荒野の空、イジツの片隅、ユーハングの情景 作:星1頭ドードー
あいつのことか?
ああ、知っている。
話せば長い、そう複雑な話だ。
知っているか? この飛行船は三つの人間で分けられる。
一つはローラを女性と認識している者
二つはローラを男性と認識している者
三つはローラの性別など気にしない者
この三つだ。
奴は──。
……やめやめ、悪ふざけはこれぐらいにしとこう。実際はとても複雑なんだよ。ローラとの関係は。
これが人の世に蔓延るゴシップであれば、一蹴してしまえばいい。
なんならサクラに協力を依頼して別の話題に世間を巻き込ませるのも良いだろう。
だけどこれは、妹さんであるルーガから私に送られた、たった一枚の手紙から始まった疑心暗鬼の物語だ。
未だ信じたくはない。だが、紛れもなくこの手紙には真実が書かれているのだ。
一度、全体調査を行った際にも、ある人物を除けば全ての人達が『ローラは女性である』と認識を持っていた。
それは彼女が所属しているゲキテツ一家の首領代理であり、共に過ごしてきたフィオでさえ例外ではない。
この事をルーガに直接報告したらば、惚気かと足をふみふみされたのは記憶に新しい。
話を戻そう。何故、この話題が再び持ち出されたのか。
答えは簡単だった。先程やってきたローラからのお願いがきっかけとなっている。
それに二つ返事で答えた結果、彼女は今、船長室に備え付けられているシャワー室にいる。
よほど嬉しかったのだろうか、洗面所兼脱衣所を隔てた先にいるはずのローラの口ずさむ鼻歌がかすかに聞こえていた。
警戒を緩められる場所で、濡らしたタオルでは感じられないお湯の感触。
純粋に心の洗濯を楽しむだけじゃ飽き足らず、石鹸やシャンプーを泡だて鼻歌に合わせ身体を洗っているのだろう。
予想するが、すぐに今の考えは頭から排除する。
他人の入浴を想像するなんて行儀が悪い。こんな事は性別問わず失礼にも程がある。
私はただ黙り込み、船長席に座りながら来客が訪れない事を祈り続ける。
船長室は鍵が掛けられていない。
それ故にキチンとノックをして返事を待ってから入室してくれる子達と、ノックと同時に入室する子達とで分かれているのが現状だ。
ならば鍵を閉めてしまえばいいとお思いであろう。ここで現れるのが第三の勢力、ピッキング班である。
怪盗団アカツキの本業……と思いきや、このような世界が悪いのであろう。各飛行隊に一人は手先が器用な子がいる。
彼女達はどこから持ってくるのか分からないが、様々な道具を駆使する事からピッキングの天才集団と私の中で噂されていた。
中にはドアノブを捻じ伏せる強者も存在している。
そして本職であろうアカツキのリーダーは、どちらかといえば通気口の狭いところから侵入するのが好みだ。
彼女に付き合わされた事があったが、アレは精神を持っていかれる。
長身でスタイルが良く、身体にフィットした服装の女性が、私の目の前で四つん這いになりながら通気口を這うのだ。
その背徳的な光景に私は思わず目をそらす。そのまま柔らかな壁に衝突し、甘美な声を漏らすのは誰でもない。前を行く彼女からである。
はいはいやめやめ。ロイグとの失敗談は未だに話のネタとして消費される。誠にごめんなさいというヤツだ。
そうこうしている間に、洗面所からドライヤーの音が聞こえ始める。どうやら湯浴みを終えたらしい。
リガルも認める美しく長い髪を乾かしているのなら、危機は過ぎ去ったとも言えるだろう。
この状況で来客があったとしても、事前にローラと口裏合わせをしている。つまり対応の仕方をお互いに把握できているのだ。
やがてドライヤーの音が止む。しばしの静寂の後、ゆっくりと洗面所に繋がる扉が開かれて美しい女性が現れる。
「お湯を頂きました。ありがとうございます、船長」
身体が暖まった影響だろう。顔を赤く染めてはいたものの、彼女はしっかりとした口調で礼を述べた。
気にすることはない。私の仕事を手伝ってくれるローラへのちょっとしたご褒美さ。
落ち着いて身体を清める事は出来たかい?
