荒野の空、イジツの片隅、ユーハングの情景 作:星1頭ドードー
ゆっくりと、確実に時は流れている。
そのことを実感せざるを得ない日々が続くようになっているものであったが、この時ばかりはその流れを止めることが出来ずにいたことを後悔する結果となった。
なぜなら……。
「いい加減覚悟にしなさい。部隊を率いる大人が注射嫌いなんて情けなさすぎて笑えないわ」
腕をがっしり掴まれていて逃げることができないうえに、彼女にしては鋭い眼光がこちらへ向けられているため、逆らうことも出来ずに成すがままの状態となってしまっていたからである。
──いや勘弁して下さい。お願いします、許してください。
「ダメに決まってるでしょ。医者の言うことを聞きなさい」
淡々と告げる言葉はどこまでも冷淡なもので、そこには一切の慈悲などないことが明らかとなる一言であった。
彼女は、怪盗団アカツキ所属のカラン。
私がまだパイロットで馬鹿な事をしていた際にお世話になったお医者さんの娘であったため、カランがまだ小さな頃から顔見知りの関係にあった人物である。
そのためだろうか。再会して以降は特に遠慮というものが無く、割と言われたい放題のような気がしてならない。
今なお腕を離してくれない事実からも察せられる通り、私に対して強引さを前面に出してきた際には容赦がないのは、昔から変わらないのだった。
もっとも、今は白衣を着こなせる立派な医者になっており、尚且つ儚げにみえる美人さんだと評判の才色兼備っぷりを発揮しているのは喜ばしいことである。
後方彼氏面ならぬ、父親……は失礼にあたる可能性があるため避けるべき表現であるが、身内目線からすれば妹のような関係性にもなるのだろうか。
私への呼称も、にいさんという昔からの呼び方に戻っており、多少なりの変化を遂げた現在となっても関係は良好だということだけは伝えておこうと思う次第だ。
この瞬間においては例外ではあるが。
「いつまで椅子にしがみ付いてるのよ。にいさんの健康診断なんだから諦めなさい。大丈夫、注射って言っても栄養剤なんだから痛くはない筈よ」
打たれる箇所によっては、死ぬほど痛い注射器が存在することを知っているはずのカランから言われても説得力に欠ける言葉としか考えられないわけだが、実際のところはどうなのだろう。
ジトーっと見つめ返しつつ反応をうかがえば、彼女の三白眼の瞳と視線が合わさり、パチリと瞬きした後にため息を漏らしてみせた。
「何よその目は。にいさんの身体を心配して言ってるんじゃない。ただでさえ不規則で不安定な生活を送ってるんだから気をつけなさい。周りからもちゃんと確認しておかないと危険って言われてるのは、自覚あるんでしょう?」
心当たりがないわけではないし、反論できる余地もない。
正論をぶつけられた場合における人間の行動は、基本的に二択に分けられると思われる。
すなわち、大人しく従うか、抵抗して抗うかのどちらかしかないのだが、どちらにせよ最終的には受け入れる形になっていく傾向にありがちなことだ。
それに今回に限らず、カランの困り顔を見ると何とも申し訳ない気分になり、頷くことしかできないことが多かったりするものだから、私にとってみれば弱みを握られているようなものだと思っていたりするのかもしれない。
意図的ではないとはいえ、長い期間、連絡も取れずに離れていたこともあってか、頭が上がらない思いが湧いてくる。
だからといって、嫌なものは嫌なのだ。
「はいはい、駄々こねないで良い子にするの。ほら、医務室に行くわよ」
幼子をあやすように捕まれている腕を持ち上げて促されると、もはや抵抗することも出来ない体たらくだ。
諦めた面持ちで立ち上がると、そのまま引きずられるようにして船長室を後にすることとなる。
医務室へ向かう間も、カランは腕を離してはくれなかった。
ガッチリと掴まれているため、彼女の体温だけでなく鼓動までも伝わってきている現状に、恥ずかしさを隠し切れない自分と格闘を続ける羽目に陥っていた。
