えてない……。ただ、気弱な自分が嫌だったのだけは……覚えてる……」

 

 空木曰く、『鬼の身体は強い想いに応える』。人を喰うようになった鬼は大抵の場合、強い罪悪感から人間だった頃の事を忘れようとし、実際に忘れてしまう。樒は人を喰った事はないが、気の弱かった自分を嫌っていたがためにその頃の事を忘れているのだ。

 

「でも、強い無惨様の近くにいれば、俺も強くなれるかな……って……」

「成程……」

 

 ここで言う強さとは、戦闘能力的な強さではなく精神的な強さであろう。ただ生きるためだけに手段を選ばず全精力を尽くせるその精神は、強いと言うより他にない。見習おうと思うかは個人差があるだろうが。

 

「はいはい、話が逸れてますよ」

 

 ぱんぱんと手を打ち鳴らして話を本題に戻した空木が、珠世に意見を求める。

 

「要するに社章を作るかどうかという話ですね。珠世様はどう思われます?」

「え?」

 

 珠世はここ最近そうであったようにぼうっと呆けていたが、空木の言葉に意識を現に引き戻す。皆の視線が自身に集まっているのに気付き、慌てて答えを返した。

 

「そ、そうですね、社章はあってもいいと思います。特に不都合がある訳ではありませんし、分かりやすい目印があれば覚えられやすくなりますから、売り上げ上昇に繋がるかもしれません」

「さすが珠世様です。という事ですが、いかがでしょう無惨様?」

「ふむ……」

 

 無惨は顎に手を当て少しばかり考える。無惨は気分屋で傲慢だが、地頭は良いので理詰めで説明すれば理解はするし、部下の意見を聞く耳も一応ある。それが有用だと判断すれば採用する程度の柔軟性だって持ち合わせているのだ。採用のハードルは高いが。

 

「あまり興味が出ぬな」

 

 長く鬼として活動している無惨だが、シンボルとなるマークを作る事はなかった。自己顕示欲が強い訳でもないし、全ての鬼は呪いを通じて直接的に支配出来ていたので、必要性を感じなかったのかもしれない。とは言え、社章の有用性を理解できないほど頭が固い訳でもなかった。

 

「まあ悪いというほどでもない。お前たちに任せる、適当に決めておけ」

「畏まりました」

 

 こういう事を言う者に限って適当なものを出すと怒り狂うのだが、鬼たちは無惨と付き合いが長いのでその辺りは抜かりなかった。

 

「なら、玉壺さんに相談してみましょう。こういうのは得意でしょうし」

 

 無惨の気に入りそうなデザインを考えられる者の名前を、空木が即座に上げた。上手く行かなかったら責任もそっちに行くという考えはない。おそらく。

 

「大丈夫かしら……」

「まあ大丈夫でしょう多分。壺()綺麗ですから」

 

 棚に置かれている壺を横目で見ながら空木が答える。これは玉壺が血鬼術で作ったものであり、いざという時は魚が湧き出て敵に襲いかかる。“上弦は下弦を守れ”という無惨の命令は今も有効だった。

 

「さて、そろそろ休憩は終わりだ。仕事に戻れ」

「はっ」

 

 無惨の一声で鬼たちと獪岳は昼休みを終わらせ、三々五々己の仕事へと戻ってゆく。程なく会社は、常の姿を取り戻した。

 

 

 後日、無惨の会社の社章を作るという事で気合を入れまくった玉壺が、彼岸花をモチーフとしたデザインを出してきた。シンプルながらも格調高く、一目で覚えやすいそれには無惨も満足したという。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

〇産業スパイ(昭和)

 

 

 年号が大正から昭和に変わり、ブラウン管テレビがようやく発明された頃。己が会社の社長室にて、無惨が不機嫌そうな顔で椅子に腰かけていた。

 

「全く、珠世が抜けた傍からこんな事が起ころうとはな」

 

 無惨の眉間に皺が寄っている理由は単純だ。薬の製法を盗もうとした産業スパイが見付かったためである。もうすでに()()されているし実害はなかったのだが、不快である事に変わりはない。

 

「……まあ良い。過ぎた事だ」

 

 昔なら怒り狂っていたかもしれないが、案外そのような事もなく冷静だった。何せその産業スパイの入社試験を行ったのは無惨本人なのだ。しかもそのスパイを怪しみ決定的瞬間を押さえたのは部下である。これで怒るほど無惨のプライドは安くはない。怒るようなら恥の上塗りである。

 

 意外かもしれないが、無惨の辞書にも『プライド』や『恥』という言葉は載っている。ただ単に『生きる』と『逃げる』の後にあるだけだ。そういう意味では無惨は割と普通なのだ。ただうっかり『共感』と『気遣い』という単語を載せ忘れただけである。

