この場所に招かれた時、まだ橙に染まり切っていなかった空は、既にその橙すら役目を黒へと渡し始めていた。
遠くの視認が難しくなり、色付いていた風景は影絵へと変わっていく。
踏み出したそこは、昔よく見ていたのと変わらないマンションの廊下。
日が暮れてからは照明が点き、向こう側の角まではっきりと見えている。
――やけに静かだ、と思った。
人の声どころか車が走る音一つ聞こえない。風が鳴らす木の音だけが、不気味に聞こえていた。
「ああいうのが発生するとね、自然とこういう場所が出来上がるの。長いこといればいるほど、影響を受けている人以外はそれに気付けないようになる」
隣に立ったシラベさんは、右腕の時計を弄りながら説明してきた。
この奇妙な静けさは、偶然なものではないということらしい。
まるで何かが見えているような物言い。彼女の視線の先に同じく目をやって――それを見た。
明らかに人とは違う、常識とは外れた何かを。
マンションの外、駐車場を歩いている――ように見えるモノ。
薄暗くなっている景色の中で、しかしその黒い姿は異様なほどはっきりとそこに在ると理解できた。
何かがいる、とは分かるが、何かとは分からない。
細長い、黒い靄。人型だと思えばそう見える何か。
まるで己の造形に困っているかのように、絶えず体の何処かを三角形のポリゴン体に分解させては違う形状に再構成させるのを繰り返す、試行錯誤の化身。
「誰にも知られていないような、“はざま”の存在だったのは運が良かったわね。中途半端に力を持っているけど、まだ形が定まっていない」
「……アレが、そうなんですか?」
「そう。まだあんな風に、まともな形すら作れていない奴を、私たちは紙片――『
確かに、崩れてはまた纏まるさまは、精一杯に己という存在を維持しているように見える。
『エレベーターで異世界に行く方法』――俺が実行したそれには、あんなモノが出てくる余地はない。
偶然に俺に憑いてしまったアレは、まだ己を確たる存在にするための意味が足りていないのだ。
都市伝説や怪談が一つの物語であるならば、アレはその物語すら書ききれない紙切れに過ぎないのだろう。
「無害な霊とかと違って、紙片はいるだけで人を喰らってしまう。人が空気を吸うように、アレは無意識だろうと人を消耗させる。で、被害が過ぎると突然病気に罹ったり、不意に事故に遭ったりするの」
「ちなみに、あれは紙片の中でも結構な上物だぜ。奇譚一歩手前だ」
「奇譚……?」
「『
――そういえば、シラベさんははざま探偵事務所の名を否定した時、正式な名として信仰奇譚対策特務機関、と名乗っていたか。
つまり、アレは彼女たちが主として対応しているものより幾分格の落ちるものらしい。
どちらにせよ常軌を逸した存在であることは変わりなく、あんなモノに現在進行形で関わっている俺にとっては気休めにすらなっていないのだが。
「クヅハちゃん、問題ない?」
「当然。っと、気付いたぜ、しー姉」
――もぞもぞと動いていた靄が、ゆっくりと此方を向いた。
何故それが分かったのか。
それまで見えていなかった、頭なのだろう部分にぽっかりと空いた二つの白い穴が真っ直ぐ俺に向けられていたから。
ぞわりと悪寒が全身を駆け巡る、次の瞬間。
「ッ――うわ!?」
バン、と何かを思い切り叩く音が、すぐ傍から聞こえた。
音にほんの僅か遅れて、真っ黒な手のようなものが目の前に現れた。
思わずそれから離れるように飛び退くが、突如として接近してきた黒い靄がそれ以上近付くことはない。
立て続けにバンバンと、靄の中心辺りから伸びる手らしい部分が、何もない空間を叩きつける。
「……これって」
「奇譚向けの結界よ。私とキミを覆うように張ってる。効果はきっちり一時間、紙片じゃ時間いっぱい殴り続けても罅一つ入れられないわ」
ま、こっちからも何も出来なくなるけどね、と舌を出して笑うシラベさん。
そうしている間にも、黒い靄は目の部分でじっと俺を捉えつつ、曰く結界が張ってあるらしい空間を叩き続けている。
今のは――まったく目が追いつかなかった。
駐車場からこのマンションの二階まで、上ってくる様子さえなかった。まるで瞬間移動だ。
当たり前のようにそれをやってのけた黒い靄。他所を見る素振りすらないその顔を、無造作にクヅハさんが鷲掴みした。
「よぉ。悪いけど、あんたとお客さんをこれ以上くっつける訳にはいかねえんだ。あたしと遊ぼう――ぜ!」
頭を掴まれていることに気付いていないように結界を叩く靄を、クヅハさんはそこから引き剥がし、駐車場に投げ捨てる。
ボールのように軽く飛んでいった靄。置き土産のように辺りを漂っていた靄の欠片が、弾けて消えていった。
「さぁて、お仕事だ。行ってくるぜ、しー姉!」
「ええ、行ってらっしゃい」
靄が駐車場に停まった車に激突するのを見届けることなく、そんなやり取りをした後、クヅハさんは靄を追って飛び降りる。
二階だというのに躊躇が一切ない。
特に問題なく着地すると、崩れた形を取り戻そうとしている靄に数歩近付き、立ち止まる。
「……あの、シラベさん」
「んー?」
「クヅハさんは、結界を張っていないんですか?」
シラベさんは結界を張っている間は此方からも手が出せないと言っていた。
しかしクヅハさんはあの靄を掴み、投げ飛ばすなどという芸当を行った。
