荒野の空、イジツの片隅、ユーハングの情景 作:星1頭ドードー
でもせっかくなので載せておきます。
ユーハング。
その言葉は、イジツと切っても切れないほどの存在である。
突如として出現した穴と呼ばれる場所から現れた彼らは、未開の地を次々と開拓していった。
それらは彼らが消え去ったあとも活用され続けており、新たな産業の基礎となっている。
この飛行船も元はといえば、彼らの技術を応用したものだとイヅルマ出身の船員たちから話しを聞いたことがある。
基礎を学び、応用に生かせるその技術力と発想力は素晴らしいものがあると感じる反面、危険もまた大きいように思えるものではある。
なぜ、そのようなことを考えたかといえば……まさに今、私がいる船長室でソファに座り、膝をポンポンと叩いて微笑んでいる人物が原因なのだが。
白で統一された制服を身に纏い、長く美しい髪をなびかせながらこちらを微笑むのは、カナリア自警団所属のエルである。
「船長、働き過ぎはあまり褒められませんよ?……ほら、私の膝でよければどうぞお使いください。少しでもお休みになられて癒されるのなら、嬉しいです」
そう言いながら少しだけ頬を染めるのは、普段見慣れた姿と違っていて新鮮味があり可愛らしいものだが、如何せん一つか二つかそれ以上に問題もあるのだ。
それは、彼女が手にしているもの。
赤ん坊に使うであろうガラガラと、哺乳瓶。極めつけは、テーブルの上に置かれているおしゃぶり。
何故ここまでベビーグッズが揃っているのかといえば……冒頭のユーハングに話が戻る。
彼らの世界とイジツは、今でも気まぐれに開かれる穴によって繋がり続けているのだが……。
その時に、ユーハングの物が穴を通じて送られて来ることもある。
大半は、利用価値が不明な物だったりするのだけど、時折、彼らの分化を知れる書籍が手に入ることがある。
エルは生まれが良いところのご令嬢であり、ご実家にはそういった貴重な本を幾つか所有していると聞いたことがあった。
それならばと、以前ガドールに存在する秘密の穴を確認しに行った際に、手にした雑誌を見せたのだ。
……それが全ての過ちであった。
どうやらそこに描かれていた、イラストと文字で構成されたマンガというものの中に、疲れた男性を癒す内容のものがあったらしい。
作中の男性は、膝枕をされながら女性に向けてママぁ……と呟き、哺乳瓶で牛乳を飲ませてもらうことで、疲れと癒しを同時に手に入れるという流れだとか云々とか、エルが長々と説明してくれた。
その後の流れは……今の現状を理解していただければ分かってもらえると思う。
元々、母性本能が強めの彼女ではあるが、これは少々効きすぎというか……。
一度足を踏み込んだら二度と戻れない沼に囚われそうな予感すら覚える。
「船長……私ではお気に召しませんでしょうか?ちらっ、ちらちらっ」
いつの間にかこちらの側に近づきつつ、期待するような眼差しを向ける彼女と目が合うことになったものの……手にしたガラガラが鳴る度に、正気に戻されてばかりだ。
──エル。気持ちはとても嬉しいが、私は大人であり、私から見れば君はまだ少女なのだ。こほん……!そろそろやめなさい?
「まあ!船長ったら。私もきちんとした大人ではありますが……少女だなんて。ふふっ、少し恥ずかしいですが、なんだか嬉しくも感じられますね」
……やんわりと否定してみたが、ダメかもしれない。
むしろ悪化している気さえするのは、気のせいであってほしい。
音を立てて鳴るガラガラが、まるで催眠術のように私を包み込んでいくような感覚に陥ってきたが、なんとか意識を保ってみせる。
私がママ派ではなく、嫁派であるということを示さなければならないからだ。
ふと気づけば、視界に映るエルの顔が先ほどよりも近くにあることに気付き、背筋が冷たくなっていくのを感じた。
これ以上、彼女に時間を費やしてしまえば、取り返しがつかない事態になりそうだと判断した私は、最終手段である逃亡に出ようと立ち上がるべく身体を動かそうとしたが、何故か動けないことに気づく。
……おや。私の手にエルの手が添えられている。
添えられているだけなのに、抵抗しているのに、力で勝てないだと……。
「ダメですよ、船長。逃げることなんて許しません。あなたの世話を焼きたいと願う女性に向けて逃げるだなんて、卑怯です。そんな悪い子にはお灸を据えるのも、ママの役目ではありませんか」
──いやまて、エルは私の母親ではないから。私は嫁派だから……って話を聞いてくれっ!?
