荒野の空、イジツの片隅、ユーハングの情景 作:星1頭ドードー
差し込む朝日が格納庫の埃をきらきらと照らし出し、冷えた空気が肌を刺す。
隼の機首を掌で撫でると、ひんやりとした金属の感触が指先から伝わり、昨日の空戦の熱が嘘のように静まり返っているのが分かった。
ナツオ整備班長の手によって完璧に調整されたプロペラが鈍く光る。
今日という日が特別なのは、単に自分が一つ歳を重ねたからだけではない。
私にとって、空を飛べるのなら毎日が記念日のようなものだ。
それでも、と心の中で付け加える。
今日はやっぱり特別だ。誰かに祝ってほしいとか、大げさなパーティーがしたいわけじゃない。
いや、ゴメン、嘘。盛大に盛り上げて欲しいという気持ちも存在するけど……。
ただ、コトブキのみんなと一緒に迎えられた今日という日が、なんだか少しこそばゆくて温かいのだ。
羽衣丸にあるサルーンへ向かうと、いつものパンケーキの焼ける甘い匂いと、仲間たちの賑やかな声が響いてくる。
私が席に着くと、チカが意地悪そうな笑みを浮かべて覗き込んできた。
「おはよーっ、キリエ! 今日はやけに遅くない? いつもなら真っ先に飛んできて『本日の主役』アピール全開で『パンケーキをよこせ!』って騒いでるはずなのに、もしかして歳とって落ち着いちゃった? まさか誕生日の朝にセンチメンタルになっちゃってるわけ? 似合わない、似合わない!」
「はあ!? そんなの全然関係ないし! 散歩がてら羽衣丸を歩いてただけだっての! それに、落ち着きがないのはチカの方じゃん! 朝からうるさいんだから、少しは黙って食べたらどうなの?」
「ざんねーん! キリエが来るまでは一口も手を付けてませんー。朝から散歩とか、声掛け待ちで歩き回ってたとかだったりして!」
「そんなわけないでしょ! 私はただ、自分の愛機に『おはよう』を言いに行ってただけだし!」
「……はぁ、二人とも朝からうるさいですわね。元気なのは良い証拠ですが、食事の前くらい静かにできませんの? 折角の記念すべき日だというのに、そんなふうに顔を真っ赤にして言い争っていては、美味しい料理も台無しになってしまいますわよ」
上品に紅茶のカップを傾けながら、エンマが呆れたように溜息をつく。
私は言い返そうと口を開きかけたけど、視界に入ったレオナがやれやれといった表情でこちらを見つめ、ザラは微笑み、対照的にケイトはいつも通りの無表情。
なんというか、いつも通りの日常だ。
「騒がしいのはいつものことだが、エンマの言う通り料理が冷めてしまっては、カウンターにいる二人に悪いぞ? ほら、席に着け。リリコが新しいパンケーキを考案してくれたらしいぞ。キリエが一番乗りで味わえるなんて光栄だろう?」
「品質を維持しながらもキリエの要望する量にも対応。通常のパンケーキをおかわりするのも良いが、今回は仕様としてタワー状に積層されたパンケーキの頂上に、特別製のベリーソースでマーキングを施した特別な一品。計算上、糖分とカロリーは通常の三倍に達するが、今日だけは許容範囲内と推測する」
「つまり『お誕生日おめでとう』ってことね。ほら、キリエ。冷めないうちに食べて。リリコがあなたが引く飛行機雲みたいに高く積み上げたんだから、全部平らげるくらいの勢いを見せてくれないと困るわよ?」
運ばれてきたパンケーキの塔を見上げ、私はゴクリと喉を鳴らす。
頂上から垂れる赤いベリーソースが、まるで朝焼けの空を切り裂く飛行機雲のように鮮やかで、湯気と共に甘い香りが鼻腔をくすぐった。
私の両肩をポンと叩くリリコさん。普段はクールな彼女が、ほんの少しだけ口角を上げて微笑んでいるように見える。
「通常メニューに加えるのは難しいけれど、たまには新しいことにも挑戦しないとね」
「リリコさん、ありがとーっ! いただきまーす! ……んーっ美味しい! リリコさんのパンケーキは最高! ソースの酸味が絶妙で、いくらでも入りそう! カロリー三倍とか言ってたけど、飛べばゼロになるから問題なし!」
「一体どういった理論を展開すれば摂取したカロリーが消失するという結論に至るのか、ケイトには理解不能。物理法則を無視した思考は、キリエの操縦技術と同じく予測不能な性質に近いのかもしれない。だが、生体活動および高機動戦闘における燃料補給という観点に基づけば──」
「──ケイト、キリエの言うことを真に受けてはいけませんわ。単に食欲を正当化したいだけですもの。いくら本日の主役だからといって物理法則まで捻じ曲げられては、たまりませんわ」
「そうそう! キリエのことだからなにも考えてないに決まってるって! 食べた分だけ働けばいいとか、そういう単純思考なんでしょ? まあ、今日くらいはその能天気さに付き合ってあげるけどさ!」
