荒野の空、イジツの片隅、ユーハングの情景   作:星1頭ドードー

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船長と巡り合い レオナ おしまい

 書類の山を崩さぬよう慎重にペンを走らせるだけの単純作業。

 充満するインクの匂いと、微かに混じる機械油の香りが鼻腔をくすぐる。

 

 逃避したい気持ちを紅茶で無理やり胃の腑へと流し込んだ時、扉の方から几帳面なノックの音が三回、正確なリズムで響いた。

 誰が訪ねてきたのか、その律義さだけで想像がついてしまう。

 

「失礼致します、船長。お忙しいところ申し訳ありません。少々お時間を頂いてもよろしいでしょうか? 本日は今後のコトブキ飛行隊の運用に関わる、極めて重要な案件についてご相談がありまして」

 

 入室するなり直立不動の姿勢を取り、真剣な眼差しを向けてくるコトブキ飛行隊隊長、レオナ。

 彼女がこれほどまでに改まった態度を見せる時は、大抵が厄介事か、もしくは極めて真面目な相談事のどちらかだ。

 

 結い上げた髪が僅かに揺れ、レオナの緊張がこちらにも伝播してくるようである。

 手に持ったペンを置き、居住まいを正して彼女と向き合う。

 

 漂う空気は、さながら取調室のそれにも似た重苦しさを含んでいた。

 

 ──重要な案件か。ザラや他の隊員を通さず、隊長であるレオナが単独で来るということは、よほどの事態が起きたと判断していいのかな? それとも、個人的な悩み事だろうか。

 

「事態……と言われればそうかもしれませんが、これはコトブキ飛行隊全体の未来、ひいては私個人の進退にも関わる問題なのです。決して隊員たちを軽んじているわけではありませんが、まずは私の話を聞いて頂きたいのです」

 

 レオナの口から紡がれた「進退」という言葉の重みに、思わず背筋が伸びる。

 この真面目すぎる隊長がそこまでの覚悟を決めるとなれば、ただ事ではない。

 

 だが、リノウチの空で見た、がむしゃらなまでに真っ直ぐな彼女の瞳を思い出せば、早合点は禁物だ。

 

 立ち尽くす彼女の緊張を解きほぐすように、まずは客用の椅子を手で示す。

 硬い動作で腰を下ろしたレオナは、まるで尋問を待つ捕虜のように背筋を伸ばしたままだ。

 

 ──進退とは穏やかじゃないな。だが、君が一人で抱え込むような問題には見えない。まずは落ち着いて、何があったのか君自身の言葉で聞かせてくれないか。ここでは私と君だけだ。

 

「実は……オウニ商会の予算枠から特別講師への謝礼が認可されまして。その、もしよろしければなのですが、船長にコトブキ飛行隊の特別講師をお願いしたいのです。リノウチで見せたあの空戦技術をご教授願いたいのです。……貴方の指導なら、皆も納得してついてきてくれると判断しましたから」

 

 ……少しばかり呆けた顔をしてしまった。

 どれだけ深刻な内容が飛び出すかと身構えていたというのに、蓋を開ければまさかの講師依頼。

 

 拍子抜け、という言葉がこれほどしっくりくる瞬間も珍しい。

 こめかみを軽く指で押さえ、思わず漏れそうになる溜息をなんとか飲み込む。

 

 ──いや、待て。これは私が早合点しただけか? コトブキ飛行隊の隊長が、進退を賭けてまで私を講師に招きたいと。その言葉の裏には、私がまだ汲み取れていない深い理由があるはずなのだろうか? 

 

「……やはり、ご迷惑でしたでしょうか? 船長のような高名な方に、いち傭兵団の訓練を任せるなどおこがましいとは承知の上です。ですが、他に頼れる方が思い浮かばなかったのです。この話、どうかお願いできませんでしょうか」

 

 こちらの沈黙を拒絶と受け取ったのか、レオナの声に僅かな焦りの色が滲む。

 その必死な様子に、慌てて両手を軽く振って否定の意を示した。

 彼女の生真面目さは、時として物事を必要以上に重く捉えさせてしまうようだ。

 

 ──迷惑だなんてとんでもない。むしろ光栄な話だ。だが、その依頼にレオナの進退がどう関わってくるんだ? ただの講師依頼が、そこまで大袈裟な話になるとは思えないのだが。

 

「大袈裟などでは断じてありません。隊員たちは日々成長を続けています。しかし、私自身は……リノウチの空で貴方とイサオの空戦を目の当たりにして以来、自分の未熟さを痛感するばかりで、足踏みを続けているような感覚なのです」

 

 ──イケスカ動乱の立役者とまで呼ばれたコトブキ飛行隊を率いたレオナが足踏みとはな。私には君が誰よりも前へ、着実に進んでいるように見えるが。一体、何がレオナをそこまで焦らせるんだ? 

