荒野の空、イジツの片隅、ユーハングの情景 作:星1頭ドードー
あれはイヅルマへと停泊していた日の事。
戦力の貸し出しをしてくださるエライ人達とカナリア自警団の上司である部長さんとお会いした日の事だ。
先程、エライ人達にもした様に頭を下げて日頃の感謝を部長さんに伝えていたところ、案内役として一緒に付いて来てくれたシノが気恥ずかしそうに「止めなさいよ!」と言わんばかりに私の尻を叩いた。
とはいえ町からすれば貴重な戦力を貸し出している事実に変わりない。お礼は伝えなければならない身分でもある。
両腕を組みならがそっぽを向いているシノを見ながら、乗っかるものが無いなぁと思いながらお尻を撫で返す。やられたらやり返す。十分の一ぐらいのさじ加減で。
当然ながら激おこになったシノから放たれた拳は、私の脇腹へと埋まる様にめり込んでいく。
流石、ユーハング体術を一通り学んでいるだけの事はある。あのか細い腰を捻らせるだけでこの威力を叩き出せるとは。
お預かりしている子たちはこのように元気です。そんな世話話しを部長さんに投げかけ、笑って誤魔化す。シノは私に拳を撃ち込めた事で怒りを発散できたのであろう、激おこからおこぐらいまで溜飲が下がったようであった。怒りに任せて瞬間沸騰をしたせいで、顔に赤みを帯びていたが。
その時の話題の一つとして、とあるお店の話しが挙がった。
なんでも此処から東へと飛んだ先に、隠れた名店があると。そこの店の亭主である人物曰く、まだ材料の安定供給が整っておらず一見さんお断りの状態が続いているそうだ。
部長さんの話しを聞いていると無性に食べたくなるのが不思議だ。これはきっとユーハングに伝わる「落語」という文化ではなかろうか。
その題材として有名なのが、今話題にも挙げられている「そば」の話しだ。
……いかん。無性にそばが食べたくなってきた。名店の名前を聞き出そうとするが「店に辿り着いたとしても食べさせてはもらえませんよ」としたり顔。鼻フックでも仕掛けてやろうかと思うが堪える。
接待を終えて飛行船へと帰る道中の事、教えていただいた店名を聞いてからずっと頭に引っかかっていた謎が解けた。
確かゲキテツ一家と関わり合いがあったのではないかと。
そうだ、一家の首領代理を務めているフィオが照れ臭そうに「あ、ありがと……せんちょ」と伝えてきた時に聞かされた話しの中に存在していた名前。
なるほど、今流行りのインテリうんちゃらというやつか。ステゴロで飯が食える時代じゃないもんな。
一人で納得していると、隣にいるシノから猛抗議を受ける。やかましいので一度静止し、私の掌を見つめる様にと指示を出してシノに向けて手を差し出す。
突然の事でたじろぐシノ。突き出した手をもう片手と合わせて柏手一つ。現れるのは一つの白い花飾り。
名称で伝えるのならばブートニアと呼ばれる物。カナリア自警団の制服と色合いを合わせたその花を、ちょちょいと手直しをして長めの襟に取り付ける。
イサオに無理矢理教えられた手法であるが、ここで役に立つとは。
「女性には手品と花束と笑顔さ!」とミニにタ……耳にたこができる程聞かされていたから。
あれだけ騒がしかったシノにも通用する技。その表情には恥じらいと嬉しさが入り混じっている事が分かる。
カナリア自警団の団長であるアコが酔っ払い、絡み酒になった後も真面目に話を聞いておいてよかった。
ただし、今後は深酒をさせるのは止めておこう。
「シノさんなら優しくされたらイチコロれすよ! ちょろっちょろれすから! そこがかーいんですけど!」等と隊員について語る団長の姿を他の子には見せられない。
話を戻そう。今日の目的はそばだ。如何にしてそばを食べるかが課題となる。
一見さんお断りのそば屋でそばを頂くにはどうすればよいか。これについてはゲキテツ一家の誰かに付いて来てもらえば解決する。
問題は誰を連れて行くか。順に考えてみよう。
フィオ。
いくら関わり合いがあるといっても、ゲキテツ一家の事実上トップを引き連れていったら相手を委縮させてしまうのではないだろうか。
エライ人が唐突に表れてサプライズと陽気に言われても、現場の人間からすればクソウザイのが来たとした思われん。
何よりそばが食べたいと伝えれば「そんなものより私のお手製おにぎりを食え! さぁ食うんだ!!」そう押し付けてくるに決まっている。今日はそばの気分なんだ、悪いな。
ローラ。