こちらの反論を聞くこともなく、手を引っ張られると、ソファの上に座らされてしまった。
隣には優しく微笑むエルの顔があり、幾度となく膝をポンポンと叩くではないか。
もう逃れることはできないようだ。やるしかないということなのか。
観念するように肩を落とすと、隣の彼女は満面の笑みを向けてくれた。
本当に嬉しそうにしてくれてはいるが、今の私にとっては悪魔の微笑みにしか思えない。
意を決して、恐る恐る膝の上に頭を乗せた瞬間、何とも言えない気分になると同時に心が安らいできた感じがした。
これが俗にいうバブみなのかもしれないと思いかけて、首を振る。
「んっ……船長ってば、くすぐったいですよ。逃げたりしませんから、ゆっくり休んでいてくださいね」
ああ、ダメだこれ。
完全に甘やかされて駄目になってしまうパターンじゃないか。
しかも相手はあのエルだぞ……絶対に逆らえない空気感が出来上がってしまっている。
何か、何かないのか。ここから逆転できるような何かが……!思い悩む間にも、身体は睡眠を求めているのか瞼が重くなる感覚が襲ってきた。
目を見開くことで覚醒を保っている状態が続いているが、視界に映る光景が衝撃的なものになったような気がする。
天井が半分も見えない。
というか、視界が狭い。原因はわかっているのだが、理解したくない。
言葉に出せばセクハラ案件。目を瞑ればママぁ……と睡眠へ導かれそうになる。
僅かに見えるエルの顔は、穏やかな笑みを浮かべており、慈愛に満ちた聖母のようだった。
「よーしよーし、いい子ですねー船長。大丈夫ですよ~」
あやすように頭をぽんぽんとされるせいで、この世に生を授かって以来のオンギャーを叫びそうになった自分が憎い。
確かに心地よい体験をしていると思うが、これはいけないヤツだと思う。
このままでは堕落してしまうぞ。と自分に言い聞かせてみるものの、どうも上手くいかない。
「はーい、ご飯の時間ですよ。ミルクもありますからね~。あーん」
──あむりぃー。うんまーーーい。
なんだコレはっ!?普通の牛乳だというのに、不思議と腹が満たされてくる。
不思議な気分だ。いや不思議どころではないぞ。なんかすごい。語彙力が消失するほどすごくうまい。
実際、先ほどから喋ることが出来なくなっているくらいだしな。ただひたすらに黙々と口に運び続けていれば良いのだ。
そうして一口含むごとに口内に広がる甘さ……ああ甘いなぁ、もうやめられない止まらない。
「ふふ、気に入っていただけましたか?」
微笑みながら問いかけてくるエルに頷きを返すと、よりいっそう上機嫌になって頭を丁寧に撫で回してくれる。
心地良さに身を委ねていると、次第に眠くなってきてしまったようだ。
このまま寝てしまいたい衝動に駆られるのを我慢しつつ、最後の一滴に至るまで残さず胃の中に収めると、満腹感に包まれていく。
お終いだ。ミルクも、人生も。
もはや抵抗する気力も無くなっていた私は、ただされるがままに身を任せることを選んだ。
しばらくすると満足げに頷いたエルは、空になった哺乳瓶をテーブルに置いて、空いた手で背中をトントンとリズミカルに叩かれる始末。
すっかり蕩け切った精神状態では、抗うこともままならず、なすがままにされていた。
身体がエルの座る方向に傾いていき、気がつけば横に倒れ込んでしまっていた。
頬に感じる柔らかさ、甘い香り、そしてぬくもりを感じながら瞼を閉じた瞬間、耳元で囁かれたのは感謝の言葉であった。
「私のワガママにお付き合いいただき、ありがとうございました。船長、あなたがいなければ成り立たないことが、たくさんあったと思います」
そんなことはないと思いつつ視線を送るが、首を横に振られてしまう。
こちらが口を開く前に言葉を続けた。
「いいえ、船長には本当に助けられました。自警団のことも、私たちの仲間のことも、イジツの治安に関しても」
そこで一旦区切ると、彼女は笑顔を浮かべてから言った。
「何よりも、私自身のことも含めてですよ」
エルの言葉を素直に受け取れない自分がいる。今までの経験則があるから。
船長に着任する前の自分だったら、どう答えるかなと考えずにはいられない。
だが、それはあくまで過去のことであり、今となっては過去の自分を嘲笑えるほどには余裕が出てきたはず。
現にこうして新しい仲間を迎えて新天地へ行こうとしているわけだし。
だから胸を張って言えるのだ。
──こちらこそありがとう。君たちのおかげでここまでやってこれた。あと少しだけ山場が残されているが、これからもよろしく頼むよ。
「ええ、もちろんです。ですから、もう少しだけ私のワガママにお付き合いください、船長」
そういってエルが手にしているものは、おしゃぶり。
──待て!それだけは無理だ!断固として拒否させてもらう!