 

 こちらの言葉に、レオナは僅かに伏せていた顔を上げる。

 その瞳には、焦りというよりも、もっと深く、静かな葛藤の色が浮かんでいた。

 まるで、目の前に見えない壁が存在し、それをどう乗り越えればいいのか分からずに立ち尽くしているかのように。

 

「確かに、あの頃よりは周りを見渡す余裕ができました。皆に支えられ、隊長としての役割も何とか果たせているつもりです。ですが、一人のパイロットとしての壁が、どうしても越えられないのです。貴方のあの飛び方は、ただ技術が高いだけではない……何か根本的なものが違うように感じます」

 

 根本的なもの、か。

 彼女が言わんとしていることは、痛いほど理解できる。

 

 空戦とは、技術と機体性能だけで決まるものではない。

 そこには、経験、直感、そして何より、空に対する覚悟の深さが問われる。

 

 リノウチの空で、彼女はそれを肌で感じ取ったのだろう。

 

「その『何か』を傍で感じ、学び取りたいのです。それが出来なければ私は隊長として、皆の前に立ち続ける資格がないと……そう、考えております」

 

 ──リノウチの空で危なっかしい飛び方をしていた人物とは思えない程だな。レオナ、君は相当な努力家だ。

 

「……買い被りすぎです。私はただ、不器用なだけですから。……あの空で自分の無力さを痛感したからこそ、二度と同じ過ちを繰り返したくない。ただそれだけです」

 

 レオナの言葉が、静かな船長室に重く響く。

 過ちを繰り返したくないか。

 

 その思いの強さが、リノウチの空で死線を潜り抜けてきた彼女を、今もなお縛り付けているのかもしれない。

 それが原因でイケスカ動乱にて、一人で全てを背負わなくてはならないと勘違いしてしまったのかもしれない。

 

 ──誰にでも越えたい壁の一つや二つはある。だが、レオナほどのパイロットが進退まで口にするのは、やはり腑に落ちない。まるでその壁の向こうにいる誰かに、必死で追いつこうとしているように聞こえるぞ。

 

 こちらの探るような視線に、レオナは一瞬、言葉を詰まらせた。

 その動揺は僅かに泳いだ瞳と、無意識に握りしめられた拳が物語っている。

 図星、というわけではなさそうだが、核心に近い何かには触れられたようだ。

 

「……追いつきたい、というのとは少し違います。ですが、船長が何を考え、何を見てあの空を飛んでいたのか……それを知らなければ、私は前に進めない気がするのです。技術だけではない、その根底にあるものを」

 

 ──なるほどな。レオナが越えたい壁は、操縦桿の先だけにあるわけではないと。そういうことか。

 

 こちらの言葉に、レオナはこくりと小さく頷く。

 その表情には、ようやく真意が伝わったことへの安堵と、内面を曝け出したことへの僅かな羞恥が入り混じっていた。

 

 これは単なる技術指導の要請ではなく、もっと個人的で、切実な問いかけだ。

 彼女が本当に知りたいのは、技の巧拙ではなく、それを支える魂の在り方なのだろう。

 

 結い上げた髪から覗くうなじが、妙に目を引く。

 

 ──私から講師を受けた後、仮に前に進めたとしても、一人で悩まず隊員に頼る姿勢を崩すつもりはないよな? 

