迷い来たるはまほろばへの道 -1
都市伝説。
人から人へと伝播していく根も葉もないうわさ話。
それらは時に、さも真実であるかのように語られ、人の恐怖、好奇心を煽る。
誰かが信じるに適した形となり、時代と共に変わって信仰されていく怪談の類。
もしも、万が一、それらのどれかが本当であったとして、それに巻き込まれたとしたら、哀れな犠牲者には対抗する余地がない。
だから――そんな不幸があったのならば、何はともあれこの場所に来ること。
真の怪異が迫ってきていれば、きっとそこには扉がある。
見つけたら、まず扉を叩く。何回でも良い。叩けばそれだけで、向こうに伝わって、招いてくれる。
その先にいるのは、恐ろしいものへの対処を生業とする者たち。
どんな都市伝説、どんな怪談、どんな怪異にも受けて立つ、万能にして究極の対抗神話。
それが、『はざま探偵事務所』の伝説。
はざま探偵事務所もまた都市伝説の一つではあるが、その中でも異質なものだった。
全国的に知名度の高い話、というだけなら他にもあろう。
トイレの花子さんだとか、口裂け女だとか。
だが、そうしたものとは違う。
全国の多くの地域に、このはざま探偵事務所の入り口とされる場所があるのだ。
人気のない路地裏、曰く付きの神社の傍、樹齢数百年とされる神木の幹。
地域によってバラバラだが、そこに住んでいる人なら大抵は知っている、何の変哲もない筈の場所が、全国に数百。
各地域の情報を纏めたサイトなんてものもある。
勿論、その場所にいっても何もない。
だってこれは都市伝説。あくまで根も葉もないうわさ話なのだから。
だがそれでも、本当に追い詰められたものにとっては、最後に縋る一筋の蜘蛛の糸。
そうせざるを得ないほどの混沌、決して説明のつかない事態が、この世界には確かにあった。
浅はかだった。
軽い気持ちでそれを行った一時間前の自分が、心の底から腹立たしかった。
ネットで見て、面白いと思った、そこまではいい。
何故それを実践してしまったのか。
本気にした訳ではなかった。だが、そうであるならば笑い飛ばすまでで終わらせ、試してみようなどと思わないべきだったのだ。
後悔しながらも、必死で走る。
すれ違う人たちは、皆不思議そうに俺を見る。
何を急いでいるんだろう。危ないなあ。どこの制服なんだ、あれ。
そんなことを、誰かが言った気がした。
どこの制服なのか、だと?
紛れもない、この町の高校のものだ。そうだった筈なのだ。
だが、道行く高校生――だと思う人たちには、誰一人俺と同じ制服を着ている者なんていない。
生まれた時から暮らしてきた町だというのに、知っている人なんて誰一人いやしない。
俺の家も見てきた。まったく同じ形のものがそこにあった。
でも――俺はあんな名字じゃない。
家の中を確かめるまでもなかった。あれは、俺の家ではない。
ここは、俺がいるべき世界ではない。
あんな馬鹿なことをしてしまったばかりに、同じように見えるだけの、まったく違う世界に来てしまったのだ。
――異世界に行く方法、というものはネット上でも多く語られている。
簡単なものから難解なものまで。それらの殆ど――というか、ほぼ全ては誰かが作り出した嘘に過ぎないものだろう。
事実、俺は簡単なものをいくつか試した。
数分で実行できるような、これで出来るならば苦労はしないだろう、なんてもの。
結果としては何も起こらなかった。その時は、馬鹿馬鹿しいと笑っていた。
いくつかが失敗に終わり、俺は調子に乗っていた。
少しだけ入り組んだ、これならば多少は信じる者も出てくるだろうという方法に手を出した。
それは、エレベーターを使ったもの。
高層階まである建物の、人気のないエレベーターを使い、出ることなく規定の階を行き来する。
普通であれば、そんなことはしない。だからこそ、『異常なことをしている』という『それっぽさ』が出てくる。
上手いやり方だな、と思った。
地味に条件も厳しく、不可解なその方法に微妙な不気味さもある。
この類の話の中でもそれなりの知名度を持つのも頷ける内容だった。
それまでと同じように、軽い気持ちでそれに挑戦した。