話しの中で妹さんがそのお店で働いていると聞いた事を思い出す。
自分の職場に家族がやってくる事の気恥ずかしさはよく分かる。
家族からは茶化され、職場の同僚にも温かな目で見られ、気恥ずかしさで死にそうになる。
お姉ちゃんが現れるだけとはいえ、妹さんをそんな目に遭わせる訳にはいかない。妹さんの名誉を守らねば。
イサカ。
秒単位で細かいイサカに対して唐突にそば食べに行かない? と言って付いて来てくれるものだろうか。
前回も似たような事で飯食いに行かない? と伝えて失敗した記憶が蘇る。
「うーぁー」と言葉に詰まる程の否定。上司と部下という相反する役職の間にはソウウン峡谷よりも深い谷があるものだ。泣けてきた。
ニコ。
船長室の扉を直してくれる手元が大変器用な子で、何より私を頼りに相談事をしてきてくれる。
確か内容は「私の目の前で天使たちが集った場合、どう対応すれば良いのか」だった記憶がある。とりあえず鼻栓しておけと伝えた。
ニコ。うん、良いんじゃないか。早速……、あ、駄目だ。あれでいてゲキテツ最年少だ。夜遅くなったら身体に悪い。ごめん、また今度な。
シアラ。
彼女を連れていかねばならないのか。そばを食べるような格好もしていないし、そもそも付いて来るより付いて来なさいの女王様だ。
何かとつけて船長室に忍び込み、様々な忘れ物をしては他の人達を驚かせるような子でもある。
ハンカチ程度ならまだしも、片足だけ残されたブーツであったり、酷い時はタイツまで残したりと忘れっぽい所があるのもイカン。そばを食べた後、私を置いていかれたらたまったものでは無い。うっかりさんめ。
そうなると、残されたのはレミか……。
年中飲んだくれの彼女には、何かと手伝ってもらう機会が多い。
昔の杵柄とでも言えばいいのだろうか、ユーハング酒はあり余るほど所持しているので、それを対価として働いてもらっている。
会う度にシャツの一部であるボタンが外れているので、取り付けてあげるのが日常化しているのだが、大丈夫なのだろうか。手が震えてうまく付けられないのではないだろうか。
これでは妖艶ではなく、だらしない様に見られるだけだと伝えているのだが、本人は至って気にしていない。
レミの子分たちが飛行船に乗り合わせていてくれたならば、きっと私の代わりに指摘してくれるのだろう。むしろ私が子分たちの代わりみたいなものか。船長とはいったい。
それでも、ゲキテツ一家の中では無難な選択ではなかろうか。
イザとなればユーハング酒をあげればいいんだし、そばを食べに行くぐらいなら付いて来てくれそうだ。よし、決まりだ。今日はそばだ。
飛行船へと戻り、レミを見つける決意を固める。シノをあの場に置いてきた事をすっかりと忘れながら。
かくして、私を後部へと押し込んだレミの愛機である零戦五二型は、進路を東へと向けた。
「船長だって昔は名を馳せたパイロットだったらしいじゃないっすか~。何で自分で操縦しないんすか?」
特に深い意味は無い。しいて言うならばゲン担ぎ。所詮、昔の事なので忘れて欲しい。敗戦した兵に英雄はいないのだ。
あと、ご飯を食べた後は無性に眠くなる体質だから戦闘機の操縦なんてまっぴらゴメンである。帰りはよろしく頼む。
「それはそれでどうかと思うっすけど……。まぁ船長がアタシを選んでくれたって事で許してあげるっすよ、へへっ」
コイツ、そんなに今日はそばの気分だったのか。もしかしたら私が誘ったせいでその気分になってしまったのかもしれないが、嫌々付いて来られるよりはマシだ。
イザという時の事も考えて、財布の中身もキチンと確認してきた。機体の燃料費はエライ人が支払ってくれる。普段は煙たい人達もケツ持ちと考えれば便利でたまらんな。レミにそば奢ったろ。
「でも大丈夫っすかね~。ゲキテツとの間で起きた出来事について、フィオから話しを聞いているんすよね、船長?」
聞いているからこその人選だ。レミを選んだのも、レミであれば何か起きても問題無いと判断したうえでのことだ。
後は個人的に頼みやすいのも良い。他の人選は、連れて行こうか悩む時点で問題が発生するが、レミであればアル中で痴女である意外は問題ない。
「なっ!? アタシはアル中……は置いといて、痴女じゃないっすよ!! それだとザラやロイグにヘレンはどうなるんっすか!!」
お山よし、くびれよし、お尻もよし、言う事ないだろう。
ってやめろレミ! 後部に私がいる事を忘れているだろう!! 戦闘機動はやめっ!?
