荒野の空、イジツの片隅、ユーハングの情景 作:星1頭ドードー
静寂に包まれた船長室で、私は机の上に置かれた一枚の紙切れと睨めっこを続けていた。
そこに記された数字の羅列は、何度見返しても減ることはなく、むしろ見るたびにゼロが増殖しているような錯覚さえ覚える。
オーシャン・サンフィッシュホテルからの請求書。
かつて私が指揮した作戦行動の代償とはいえ、一介の雇われ船長が背負うにはあまりにも重すぎる十字架だ。
ため息をつくと、部屋の空気がさらに重くなった気がして、天井を仰いだ。
蛍光灯の無機質な光が、疲れた瞳を容赦なく刺してくる。
紅茶でも淹れ直そうか。そう思い椅子から立ち上がろうとした瞬間、気配もなく背後から甘い声が鼓膜を震わせた。
「船長ったら。そんなに眉間に皺を寄せていたら、せっかくの男前が台無しになってしまうわよ? それとも、その紙切れ一枚が貴方にとって世界の全てなのかしら?」
心臓が跳ね上がるのを抑えながら振り返ると、そこにはいつもの不敵な笑みを浮かべた彼女が、まるで最初からそこに居たかのようにソファに腰掛けていた。
怪盗団アカツキのリーダー、ロイグ。
神出鬼没な彼女の侵入経路を問うのは、もはや野暮というものだろう。
通気口か、はたまた最初から侵入していたか。いずれにせよ、船長室は彼女にとって庭のようなものらしい。
「驚かせてしまってごめんなさい。でも、ノックをしたところで今の船長はその数字の呪縛に囚われていて気づかなかったでしょう? だから、私が呪いを解きに来たというわけ」
──呪いか。借金を踏み倒す方法が存在するならば、その技術をご教授願いたいところだが、現実はそう甘くはないだろう?
ロイグが言わんとしていることは物理的な強奪ではなく、もっと別のアプローチであることは明白だ。
手元の請求書から視線を外し、優雅に脚を組む怪盗団のリーダーへと向き直る。
「あら、そんなに疑り深い目で見ないでよ。物理的にその紙を消滅させるなんて野暮なことはしないわ。私が提案しているのはもっと建設的で、船長の人生を劇的に変える『魔法』のようなものよ」
──魔法、ね。怪盗が使う魔法とやらは、一体いくつのゼロを消してくれるんだ? それとも、この請求書の存在自体を人々の記憶から綺麗さっぱり消し去ってくれるのか?
私の皮肉めいた言葉に、ロイグは楽しそうに喉を鳴らして笑った。
ソファの背もたれに深く体を預け、挑発するようにこちらを見つめてくる。その仕草一つ一つが計算され尽くした舞台女優のようだ。
ロイグが持ちかける話は、いつだって甘い香りと鋭い棘が同居している。油断すればいつの間にか彼女のペースに巻き込まれ、気づいた時には知らない舞台へ立っているのが常だ。
手招きの仕草をしてきたので、私は対面で座る形で彼女と向き合った。
「そんな乱暴な真似、私たちの美学に反するわ。もっとスマートでエレガントな方法があるじゃない。記憶を盗むんじゃなくて、お金を生み出す『打ち出の小槌』を手に入れれば、こんな請求書なんて暖炉の焚き付けにでもできるでしょう?」
打ち出の小槌。ユーハングのおとぎ話に出てくる代物だったか。
そんな都合のいい物がこのイジツに転がっているとは到底思えない。彼女たちの言う「お宝」が、往々にして常人の理解を超えたものであることを、私は経験から知っていた。
──ロイグが言う魔法は大抵の場合、法に触れるような気がするんだが、折角だしそのおとぎ話を詳しく聞かせてもらおうか。現状より悪くなることもないだろうからな。
「さっすが船長、話が早くて助かるわ! ねえ、本当に私たちの仲間にならない? 船長がその頭脳と度胸を貸してくれれば、どんなお宝だって手に入れられる。そうすれば、借金なんてあっという間に返せるじゃない。これは、船長にとって最高のパートナーシップの提案よ」