正直なところ、小さな頃から知っている子が今も懐いてくれているというのは、とても嬉しいことだと思うのだが……いかんせん異性ということもあり距離感を考えなければなるまい。
ましてや美人と称して差し支えのないほど魅力的に育ってくれたのだから、なおさらである。
だが、病弱だったカランが立派になったものだと感慨深くなってしまった。
低めだった体温も平熱まで上がり、表情だって豊かになってきている。
それが自分のことのように嬉しかったのは間違いないし、喜ばしいことなのだ。
「どうしたのよ、にいさん。さっきから黙ったままで……やっぱりどこか調子でも悪いんじゃないのかしら? それとも体調崩してるのを隠してたりするわけじゃないでしょうね?」
そう言いながら無防備に顔を近づけてくるので、必然的に距離は近くなっていくばかりだ。
少しでも動かれたりしたら、おでこがぶつかってしまいそうなほどに近くなっていて──。
コツン。
軽く音を立てて触れ合うカランの額はひんやりとしており、私にはちょうど良く感じられるほどだ。
至近距離にある瞳を覗き込めば、若干揺れ動いており、頬をほんのり染め上げていることから察することができた。
カラン本人も気恥ずかしさはあるようなのだが、どうやらこちらの心配が最優先事項らしい。
「無理せず話せる範囲でかまわないから」と言い添えながら、こちらを気遣う姿勢を見せていた。
──すまない、カラン。不安にさせてしまったみたいだ。おかげさまで体調面は問題ないのだが、精神的な部分については君の指摘を受けた通りかもしれん。
「……ねぇ、にいさん。やっぱり無理を押し通そうとしてないわよね? もしもそうだと言うのなら──」
食い入るように見つめてくる彼女の瞳に宿るのは、強い意志を感じさせる光ばかりで、嘘偽りを述べることを許さないと言わんばかりの気迫を感じ取ってしまった。
いや、それ以上に心配してくれているのが理解できる程度に親交のある間柄ゆえに、納得してしまう部分の方が大きいと言えるかもしれない。
結局のところ、ここまで大切に思っている相手に噓をつくということがはばかれるために、本当のことを言ってしまおうという考えに至るのは、自然の流れとも言えた。
──大局、とまでは言わないが、少なからずイジツにしこりを残す事態になりそうだと考えれば、それなりに重責を担うことになるのは確かだからね。決して無意味ではないだろうと思い行動に移そうとしているのだが、どうしても周囲に負担をかけてしまっているんじゃないかと思うと、歯痒くて仕方がない。
たとえ杞憂だとしても、心のどこかに引っかかっていて振り払えないのだ。
自分で蒔いた種の一部ではあるけれど、どうにもやりきれない心境になってしまっているのは事実なわけで。心の中でため息を付けば、眼前の人物は呆れたように距離をとり──。
──再び、そっとおでこを密着させてきた。
「馬鹿言わないでくれる? 誰が迷惑だなんて決めつけたこと言ってるのよ。私は私の意思でここに居るんだから、後悔なんてするはずがないでしょう?」
間近に迫る彼女の顔はやはり整っていて美しく、直視することすらも躊躇われるほどであった。
一瞬たりとも逸らすことが出来ない状況で、ジッと見つめられ続けているというのに、何ら違和感を抱かないばかりか安心感を抱いている事に驚きを禁じ得ない。
「大体、そうやって何でもかんでも抱え込もうとするのは、にいさんの昔からの悪いところだと思うけど? せめて私に相談しなさい。私だって子供の頃のままじゃないんだから、力になりたいって思える程度の成長はしてるんだから」
少々の怒りを滲ませた声だが、そこに刺々しさは感じられない。
どちらかと言えば、優しさ成分を多く含ませた物言いをしていると感じられる。
吐息がかかる感覚に慣れ始めてきた頃、真っ直ぐにこちらを見つめてくれている眼差しに対して、微笑みを返すことができるようになっていた。
「……なに笑ってるのよ」