『そこの機体、ここから先は極殺会のシマだ、今すぐ……ってゲキテツ一家!?』
「船長、相手のお出迎えが来たっすよ~。一体どうするんすか~?」
全身むち打ち状態の私でも分かる。なんと、そば屋からお迎えの機体が飛んで来た。これが一見さんお断りの看板を掲げている程のそば屋の接客術。まさにおもてなしの心。
お店についてからお品書きを見せてもらい、温か、冷やしかで悩む予定であった自分が情けなくなってきた。
私に出来る彼らに対しての最大の敬意はなんだ? そばを食べる事以外で何かできると? ならば、そばの腕前を一番良く分かる品を選ぶ事で彼らに敬意を伝える事が出来るのではないだろうか。
品は決まった。勝手に注文を決めてしまう事をレミには悪い気がしたが、許してもらおう。奢ってあげるから。
一杯のかけそばを頂きに来た。
無線を通じて相手に伝える。しばらく誰かと話し合いをする声が聞こえた。注文内容の確認は大切だからな。厨房に連絡を入れているのだろう。
しばらくして、付いて来いと無線が入る。指示通り飛行するようにレミに伝える。
そばの在庫が残っていて良かった。ここまで来てそば切れの看板が掲げられたら私は何を食べれば良いか悩むところだったから。
「……本当に通して貰えるとは思ってなかったっすよ、これで駄目だった場合はどうするつもりだったんすか?」
その時は私が機体から飛び降りる。その後はレミだけでも帰還すればいい。
今日はそばの気分なんだ!! 亭主に頼み込んで食わせてもらうまで帰らんぞ!!
「そんな事出来る訳ないっす!! 船長が残るんならアタシも残るっすよ!!」
最後の言葉を聞いてなかったのか。
まぁそのような事態に陥らなかったから良かったじゃないか。
せっかくここまでやってきたんだ。一緒に美味しく頂こうじゃないか。
「もう……船長のそういうところ、卑怯っすよ」
私とレミは一つの席に並ぶようして座っている。
そばを打つ音、つゆの良い香り、出された緑茶を口にしながら待つ。その時間さえもが心地よく、楽しみを倍増させてくれる。
案内された先にあった店舗は、質素の一言である。それもそのはず、お店は飛行船の中にあったのだから。
まさか移動式屋台とは。気合の入ったそば屋だ。是非とも次回は同伴ナシでも通えるように頑張らねば。
「まさか、かの有名なリノウチの英雄にいらして貰えるとは。それもゲキテツの幹部と共に」
随分と強面の亭主がそう言葉を放つ。
その呼び方は止めてくれ。今はしがない新米船長だ。それに英雄はイサオだろ? 外見も中身もあんな感じではあったが、イケスカを今の規模に膨らませたのは言うまでもなくイサオの手腕によるものだ。
「あのような騒動を引き起こさなければ、としか」
それを言ってしまえば、私たちが最初に事を引き起こし、イサオにやり方を教えてしまったようなものだ。
人の心ばかりはどうにもならん。イサオにはやりたい事があり、あのような方法でしかやり方が無かったんだろう。
……まだ昔話に花を咲かせる歳でもないだろ? そばは頂けるか?