 

「とは言え、だ。次に同じ事があってはならぬ。空木、何か考えはあるか」

「そうですね……」

 

 無惨は産業スパイを直接摘発した部下に水を向ける。空木や堕姫、獪岳といった元孤児たちは人の顔色や悪意に敏感であり、故にこそスパイだった社員に最初から不審を抱いていたのだ。尤もそういつも上手く行くとは彼女達自身も思ってはいないため、こうして頭を悩ませているのである。

 

「社員を全員鬼にする、というのも一つの手ですが……」

「これ以上鬼を増やす気はない。少なくとも今はな」

「んー……そうだ、それなら猗窩座さんはどうでしょう」

「猗窩座?」

 

 胸の前でぽんと手を叩き合わせた空木の言に、無惨は意表を突かれたような顔になる。猗窩座は強いが、それ以外に役立つとはあまり思っていなかったのだ。

 

「はい、猗窩座さんの血鬼術は闘気を感知できるそうです。それなら、敵意や害意も感知できるのではないでしょうか。もしそれが可能なら、確実に炙り出せます」

「ほう……」

 

 無惨は感心したような声を漏らし、早速猗窩座に念話を繋げる。その返答を聞いた無惨の顔が明るくなった。

 

「『やった事はないが、おそらく可能』だそうだ。ならば話は早い」

 

 べんと琵琶の音が響くと、猗窩座が社長室に姿を現した。即座に跪く猗窩座に向け、無惨が命令を下す。

 

「猗窩座、お前は今日から我が社の社員だ。役職は……そうだな、警備員という事で良かろう。社内で怪しい動きをする者を見つけて報告しろ。ついでだ、それ以外では社員を守れ」

「はっ」

 

 大分説明が足りない命令だったが、無惨の言葉に対して質問や否定は厳禁である。それを良く知る猗窩座は従順に従った。

 

「猗窩座さんの血鬼術で、会社に敵意や害意を持つ人間を見つけて欲しいんです。つい先日に間諜が……今風に言うなら産業スパイが入っているのを見つけましたので」

「分かった」

 

 補足する空木にこくりと頷きを返す猗窩座。それを見た空木は空気を切り替えるように、再度手を胸の前で叩き合わせた。

 

「となると、人間としての名前も決めないといけませんね。どうします?」

「名前?」

「はい、戸籍に登録する名前です。今は必ず苗字をつけないといけませんから」

 

 無惨につけてもらったり適当に自分でつけたりと様々だが、人間として動く鬼は皆苗字を作っている。黒死牟などはちゃっかり本名を使っているくらいだ。人には“黒死牟”と呼ばせてはいるが、それはあくまで通称という扱いである。

 

「名前……」

 

 名前と聞いて何故か少し呆けた猗窩座の耳に、ノイズ混じりの声が響く。聞き覚えなどないはずの、なのによく知っているような忘れてはならなかったような、若い女の声だ。

 

『――――さん』

 

 自身に呼びかけているような気がするが、そうではないような気もする。何と言っているかは夢の向こうの出来事のようで判然としないが、それでも何となく聞こえて来た音を猗窩座はぽつりと口にした。

 

「はくじ……」

 

 聞きなれない名前を聞いた空木が、こてんと首を横に傾げて問いかける。

 

「はくじ? ひょっとして、猗窩座さんが人間だった頃の名前ですか? どう書くんです?」

「…………分からん。人間だった頃の事は覚えていない」

 

 その言葉に空木は反射的に無惨にちらりと視線を向けるが、その答えはにべもなかった。

 

「私も知らぬな」

 

 嘘ではない。無惨は猗窩座の記憶を封印したが読み取った訳ではないため、本当に知らないのだ。当時の騒ぎで名前くらいは出ていたかもしれないが、無惨の記憶には残っていない。

 

「まあ名前と聞いて出たんですから、多分そうなんでしょう。となると、人間としての名前はそれでいいですか?」

「何でもいい」

「なら……(あかざ)白磁(はくじ)なんてどうでしょう。植物の藜に、白磁の壺の白磁です。藜は猗窩座さんの名前と音が同じですし、下弦は皆植物由来の名前なのでそっちとも合います。白磁はまあ、色が白いので」

 

 鬼は本来陽光に当たれないため基本的に色白だ。それでもここで白磁という言葉が出たのには、空木の視界の端に映る玉壺作の壺が無関係ではないだろう。とは言え余計な事は口にしない。上弦同士はそう仲が良い訳ではないのだ。雄弁は銀で沈黙は金なのである。

 

「それでいい」

「ならば決まりだな。空木、細かい処理はお前に任せる」

「分かりました。これからもよろしくお願いしますね、藜白磁さん!」

 