「はい。おかげさまでいつもより長湯になってしまいましたが……船長にご迷惑をかけてはいませんでしょうか?」
気にすることはない。本日は書類仕事が待ち構えていたからね。どちらにせよ船長室から出る暇も無しさ。
私が自虐的に笑いながらコップに水を注ぎ、ローラへ差し出す。
彼女はそれを嬉しそうに受け取り、一気に飲み干した。美味そうに吐息を漏らしながらコップを返す姿は、年相応の若さを感じさせる。
「ふふ、ありがとうございます」
そういって彼女は、隅に置かれている椅子を運び、私の隣へ腰掛ける。どうやらお喋りがしたいらしい。
「船長、私に付き合わせる形となってしまい申し訳──」
この件について癖になりがちな謝罪の言葉を口にしようとしたローラを遮る。
それ以上は気にしなくていい。
私は個人のプライバシーに踏み入った自分勝手な大人だ。その代わりと言ってはなんだが、君が望むならばなんでも付き合うつもりさ。
「船長……貴方ならそう仰ってくれると思ってはいましたが、感謝の言葉が見当たらないのが歯がゆいです。それでも言わせて下さい」
ローラは俯き加減に微笑んで私に顔を向け直すと、改めて言葉を紡ぐ。
「ありがとうございます……私のような怪しげな人間にも分け隔てなく接してくれて。良くして頂けるだけで充分贅沢な事ですが、それでも船長には感謝しきれません」
彼女はそう言って頭を下げると、再び顔を上げて微笑んだ。その笑顔に嘘偽りはないように見える。
……その台詞から、彼女は私が思っている以上に幾重もの仮面を付け替えながら生きているのではと予感する。
きっと幼少期の経験から築かれた彼女自身を守るための壁だろう。
しかし、だからと言ってそれを追及しようとは思えない。
それは彼女の事を知ってはいても、そう簡単に触れて良いものでは無いのだから。
どのような形であれ、現状を保つのも、今以上の進展を求めるのも、ローラ次第だよ。
私はただ、君の選択を尊重し、その行く末を見届けるだけだ。
……とまぁ、長々と語ってしまったが、要はローラの好きなようにやれば良いという事だ。
私はそれを全力でサポートするし、必要ならば協力もする。
それが知る者の責務であり、打ち明けてくれた者に対する礼儀というものだ。
「船長……」
暫しの沈黙の後、彼女は再び口を開く。
「私は……私は、事情を打ち明けた事を後悔はしていません。寧ろ感謝しています。船長のような理解ある人に出会えて本当に良かった。……改めてお尋ねしますが、引き続き相談に乗ってくれますか?」
彼女の真っすぐな眼差しには迷いが無く、決意に満ちているように感じられた。そんな彼女の問いに対し、私は答える。
勿論だ、ローラ。私でよければ力を貸すさ。
そう言って私が大きく頷くと、彼女は安堵したかのように息を吐き出した。そしてなにやら道具を取り出すと、私に手渡して来る。
手の感触からするに、ヘアブラシだろうか? そう思った私に、彼女は悪戯っぽい微笑みを浮かべながら囁いた。
「よければ髪を梳いて頂けませんか? その……全体となると、少々不器用なもので」
照れくさそうな口調で言われるものだから、私としても断る理由もない。なので快く引き受けることにした。
私に後ろ姿を預けてくれるローラ。彼女の立場からしたら早々あり得ない状況なのではないだろうか?
……そんな下らない事を取り留めも無く考えながらも、私は彼女の艶やかなブロンドの髪にヘアブラシを当ててゆく。
何一つ引っかかる事もなくスルリと滑らかな金糸の束。
サラサラとした髪は実に手触りが良く、いつまでも触れていたくなるほど心地の良い感触だ。
「ん……船長、お上手ですね……」
思わずと言った具合に言葉が漏れ出るローラ。その反応を見るに、どうやら上手くいっているようだ。
時折、気持ちよさげに目を細める様はなんとも可愛らしくあり、何より自信に繋がってゆく。
「はぁ……んん……」
ヘアブラシを通して伝わってくる感触を愉しむように、ゆっくりと髪を梳いていく。その度に彼女はビクっと身体を震わせるが、決して拒絶することはない。
むしろもっとして欲しいと言わんばかりに、こちらに頭を押し付けてくるのだ。
そんな姿を見せられては、こちらとしても応えない訳にはいかないだろう。
より優しく、丹念にと細心の注意を払いながらローラに触れる。決して傷つける事の無いように、細心の注意を払いながら。
時にはヘアブラシではなく手櫛で、指を使って優しく刺激を与えてゆく。時折、彼女が私の指に頬をすり寄せるような仕草を見せる。
「船長……とても大きくて……温かいです」
くすぐったいよ。そう言おうと思った矢先に、ローラの方から言葉をかけてきた。その声はどこか艶めており、彼女の触れた部分はとても温かい。
それにしてもローラの言葉選びは少し奇妙だった。まるで彼女自身が熱いものを求めているかのような印象を受ける。
しかしそれはあくまで私の想像であり、実際に彼女が求めているのはヘアブラシの熱だ。決して私に対して何かを求めている訳ではないだろう。……多分。
ゆっくりと毛先まで到達した髪を最後に軽くくしゃりとする。そのまま数回に渡って撫で付けてから、耳の辺りで一度ヘアブラシを広げて毛先にふわっと空気を乗せる。
ローラの美しい金色をより輝かせるための最後の仕上げだ。
私の髪梳きはいかがでしたでしょうか?
