半透明のクリアファイルだった。
中には縦幅も横幅もバラバラな紙がぎっしりと――クリアファイルの本来想定する容量を超過するほどに詰められている。
シラベさんはその紙の束を零れ落ちないようにペラペラと捲り、やがて数枚をホチキスで留めた資料を一束取り出した。
「ネットに書かれているような『異世界行き』の方法ってさ、ほぼ全部――百パーセントと言っても良いくらい、やっても何も起きないの」
「それは……分かってたつもりです。デマだと思っていたから俺……」
「ああ、いや、そうじゃなくて。嘘じゃないのもある。嘘じゃないけど、キミがやっても失敗するってこと」
取り出した束だけを持って、クリアファイルが机に置かれる。
「それ、全部異世界行きの方法。私が知る限り、少なくとも効果はあるもの」
「……全部、ですか?」
「そう。多分、読めばキミが途中で実践したものもある」
俺が試したものは、十個にも満たない。
試す予定でメモしていたものも含めれば有名どころは一通り押さえたと言える。
だが、それは氷山の一角も一角に過ぎなかったのだと、この資料の山が告げていた。
「世界から追い出される、もしくは別の世界から招待されるってのは、ようはその人がそれほど奇抜でおかしなことをやらかしたってことなの。二番煎じじゃあ、もう世界はそこまで関心を持たない」
異世界に移動するには、それに足る特別さが必要ということなのか。
俺が実践したものは全てネットで見つけた――つまり、成功するものがあったとして、既にもっと別の誰かがやっただろう手段ばかり。
別の人間が後に続いたところで、世界の気を惹くことなど出来ない、と。
「じゃあ、なんで俺は……?」
「試した順番が悪かったか、もしくは……最後のエレベーターで失敗したからって繰り返したところか」
「繰り返したところ……?」
「うん、それが誰も実践していない、新しいパターンになったか。まあ、そこはいいか。それこそ探偵の仕事だわ」
追及をやめたシラベさんは、笑みを絶やさないながら至極興味なさげだった。
「探偵……? こことは別に、こういうことを請け負う探偵がいるんですか?」
「さあ? こういうのは――っていうか、今回みたいな話は特に理由を探していてもしょうがない。私たちがやるのはね、キミが置かれている危険を、手段を問わずどうにかすること」
そんな無責任な――とは、言えなかった。
巻き込まれた俺に起きていることを、彼女はどうにかすると言ってくれているのだ。
衝動をぐっと呑み込み、次の言葉を待つ。
「それと、元の世界に戻る方法については私たちも知らないわ。そこはまあ、自分で探して。その手伝いくらいなら請け負うから」
「なっ……じゃあ、一体何を解決してくれるっていうんですか?」
異世界に来てしまった原因は分からない。元の世界に戻る方法も分からない。
それでは、今起きていることの何も解決できない。
しかしシラベさんは先の発現を撤回するつもりはないようで、それはまるで俺にまだ他の危険があるかのような言い分だった。
笑みを少しだけ深めたシラベさんは、部屋の入り口の扉を指さす。
「キミがここに来るとき、連れてきていたモノ」
「……は?」
当然ながら、俺は誰かと共にこの方法を実践した訳ではない。
エレベーターを降りるまでは一人であったし、そこからは誰とも話さずに走り回っていた。
誰かがいた、などということはない。
「キミが最後に試した方法ってこれでしょ?」
シラベさんはクリアファイルから取り出していた一束の資料を手渡してくる。
一枚目に列挙されているのは、確かに俺がネットで見つけ実践した手順だ。
「……間違いないです」
「最後の手前、五階に止まった時、成功しているようであれば何かがエレベーターに乗ってくる、間違いない?」
「はい。だけど――」
「誰も乗ってくることはなかった。本当に?」
本当に、も何も、ここはこの手順で最も重視すべき点だ。
成功の兆し。それまで一人であったエレベーター内に、ここでようやく新たな乗員が追加される。
それがなかったからこそ、俺はこの手段を失敗したと思っていたのだ。
俺は何も見ていない。あの時、開いた扉の先は誰もおらず、閉まるまでの僅かな時間誰も見なかった。
「本来の手順だと、これは見えてるんだろうけどね。基本的にこういうモノってのはまともに見えるものだと思わない方がいいよ」
「……何か、来ていたんですか?」
「うん。夏にあるような心霊番組でたまーにある本当のモノより、ちょっとばかり外れちゃった危ないのがね」
つう、と汗が頬を流れていった。
やらせと作り物に溢れている半ばバラエティな、夏の風物詩たる番組に本物が紛れている。
彼女なりの冗談らしいそれは、気休めにすらならなかった。
失敗を落胆したあの時から、俺に付いてくる何かがあったこと。それを今さっきまで気付かずに引き連れていたこと。
そして、それがただの霊とかそういうものではないということ。
一つ一つが心臓に冷たく突き刺さり、鼓動を激しくしていく。
「中途半端なところを彷徨っていた思念の集合体。それに気付けるような霊能力者ならこういうかな。彼らはキミをそこから助け出してくれた救世主だと思っているだろうし、感謝のあまりキミに付き添って悪意なく食い殺していただろうね」
例えば、あの五階に止まった時点が、元の世界と異世界の境目だったとして。
そこには二つの世界の間を彷徨う良くないものが漂っていると言われれば、“それっぽい”とは思う。
閉ざされたそこに扉が現れれば、そこから出ようと一斉に群がることだろう。
つまり俺は、そういったものを気付かないままにここまで運んできていた、と――?
