荒野の空、イジツの片隅、ユーハングの情景 作:星1頭ドードー
数字の羅列がこれほどまでに暴力的な輝きを放つとは、夢にも思わなかった。
手元にあるのは、アレシマ市立飛行警備隊隊長から渡されたオーシャン・サンフィッシュホテルからの請求書。右端に並ぶゼロの行進は、私の経済状況をあざ笑うかのように整列している。
平和を勝ち取った代償とはいえ、この金額は一個人が背負うにはあまりにも重すぎる。ユーリアに相談をしてみるものの、彼女はお金を貸してはくれなかった。
慈悲はなく、私の手元に残るのは、雀の涙ほどの生活費のみ。
アイス一つ購入するのも躊躇する日々が始まるとは。何か副業を探さねば、霞を食べて生きる仙人になる日も近いだろう。
重いため息を吐き出し、逃避したくなる衝動を抑え、万年筆を走らせていた静寂は、何の前触れもなく唐突に破られることとなる。
ノックという礼儀作法をイジツの彼方に置き忘れたような勢いで、珍しく閉めていた扉が悲鳴を上げながら開け放たれた。
「せーんちょ! 今、お時間大丈夫ですか!? っていうか大丈夫ですよね! どうしても船長に聞いてもらいたい、ハルカゼ飛行隊隊長のユーカによる一世一代の重要なお願いがあります!」
突風と共に室内へ飛び込んできたのは、金髪のショートカットを揺らす少女、ユーカである。
首から下げたゴーグルがカチリと音を立て、彼女の勢いを物語っていた。
驚きにペン先を止める間もなく彼女は私の机の前まで詰め寄ると、身を乗り出して捲し立ててくる。
その瞳にはいつもの底抜けに明るい光だけではなく、何か切迫したような、あるいは迷いを含んだような色が混じっていた。
「あのですね、昨日の哨戒任務の時からずっと考えていたんですけど、やっぱり私、このままじゃダメだと思うんです! だから船長、お願いします! 私の指導員になって、空の飛び方を一から叩き直してください!」
指導員。
その言葉が彼女の口から飛び出したことに、少なからず意表を突かれる。
以前、似たようなことを言われた機会があったが、ハルカゼ飛行隊は彼女の指揮の下、着実に戦果を挙げているはずだ。
なぜ今、そのような申し出をしてきたのか。
問いただそうと口を開きかけたが、彼女の真剣な眼差しに気圧され、まずは落ち着くようにとソファを勧めることしかできなかった。
ソファに座らせ、紅茶を用意する間も、ユーカの視線はずっとこちらの背中を追っている気配がする。
いつもなら出されたお菓子に即座に反応する彼女が、今日ばかりは膝の上で拳を握りしめ、俯き加減に黙り込んでいた。
カップを置く音でハッと顔を上げた彼女は、湯気の向こう側で、胸の内に渦巻く正体不明の感情を持て余しているように見えた。
「……自分でもよく分からないんです。でも、船長の背中を見ているとなんだか胸の奥がモヤモヤーってしてきて……。この気持ちを晴らすには船長に追いつくしかないって、そう思ったんです」
紅茶の湯気が揺らぐ向こう側で彼女の言葉は直球すぎて、変化球ばかり投げてきた私の心に痛いほど突き刺さる。
追いつく、か。既に翼を畳んだ人間に対し、これから大空を我が物顔で飛び回るハルカゼが抱く感情としては、少々重すぎる気がしないでもない。
──そのモヤモヤの正体が、本当に操縦技術の未熟さから来ていると断言できるのか? ユーカは十分に優秀なパイロットだ。私の指導を受けるよりも、現場で他の飛行隊と共に経験を積む方が余程有意義だと思うが。
「違います! 優秀とかそういう話じゃなくて、船長が見ている景色を私も同じ高さで見たいんです! ただ後ろから背中を見ているだけじゃなくて、隣に並んで飛びたいっていうか、置いていかれたくないんです!」
否定的な言葉を予想していたのか、ユーカは唇を尖らせて少しだけ身を乗り出す。
その瞳は揺るぎない意志を宿しており、テーブルに置かれた冷めかけの紅茶よりも熱く、私の逃げ道を塞ぐように真っ直ぐに見つめてくる。
物理的な距離は縮まったようでいて、彼女の中では決定的な何かが違うと感じているのだろうか。それが景色なのか、憧憬なのか、私には判断がつかないが。
──空の上では皆が平等だと言いたいところだが、今の私は書類の山と借金に追われるただの雇われ船長だ。ついでに言えば『イジツ治安維持機動部隊』が本格的に始動するまでの間、無職でさえある。君が想像しているような輝かしい世界を見せてやれる保証はどこにもないんだが。
「またそうやってはぐらかす! 借金なんて関係ないです! 私が言ってるのは魂の話ですよ! 船長と一緒に飛べば、この胸のつかえが取れる気がするんです! ……それに、指導料だってちゃんと払いますから!」
指導料。
その甘美な響きが鼓膜を震わせた瞬間、私の脳裏に整列していた請求書のゼロの行列に対して、一瞬だけ救世主の姿に見えたのは気の迷いだろうか。