何度か失敗を重ね数回目で、途中失敗かと思う部分があったものの工程の終盤まで辿り着いた。
――押したボタンとは違う階に移動を始めた時、全身を冷たいものが走ったのをよく覚えている。
何かの冗談だ、と思いながら、俺は途中の階のボタンを全て押した。
直後の階で止まり、扉をこじ開けるようにエレベーターから飛び出した。それは――この方法を中断し日常に戻る最後の手段、と書かれていた筈だ。
朝方家を早めに出て、学校に行く前に近くのマンションで実践した筈の方法。
それが終わってエレベーターから出てきた時、外は日が暮れ始め空の青がオレンジになり始めていた。
景色を見ただけでも半パニックだったのだが――携帯を見て、圏外と表示されていたのを見て、俺はようやく
気付けば、俺は町中を走っていた。
その言いようのない恐怖は、まるで得体の知れない何かに追われているようだった。
町の名前は変わりない。あちこちの文字も、見慣れたものだった。聞こえてくる声も、当たり前のように日本語だ。
しかし、残酷にも差異があった。
俺が通っていた筈の高校の制服。心療内科があった筈の土地に建つコンビニ。記憶とは数十メートルずれたところに掛かる歩道橋。
そしてすれ違う、見知らぬ人、人、人――。
同じようで違う場所だと確信付けられる程度の絶妙な差異の世界で、俺は最後の希望へと走っていた。
どこにだってある、うわさ話の入り口。
それは当然のようにこの町にもある。子供から大人にまで知れ渡った、何も起きない場所。
エレベーターを使ったマンションとは離れたところにある、それよりはだいぶ小さいがそれでも立派な三階建てのマンション。
家賃は高いが部屋は広い、全体でコの字を形作る洒落た建物。
駐車場は広く、小学生の頃はここで集まっては遊んでいた。
そういえば、あの頃にもうわさ話が本当か、試してみたことがある。
結果として待っていたのは、駐車場での遊びを黙認してくれていた大家さんの激怒と一週間の遊び禁止令だった。
あれ以降、また試したことなんてない。
愛想が良い訳ではなかったけれど、ごく偶に一緒に遊んでくれていた大家さんをもう一度怒らせるなんて出来なかったから。
だが、今回ばかりは緊急だった。
やっとの思いでマンションに辿り着き、オートロックも無い扉を開けて中に飛び込むと、階段を駆け上がる。
二階の端から四つ目の部屋。二〇四号室の前に立つ。
誰かが住んでいる可能性。それを考えるよりも先に、手は動いていた。
ドン、ドン、と強い力で扉を叩く。
備え付けのインターホンには目もくれず、ただ噂で伝えられている手段を実践する。
カチャリ、と鍵の開いた音がした。
そこでようやく、気付く。
――灰色で統一されている、このマンションの部屋の扉。
ここも例外ではなかった筈なのに、今あるそれは真っ白だった。
これも、こんなところも、元の世界との差異の一つなのだろうか。
その疑問を悠長に考えている暇はなかった。今はとにかく、この先に救いがある可能性に縋る。
鍵が開いただけで、向こうからその先に進む様子のない扉に手を掛ける。
そして意を決し、それをゆっくりと開け放った。
おかしい、というのは簡単に理解できた。いや、理解せざるを得なかった。
扉の先を見て、思わず数歩後退り家の外観をもう一度確認して、また中を覗く。
――玄関がない。扉の先にあったのは、部屋だった。
本がこれでもかと詰め込まれた、天井まで届く本棚が奥の壁一面を埋めている。
窓はない。本棚の辺以外の壁は何かの資料やら怪しげな札が所狭しと張り付けられている。
本棚や壁に場所がなかったのだろう。床にはページが開かれた本やら皺の目立つ紙やらが散乱している。
そんな中で、向かい合うように置かれたソファとそれらに挟まれたテーブルの上にはそれらが一切置かれていないというのは、また奇妙だった。
それらは接客用なのだろうか。
「やあ、いらっしゃい」
その声が聞こえてきたのは、ソファの間のそれより背の高い書斎机の向こうからだった。
本棚と机の間、しゃがんでいたらしいその人は、よいしょと声に出しつつ立ち上がる。