怪盗団アカツキへの勧誘。彼女が冗談めかして口にするのはこれが初めてではないが、今日の瞳はいつになく真剣な光を宿しているように見えた。
借金の山、しがらみの多い組織、そして終わりのない事務処理。それら全てを捨て去り、夜の空へと飛び出す自由。
彼女が提示する甘い果実は、疲弊した私の心には毒なほど魅力的に映る。だが、私は苦笑と共に首を横に振った。
──魅力的な提案だが、私は治安維持部隊の総司令官に割り当てられてしまったよ。泥棒稼業に身をやつすわけにはいかないし、何より部下たちに示しがつかん。
「むう、堅苦しいことばかり言わないでよ。今の立場なんて、ただの肩書きでしょう? それに、私たちには貴方みたいな人が必要なの。技術や度胸だけじゃなくて、こう……どっしりと構えてくれる『大人』の存在がね」
──私が大人かどうかは怪しいものだが、ロイグたちが技術を持て余しているのは見ていて分かる。だが、なぜ私なんだ? 他にも適任はいるだろう。
「いないわよ、そんな人。私たちの無茶苦茶な振る舞いを笑って許してくれて、その上で導いてくれる人なんて、イジツ広しと言えども船長くらいしか思いつかないもの」
ロイグは素早く動き、私の隣へと移動すると耳元で囁くように言葉を紡ぐ。その声には単なる勧誘以上の、どこか切実な響きが混じっていた。
いつもは余裕綽々で誰にも縛られない風を装っている彼女が、ふと見せる迷子のような表情。
それは、アカツキが抱える危うさ……いや、ロイグが無意識のうちに露呈させているようでもあった。
腕に触れる彼女の体温は想像していたよりもずっと温かく、そして微かに震えているようにも感じられた。
高い背丈を丸め、私の顔を覗き込むようにしてロイグは潤んだ瞳でこちらを見つめてくる。その表情はいつもの自信に満ちた怪盗団のリーダーではなく、ただの駄々をこねる子供のようだ。
彼女が抱えているのは、何かしらの孤独感なのかもしれない。
──君たちの手綱を握る役目なら、この立ち位置からでも十分に果たせるはずだ。現に、こうしてロイグが相談に来られる関係性を維持しているのだから、わざわざ私が怪盗になる必要はないだろう?
「理屈じゃないのよ、船長。私だってたまには誰かの背中に隠れて、何も考えずに眠りたい夜があるの」
──リーダーというのは因果な商売だな。誰かに寄りかかりたいと思っても振り返れば誰もいないことが多い。だがロイグ、君にはモアがいる。頼れる仲間たちがいるじゃないか。彼女たちを信頼して任せてみるのも、一つの手だと思うがね。
「仲間はみんな優秀よ、それは認めるわ。でもね、優秀なのと『頼れる』のとはまた違うの。私が求めているのは、私の弱さごと全部ひっくるめて受け止めてくれる、絶対的な包容力なの。……ねえ、私のこと、嫌い?」
上目遣いで見つめてくる瞳が潤んで揺れている。
それは計算された演技なのか、それとも心の底から漏れ出た本音なのか。
今の私には、その境界線を見極めることがひどく難しく感じられた。ただ、ロイグが今この瞬間、私の言葉を、あるいは決断を、幼子のように待ち望んでいることだけは痛いほど伝わってくる。
──嫌いになれるはずがないだろう。これだけ振り回されても、こうして話を聞いているのがその証拠だ。こちらの無理無茶に付き合わせたことを考えれば、ロイグを無下に扱えるはずもないだろ。共に修羅場をくぐり抜けてきた戦友だ。
私の言葉を聞いたロイグは、ぱっと花が咲いたように表情を明るくさせたが、すぐに頬を膨らませて私の腕をさらに強く抱きしめてきた。
甘い香水と彼女自身の体温が制服越しに伝わってくる。怪盗団のリーダーとしての威厳はどこへやら、今の彼女はまるで玩具屋の前で駄々をこねる少女そのものだ。
「嫌いじゃないなら、もっと近くに来てよ。ねぇ、治安維持部隊なんて堅苦しい場所より、私たちの場所の方がずっと居心地がいいわよ? 毎日がロマンの連続だもの、飽きさせない自信はあるわ」
