ベル君に「まだだ」を求めるのは間違っているだろうか 作:まだだ狂
エイナとベルの出会いは一カ月前。『ギルド』の窓口に彼は、ベル・クラネルは現れた。
「初めまして、【ヘスティア・ファミリア】所属のベル・クラネルです! よろしくお願いします!」
真白な乱髪に、円ら深紅の瞳。
それに加えて、【ヘスティア・ファミリア】という初耳のファミリアに所属しているという点が、エイナの不安を増幅させた。
(本当に大丈夫かしら)
それが、あくまでもエイナの印象に過ぎないことを思い知るまでにそう時間はかからなかった。
講習などを終え冒険者としての道を歩き出した探索初日。ベルは服としての役割を果たさないほど上着をボロボロにして、腕や足、頬や額から血を流しながら帰って来たのだ。
何事か、と一部の職員が騒然とするほどにベルは血塗れになっていた。幸い骨折などの重傷は負っていかったものの、目を覆いたくなるような痛ましい裂傷が、ベルの身体のそこかしこに刻まれていた。
ダンジョン探索初日に、十四歳の少年が、負っていい傷ではない。
「ベル君! 私、口酸っぱく言ったよね! 冒険者は冒険しちゃいけないって! 危険だと感じたら、迷わず逃げて帰って来なさいって! それに君は今日、初めてダンジョンに潜ったんだよ! どうしてそんな無茶するの! 君は死にたいの!?」
しかし、エイナの悲痛な叫びを受け止めるベルの表情はぴくりとも揺るがない。正体のつかめない
「僕は強くなるって、そう決めたんです。だから、まだ死にませんよ。こんなとこでは、絶対に」
きっぱりと断言するほどの自信が、どこから湧いてくるのか、エイナにはさっぱりわからなかった。今日初めてダンジョンに潜ったものの台詞ではない。
なのに、どうしてか説得されそうになってしまう。信じてしまいたくなってしまう、不思議な魅力さえあった。
ベルの双眸に虚偽の色は光らない。円らな深紅の双眸に光るのは誠実な輝きだ。
だからこそ、エイナは困惑する。今まで『ギルド』の受付嬢としてたくさんの冒険者を見てきたエイナはベルの行動は常軌を逸していると理解しているのに、なぜか心はベルの言葉を肯定してしまいそうになっている。
「それに無茶はしてないですよ、エイナさん。一応モンスターの危なそうな攻撃はよけてますし。ほら、見てください。これ、ぜんぶ軽い切り傷ですから」
「そういうことじゃなくて、ああ、もう! 君って子は、考え方が危なすぎる! そんな紙一重な戦い方したら、命が幾つあっても足りないわ!」
たまらずエイナは叫んだ。理性と感情が噛み合わず、ベルを説得しようとしても上手く言葉が組み立てられなくなっている。
それだけ強い意志を、ベルはその小さな身体に宿していた。
とてもじゃないけど、私の手には負えない。いや、ベル・クラネルという少年は誰の手にも負うことができない。そんな不安にも似た思いが去来する。
(でも、私がアドバイザーを止めたらベル君はきっと悲しむよね)
ベルの実直な性格は初対面の時によく伝わってきた。今もそうだ。ベルはただ真っ直ぐに、自分の意見を述べているだけだ。それが第三者から見て、どれだけ異常なことであっても。
「ベル君はどうやってもその考えを改めるつもりはないのね」
「はい」
申し訳なさそうに目を伏せて、ベルは頷く。
ベルは意思を曲げるつもりはない。またエイナも自ら死線へ飛び込むようなベルの戦い方をこのまま見過ごしたくはない。
まだ十四歳の少年が、孤独にモンスターが跋扈するダンジョンで傷つき斃れる未来だけは見たくないから。
(どうすればいいの。説得は無理だろうし、かといってこのままにしておくなんて私にはできない)
その時、エイナは胸の奥に突如として湧いた情動のままに自然と一つの提案を口にしていた。自分でも驚くぐらい自然に唇が言葉を紡いでいく。
「・・・・・・いい、ベル君。お姉さんと約束して。ダンジョンから帰ってきたら、絶対に私のところへ顔をみせるって」
きっと、これがベル・クラネルへの楔となる唯一の方法なのではないかとエイナは直感した。
「え?」
ベルはそんなことを言われると思ってもいなかったのか、きょとんとした顔を浮かべた。それは先ほどまで英雄のように凜々しい顔をしていたとは思えないほど、年相応の少年らしい愛嬌のある表情だった。