それはつまり、靄が彼女に目を付ければ、危険が及ぶということではないか。
「うん。でないと、戦うことが出来ないからね」
「……危なくないんですか?」
「危ないよ。でも、それがクヅハちゃんの仕事。安心して、あのくらいのが相手なら怪我しないし、生身で戦う訳でもないから」
それ以上追及せずとも、これまで更に危険なものと戦ってきたことによる裏付けがあっての信頼だと分かった。
しかし、生身ではないとは。
あのまま迎え撃たんばかりにクヅハさんは立っている。
その状況をまるで気にしていないように、シラベさんはポケットから携帯のような端末を取り出した。
何か操作をしているシラベさんは、クヅハさんから完全に目を離している。
「――ミチノちゃん、スーツの用意は出来てる?」
『……なんでシラベがそこにいるわけ?』
操作を止めて暫く。携帯から聞こえてきたのは、クヅハさんとは違う女性の、怪訝そうな声色だった。
「今回は特別ね。異世界渡りの被害者よ」
『ふーん……ま、いいわ。いつでも出せるわよ』
シラベさんと、疑問の答えを得ながらも興味なさげな少女。
二人の会話を聞きつつも、不安に思いクヅハさんに目を向ける。
人のような細長い形を殆ど取り戻している黒い靄と対峙しているクヅハさんは――何かを右手に持っていた。
ここからではよく見えない、掌大のボールのようなもの。
あれは、靄をどうにかするための道具なのだろうか、と思った瞬間、彼女はおもむろにそれを握り潰す。
不自然なまでにはっきりとした、カチカチカチ、という音がここまで響いてくる。
木が打ち合う音がいくつも重なったような音だった。
それに続くように、握られた拳から飛び出してきたのは、小さな立方体の群れ。
百や二百を優に超えたそれは統率された動きでクヅハさんを囲んでいく。
その状態のクヅハさんはまるで、小さな嵐の中心にいるようだった。
「あれって……?」
「あれは、クヅハちゃんたちが人の領分を超えたものと戦うための体。私たちが、この仕事を続けてられている理由」
靄の頭部に空いた白い穴は、此方ではなくクヅハさんに向けられる。
その時、あの靄の雰囲気が如実に変化した。
――初めて感じる、肌で分かるほどの殺意というもの。
固執していたものから無理やり引き剥がされ、その間に割り込まれる怒り。
人ではないモノのそれを向けられたクヅハさんは――
『――はっ、やっとこっち見たか』
楽しそうに、呟いた。
シラベさんが彼女の音声も拾ったらしい。携帯からはクヅハさんの声と、囲う何かがぶつかり合う音が聞こえてくる。
『 ■■■■?? ■■■? ■??? 』
――そして、声とは認めたくない異音は、もしかしてあの靄のものか。
何か意味を持っているのだろうが、それを脳が全力で理解を拒む。
一つだけ分かるのは、あれは長く聞いていてはいけないものだ。
『うるせえ――よ!』
恐らくは恨み節なのだろうそれを最後まで聞くことなく、クヅハさんは靄を一喝し、吹き飛ばした。
何を使って?
一目瞭然。あれは――――足だ。
曰く、アレと戦うためのクヅハさんの体だというそれは、怪異というものが持つ“オカルト”のイメージとはかけ離れたものだった。
マンションの壁まで靄を軽く飛ばした、白いながらもところどころ黒ずんだ、頑強な足。
クヅハさんを囲んでいた嵐は、姿を変えていた。
彼女の背丈と同じくらいの両足で屹立する鋼鉄の物体。
足が支えるのは四角い体。
体はまるで蓋を開けた箱のようで、クヅハさん自身はその箱の中に座り、操縦桿と思しきレバーを握っている。
二メートル強はあろうかという白いそれは、アニメや漫画の世界でしか見たことがないような――
「……ろ、ロボット……?」
『違う。それは境界間相転移ボディ・マテリアロア。対応する怪異の相に合わせて身体を変換し、攻略を可能にするための呪いの集合体。ロボットなんて大層な物みたいな実体は無いわ』
ミチノさんと呼ばれた、何処にいるか不明な少女は思わず呟いた言葉を即断しやや早口で説明を並べてきた。
しかし、ロボットではないと言われても、今見えているのは紛れもなく鋼鉄の体。
俺の知識であれを形容するのであれば、ロボットとしか言いようがないのだが……。
「その眼鏡を外せば、今のクヅハちゃんは見えなくなるわ。怪異と同じ場所に行くための船であり、怪異から身を護るための鎧であり、怪異を倒すための武器。あれはそういうものよ」
渡された眼鏡は、そういうものらしい。
俺たちがいる場所とは違うところにいる怪異を、そこに迫るためのあれ――マテリアロアを見えるようにするためのもの。
恐らく、クヅハさんが着けているゴーグルも同じ類のものなのだろう。
シラベさんが着けていないというのは気になるが、彼女もしっかり目で追えていることから視認に支障はないようだ。
ざわりと膨れ上がる殺意。冷たい何かが肌をなぞり、ピリピリと音まで鳴っている錯覚に陥る。
投げ飛ばされ、蹴り飛ばされ、そんなことをされれば如何な感情を持つかなど明らかだ。
“はざま”の世界のモノであってもそれは例外ではないようで、最早俺への執着は感じられなかった。
『上等。いいよ、喰い合おうぜ!』
待ちに待ったとばかりにクヅハさんが吠える。
瞬間、巨体の上の彼女目掛け、靄は体を震えさせながら飛び掛かった。