 

「はい、もちろんです。ですからどうか……。船長の時間を、少しだけ私たちに貸しては頂けないでしょうか。これはコトブキ飛行隊隊長として、そして一人のパイロット、レオナとしてのお願いです」

 

 背筋を伸ばし、改めて深々と頭を下げるレオナ。

 その姿に、かつて敵として対峙した空での記憶が重なる。

 

 彼女の真っ直ぐさは、あの頃から何一つ変わっていない。

 これでは断る理由など見つかりそうにない。

 

 ──分かった。その依頼、引き受けよう。ただし、条件がある。私は操縦桿を再び握るつもりはないこと、そしてコトブキ全体の講師を務める前にレオナだけを相手にさせてほしい。君が抱える壁の正体を、この目で直接確かめたい。

 

 私の返答に、レオナは弾かれたように顔を上げた。

 その双眸には、驚きと安堵、そして新たな決意の色が複雑に混じり合って揺れている。

 深く下げられていた頭が元の位置に戻るだけで、部屋の空気が少しだけ軽くなったように感じられた。

 

「お受け頂けるのですね、ありがとうございます! ……私が抱える壁ですか。船長はご理解されているのでしょうか?」

 

 ──パイロットなら誰しも抱える流行り病のようなものだ。壁というよりも魂に近い。

 

 魂、ですか。

 レオナがオウム返しに呟いた言葉は、船長室の静寂に吸い込まれて消えた。

 

 彼女の表情は、難解な数式を前にした学生のように困惑に満ちている。

 壁という物理的な障害ならまだしも、魂という捉えどころのない概念を前に、思考が停止してしまったのだろう。

 

 その生真面目さが、彼女の長所であり、同時に最大の枷でもある。

 

「……申し訳ありません。船長のおっしゃる意味が、私にはまだ……。魂、というのはその、精神論のようなものでしょうか? 気合や根性といった類のものとは、また違うものなのでしょうか?」

 

 ──それらは愚の骨頂ではなかったのか? いや、からかうのは止めておこう。それは技術の壁ではない。ましてや精神論でもない。もっと個人的で、厄介な感情だ。

 

「感情……ですか? 滅相もありません。私は常に冷静沈着を心がけています。私情によって判断を誤るなど、隊長としてコトブキ飛行隊の隊員たちに顔向けできません。それは断じて……」

 

 ──冷静であろうと努めることと、感情が存在しないことは全くの別物だ。むしろ、必死に蓋をしようとするからこそ、それは見えない枷となって君の翼を重くする。

 

 私の指摘に、レオナはぐっと唇を引き結んだ。

 反論しようにも、言葉が見つからないといった様子だ。

 

 無意識のうちに、膝の上に置かれた拳に力が込められているのが見て取れる。

 彼女は今、自分自身の心と戦っている最中なのだ。

 

 ──例えば、誰かの背中を追いかけている時、その姿が眩しすぎると自分の足元が見えなくなることがある。レオナが本当に追いかけているのは、私の操縦技術だけなのだろうか? 

 

「それは……。船長のようになりたい、という目標は確かにあります。あの絶望的な状況を覆した貴方の圧倒的な強さには、今でも……。ですが、それが私の操縦を鈍らせているというのなら、今すぐにでも捨て去らねばなりません」

 

 その言葉には、悲壮なまでの覚悟が滲んでいた。

 まるで、憧れを抱くことさえ罪であるかのように。

 彼女の中では、パイロットとしての成長と、個人的な感情が二律背反の関係にあると結論付けられているようだ。

 

 ──捨てる必要はない。むしろ、それこそがレオナをより高く飛ばせる翼になる可能性だってある。問題は、その感情の正体を君自身が理解していないことだ。君が見ているのは、リノウチの空で飛んでいた『私』という個人だ。レオナはその理由を、自分自身の魂に問いかける必要がある。

 

「……あの絶望的な状況を覆す一手に、誰もが目を奪われたはずです。私が特別だというわけでは……」

 

 言葉を重ねるほどに、レオナの声から自信が失われていく。

 まるで、自分に言い聞かせるように。

 彼女は無意識のうちに、自身の特別な感情を『皆と同じ』という一般論の中に隠そうとしている。

 

 ──他の皆は、あの空戦を『伝説』として語るだろう。だがレオナは違う。あの空を『謎』として、今も追い続けている。その違いが君の魂が抱える壁の正体だ。

 

 突き放すような、それでいて導くような言葉。

 レオナはハッと息を呑み、固く結んでいた唇を僅かに開く。

 

 その瞳が大きく見開かれ、私の顔とその奥にある何かを探るように、激しく揺れ動いていた。

 彼女の中で今まで見て見ぬふりをしてきた感情の蓋が、少しだけ開いた瞬間だったのかもしれない。

 

 ──追い続けるあまりに、情景が頭の中から離れなくなってしまった。と言ったところか。

 

「……否定はできません。あの瞬間、船長が風を掴み、常識という重力を振り切って舞い上がった姿。それは私の知る空戦機動の理屈を遥かに超えていました。瞼を閉じれば今でも鮮明に蘇るのです。あの光景が焼き付いて離れないのです」