そう問いかけると、ローラはおずおずとこちらを見上げてくる。照れているのか頰が赤く染まっている。
その姿を見て……率直に言って凄く可愛いと思った。
いつもであれば綺麗で美しいと表現するところだが、今日の彼女にその言葉を当てはめる事は適切ではないと私は直感した。
ならばこの感情は何なのだろうか。
ゆっくりとローラの身体から離れてようとした次の瞬間……急に身体を引き寄せられる。
互いの顔が目と鼻の先になり、私は一瞬動揺してしまったが……すぐに持ち直す。
こうした日常的やり取りの後は、船長としての立ち振る舞いに気を配ると共に、一人の女性に対しての心のケアも忘れずに。
まずは何事もなく髪を整え終わった事を伝えて安心させる事が必要だ。
そして同時にこれは私と彼女の距離の近さにもある。
本来であれば女性は異性に対してその距離感をうまくコントロールすべきだが、これが自然すぎて、あまつさえ彼女にとってはこの上ない誘惑となっていたのだ。
仮面を被らずとも、周囲に気を配る必要が無ければ、たとえ短い時間であっても彼女は本来の自分らしさをさらけ出す。
そして何よりも自身を受け入れてくれた人物とならば、こうして更に距離を詰める事も辞さないという風に。
きっと、根は甘えん坊な子だったのだろう。しかし甘やかしてくれる者が消え去ってしまったせいで、自身の生き方に迷いが生じ、欲求を奥底に押し込めて殺していたに過ぎないのだ。
だからこそこうして私にだけ見せる姿がある。そして私はそれを受け入れてあげるだけだ……。
ローラの唇が私の耳元に近づき、囁くような声で言う。
「……船長は、私の事どう思いますか?」
普段のローラの声とは明らかに違っていた。まるで自分を求めているかのような声色で囁き掛けられる。
ただそれも一瞬で、彼女はすぐに元の口調に戻ってしまった。だが、その僅かな時間の中で彼女の本心が垣間見えた気がした。
私はローラの髪を一房手に取り、そこに口付けをする。
これは私の感謝の気持ちだ。この行為が私にとっての最大の敬意である事を伝えるためのものでもある。
そして、その行動に満足したのか、ローラは私から離れ、今度は私の頰に手を当てる。
優しく撫でるというよりも、愛撫しているかのような優しい手つきだ。
多少驚きつつも、私はされるがままだった。
なぜならこの行為は私を受け入れてくれる意思表示のように思えたからだ。
だから何も言わず、静かに目を閉じて彼女がその行為を堪能するまで待つ事にする。
ローラの手には自分のものとは違う熱が籠っていた。
滑らかな指先から伝わる温もりは何処か懐かしく感じるものであり……安心感のようなものを与えてくれる気がする。
それと同時に伝わってくる彼女の想い。愛情に似た何かを感じ取った私は、それに応えるかのように彼女の手に自分の手を重ねた。
するとローラは嬉しそうに微笑み、囁くような声でこう言った。
「ふふっ、船長はズルい人ですね。あの日から決めた心も……身体も……船長の前ではこんなにも無防備になってしまうのに」
その後、暫しの間彼女は私の肩口に顔を埋め、深呼吸を繰り返すようにしながら呼吸を整えていった。肌に触れる吐息や長い髪の感触がくすぐったくもあったが、同時に心地良くもあった。
そしてしばらくしてから顔を上げてこちらを見る。
その表情からは先程の憂いめいた雰囲気は消え去っており、その表情はとても晴れやかだった。心をリセットできたかのようにすら見えるほどだ。
「船長、私のような面倒な人間を、これからも支えてくれますか?」
冗談っぽく、しかし本心の籠った言葉を投げ掛けられる。そこには今までとは少し違う一面があった気がしたが……同時に彼女がとても魅力的であるとも感じた。
だから私も同じような口調で返す事にした。少し悪戯っぽく笑いながら。
ああ、当然だとも。ローラ。
