「義徳……?」
自身の名を呼ぶ声が聞こえる。幽々子の声だ。
「やっぱり、この道を行くのね。分かっていたわ、貴方ならこうするって」
幽々子から発せられた言葉は糾弾ではなかった。全てを包み込むような優しい声で彼を受け入れる。本当は驚きや怒りを露にしたいだろうに。それでも、彼女はグッと涙を堪えている。微笑んでこちらを見つめている。義徳の見るも無惨な姿については一つも言及することをせずに。きっと、これは彼女なりの覚悟なのだろう。
「言いたいことは色々あるけれど、私は受け入れる。貴方と共にどこまでも行くわ」
「ありがとう、ございます……」
幽々子が隣にいてくれるのなら、これ程嬉しいことはない。義徳は苦痛に抗って、笑顔で感謝を告げる。
「どうして私から隠れたの?」
「だって、こんな姿、大好きな女の子に見られたくないじゃないですか。ここまで来て、覚悟できてないなんて、恥ずかしいじゃないですか……」
最愛の人に血塗れの醜い姿など見せられる筈がない。見てもらうなら何の異常も無い万全な姿が良かった。こうなってしまっては最早無意味だが。
「でも、全てを解決するためには……この方法しか、無いから……」
思ったように声が出ない。懸命に絶え絶えの呼吸を整える。そして、ゆっくりと、噛み締めるように喋る。
「死ぬのは怖いですけど、これが、俺にとって最善で、最良の選択、だから……」
「ええ、分かってる。分かってるわ……」
幽々子は義徳の言葉を否定せず、隣で話を聞いてくれる。寄り添ってくれるのが嬉しかった。
「幽々子さん。俺、貴女の望み、叶えましたよ……」
義徳は空を指差す。その先には、幽雅に咲き誇る血染の桜があった。幽々子が求めて止まなかった桜。本来であれば未来永劫咲くことのなかった桜。生と死の境界に立つ者によって蘇った禁忌の桜。究極の真実。
「……やっと、見つけることができた……」
幽々子はそれ以上何も語らず、しかしその表情は感動に溢れていた。言葉を紡ぐことはなくても、彼女の想いは伝わった。
桜を見上げる幽々子の姿は眩しかった。鮮やかで、彩りで満ちていた。それはこの世のどんなものよりも美しいと────心の底からそう思った。輝くような表情が見るために桜を咲かせたかったのだと────改めて理解した。
「どう、ですか……?」
「これが私の、理想の桜。貴方が見つけてくれた……究極の桜。本当にありがとう、義徳」
「それが聴けて、良かったです……」
なればこそ、この命に意味はあった。幽々子の言の葉と満面の笑顔が何よりの証明だ。義徳は彼女の願いに応えられたことに安心した。
「……幸せだなぁ。こんな綺麗な桜の下で……しかも、幽々子さんの腕の中で死ねるなんて……」
幽々子がいることも気にせず、敬語を使うことも忘れて独り言ちる。緊張が解けて、奥底に秘められた想いが零れた。
「……本当に、俺は恵まれてる」
認めるのは癪だが、“死は救済”というのも強ち間違いではないらしい。幽雅に咲く桜の下、最愛の人に看取られて死ねるのならこれ以上の救いは無い。死の間際でありながら、義徳の心は安らかだった。
「でも、母さんを一人きりにするのは駄目だな……親が悲しむから、死ぬ訳にはいかないって言ったのに……これじゃあ、最悪の親不孝者だ……」
母親は今生きている、義徳のたった一人の肉親である。しかし、それも今日までの話だ。自身の死によって彼女は天涯孤独の身となる。幾つかある死ねない理由の中でも最も大事な理由だが、残念ながらそれを全うすることはできなかった。
「それに、若葉と約束、したのにな……色々聞かせてくれって……死んだって言ったら、あいつ絶対怒るよな……」
親友との約束も破ってしまった。義徳はもうこの世に留まることはできない。故に、彼女と話すことは二度と無い。
「俺、地獄行きかな……閻魔様に怒られるだろうな、あはは……」
義徳は以前幽々子と閻魔について話をしたことを思い出した。あの時はほんの冗談のつもりだったが、まさかこんなに早く世話になる時が来るとは思わなかった。それがおかしくて、思わず笑ってしまった。
義徳は大切な者の意思を無視してここにいる。自分に生きていて欲しいという願いを切り捨てて死を選んだ。それを閻魔が許してくれるとは到底思えない。