──毎日がロマン続きでは、私の心臓が持たないのだが。
「心臓が持たないなんて、そんな弱気なことを言って。ロマンこそが人生を彩る最高のスパイスでしょう? このまま埃被った書類の山に埋もれて、静かに枯れていくなんて、船長には似合わないわ」
腕に絡みついたまま上目遣いで挑発してくるロイグ。その瞳は獲物を狙う猫のように細められ、しかしどこか捨てられた子猫のような哀愁も帯びている。
彼女の体温が心地よい重みとなって左腕にのしかかる。振り払うのは簡単だが、そうすることを躊躇わせる何かが今のロイグにはあった。
自由奔放に見えてその実、ロイグは繊細に見える。育った環境だけを見れば、彼女はイジツにおいては恵まれているが、生まれの経緯を考えれば複雑な家庭環境故か。
何不自由ない生活を送れるはずの彼女が、こうして危険な橋を渡り続けている理由。それは単なる退屈しのぎやスリルだけでは説明がつかない、もっと根源的な渇望があるのだろう。
彼女が求めているのは、金銭や名声といった表面的な「お宝」ではない。誰かに必要とされ、誰かを心から信頼し、背中を預けられる絶対的な安心感。それを「怪盗団アカツキ」という擬似的な家族の中で満たそうとしているようにも見える。
そして今、彼女はその家族の長としての重圧に少しだけ疲れ、甘えられる「大人」を探している。その矛先が、たまたま私に向いただけの話だ。
「ねえ、聞いてるの? 私がここまで自分を安売りしてるのに、反応が薄くない? 普通なら泣いて喜ぶところよ? 『一生ついていきます、ロイグ様!』って」
──安売りどころか、ロイグという存在は高嶺の花すぎて手が届かないさ。それに私が怪盗になったら、誰がフィオの喧嘩を仲裁し、ユーカの暴走を止め、レオナの真面目すぎる相談に乗るんだ? アコに任せたらあの事件のオチぐらい派手にやらかして分解するぞ?
私の言葉に、ロイグは不満げに唇を尖らせると、抱きしめていた腕を離し、今度は私の膝の上にどっかりと座り込んできた。
重みと共に、彼女の体温がダイレクトに伝わってくる。これは流石にまずい体勢だ。誰かが入ってきたら言い訳のしようがない。
しかし、ロイグはそんな羞恥心などどこ吹く風で私の胸板に指先で円を描きながら、駄々っ子のように言葉を紡ぐ。
「そんなのみんなまとめて連れてくればいいじゃない。この飛行船ごと『怪盗団アカツキ』にしちゃえば、世界中のお宝は私たちのものよ。そうすれば、フィオだってユーカだって、レオナだってアコだって、みんなハッピーになれるわ」
──無茶苦茶な論理展開だな。傭兵から自警団にマフィアを怪盗団に吸収合併するなんて、歴史上類を見ない暴挙だぞ。アコが卒倒する姿が目に浮かぶようだ。それに、私が求めているのは平穏な生活であって、世界を敵に回すロマンではないんだがね。
「平穏なんて、老後の楽しみにとっておけばいいのよ。今はもっと、こう……情熱的に生きるべきだわ。船長の中に眠る野心、私が火をつけてあげるって言ってるの。それとも、私の魅力じゃ火種にもならないって言うの?」
ロイグは私の胸元をぎゅっと掴み、潤んだ瞳で射抜くように見上げてくる。その表情には色気と共に、拒絶されることを恐れる不安が同居していた。
彼女は試しているのだ。私がどこまで彼女の我儘を許容し、受け入れてくれるのかを。
怪盗団のリーダーとして振る舞うロイグの仮面の下にある、寂しがり屋の素顔。それを見せられるのは、きっと彼女にとっても勇気のいることなのだろう。
私は溜息を一つ吐くと、彼女の背中に手を回し、ポンポンと軽く叩いてやる。子供をあやすようなその仕草に、ロイグの身体からふっと力が抜けた。
──ロイグは十分に魅力的だし、その提案も心が揺れるほど甘美だ。だが、私はまだこの場所でやるべきことが残っている。借金を返すことも含めてね。