取り繕ったような、張り付けたような微笑みだった。
ひたすらに存在感がなく、現実感がなく、しかし確かにそこにある。
世界を削り取ってその穴にまったく違うものを填め込んだような異物感。
二十代前半といったところだろうか。
十七歳の平均程度の身長の俺と同じか、少し小さいくらいの、女性としては高めな背丈。
地肌を晒している手と首から上はその髪と同じくらい真っ白で、体温というものを感じさせない。
しかしながら血というものが体の中に流れていると分かるような赤みを帯びた瞳。
異質というテーマで作られた芸術の、一つの答えかもしれないと思えるほどに、その女性は完成されていた。
スーツ姿のその女性は書斎机に立て掛けていた杖を掴み、それを床に打ち付けながら歩いてくる。
その杖もまた、異質だった。
黒い杖だ。持ち手の部分からぶら下がっているのは――鳥かご、だろうか。
小鳥一羽なら入るだろう四角い箱は、何も入っていないというのに、杖を打ち付けるのとは合わないテンポでカンラカンラと音を立てながら揺れている。
「こりゃまた、随分とおかしなお客さんね。そっちに座って。扉は閉めてね」
自分が置かれた状況を一瞬忘れるほどの、この部屋と女性の異質さ。
それは、あのうわさ話は真実であり、つまりは此処こそがはざま探偵事務所なのだと、理解できるほどのものだった。
思わず、息を呑んだ。ここならば、何とかなるかもしれない。あの伝説は、そういうものだ。
ひとまず多くの疑問を仕舞い込み、扉を閉じる。
ソファに向かおうとして――どの方向にも一歩進めば紙か本かを踏むことになると気付く。
「ああ、踏んじゃっていいよ。多分もう読まないし。残念ながら壁も本棚も満員なの。まあ、個性的なカーペットだとでも思って」
ならば外に持ち出せばいいのではないか、と言いたいが、話が進まないと考え踏みにくく、歩きにくいカーペットに足を乗せる。
クシャクシャとカーペットとは思えない音を立ててソファまで歩き、腰を下ろす。
そして女性がその反対側に座った矢先、今すぐにでも救いを求める焦りからか、俺は話を切り出していた。
「あの――ここが、はざま探偵事務所なんですか?」
「まだそっちで広まってるんだ。うん、そう呼ばれているとこなら、此処で間違いないよ。ただ、こっちに来たからには訂正させて」
その名前は、どうやら歓迎するものではないらしい。
彼女は懐から名刺入れを取り出し、一枚の名刺をこちらに渡してきた。
「
まるで童話の世界のような後者の名称は、名刺には書かれていなかった。
書かれているのは、前者の仰々しい名称。
そして、彼女自身の役柄と名前。
「まほろみち、代表のシラベ。ここの顔役をしているわ」
女性――シラベさんは、変わらず笑みを浮かべたまま、名乗った。
名刺の名前の欄にも、ただ三文字、『シラベ』と書かれている。
姓は――と聞こうとして、咄嗟に口を噤んだ。
名前だけが書かれているのならば、そうするべき理由があるのだろう。
「ここは探偵事務所じゃないわ。“彼ら”の起こしたことについて、大それた推理もしないし、暴いて解決、じゃあ終わらない」
「“彼ら”……?」
「そう。キミ、何しにここに来たの?」
彼ら、なる何者かが気になりはするも、俺は話し始める。
ここに来たのは、異常事態に対する恐怖や焦り、そしてそんな時に頼るべき場所だと知っていたから。
本来住んでいた場所とは違う異世界に来てしまったという結果。
インターネットで見つけたエレベーターを用いるという手段。
そして、それを実行したきっかけが単なる興味とどうせ失敗するという油断からという動機。
話していた時間は五分にも満たなかったと思う。
これまでの経緯を逆順するような説明を、シラベさんは一切口を挟まず聞いていた。
話を始める前も、俯きながらの独白に相槌も無かったことに不安を覚え途中顔を上げた時も、そして話し終えた後も、その表情は変わらず作り物のような笑みのまま。
聞いていたかすら判然としない彼女は、何も言わないまま立ち上がると、本棚まで歩いていき――何かを引っ張り出して、戻ってきた。