こちらが口いっぱいにパンケーキを頬張って喋れないことをいい機会だとばかりにからかってくるチカに対し、私は喉に詰まりかけたパンケーキを強引に流し込み、大きく息を吐いてから精一杯の反論を口にする。
「んぐっ、ごくん! ……ぷはっ! 人が喋れない時に言いたい放題! 単純じゃなくて、純粋に空とパンケーキを愛してるだけですー! チカに分かるかなー? 分かんないだろうなー」
私の挑発とも受け取れる言葉に、チカは「はいはい」と肩をすくめながら受け流し、他のみんなはくすくすと笑い声を漏らす。
いつもの喧噪が落ち着いた頃合いを見計らって、レオナが咳払いを一つし、居住まいを正した。
最後の一切れを口に放り込んだ時、テーブルの上に小さな包みをこちらへ置いた。
「そこまでだ。その元気は空賊が現れた時に使うように。だがその前に、キリエ。これはコトブキ飛行隊全員からだ。中身は開けてからのお楽しみだが、受け取ってくれるか?」
「えっ、私に? パンケーキだけで十分すぎるくらいなのに……開けてもいい?」
驚きつつも包装紙を丁寧に剥がすと、中から出てきたのは手のひらサイズの刺繍ワッペンだった。
白い縁取りの中に、鋭く広げられた翼のデザイン。
それはただの翼ではなく、鮮烈な深紅の糸で縫い上げられた『赤い翼のエンブレム』。
私が搭乗する隼の尾翼に描かれているものと同じで、指先でその刺繍をなぞると、糸の一本一本からみんなの想いが伝わってくるようで、胸の奥がじんわりと熱くなる。
それは、荒野の空を自由に、そして誰よりも速く駆け抜けるための翼の証だ。
「これ……私のパーソナルマークじゃん! この赤色とか機体のとそっくり! すごく気に入った! ありがとう!」
「監修はケイト、糸の選定はエンマ、そして主な縫製はチカが担当したのよ。私とレオナは最終的な仕上げと梱包を担当したわ。このワッペンがあなたを守ってくれるようにって、みんなで願いを込めたのよ」
「ふあっ、みんなと飛べるだけでも十分なのに……最高に嬉しいよ! どこに付けようかな。コート? いや、帽子? うーん、迷うなー!」
「そんなに迷うなら、一先ずポケットに仕舞っておきなさい。そうすれば、いつでも取り出して見れるでしょうに。そのワッペンは、キリエの飛びたい気持ちを後押しするお守りなのですから」
「ユーハングではフライトジャケットに取り付けるのが一般であるが、個人のエンブレムを付ける位置に厳密な規定はない。個体識別の観点から言えば、最も視認性の高い胸の辺りが合理的と判断」
「ケイトは相変わらずね。これはお守りなんだから、キリエが一番しっくりくるところに付ければいいのよ。いつも視界に入る場所とか、ね?」
「でもオタカラ入れの中に仕舞うのは禁止だからね! 箱を開けてニヤニヤしてるキリエの姿なんて想像したら鳥肌が立つし!」
「私たちコトブキ飛行隊全員の想いが乗った翼だ。だから、キリエが一番力を貰えると感じる場所に付ければいい。キリエが空にいる時、私たちはいつもその翼を見ているぞ」
「レオナの言う通り! どうせならおデコにでも貼っときなよ! そしたら空賊もビックリして逃げ出すかも!」
「そんなところに貼るわけないでしょ、バカチ! 風圧で剥がれちゃうに決まってるじゃん! でも、この翼は私の大事な御守りだから、ポケットにこっそり仕舞っておくよ」
みんなの視線が、私の手の中にある小さな翼に集まっている。
ただの刺繍じゃない。これは、みんなが私のために時間を割いて、一針一針縫ってくれた、想いの塊だ。
「そうだな。それが一番キリエらしい選択かもしれないな。空を飛ぶ時、その翼がキリエをそっと支えてくれるだろう」
「物理的なダメージを避けるという点では、ポケットは合理的な選択。外部からの衝撃や摩擦、排気による劣化を防ぐことができる。その行動原理は感情論ではなく、実用性に根ざしていると判断」
「ふふっ、内側に隠しておけば、キリエだけの秘密のお守りになりますわね。その赤が今日の空を、そしてあなたの機体を祝福しているはずです。存分に楽しんでいらして」
「キリエがこれだけ喜んでくれたのなら、いっそう全員のワッペンを作るのもいいかもしれないわね」
「そしたらキリエのコートに全部貼り付ければ、空賊除けになるかもよ!」
「そんなに貼り付けたら空賊どころか誰も寄ってこなくなるし!」
大切にワッペンをポケットにしまい、満足そうに隼の発動機を吹かす自分の姿を想像するだけで、もう待ちきれない。早く飛び出して空を謳歌したい。
ポケットの中の小さな赤い翼に私の体温が移り込む。こちらの熱を静かに包み込んでくれているのを感じられた。
この翼は、私が何にも縛られず荒野の空をどこまでも飛んで行ける証。例えどんな空であっても飛んでいけるって、みんなが教えてくれてる気がするんだ。
誰よりも速く、そして自由に、ね。