「一体、どうすれば……」
「どうにかするのは私たちの役目よ」
「――具体的には、何をするんですか?」
「被害者とそれを完全に切り離すか、それそのものを潰す。今回の場合は後者ね。一体残らず狩り尽くすわ」
平然と、シラベさんは言ってのけた。
霊を超えた、俺では想像がつかないような危険な存在。それを全て討伐する、と。
カンラカンラと杖に付いた鳥かごを鳴らしながら、シラベさんは懐から何かを取り出した。
そして机越しに、それを渡される。これは――眼鏡ケース?
「もう日も暮れるし、すぐに始めるわ。それを掛けておいて」
「あ……はい」
狩り尽くす、という言葉に引き摺られたような有無を言わせない重みに、思わず頷いた。
何をするのかは分からない。だが、これから、今までの常識を更に嘲笑うような出来事が起きる。それだけは理解できた。
ケースを開ければ、やはりそこに入っていたのは眼鏡だった。
見た限りでは、何の変哲もない眼鏡。度も入っていないようで、掛けてみても見える世界に変わりはない。
しかしそれでも、必要なことなのだろうと納得しているうち、唐突に扉が開かれた。
この部屋にあるたった一つの扉。
先程の説明を聞かされれば抱かざるを得ない寒気に体が跳び上がるが、入ってきたのは姿の見えない何かでも、悍ましい何かでもなかった。
「来たぜ、しー姉。お仕事か?」
――それは、俺と同年代に見える少女だった。
俺の高校のそれより質が数段上だと一目で分かる黒地の制服。袖は肘の辺りまで捲りあげ、やけに細く、シラベさん同様白い前腕を晒している。
シラベさんよりも短く、あちこちに跳ねた白髪。どこか野性的で威圧感を与える赤目。獰猛な獣の如く、ギザギザとした歯を見せた笑み。
右手に持っているのは――赤いレンズのゴーグルと、腕時計、だろうか。
シラベさんとは別方面に異質な少女は扉を閉めると、俺を一瞥して――無造作に机に腰掛ける。
「ええ。異世界渡りで狭間から付いてきたっぽいわ。無名だろうけど、それなりだとは思っていいわね」
「そりゃまた、珍しいお客さんだ。上等、雑魚を相手するよりよっぽどやりがいがあるよ」
戦意を剥き出しにした少女は、獰猛に笑う。
その真っ白で、華奢な容姿とは全く別の場所に棲むような、肉食獣の雰囲気。
それを纏ったまま、シラベさんから再び此方に視線が動く。
「初めまして、お客さん。あたしが今回、アンタの怪異を担当するクヅハだ。よろしくな」
「っ……はい。よろしく、お願いします」
その少女、クヅハさんに差し出された左手に応える。
手は雪のような冷たさ――ということもなく、至って人並みな温かさがあった。
「クヅハちゃんはうちの実働担当よ。他にも二人いるんだけど……いまは別件で外に出ているため、指名は受け付けておりません。悪しからず」
「元から指名制なんてないじゃん。適当言うなよ、しー姉」
「いやあ、軽い冗談だって。男の子ってそういうの好きでしょ?」
誰彼気にしている余裕はないし、何をするかもわからないのに此方に話を振られても困る。
曖昧に沈黙していると、クヅハさんは呆れた様子でじっとりとした視線をシラベさんに投げた。
「そんな冗談に乗れる状況かよ。そういうの、せめて後にしろって」
「はいはい。それじゃ、始めようか――さて、キミ」
「あ、はい」
「これからキミには、付いてきていたモノの前に出てもらうことになるわ。それも、今度は“見える”状態で」
息を呑む。直前までの冗談の雰囲気を突然に消し去り、シラベさんは立ち上がった。
やはり張り付けたような笑みは絶やさないながら、真剣であることは明らかだった。
「あん? 連れてくの? それにしー姉も来んの?」
「ええ。今回は彼に詳しく説明するわ。色々と知って、体感してもらわないと」
「――ああ、そういうことね、了解だ。じゃあ守るのは任せるぜ?」
普段は俺のような被害者や、シラベさんは直接対面するようなことはないのだろうか。
怪訝そうに首を傾げていたクヅハさんだったが、シラベさんの言葉に納得がいったように頷き、机から立ち上がった。
そしてゴーグルを掛けて目を覆い、腕時計をスカートのポケットに突っ込み、代わりに中に入っていたらしい一対の分厚い手袋を取り出すと、それを両手に着ける。
シラベさんは杖を持つ右手の袖を少し捲り、クヅハさんが持っていたものと同じ腕時計に手を掛ける。
俺も慌てて立ち上がる。まだ覚悟など出来ていない。だが、それを待っていてはくれないようだ。
「キミが扉を開けて。さっき入ってきた場所を想像しながら」
「――――」
なるほど。ここは、この扉は、そういうものらしい。
クヅハさんが入ってきたのと、俺が入ってきたのは別の入り口で、何処に繋がるか、何処から繋がるかは開ける人次第、ということか。
だからこそ全国に扉があるという噂があり、その何処もがここに繋がっているのだ。
「……開けます」
「おう、思いっきり行け」
クヅハさんに背中を叩かれる。それは激励……なのだろうか。
不安はまだある。消える筈もない。だが、躊躇は消えた。
俺に付いてきた何か。それが、本当は何なのかまでは分からないまでも、あのエレベーターの一件から連れてきてしまったものであることは違いない。
ならばこれは、俺が向き合わなければならないことなのだ。
一つ、深呼吸。そしてあのマンションを思い浮かべながら――扉を開けた。