いやいや、目先の利益に目が眩んでユーカの真剣な想いを金銭で換算しようなどとは、船長としてあるまじき行為だ。
それにこう言っては何だが、ようやく日々の食事に困らなくなった飛行隊が返済できるような額ではない。あるわけがない。
ハルカゼの懐事情はよく知っている。彼女たちは報酬が入れば右から左へと、整備費や食費、それに時折発生する宴会費へと消えていく自転車操業の極みだ。
だが、ユーカは私の思考を読み取ったかのように、どこからともなく重そうな革袋を取り出してテーブルの上に置いた。
「なめないでくださいよ! これでもコツコツ貯めてたんですから! お菓子も我慢したし、買い食いも控えました! 世界魚類大展示会のリピートも控えた、私の血と汗と涙の結晶なんですからね! これだけあれば船長の一時間くらい買えますよね!?」
──アロワナモドキのどこに心惹かれたのかは甚だ疑問であるが、はいそうですかと巻き上げるように受け取れるわけがないだろう。ユーカなりの断腸の思いで捻出された資金であることは疑いはしないが……。
「巻き上げるだなんて人聞きの悪い! これは正当な依頼料です! それとも何ですか、船長は私の覚悟がお金程度じゃ買えないって言うんですか? 私の悩みなんて取るに足らない子供の戯言だとでも言いたげな顔をしてますよ!」
頬をぷっくりと膨らませ抗議の声をするその姿は、駄々をこねる子供そのものだ。
猪突猛進娘は進む方向を間違えると、壁に激突してそのまま直進してくるから始末に負えない。
革袋を指先で押し退け、彼女の手元へと滑らせる。重みのある金属音がテーブルの上を走り、ユーカの眼前で止まった。
「……むぅ、船長ってば、いっつもそうやって良い所を持っていくんですからズルいです」
──むぅ、じゃない。そんな大事な金を受け取れるか。エリカ達に知られたら、私が子供の小遣いを巻き上げた極悪人として裁判にかけられる未来しか見えん。それに、空を飛ぶ対価が空腹であって堪るか。
「うぐっ……エリカの名前を出すのは卑怯ですよぉ! でも、タダより高い物はないって社長が言ってました! キチンと対価を払わないと、船長が私に本気で向き合ってくれる気がしないんです!」
──ウッズ社長の教えは商売人としては正しいが、私とユーカの関係は売り手と買い手ではないはずだ。そのお金は整備費に回すなり、美味しいものを食べて空を飛ぶための身体作りに変えることも、パイロットの重要な仕事の一つだ。
「あーっ、またそういう悪い言葉でうら若き乙女の心を拐かそうとしてる! 船長のその優しさに見せかけた壁が嫌なんです! 対等になりたいって言ってるのに、どうして子供扱いするんですか! お金を受け取らないなら、私はいつまで経っても船長におんぶに抱っこのままじゃないですか!」
痛いところを突く。確かに金銭の授受を拒むことは、ある種のマウントを取る行為に他ならない。
対等でありたいと願うユーカの矜持を、私は大人の分別という名の盾で、無意識のうちに傷つけてしまっているのかもしれない。
彼女が抱える「モヤモヤ」の正体。それは技術的な未熟さへの焦燥感ではなく、私との間に横たわる、決して埋まらないと思わされている距離感に対する苛立ちなのかもしれない。
これ以上拒めば、ユーカは本当に傷つき、そして拗ねて暴走する未来が見える。それは避けねばならない。
──分かった、私が悪かった。魂の話から金銭の話にすり替えたのは、こちらの落ち度だ。……指導員の件、引き受けよう。ただし、私は操縦桿を握るつもりはないぞ? あくまで生存術を伝えるだけだ。それと報酬はいらん。君の全財産を奪えば、後でハルカゼの面々に何をされるか分かったものではないからな。
「えっ、本当に!? ……で、でも無報酬っていうのは……まさか……身体で払えとかそういう……!? 船長、私まだ心の準備が! いえ、船長ならあるいは……いやいや、でもまだ早いですって!」
何を想像したのかは敢えて聞かないでおくが、赤面しつつ自身の身体を抱きしめて身悶える姿は、誤解を招くので止めて頂きたい。
私が求めているのはもっと健全で、かつユーカの懐事情と私の胃袋を同時に満たす平和的解決案だ。
──早とちりをするな。私が要求するのは、訓練後の成果報告と、そうだな……全ての課程が終了した暁には、リリコさんが作る『特製全部乗せスペシャル定食』を奢ってもらうことだ。それで手打ちにしないか?」
「……へ? それで良いんですか? 一番高い料理と言っても、今の私の全財産に比べたら微々たるものですよ? 船長、私の覚悟を安売りしてませんか? もっとこう、ガツンと要求してくれないと張り合いがないんですけど!」
──安売り? とんでもない。ユーカの思考で例えるのなら、それは『お食事デート』と呼べるものだと思うのだが?