「勿論、何を頼むでもなく、あの品を選んでくれたお二人には最高のかけそばを提供させて頂きます」
ありがたい。このような押しかけ当然でやってきた人間に最高のそばを出していただけるとは。
感謝の極みが自然と亭主に頭を下げる行動へと変化していた。
驚く亭主に呆れるレミの視線。亭主は私と同じように頭を下げ、厨房へと戻って行く。
「せんちょ~。人が良すぎるのもどうかと思うっすよ~」
当たり前の事をしたまでだ。それに何か起きたとしても、レミが傍に居てくれるからな。頼りにしているぞ。
女性がしてよいのか判断に困る表情をしたレミ、深い溜息をつく。
「こういうところが、飛行船に居るみんなを垂らし込んだ魅力なんすかねぇ」
「お待ちどうさまでした、かけそばでございます」
見た目は素朴ながらも香り立つ湯気、葉による色合い、どれ一つ妥協を感じさせない。
出された箸を手に取り、いただきます。
まずは一口、少なめの量を掴み、そばを啜る。抵抗を感じさせず、滑らかにそばは口の中へと滑り込む。
固すぎず、柔らかすぎず、歯ごたえも楽しめるよいさじ加減。素晴らしい。今日はそばと決めて、この店に出会えた事に感謝を覚える程に。
レンゲを使い、つゆを頂く。イジツでよくぞこの味を。醤油はともかく、みりんやだし汁をどうやって作り上げたというのだ。
「そこが我々の問題点でございます。良いそばが打てたとしても、そばをより一層引き立てるつゆが出来なければ意味の無い事」
なるほど、一見さんお断りにも正当な理由があったという訳か。
確かに、現状のイジツでこれらを大量生産出来るのか、問題が浮上する。
例え、大量生産が可能になった未来があったとしても、素材ばかりを頼りにし、そば打ちを蔑ろにする店が蔓延するだけであろう。めんつゆは美味しいもんな、野郎に食わせる料理に使っておけば大概美味いって言うし。
そう考えれば店の味を守る為に制限を掛ける事も致し方ないと思える。
……ところで今何時だ?
「あーもう船長の門限ギリギリの時間っすね。残念っすけど今から急いでも……ってうえぇぇ!?」
前から思っていたけれど、私の門限だけ他の子たちより一時間は早いよね!? そんなに信用ないのかな!?
間に合わないから諦めるか。その手段も勿論アリだと私は思う。効率的な事も考えると尚更。
だが残念、私に指示を下す事が出来るエライ人達は、最後まで努力して失敗しろ派なのだ。無理でもやれ、最後まで手を抜くな。
悲しき勤め人、身体に刻み込まれた習慣はそう簡単には変えられない。でもそばは食べたい。ならばこうするまでだ。
椅子から立ち上がり、いつでも移動出来る体勢になる。その状態で器を手に持ち、そばを啜る。
啜り、啜り、時折、つゆを飲む。口の中が火傷しようと構わない。ただ、ひたすらにそばを最速で味わう。
最後のつゆを飲み干す為に器を傾ける。幾度か鳴る喉の後に空になった容器だけが残された。
大きい溜息一つ、大変美味であった。可能であればじっくりと食したいところであったが、門限の存在をすっかり忘れていた私が悪い。
私の姿を見ていたレミも正気に戻り、小さな口を尖らせて息を吹きかけ冷ましている。
啜るのは不慣れなせいもあるのだろう、たどたどしい姿ながらも口に運び、美味しさに笑みを浮かべている。
「船長さん、そばの上手い食い方を知っているね」
そんな事はない。出来ればじっくりとこの素晴らしいそばを余すところなく味わいたかったのだが、今の私には余りにも時間が無さすぎる。
この歳になって年下のうら若き乙女たちに怒られるという行為は、特殊な性癖をお持ちの方以外はお辛い。
罰として酒場で散々奢らされるのだ。それだけならまだしも宴会が終わるまでその場に止まらなければならない仕組みである。
上司と一緒に飲んでも愚痴一つ言えないのだから楽しい事なぞなかろうに。それでも彼女たちは私が席を外す事を許してくれない。