──カランには敵わないなって考えていただけだよ。
「ふぅん……まあいいけど、そういう素直なところも変わらないままなのが本来のにいさんなのよ。また不信感で周りを困らせたら一番痛い注射を打ってあげるわ。クフフ……」
脅かすように言った割には楽しげな微笑みを浮かべたままの少女、否、女性へと成長したカランは、かつての思い出にあった幼さと悪戯心を隠すことなく浮かべてくれた。
その姿はとても可愛らしく見えたのは、気のせいではあるまい。
──私がにいさんと呼ぶ人物は、良くも悪くも変わらない人物だ。
一見するとぶっきらぼうに見える態度を取っているにも関わらず、誰に対しても分け隔てなく接することが出来る器の持ち主であり、それでいてお人好しな性格を兼ね備えているため、一度関わってしまえば離れることは困難を極めるだろうと思える者が多数存在するくらいの人気ぶりを誇る人であった。
ただし、当の本人の性格の問題なのかはわからないが、自身に関わることについては鈍い一面を持っており、他者からの好意的なアプローチに気が付かないだけではなく、場合によっては意図的に無視を決め込んでいるきらいがあるため、被害を受ける人物が続出することになることを把握しておく必要がある。
まさに罪作り。という言葉がぴったり当てはまる程に厄介極まりないのだが、困ったことにそれが許される人柄をしているので始末におえなかった。
その中には、私も含まれてしまっていることには変わりない訳なのだが。
「──じゃあ注射を打つわよ。大人しくしていてちょうだい」
そう言って彼に消毒を施し、手際よく準備を進めていった後に口を開いた。
船長室ではあれだけダダをこねていたのに、診察台を前にすれば急に静かになってしまったのを見て苦笑してしまう。
覚悟を決めたという風を装っている彼の姿を見る度に、つくづく単純だなとは思うけれど、こうしたところは可愛らしいと思うこともあり、ついつい口元を緩めてしまいそうになるのを堪える必要があった。
幸いなことにバレずに済んだようで、密かに安堵しながら医療行為に移ることにする。
抵抗なく針が通る感覚を感じれば、彼から信頼されている証明のようにさえ感じられてしまう自分も、大概だと思ってしまったけれども。
「そんなに食い入るように針を見つめても、何も起こらないわよ」と注意しつつも内心で苦笑しながら、素早く処置を済ませて完了を告げると、彼は小さく息を吐いた。
まるで緊張から解放されたかのような態度を見せるところが微笑ましいとも言えるのだが。
ここで意地悪をしかけるべく行動に移した。
「はい、おしまい。頑張ったわね、お疲れ様」
そう言いながら彼の頭を撫でてしまった。
普段であれば身長差から出来ない行為を偶然を装いやってみたらどうなるか。
それと……久しぶりに再会した際に、頭を撫でられた仕返しも兼ねてみようと考えていた。
その結果、目を見開き固まる彼の姿があった。
顔はみるみる赤く染まっていくのが分かるくらいに変化していくので面白いことになっている。
思っていた以上に効果が大きいことが判明した以上、調子に乗ってさらに撫で続けることにしてみる。
女性の多い職場故なのか、清潔を保つための配慮が施されている髪がサラサラと流れていく感触は非常に心地よく、触り心地は抜群であった。
その割に制服などの身なりは適当であることが多いため、もったいないなと思ってしまう時もあるが……注意をする側の表情は柔らかなもので、苦言を口にしながらも整えてあげる人達ばかりであったため、これも一つのコミュニケーションの形だと思い直すこともあった。
そうやって良い方向ばかりに考えてしまう時点で、随分とほだされきってるなと感じる瞬間でもある。
それに……終始無言のままとはいえ、私が頭を撫でる行為を止めず、受け入れてくれることに喜びを覚えてしまっていた。
こういうところも、昔から変わらないな。なんて思ったりしている自分がいて笑ってしまう。