じたばたするも既に手遅れなのは言うまでもない。
「船長ってば、可愛いところもあるんですね。でも安心してください、これで最後ですから」
そう言って口元に近づけられていくソレを見て、思わず私はエルのお腹に顔を突っ込んでしまっていた。
柔らかく温かい感触が伝わってくるだけで精一杯だ。
当然の如く、彼女の頭の上にはクエスチョンマークが浮かんだように見えたが、次の瞬間には聖母の笑みに戻っていった。
危なかった。あと少し遅ければどうなっていたか分からないところだったぞ。
どうにか窮地を脱したと思ったが、またしても逃げ場のない状態に追い詰められることになる。
背中に回された腕がしっかりと固定されており、簡単に逃げ出すことは出来ない状態だったからだ。
「さあ、今度は何をしましょうか?」
そんなことを言いながら彼女の弾む声を、恨めしげに聞く以外、出来ることなど何一つ無いのだと悟った。
──私のお腹に顔を寄せて眠っている船長を見ると、自然と頬が緩んでしまうのを感じる。
いつもなら絶対に見せない無防備な姿に、少しばかりの優越感と庇護欲が生まれるようで堪らない気持ちになる。
船長としては、赤ちゃん扱いされることを嫌っていることは承知しているが、これが男性の心を癒すのに最適だということも理解していた。
もちろん、実際に子育てをしたことなどないし、イヅルマの子供たちを相手に遊んだくらいなので、再現できているかは分からない。
しかしながら、効果は出ているらしく、先程からずっと大人しくしてくれているおかげで、スムーズに事が進んでいるのは確かであった。
船長が目を覚まさないように、そーっと抱きしめてみる。
するとどうだ、顔の表情筋が崩れていき、気持ち良さそうに寝息を立てているのだ。
その姿を見ているだけでも幸せが溢れてきてしまって自制するのに苦労するが、これもすべては船長のためなのだと言い聞かせながら耐え忍ぶことにした。
しばらくすれば、この飛行船を中心に活動を行っている空賊討伐部隊の明暗が決まる。
船長はのらりくらりと算段を考えているようだが……簡単に行くわけがないと思っているに違いない。
けど、一つだけ確信出来てしまうことがある。
船長は自身の身や立場よりも、私たちを心配していることだ。
いくら空に愛された存在だと言っても限度がある。
人間離れしているわけではなく、人間だと言うことを再認識出来る機会が多いほど、この人が自分も含めた他の人の何倍も凄い人なんだなって思ってはいるのだけど……それでも心配になるのは変わらない。
「んっ……」
考え事で意識が散漫になっていたせいか、腕の中の人が身じろぎしたことで、小さな声を発してしまい、我に帰ることが出来た。
起きたわけじゃなさそう。良かった。危ない危ない。
ほっと胸をなでおろす。
普段は難しい顔をしていることが多い船長だけれど、寝顔を見ていると幼く見えてくるのは、自分の勘違いじゃないと信じたいところだ。
(もう少し撫でてあげますね、船長)
そう思いながら、手のひら全体で頭を撫でる。
指先で髪の毛を弄びながら、額にかかった前髪を払ってあげる。
綺麗な肌が見える様になってきた。ずっと眺めていても飽きることはないだろうなと思わせられるものだった。
静かな寝息の音を聞きながら、何度も頭を撫で続けた。
(……かわいい)
男性を甘やかす機会は何度かあったのだが、こんなにも私自身が満たされた気持ちになったのは、初めてのことだった。
こんなに心休まる時間は久しぶりだったので、尚更なのかも知れない。
いつまでも触れていたかったのだけれど、残念ながら終わりを迎えることになる。
唐突に鳴り響いた戦闘配置を知らせる警告音のせいで、一気に現実に引き戻されることになった。
船長はすぐさま覚醒を果たし、険しい表情を浮かべた。
いつもの頼りになる船長の顔に一瞬で切り替わってしまったことは、残念だと思ってしまう。
しかし、さすがと言うべきか。すぐに指示を出し始めて、私が出撃準備の為に飛行甲板へ向かおうとした、その時。
一瞬だけ穏やかな表情を浮かべながら、私に向けて感謝の言葉と幸運を祈るという言葉を掛けてくださった。
それだけでやる気がみなぎってきた私は、心の中で誓いを立てつつも手短に敬礼をしながらその場を後にした。
ありがとうございます。必ず無事に帰還いたします。
あなたの望み通りに結果を持って帰りますから、待っていてくださいね。