 

 その言葉を吐き出すレオナの声は、どこか懺悔にも似た響きを帯びていた。

 理屈や理論を信条とする彼女にとって、説明のつかない現象に心を奪われているという事実は、己の未熟さの露呈に他ならないのだろう。

 しかし、その揺らぐ瞳の奥には、恐怖よりも強い渇望の熱が灯っている。

 

 ──それが『謎』の正体だ。理論で飛ぶなとは言わない。だが、極限状態で機体を支えるのは、計算式でもマニュアルでもない。あの空に焦がれる、どうしようもないほどの情熱だ。それを認めることから逃げてはいけない。

 

「情熱……。隊長である私の中に、そのような熱いものが存在しても良いのでしょうか? 指揮官としての責務と一人のパイロットとしての渇望。それが矛盾しても──」

 

 ──別に構わないだろう? 一心不乱は本来のレオナの姿であり、コトブキの隊長であるレオナもまた自分自身だ。

 

 レオナの手が、胸元のあたりをぎゅっと握りしめる。

 その仕草は、内側で暴れる感情を必死に抑え込んでいるようにも、大切な何かを確かめているようにも見えた。

 

 規律と感情。隊長と個人。その狭間で揺れ動く彼女の姿は、ひどく人間臭く、そして愛おしくすらある。

 

 ──矛盾していても構わない。むしろ、その軋みこそが推進力になる。私が空を飛んでいた時も決して澄み渡った心境だったわけじゃない。勝ちたい、守りたい、あるいは……誰かに見ていて欲しい。そんな雑多な感情をごちゃ混ぜにして燃やしていただけだ。

 

「誰かに、見ていて欲しい……。船長もそのような想いを抱いて操縦桿を握っていたのですか? 空を行く貴方にも誰か特定の……心を寄せる相手がいたということでしょうか?」

 

 途端に、レオナの声色が僅かに上ずった。

 真面目な顔をして、探るような視線を投げかけてくるその様子に、思わず苦笑いが漏れる。

 

 技術論の話をしていたはずが、いつの間にか随分と情緒的な方向へと舵が切られているようだ。

 だが、この変化こそが彼女の殻を破るきっかけになるかもしれない。

 

 ──さあな、それは想像に任せるよ。だがレオナ、君は今、私に教えを乞うている。それは単なる技術の向上だけが目的じゃないはずだ。レオナの視線の先にあるのは、かつての私か、それとも今の私か。それをはっきりさせないと教えられるものも教えられないぞ。

 

 少し意地悪な問いかけだったかもしれない。

 だが、彼女自身が自分の感情に名前を付けない限り、この訓練は始まらない。

 

 レオナは真っ赤になりながらも、決して視線を逸らそうとはしなかった。

 その瞳に映るのは、過去の幻影ではなく、今ここにいる一人の男としての私だ。

 

「……ずるい人です。そうやって私に言わせようとするなんて。……認めます。私は船長に憧れ、船長の背中を追いかけ、そして……今の貴方にもっと近づきたいと願っています。これが『魂』の一部だと言うのなら、私はもうこの想いから目を背けません」

 

 凛とした声が部屋の空気を震わせた。

 

 その言葉は隊長としての報告でも、部下としての相談でもない。

 一人の女性としての精一杯の宣言だった。

 

 彼女の中で、憧れとパイロットとしての矜持が複雑に混ざり合い、一つの強固な意志へと昇華されていくのが見えるようだ。

 

 ──その言葉が聞きたかった。いいだろう、レオナ。私の知る限りの空の理と、それをねじ伏せる魂の在り方、その全てを君に伝授してやろう。

 

「望むところです! この身が砕けようとも、必ずや船長の教えを血肉に変えてみせます。……あ、いえ、身が砕けては元も子もありませんね。ですが、それほどの覚悟で挑ませて頂きます!」

 

 先ほどまでの迷いは消え失せ、そこには晴れやかな表情を浮かべたコトブキ飛行隊隊長の姿があった。

 差し出された手を握り返すと、彼女の手のひらは想像よりもずっと熱く、そして力強かった。

 

 インクの匂いが漂う船長室で、新たな契約が結ばれた瞬間だった。

 

 ***

 

 船長の口から語られた言葉は、私の想像していた技術論とはあまりにかけ離れていた。

 しかし、不思議と否定する気にはなれなかった。

 