キャッキャしていたり、ウフフな状況であったり、百合百合な展開も多少なりとあるのだが、見つめる訳にはいかない。罪状が増えてしまうだけだ。
そんな未来が今かと待ちわびているが、だからといってレミが食べ終わる前に帰る訳にもいかず、帰れる訳も無い。ここが何処なのかまったく分からないから。
このままではレミを急かしているような状況だ。素晴らしいそばを私のせいで味わえない事になってしまったら目も当てられない。私の事は気にせずゆっくり食べる様に伝える。
一度、椅子に座り呼吸を整える。横からそっとそば湯が注がれた容器が差し出される。
その手は白くか細い、触れたら壊れてしまうのではないかと思わせる程、華奢な手だ。
そこから視線を上げていくと、作務衣の上にエプロンを身に纏い、手ぬぐいで髪をまとめている女性の姿がある。なるほど、彼女がルーガか。
「私の自慢の弟子です。このそばも彼女が打ちあげた物です」
給仕ではなくそば職人が直々に顔を出してくれたのか。
しかし、尚の事、ローラを連れて来なくてよかった。「お姉ちゃん、来てるよ」なんて言われた日には動揺を隠し切れないであろう。
給仕として働いているのであれば注文の品を運んだ際に一言二言、言葉を交わすだけ済む話しであろうが、そば職人として働いているのであれば味にムラが出るところであっただろう。
ローラには済まない事をしたが、在るべき味を堪能できた事はありがたい。再び席を立ちお辞儀をさせてもらう。
ルーガは驚きの表情を見せる。そうだ、これはユーハング式お礼術であった。だが、彼女も私と同じようにお辞儀をしてくれた。流石は名店。この様な作法まで知っているとは。
厨房へと戻って行くルーガ。その姿が消えるほんの僅かな一瞬、拳をグッとしていたのを私は見逃さなかった。そば職人に認めてもらえたようだ。
「良いお客に巡り合えました。おかげでルーガのそば職人としての腕も上がる事でしょう」
何時の間にやら可愛らしくふーふーしながらそばを食していたレミも完食しており、我が家へ帰投すべく格納庫へと足を運んだところ、見送りまでしてくださる亭主とルーガ。
この様子であれば、今度は私一人でやってきてもそばを頂く事が出来るであろう。問題はこのお店が移動式屋台であるという事だ。
ここへ飛行機ナシでどうやってくればいい。食事後のせいで眠気が襲いかかり、猛烈に眠い。誰かを連れて来なければ帰りの手段が取れず、そば一杯の為に一泊コースへとなってしまう。イジツに代行かタクシーさえあれば。
そんな私の前に一歩躍り出て何かを差し出すルーガ。顔に残る傷跡が少しばかり痛々しい。
お酒を飲んでいた時にローラが零していた事を思い出す「私のせいでルーガが酷い目にあった」
確かに大きな傷跡は残ってしまった。しかし彼女の瞳は死んではいない。
そば職人として辛い見習いの時期もあっただろう。それを乗り越えた彼女は今や立派なそば職人だ。自分の進むべき未来をきちんと見据えている。
長きに渡り、離れ離れになっていた事を考えれば、ローラの考え方にも賛同は出来る。だが、離れていた分の時間を取り戻すにもある程度の緩急は必要だろう。
ゆっくりと時計の針を進めてゆけば良い。ローラは私の飛行船に、ルーガはここに居るのだから。
ルーガの傷跡を優しく撫でる。くすぐったいのであろう、目を細めて成すがままに撫でられている。
一部、大きく外向きに跳ねている髪、艶やかでサラサラの手触りがする。なんてことはない、姉妹らしい共通点があるではないか。
名残惜しいが、ルーガから手を離す。そして差し出されていた封筒を受け取る。
「私の姉だとほざく奴に渡してくれ」
妹さんは多感なお年頃であったか。お姉ちゃんを奴呼ばわりしてはいけない。折角の美人姉妹なのだから仲良くして欲しいと思う。
受け取った封筒の表面で頭をぺちぺちと数回。シュンとさせてしまったが、もう一度だけ頭を撫でさせてもらう。