それが彼女の望んでいる答えなのかは分からないが、それでも構わないと思った。
これは私が伝えられる最大限の誠意であり、ありのままの気持ちだと感じたからだ。それを聞いた彼女は満足そうに頷く。
「ありがとうございます。船長。私、少し心の荷が降りた気がしました」
そして再び私に抱きつき、その柔らかな身体を預けてきた。私はそれを受け止めながら思う。
やはりローラは可愛いな、と。
──船長室から用意されている自室へ戻ると、そこにはまだ同室相手のフィオの姿はなかった。
私はベッドに腰掛けると大きく息を吐く。
今日は色々とあり過ぎた。
本来であれば飛行船内に併設されているシャワー室で汗を流せるのだが、私の場合は隠し事のせいもあって、他の女性隊員と鉢合わせする可能性があるため、なるべく利用しないようにしている。
だから私は自室でひっそりと濡らしたタオルで体を拭くだけだ。
しかしそれでも、心の方からなのか、身体の方からなのか、温かなお湯に包まれたいという欲求が強く芽生えてくる。
そんな時は、私の事情を知っている船長の厚意でシャワー室を使わせてもらうことにしている。
建前上は、船長室の掃除と書類整理を手伝ったご褒美として、ということになっているのだが、実際に秘書の真似事を申し出たが、丁重にお断りされてしまった。
人の事情を利用するような真似はしたくない。
そう船長に言われた時は、胸の奥が熱くなるような思いを感じたものだ。
身体をベッドへ倒し、枕に顔を埋める。思い出しただけでも顔が綻ぶのが止まらない。
たった一度だけ、自分の本性を打ち明けた事のある相手。その人は何も言わず私を抱きしめて、ただ黙って話を聞いてくれた。
そして、その全てを受け入れてくれた。
中途半端でゲキテツ一家の仲間達にも、もう一人の妹とも思えるフィオにすら打ち明けられない臆病者な私を。その事がどれだけ嬉しかったことか。
私は枕に顔を押し付けたまま足をバタバタと動かす。船長の優しさに甘えて、私はまた一つ、自分の弱さを見せてしまった気がする。
でも、それでもいいと言ってくれた。一人の人間として認めてくれたことが本当に嬉しかった。
……ふふっ、最初は船長から手渡された妹のルーガからの手紙に驚きはしたが、まさかあそこまでとは思わなかった。
彼女も本能的というか、直感的に何かを感じ取ったのだろうか。
あの子は昔からそういう子だ。自分の直感を疑わない。だから今回もきっと、ただ単に船長のことが気に入っただけだろう。
おかげで船長を通してだけど、ルーガと手紙のやり取りが出来るようになったのは素直に嬉しい。
止まっていたはずの時計の針が、ゆっくりと動き始めたような。……そんな感覚だ。
そして、そのきっかけを作ってくれたのは他でもない船長だ。
私はベッドから身体を起こすと、机に置かれた手紙を手に取る。そしてそれを胸に抱き寄せた。
これはルーガが私にくれた大切な贈り物。そして、この手紙が私と船長の出会いを作ってくれた。
私はその手紙をもう一度読み返す。
……うん、やっぱり何度見ても私を兄だと一欠けらも信じていない。
反面、最近ではからかい半分で船長に対して「にいさん」と呼びかけて反応を楽しんでいる様子のルーガ。
まったく、本当にあの子は……。でもまあ、そんな自由奔放でマイペースな性格も彼女の魅力の一つだろう。
私はルーガのことが大好きだ。妹として、一人の人間として。そしてそれは彼女も同じはずだと信じている。
だから私は彼女に感謝している。この手紙が私と船長の出会いを作ってくれたことを。
そして、この出会いが私にとって掛け替えのない宝物であることを。
だから私は、この手紙をずっと大切に取っておこうと思う。
いつか再びルーガと再会できる日が来た時に、この手紙を見せながら思い出話に花を咲かせるために……。