 あの日の空で見た、常識を覆す機動。

 あれが計算ではなく、感情の爆発の先によって生まれたものだとしたら、私も経験したことがある。

 

 船長の口から語られた言葉は、私の想像していた技術論とはあまりにかけ離れていた。

 しかし、不思議とそれを否定する気にはなれなかった。

 

 あの日の空で見た、常識を覆す機動。

 あれが計算ではなく、感情の爆発の先によって生まれたものだとしたら、私も経験したことがあるからだ。

 

 船長から抱えていた壁と魂、そして『謎』の正体を問われ、胸の奥底に沈めていた記憶が浮上してくる。

 かつてリノウチの空で、私はただ一心不乱に、理屈も恐怖も置き去りにして飛んだ瞬間があった。

 

 あの時、私の操縦桿を動かしていたのは隊長としての責務でも、勝利への執着でもない。

 ただ純粋に生き延びたい、この世界に自分を刻み込みたいという、焼けるような渇望だったのだと。

 

 理性や論理は、コトブキ飛行隊を守るために私が身に纏った鎧だった。

 だが、それと引き換えに、私は空を自由に駆けるための翼をも鎖で縛り付けてしまっていたのかもしれない。

 

 船長はそれを見抜いていたのだ。

 

 職務を放棄しろと言っているのではない。

 その職務を全うするためのエネルギー源となる、形のない熱情を肯定しろと説いているのだ。

 

 そして、その熱源の正体は、他ならぬ目の前の人物に向けられたものであることを、私は認めなくてはならない。

 単なる上官への敬意でも、英雄への憧憬でもない。

 

 もっと個人的で、独占欲にも似た、切なく胸を焦がす想い。

 隊長という肩書きの裏に隠し、自分自身さえも騙し続けてきた……恋慕という名の秘密。

 

 握り返された手のひらから伝わる熱が、凍り付いていた私の心の芯を溶かしていくようだ。

 この感情にどのような名を付けるにせよ、それが私の力の源泉であることは疑いようがない。

 

 隊長としての私と、一人の人間としての私。

 それらは決して相反するものではなく、むしろ互いを高め合う翼なのだと、今なら理解できる。

 

 恥ずかしさを覚えるほどに高鳴る鼓動は、発動機の轟音よりも強く、私の全身を震わせている。

 だが、その震えはもはや恐怖によるものではない。

 

 未知なる空へ飛び立つ前の、武者震いにも似た高揚感だ。

 

 船長の背中を追うことは、もはやただの憧れではない。

 それは隣に並び立つための標であり、この胸に灯った火を絶やさぬための燃料でもある。

 

 船長の魂に触れ、その熱を我が身に宿すことこそが、私が越えるべき壁の先にある景色なのだから。

 

 私は静かに、けれど確かな決意を込めて、その手を強く握りしめた。

 この特別講義、単なる技術の習得だけで終わらせるつもりはない。

 

 貴方という存在そのものを、私の空に刻み込むために。

 

「……よろしくお願いします、船長。覚悟してください。私は貴方が想像するよりも遥かに貪欲な生徒になりますから」

 

 繋いだ手から伝わる圧力が、私の言葉に応えるように強まる。

 目の前にいる船長は、私の不遜とも取れる宣言を楽しげな笑みで受け止めた。

 

 手を離し、私は踵を返して扉へと向かう。

 背筋は以前よりも伸び、足取りは軽い。

 

 扉を開けると、そこにはいつもと変わらない船内の廊下が続いていた。

 だが、私の目には今までとは違った色彩で映っていた。

 

 壁の向こうに広がる空が、私を呼んでいる気がする。

 

 私は歩き出す。

 憧れを燃料に変え、理屈を超えた翼を広げて、恋焦がれた情景へと、迷いなく飛び込むために。

 

 必ずその背中を追い越し、船長が見た景色よりもさらに高い場所へ辿り着くために。

 そしていつか、この想いを言葉にして伝えられる日が来るまで。

 

 私は飛び続ける。

 荒野の空に、私たちの軌跡を描くために。




同じことの繰り返しになりますが、チラシの裏で掲載にも関わらずお待ちいただき、お読みいただいたことに深く感謝いたします。

謎多き船長でもありますが、それもまた私の中で生み出された船長の一人ということで楽しんでもらえたならば幸いです。

最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
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