 笑顔を見せ、『はくじ』と自身を呼ぶ女を猗窩座は思わず見つめた。その顔に、知らないはずの女の顔が重なる。雪の結晶の髪飾りをつけた、淡雪のような女だ。空木とは顔も雰囲気も全く似ておらず、(見た目は)若い女という事くらいしか共通点はないのだが、不思議と印象がダブったのだ。

 

「どうした、猗窩座?」

 

 だがそれも、無惨に声をかけられると幻のように消え去った。まるで風に吹かれた砂絵のように不自然な消え方だった。

 

「いえ、何でもありません」

「とりあえず猗窩座さん、服を買いに行きましょう」

 

 だが猗窩座が違和感を抱くより前に、空木の言葉に意識が向く。猗窩座はその言われた内容に訝しげに眉を顰めた。

 

「服だと?」

「はい。今着ているのはお似合いではありますが、警備員にふさわしいかと言うとちょっと……」

 

 下は道着にも似た七分丈のパンツに、足首に巻かれた太い数珠。上はほぼ裸で、ベストに似た短い羽織のみ。それが猗窩座の服の全てである。引き締まった肉体や身体の紋様と相まってよく似合ってはいるものの、製薬会社の社員に合っているとは言い難い。

 

「そういう事ならテーラー前田に行け。スーツと制服は違うが……まああそこなら作れるだろう」

「テーラー、ですか?」

「仕立て屋ですよ。前田は変人ですが、腕は確かです。変人ですが」

 

 その言葉を聞いてそこはかとなく不安になった猗窩座だったが、自身の同僚の方がよほど変人だった事を思い出してちょっと微妙な気分になった。

 

「ちょうど終業時間だ、今から行ってこい。あの類の服は作るのに時間がかかる、早いに越した事はなかろう」

「はっ」

「私が案内します。さ、行きましょう猗窩座さん」

「あ、ああ……」

 

 手を差し出す空木を、少しだけ呆けたように見つめる猗窩座。だがすぐに気を取り直し、その小さな背中に続いて社長室を出る。その頃にはもう、雪のような女の事などすっかり頭から消えていた。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

〇無惨のグルメ(平成・R15G?)

 

 

 高級そうな、それでいて品を感じさせる車が道路を走る。その運転席に座るのは無惨だ。新しい機械全般を好む無惨は車の運転を割と気に入っており、運転手は雇わず自身でハンドルを握るのが常だった。

 

「……腹が減ったな」

 

 無惨がふと呟いた。商談が長引き、今は午後二時。社員食堂で食べるには、何となく中途半端な時間帯。おまけに会社まではまだ少し距離がある。かといって燃費があまり宜しくない鬼としては、食事抜きという訳にもいかない。

 どうしたものかと内心で首を捻っていると、助手席から小鳥のような声が飛んで来た。

 

「鳴女さんと玉壺さんに用意してもらいます?」

 

 無惨の付き人として同行していた、下弦の伍の馬酔木だ。彼女は無限城の料理担当の名前を出すが、無惨はあまり気乗りしない様子だった。

 

「いや、あまり時間はかけたくない」

 

 鳴女が“眼”と“扉”の血鬼術で獣や魚を捕らえ、玉壺の金魚がそれを捌いて調理する、というのがここ何百年かのルーチンだ。従って無限城に戻れば何らかの食事はあるだろうが、昼時を過ぎている以上調理から始めねばならず、それには必然時間がかかる。無惨としてはそれは望ましくないようだった。

 

「ではどうしましょう。その辺で食べていきますか?」

「悪くないが、この辺りで良い場所は――――む?」

 

 無惨の卓越した視力が、遠目に見慣れない店を捉えた。興味を引かれた無惨は、その店の駐車場に車を停める。車から降りた馬酔木が、店の看板を見上げながら言った。

 

「食堂? こんなの出来てたんですね」

 

 彼女の記憶によれば、以前は蕎麦屋だった場所だ。いつの間に変わったのだろうと思う間もなく、無惨が入口の方へと歩いて行っていた。

 

「この際ここで構わぬだろう。行くぞ」

「あっ、待ってください無惨様」

 

 馬酔木を引き連れた無惨がガラリと引き戸を開ける。そこは食堂というより定食屋といった風情の店であった。香ばしいスパイスの匂いが鼻をくすぐり、油が熱せられて爆ぜる音が耳に届く。店の主と思しき四十絡みの男が手を止めないまま、無惨達にちらりと目線を向けた。

 

「いらっしゃい。空いてるところに適当に座ってくれ」

 

 昼食から少し外れた時間であるためか、店の中に客は入っていなかった。無惨はそれに頓着する事なく、どかりと席に腰を下ろすと即座に注文を出した。

 