「まだ分からないわ。閻魔様、意外と優しいから」
「俺からしたら、凄く怖いですけどね。だって、判決次第で、死んだ後も幽々子さんと一緒にいられるかどうか決まるんですから……」
「義徳……!」
「あ……そうだ、幽々子さん。白玉楼の専属料理人の話、あれ、受けることにしました……」
「もう、こんな時に何言ってるのよ……」
彼女の住む白玉楼に行くためには死者であることが必須条件だ。誘われた時は無理難題だと思ったが、すぐに死ぬのだからそれは不可能ではなく──閻魔の判決次第だが──十分に実現できる。そんな義徳の急な発言があまりにも場違いでおかしいと思ったのか、幽々子はフッと微笑んだ。
「でも、嬉しいわ。ありがとう」
幽々子は喜んでくれたようだ。なら良かった。死後に行きつく場所が冥界ならば、永遠に過ごせる。彼女と共にいることが、義徳の何よりの望みなのだから。
「はい、だから、安心して、下さい。何があっても、幽々子さんに、会いに行くって……約束します」
「信じてもいいのね、その言葉」
「たとえ肉体が、無くなっても……魂だけになったと、しても……必ず会えますよ」
根拠は無い。しかし、絶対の自信はあった。幽々子が信じてくれるなら、何の躊躇いも無く、清和義徳はあの世に行くことができる。
「────ガッ、ゲホッ……!」
吐血。義徳の口から溢れんばかりの鮮血が飛び散る。服が頭上の桜と同じように赤く、紅く、朱く、緋く、赫く彩られる。それは血染の死装束のようだった。着実にその準備が整えられていることを実感する。
「義徳! 大丈夫!?」
「大丈夫です。まだ、生きてます……!」
幽々子は口を大きく開けて必死に叫ぶ。そして、義徳の右手を両手で握り締めた。しかし、義徳は既に彼女の亡霊特有の冷め切った肌の感覚を感じることができなかった。あの心地良い冷たさはもう無かった。
それでもと、気丈に振る舞ってみせる。まだ、命という灯火を消す訳にはいかない。幽々子に全てを伝えるまで、何としても生きる。この命を捧げるのはそれが終わってからだ。
しかし、確実に鼓動は弱まっている。動いているかどうかも怪しい程微弱。きっと、これが最後────確信へと至る。
機能停止しつつある思考を回転させる。残る全ての力を振り絞る。そうして、この想いを届ける。それが今の清和義徳に許された、たった一つの行為である。
「幽々子さんは、俺の、生きた、証として、俺を待ってて、くだ、さい……」
「ええ、貴方という人間がいたことは忘れない。この胸に刻むわ」
幽々子は今にも泣きだしそうだった。自らの死が確実に近づいていることを嘆いているのだと義徳はすぐに理解した。一つ、また一つ、彼女の眼から雫が零れ落ちる。それらは義徳の顔に当たる。しかし、彼にはそれがどんな感覚か分からなかった。
「あと、笑顔でいて、下さい。泣いてるのは、似合ってないです……幽々子さんには、笑顔が一番です……」
「本当に、無茶苦茶なこと言うわね……」
幽々子から皮肉が返ってくる。しかし、その顔は笑顔だった。どんな形であれ、彼女が笑ってくれるならそれで良い。それだけで、心は晴れる。
「……最期に。幽々子さん、貴女を、死んでも、愛してます」
散り散りになっていく意識。燃え尽きようとする命。その最中にありながら、義徳の心は安堵に満ち溢れていた。後悔は無い。それどころか、幸せですらある。他の誰かを一人も殺すことなく、幽々子の望みを最高の形で叶えることができた。この世で最も尊い存在を守ることに成功したのだ。
「ははは、これ、で……」
やはり、この道を選んだことは決して間違いなんかではなかった。生前の彼女もこうして安らかに死んでいったのだと思うと、嬉しかった。愛する人と同じように死ねるのだから────。
「ぜん、ぶ……」
────最愛の少女に想いを伝え、ゆっくりと目を瞑る。最期に視たのは、幽雅に咲き誇る満開の血染の桜と、涙目になりながらも笑顔を絶やさない西行寺幽々子の姿だった────。
※※※
「義徳……?」
幽々子は目を閉じた青年の名前を呼ぶ。しかし、返事は無い。
「義徳! 義徳!」
再び彼の名を呼んでも、言葉が返ってくることは一切無い。寝てないで起きて欲しい。そしてまた自身の名を呼んで欲しい。いつものように優しく「幽々子さん」と。ただ、その一言だけでいい。