まさに船長権限。この場合はお客様は神様とかいう理解不能な理由で行っているセクハラか。だが抗議の声は挙がらない。後ろからやたらと殺気めいた視線を送り付けてくる子がいるが、飛行船では日常的な事なので問題無し。
さっ帰るとしますかね。代金は既に支払った。預かり物も手にしている。大丈夫だ、忘れ物は無い。
よろしく頼む。レミにそう伝えると同時に空いている手で髪をわしゃわしゃとかき混ぜる。
レミがいなければ帰る事すらままならない。まさに私の生命線と言っても過言ではない存在だ。
突如として飛行船では感じた事の無い殺気を感じ取り、辺りを見回すが、ルーガとその他大勢以外は見当たらない。
しいて言うならば、賭け事を始めた時のベルと同じ様な目をしているルーガがその場にいるが、そば職人としての波を感じ取ったのだろう。お邪魔しては悪いので早く帰ろう。
こうして、今日はそばの気分と決めてから食すことに成功した一日の流れである。
ご多分に漏れず、門限はある時間を境に時が止まり、私と共に歩むのを止めた。
早々に時間に間に合わせる事を諦めて、しょっぱい物を食べた事もあり、レミに甘い物を食べに行こうぜ! と誘い、寄り道をして帰ってきたのだから当然である。帰るという意志は見せつけたので大丈夫だ。
帰りの飛行前には、ついに眠気を耐えきれなくなり、飛び立つ前にレミから居眠りの許可を貰う。
目を閉じ、そっと力を抜く。自然と襲って来る眠気に意識を委ねながら。
夢の中では暖かくて柔らかな感触と、鼻をくすぐる髪からはよい香りがする。
相手は吸血姫らしい。身体中をはむはむされてしまった。
後日、船長室に呼び出したローラにルーガより託された封筒を渡す。
その場で開封をし始めるローラ。部屋に戻ってからゆっくりと見れば良いと思うのだけれど。
取り出された紙を見つめ、次第に口元を手で覆い、目を閉じ始める。
椅子から立ち上がり、ローラの目の前に立つ。ハンカチを手渡そうとしたのだが、ローラがそのまま私に身体を預けてくる。
船長として、一人の人間として、無下に扱う訳にはいかない。肩と腰に腕を回して抱きしめ、ローラの好きにさせる。
意識を取り戻したローラが自分の状況を把握し始めた事により私の腕の中で再びあたふたとし始める。
落ち着かせる為に、更に力を込めて抱きしめる。私の胸にちょこんと乗せられていた手が、次第に服を掴むようにぎゅっと握り締める。
頭は肩に寄せられ、首筋には吐息がかかる。しばしの間、私は幸せの絶頂にいたと断定しても良い。この後の話が無ければだが。
握られた服は離され、私に向けて一枚の紙を渡そうとするローラ。
肩に回していた腕を一度引き戻し、紙を受け取る。手渡したローラは再び顔を私の首筋に近づけさせ、匂いを嗅ぐような仕草をしている。女性の多い職場、体臭に気を付け、毎日シャワーを浴びているから大丈夫だとは思うのだが。
折り畳まれた紙の表面には「船長へ」とそっ気のない一文。
紙を広げてローラ越しに読む事にする。
船長へ
私の事情は既にご存知かと思うが、気になる事があるのでそれだけを伝えたくて筆を執っている。
私は記憶喪失だ。その私には兄妹がいたらしい。誤字ではない、兄妹だ。姉妹ではない。
私を妹と呼ぶ奴がいる。だが、奴はどうみても女性なのだ。
可能であれば、奴の事を調べて教えて欲しい。私たちは兄妹なのか姉妹なのか。
P.S また、会いに来て欲しい。
心臓が掴まれる。一体どういう事だ。私の腕の中で身体を預けている人物は……。
こちらの事情なぞ露知らずのローラ。私の身体に自分の匂いを擦りつけるように頭を動かし続けている。
こんなにも可愛らしい仕草をしているのに、こんなにも華奢な体格をしているのに、生物学上は私と同類だとでも言うのだろうか。ローラにはローラが付いていてウゴウゴでルーガしてしまうとでも言うのか。
こちらの視線に気が付いたローラ。少し恥ずかしそうにモジモジと動く。頭を後ろから抱きしめ、私の身体に顔を埋めさせる。
私は何も見ていない。私は何も聞いていない。私は何も知らされてはいないのだ。