「……イジワル。物分りのいい大人ぶって上手くかわしたつもり? でも、私は諦めないからね。船長が首を縦に振るまで、毎日でも毎晩でも、こうして誘惑しに来てあげるわ」
そう言ってロイグは私の首筋に顔を埋め、深呼吸するように匂いを嗅ぐ。
くすぐったさと彼女の柔らかな髪の感触に、私は苦笑することしかできなかった。
結局のところ、ロイグは私の答えなど最初から分かっていたのかもしれない。それでもこうして甘えに来るのは、ただ単に安心感を補給したいだけなのだろう。
この借金まみれの船長室が彼女にとって一時の休息場所になれるのなら、それもまた一つの役割なのかもしれない。
──それは構わないが、次はちゃんとノックしてから入ってきてくれ。
「ふふっ、それはどうかしら。怪盗はいつだって予測不能なものよ。……ねえ、あと五分だけ。あと五分だけこのままでいさせて。そうしたら、いい子にして帰ってあげるから」
私の胸に顔を埋めたまま、くぐもった声で呟くロイグ。その声は普段の張り詰めたトーンとは違い、驚くほど無防備で弱々しいものだった。
私は何も言わず、ただ彼女の背中を一定のリズムで叩き続けた。
無機質な光の下、莫大な請求書と世界を股にかける大怪盗と共に過ごす、奇妙で静かな午後。
これもまた、イジツ治安維持機動部隊の船長としての、日常の一コマなのだろう。
私の平穏な生活は、まだまだ遠い空の彼方にあるようだ。
***
船長は私を叱ってくれる。
時には私の背中を優しく叩いて頭を撫でてくれる……ずるい。
背中を叩く一定のリズムは、まるで幼子をあやす揺りかごのようで、私の意識を微睡みの淵へと誘い込んでいく。
この不器用な手のひらによって神経が一本ずつ丁寧に解かれてしまう感覚は、甘美でありながらも少しばかり悔しい。
本来ならば私が彼を翻弄し、その心を盗み出す手筈だったはずなのに、気がつけばこうして籠絡されているのは私の方ではないか。
規則正しく刻まれる船長の心音を耳に押し当てながら、私は制服の布地を強く握りしめた。
拒絶もせず、かといって溺れることもなく、ただそこに在るだけの巨木のような安心感。
スリル満点の逃走劇でも、目が眩むような金銀財宝でもなく、こんなにもありふれた、けれど何よりも得難い体温。
夜空を駆け巡る日々は刺激に満ちているけれど、時には凍えるような孤独とも隣り合わせだ。
だからこそ船長の無防備な懐は、どんな宝石よりも魅力的な輝きを放って私を誘惑するのだ。
名を汚すことも厭わず、書類仕事に追われ、冴えない顔をした彼は、世間一般の評価軸で見れば、船長は決して煌びやかな「お宝」ではないだろう。
しかし、私の強がりも、計算高さも、寂しさも、すべてを無言のうちに飲み込んでくれるその包容力は、値札のつけられない一点物だ。
私は彼のシャツに顔を埋め、深呼吸をする。
安っぽい紅茶と古びた紙の匂い、そして彼自身の少し汗ばんだような匂いが混ざり合い、私の脳髄を痺れさせる。
船長はズルい。大人の余裕というやつで、私の虚勢も我儘も、心の奥底に沈殿した寂しささえも、全部ひっくるめて包み込んでしまうのだから。
私が求めているのは、守られた安全な逃げ場所じゃない。
もっと熱くて私の全てを焦がすような執着にも似た『愛情』なのだけれど、この鈍感な人はそれを『信頼』や『庇護』と履き違えている節がある。
その鈍さがもどかしくて、私は彼の胸板に爪を立てる代わりに、頬をぐりぐりと押し付けた。
意外とがっちりとした硬い筋肉の感触と、微かに香る男性らしい残り香。
それが私の嗅覚を満たし、思考を甘く溶かしていく。
呆れたような溜息が頭上から降ってくるけれど、背中を叩く手は止まらない。
それが答えだ。
今はまだ、この心地よい勘違いの中で甘やかされてあげてもいいわ。
いつかその勘違いごと、貴方の心臓を盗み出してあげるまでの猶予期間としてね。