からかい半分で返した言葉に、ユーカは茹でたタコのように顔を赤くし、パクパクと口を開閉させている。
「で、デート……!? 船長がそれを言いますか! べ、別に嬉しくなんてないですからね! 船長がどうしてもって言うなら、仕方なく付き合ってあげなくもないですけど! あくまで指導の報酬としての食事なんですから、変な期待はしないでくださいよ!」
これがユーハングに伝わりし『ツンデレ』というものか。土壇場でユーカの覚悟の価値が、木の葉落としのように落ちている気がしてならない。
顔を真っ赤にして指先を合わせ上目遣いでこちらの反応を伺うその姿は、小動物が威嚇しているようで微笑ましくもあるのだが、ここで茶化すとさらに話がややこしくなる。
少なくとも彼女が想像しているような甘い展開にはならないだろう。
それにしても、支払いをデートにすり替えただけでこれほど動揺するとは。ハルカゼの隊長殿は、空の上での度胸とは裏腹に、地上戦では随分と防御力が低いようだ。
──指導後の結果次第だが、私は期待させてもらいたいことは伝えておこう。……さて、商談成立だ。その重そうな革袋は懐にしまいなさい。明日から訓練を開始する。遅刻は厳禁だぞ?
「了解しました! ハルカゼ飛行隊隊長ユーカ、明日の夜明けと共に滑走路へ向かいます! 見ていてくださいね、船長! 私が船長の度肝を抜くような、最高の飛行を見せてあげますから!」
勢いよく革袋を懐にしまい込み、ガッツポーズとも取れる奇妙な動作を残してユーカは再び嵐のように去っていった。
バタン、と大きな音を立てて閉ざされた扉を見つめ、私は小さく息を吐く。
静寂が戻った部屋には、微かに彼女が残していった甘い香りと、熱気のようなものが漂っていた。
訓練か。自分の首を絞める約束をしてしまった気もするが、あの真っ直ぐな瞳を向けられては、無碍に断ることなど出来なかっただろう。
冷め切った紅茶を喉に流し込み、私は明日からの予定を頭の中で組み立て始めた。
美しく飛ぶことではなく、泥臭くとも帰還する方法だ。
──さて、お手並み拝見といこうか。ハルカゼのおてんば娘が、どうやって私の度肝を抜くのかを。
翌朝、まだ空が白み始めたばかりの滑走路には、既に愛機の傍で準備運動をするユーカの姿があった。
約束の時間よりも随分と早い。彼女の本気度が伺える光景に、私は眠い目をこすりながら苦笑するしかなかった。
***
船長に追いつきたい。
私の暴走から始まった、この奇妙な特訓という名の時間は、冷え切った早朝の空気の中で静かに幕を開けようとしていた。
船長の隣に並びたい。
自分がしでかした大立ち回りを思い返しては、穴があったら入りたい衝動と、期待に胸が高鳴る感覚が交互に押し寄せてくる。
……デート、かぁ。
無意識のうちに口をついて出たその言葉は、甘く、そしてくすぐったい響きを持って鼓膜を揺らす。
船長はからかうつもりで言ったのかもしれないけれど、私にとっては天地がひっくり返るほどの衝撃だったのだ。
全部乗せスペシャル定食を奢る。たったそれだけの約束が、どうしてこんなにも特別な契約のように感じられるのだろう。
今まで数え切れないほどの食事をしてきたはずなのに、この一食がこれからの私の全てを決めるような、そんな予感がしてならない。
違う、違うよユーカ。これは特訓。あくまでパイロットとしての技量を磨くための神聖な時間なんだから! 変な期待をしちゃダメだってば!
自分の両頬をパンと叩き、気合を入れ直す。
そうだ、あの人は『リノウチの英雄』なんて呼ばれているけれど、実際はただの、ちょっと枯れた雰囲気の、優しくて頼りがいがあって、時々ものすごーく意地悪で……たまに格好いい大人なだけだ。
しかし、今日ばかりは視界の隅に映る人影が、日常を非日常へと変えてしまう。
格納庫の入り口から気だるげに、けれど確かな足取りで歩いてくる人影が見える。
寝癖のついた髪をかき上げながら、こちらに気づいて小さく手を上げるその姿を見た瞬間、心臓が早鐘を打ち始めた。
発動機の轟音よりも大きく、プロペラが風を引き裂くよりも、私の鼓動が身体中を駆け巡る。
これが……だなんて認めたら、私はもう二度と空を飛べなくなってしまうかもしれない。だから今は、ただの憧れだと言い聞かせる。
大きく深呼吸をして、私は精一杯の虚勢と、溢れんばかりの想いを込めて、朝の静寂を切り裂くように声を張り上げた。
「おはようございます、船長!! 遅いですよ! 私なんて一時間も前から準備運動を済ませて、隼の機嫌もバッチリ取っておいたんですからね! さぁ、空へ行きますよ!」
船長が口を開くその瞬間まで、私は祈るような気持ちで、彼の唇の動きを見つめ続けていた。
このモヤモヤの正体が何なのか、本当はずっと前から気づいていた自分を必死に誤魔化しながら。
一年もお待たせして申し訳ございません。