「日替わり定食一つだ」

「あ、私も同じのでお願いします」

 

 一人分では全く足りないが、ここの味が分からないので様子見である。少しでも食べておけば会社までは持つだろうという考えだ。無惨はあまり味に拘る方ではない――でなければ数百年も人間だけを食べて過ごせない――が、かといって不味いものを食べたい訳ではないのだ。

 

「あいよ」

 

 待つことしばし。二人の前に同じものが置かれた。茶碗に入った白米に、湯気を立てる味噌汁。小皿の中で控え目に自己主張する沢庵。そしてキャベツとキュウリを枕に、膳の中央にででんと鎮座する岩の如き茶色の物体。メンチカツ定食である。

 

「ほう……」

 

 食前の挨拶もそこそこに味噌汁に口を付けた無惨は、ぴくりと眉を動かし声を漏らした。ワカメと豆腐、そして玉ねぎの入ったごくごく普通の味噌汁。だがその玉ねぎの味こそが、古い記憶を呼び覚ましたのだ。

 

「(…………心臓の味を思い出すな)」

 

 脳裏に蘇るは、数百年喰らい続けた人間の味。その中でも人体の中心に位置する心臓だ。赤く脈打つ筋肉の塊は、鬼にとっては仄かな甘みを感じさせる、デザートにも食の中心にもなり得る部位なのだ。もちろん玉ねぎとは似ても似つかぬ触感だが、その自然な甘さがどことなく心臓を彷彿とさせたのである。

 無惨は感じる郷愁と共に、次はキャベツに箸をつけた。

 

「(こちらは、骨か)」

 

 歯に伝わるシャキシャキとした感触が、新鮮な骨を思い出させる。鮮度が落ちた骨は干からび尽くしたビスケットのようで食えたものではないが、獲れたての骨はそうではない。含まれた水分が適度な歯ごたえを演出し、肉ばかりで飽きた舌にほどよい刺激をもたらすのだ。

 主食には足りないが、主演を引き立てまた自らも確かに主張する名脇役と言えるだろう。まるでこのキャベツのように。

 

「懐かしい味だな」

「美味しいですけど……懐かしい、ですか?」

「ああ」

 

 首を傾げる馬酔木を置き去りに、無惨は視線を自らの目の前のメンチカツに移した。

 

「(さて、これはどうか)」

 

 いくつかに切り分けられた中の一つを取り、口へと運ぶ。無惨にしては珍しく、少しばかり期待していたのかもしれない。果たしてその期待は裏切られる事はなかった。

 

「(これは……)」

 

 衣を歯が掻き分けるざくりとした触感は、人間の部位のどこにも当てはまらないものだ。だがその味……より正確に言うならば、その油の味こそが無惨の記憶を呼び起こした。

 

「(乳房……そうだ、乳房だ)」

 

 それも、若い女の乳房だ。乳房は九割がた脂肪なので、そのまま食べると舌にべたついてあまり触感が良くない。ゆえに無惨はあまり好んではいなかったが、このメンチカツは違う。太腿辺りの上等な肉をミンチにし、乳房の脂を使って揚げたならばこうなるだろうという味だったのだ。

 こういう発想もあったのかと半ば感心しながら、無惨は箸休めの沢庵を摘まんだ。

 

「(む)」

 

 これもキャベツと同じように骨かと思いきや、その予想は裏切られた。骨は骨でも軟骨だ。自家製らしきこの沢庵は、耳や鼻を口の中で転がした時のこりこり感ととても良く似ていたのだ。尤も人間の軟骨はあまり味がないので、塩気の利いたこの沢庵とはやはり異なる。無惨にとしては、どちらかと言えばこちらの方が好みであった。

 

「おい店主、追加だ。日替わり定食をもう一つと、海鮮丼二つ。後はそうだな……生姜焼き定食だ」

「あれ社長、お昼はここで食べていかれるんですか?」

「ああ、中々悪くない」

「じゃあ私も! えーと、サイコロステーキ定食とサバ味噌煮定食と天ぷら定食お願いしまーす!」

「そんなに食いきれるのかい?」

 

 注文を聞き少し驚いたような表情を見せた店主に、馬酔木が人懐っこさを感じさせる笑顔で返した。

 

「大丈夫ですよー」

「そんな心配はいらぬ。だが私は空腹だ、遅ければお前を喰うとしよう」

「ははっ、喰われちゃ大変だ。あいよ、今作るから待ってな」

 

 無惨の言葉を冗談だと受け取った店主は、軽く笑みをこぼすと料理に取り掛かる。もちろん冗談では済まないのだが、知らぬが仏とはまさにこの事であった。

 


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