「お願いだから何か言ってよ! ねぇ!」
渾身の力で叫んでも、義徳はピクリとも動かない。その穏やかな表情を崩さない。それでいて、もうやり残したことは無いと、満足したように笑みを浮かべている。
「うぅ……こんな……こんなことって……」
いずれこの時がやって来ると覚悟はしていたが、いざ直面するとその絶望は計り知れない。
両の手で握り締める彼の右手は生ぬるい。そこに生者の温もりは無かった。彼が物言わぬ存在となってしまったことの何よりの証明だ。
彼女の望みを叶えた青年の魂は、現世を旅立った。もう、この世にはいない。目の前には、空っぽになった彼の亡骸があるだけだ。
「義徳、私には無理よ。笑顔でいるなんて……」
幽々子は首を横に振る。大切な存在を失っても尚笑顔でいることなどできない。いくら義徳の頼みと言えど無理な話だ。最早、我慢の限界だった。今まで必死に抑えていた涙が雨のように溢れ出る。
「────彼は為すべきことを為した。笑顔でいろと言った。今貴女がすべきことは泣くことではない筈よ」
悲しみに暮れる幽々子の隣に、彼女────八雲紫は現れた。そして、呟く。その言葉は鋭く、しかし温かみを帯びていた。紫なりの気遣いだろう。
「紫……」
「綺麗ね、桜」
次は感嘆の声だった。春の息吹に満ち満ちたこの空間で、完全なる血染の桜は見事に咲き誇っている。紫もまたこの桜に魅了されたのだと、表情を見なくても理解できた。
「こうして、幽々子とこの桜を見ることができて嬉しいわ」
「私の愛する人が命と引き換えに咲かせたのよ。当たり前でしょう?」
「ええ、そうね。人を死に誘う墨染の桜なんかより、この血染の桜の方が何千倍も良い」
「その通りね」
死の象徴である冷たい黒桜と、生の象徴である暖かい紅桜。比べたらどちらが良いかは明白であった。それについては幽々子は勿論のこと、隣にいる紫も同じ想いだろう。
「紫、その……全部見てたの?」
「ええ。私は清和義徳の行動を後押しした。だから、その最期を見届ける責任があった」
「そう……」
普段なら許可無しで見ていたことに怒っていただろう。しかし、今の幽々子にそんな気力は無い。紫が来たことで少しは落ち着いたが、それでもまだ前向きにはなれない。
「紫、ありがとう。義徳を信じてくれて」
「いいえ、私はただ幽々子が信じた義徳を信じただけよ」
その後で「だから、私自身が彼を信じた訳ではないの」と付け加える。紫らしい冷めた言い方だ。しかし、彼女の表情は晴れやかだった。つい先日まで義徳に対して殺意を剥き出しにしていたとは思えない。口では否定的な発言をしつつも、しっかりと彼を認めているのが分かった。
「それでもよ。今こうしてこの桜を見られているのは、紫が義徳を殺さなかったお陰だから」
「……清和義徳は早々に始末するべきだった。人を死に誘う存在になることだけは何としても避けたかった。それでも殺さなかったのは、義徳が覚悟を決めて為すべきことを為したから。まあ、彼は良くやったわ」
「義徳のこと、ちゃんと信じてるじゃない」
「勘違いしないで。私は貴女のためを思ってそうしたのよ。決して彼のためではないわ」
「そういうことにしておくわ」
紫はあくまでも義徳を信じないという態度を貫くようだ。つくづく素直ではない。秩序を優先する紫にとって、感情を優先する義徳とは気が合わないことは今までの会話で分かる。それでも尚彼を助けてくれたのだから、感謝する他に無い。
「────紫。貴女は最高の親友よ」
「何を今更。ずっと昔からでしょう?」
「ええ、そしてこれからも私達の友情は変わらないわ」
噓偽りの無い言葉である。長い時を経ても変わらず親友でいてくれる妖怪の大賢者に心からの想いを贈る。紫は晴れやかな表情を崩さずに応えてみせた。
真紅の花吹雪の中、二人は義徳が遺した血染の桜を見上げる。彼の命を以って解き放たれた望みは、彼女らの心を歓びで満たす。
(待ってるわよ、義徳)
そして、幽々子は桜の下で横たわる義徳の亡骸に向かって微笑む。この表情と光景が彼への手向けになることを願って。いつか再び逢えることを信じて────。
第二部でした。次でいよいよ完結です。
ここまで読んで頂けたら幸いです。