普段は私達のために身を粉にして働く姿を見せつけてくれているわけだから、たまにはこういった甘えも与えてあげたいと考えたとしても自然なことだろう。
我ながら単純な思考回路になっている気がするが、それも仕方ないことだろう。
こんな風に接することが出来る時間は限られているのだから、有効活用しなければならない。
そう、余すところなく堪能する必要がある訳だ。
私が頭を撫でていた手を離せば、彼は終わったのだとゆっくり顔を上げる。
その動きを見ながら、横に移動させていただけの手をそっと伸ばす。
そして今度こそ逃さぬように、頭の後ろへ両腕を回して抱きしめた。
ふわりと漂う石鹸の匂いに包まれる感覚に酔い痴れる。
久しく忘れていた幸福感が全身を駆け巡るようでもあり、一連の流れもあって一種のトリップ状態にあると言ってもいいだろう。
鼻腔を満たす懐かしい香りに誘われて深呼吸を繰り返すたびに、力が急速に抜けていくのがわかる。
心臓のもっとも近くに彼がいるという事実こそが重要であり、いっそうのこと眠りについてしまいたくなるほどの安らぎを感じていた。
できることならば、ずっとこの時間が続いたままでいて欲しいとさえ思う。
その一方で、複雑な心情を抱えながらも葛藤せざるを得なかった。
引かれた線に留まるのか、超えるのかの二択を突きつけられているような気分に陥った。
そうではない、今はそういうことを考えている場面ではないと自分自身に言い聞かせるが、油断していると続きを求めてしまいかねない欲望が生まれてきていることに危機感を抱き始めていた。
早々に離れるべきだろうと頭では判断しているのだが……理性とは裏腹に身体がこの幸福感を求めようとする。
それどころか無意識に抱き寄せる力を強めようと試みる自分に驚くばかりであり、更なる混乱を招いてもいた。
いっそのこと突き飛ばしてもらえた方がマシだと思った矢先のことである。
不意に背中を優しくトントンとする感覚と共に、彼が少しばかり身じろぐ気配を感じた。
整えられた足の膝上に引き寄せられ、反射的に身体を預ける形でしがみついてしまう結果を招く。
まるで昔の頃のような、膝上に乗る幼子をあやす体勢になってしまったことに気付くと、羞恥心が込み上げてきた。
咄嗟に離れようと身体が反応したが、それを察知したのか定かではないにせよ、背中をさすられると力が抜けてしまって動けない。
そのせいで私が抱きしめているはずなのに、頭を抱えて抱擁しているはずなのに、彼に支えてもらっている状態になっていて妙な緊張感に襲われているにもかかわらず、つい浸ってしまいたくなるほど居心地が良いと思ってしまう始末。
つまりは完全に主導権を握られてしまったというわけであるのだが、どうしようもなかった。
どうしようもないのに、先程までの葛藤はどこにいってしまったのだろうか。
気付けば考えることを放棄してしまっていた私に残された道は、大人しく彼にあやされながら甘えることだけだ。
束の間の出来事だったが、時間にしたらほんの数分間だったのだろう。
体感的には一日分に相当する疲労を感じたように思えるほどだった。
しばらく経ったのち、そっと私の手を取り身体を離した彼が開口したのは、こちらの予想通りであった。
──ありがとう、カラン。手間かけさせてすまなかった。おかげで助かったよ。
その言葉に偽りは無く、本心から出た発言であることを確信させられた。
だからこそ余計に困ってしまったのだ。
「……別にお礼はいらないわよ。それより無理しないでって言ってるのに、聞かないにいさんが悪いんだからね。反省しなさい」
結局のところ、彼を甘えさせるどころか、逆に私が甘やかされる形となってしまった。
いつもそうだった。彼はいつだって大人の対応が出来る人だということを痛感させられっぱなしなのだ。
いつか自分もそうなれれば良いとは思っているんだけれど、道のりはまだまだ遠そうである。
それでも……いつまでも変わらぬ姿のままでいてくれることに関しては、内心嬉しさを感じているのも事実だったりするんだけどね。