それを見て、エイナは強く思う。「ああ、やはりこの子はまだ十四歳の少年なのだ」と。「揺るがない意思と覚悟を持っただけの少年なのだ」と。
「お願い、約束して」
もう一度、念押しするようにエイナは告げた。緑玉色の瞳と深紅色の瞳が、じいとお互いを見つめあう。それは、どこか互いの想いをぶつけあっているようでもある。
暫く見つめ合う、両者。息詰まるほどの沈黙が場を支配する。
「わかり、ました」
想いの鍔迫り合いの果て、先に折れたのはベルだった。
ベルは自らの計画に狂いが生じたかのように、重々しい表情をして俯きながらそう言った。そしてベルは暫く俯いたままだったが、次に顔を上げた時には曇天のように重い表情は霧消して、エイナの前に英雄が現れた。
「・・・・・・約束します。僕は
それはダンジョンから帰ってきた後、「僕は強くなるって、そう決めたんです。だから、死にません。こんなとこでは、絶対に」と言葉にした時と同じ覚悟の光に染まった顔だった。少年ではない、英雄の顔。
この約束は絶対に違えない。ベルの表情からそんな声なき声が聞こえてくるような気さえする。
次の日。ベルは約束通り帰ってきた。次の日も、また次の日も。その次の日も。無茶をしたと一目でわかる傷を負いながらも、ミノタウロスとの死闘で瀕死の重傷を負った時でさえ、ベルは必ずエイナの前に姿を現した。交わした約束を守るために。
そして、優しい笑顔を浮かべながら言うのだ。
「エイナさん、今日も無事に帰ってきました」と。
「ベル君、私はね。君のことをずっと心配し続けるよ。これから先どれだけ強くなっても、英雄だって呼ばれるようになっても。私は君のアドバイザーだから」
エイナは想う。この約束がいつかベルが過去を振り返らず前へ進み続け征く道さえわからなくなってしまった時、「僕には帰る場所があるんだ」と、そう思える道標になってくれることを。
そして、ベルはダンジョン『中層』へ初めて潜った今日もまた、エイナとの約束を守ってくれた。
生きて、帰ってきてくれた。
▲
「はぁ・・・・・・多分、ベル君なら迷わず『中層』へ行くだろうなって思ってたから驚かないけど・・・・・・一応聞くけど、無理とか無茶とかはしてないんだよね?」
「はい、勿論です」
眉間に皺を寄せて心配そうに尋ねるエイナに対して、ベルはむんと胸を張り落ち着き払った様子で堂々と首肯してみせた。
不安を微塵も感じさせない凛々しい表情に、エイナの瞳を見つめる真っ直ぐな深紅の双眸。
自信に満ちてきらきらと輝いてすら見えるベルの姿を前にしては、エイナは何も言えない。いや、言う言葉を持たない。
エイナとしては冒険者になって僅か一ヶ月のベルが『中層』に潜ること自体を心配しての問いかけだったのだが、ベルは『中層』のモンスターと戦うだけの技量を持っているのか問われているのだろうと解釈していた。悲しき価値観の相違、「アドバイザーの心、冒険者知らず」だ。
「まぁ、そうだよね。Lv.3になったんだもん。私の知るベル君なら、うん、『中層』へ行くに決まってるよね。もし『上層』に留まってたら熱でもあるかと疑ってたかも」
エイナはどこか自分へ言い聞かせるように言葉を紡ぐと、はかなげな微笑をたたえた。
今、視線を交わしているのはあどけなさの抜けない十四歳の少年。独り立ちするにはまだ早い、子供のはずだ。
しかし、ベル・クラネルという少年がLv.3に【ランクアップ】した程度で満足しないことをエイナは十二分に理解している。ただの子供ではないことも、一ヶ月という刹那のごとき時間で築き上げた数々の功績が如実に示している。
ベルは十四歳の少年である前に『英雄』である。それをエイナは認めるしかなかった。
だから今は本心から目を逸らして、
「寧ろ十五階層って聞いてホッとしてるくらいだよ。ベル君は無茶ばっかりするから、もしかしたら一気に『下層』まで行くんじゃないかって心配してたんだよ」とエイナは偽りの仮面を被り苦笑しながら言う。
事あるごとに度肝を抜かされてきたエイナにすれば、ベルがダンジョンから帰ってきたとき、「エイナさん、今日は『中層』を通り越して、『下層』まで行ってきました!」と報告してきても不思議ではないと思っていたくらいだ。
おかげで昨夜はまるで眠れず、職務では常に精彩を欠いて失敗ばかりを繰り返し、上司に何度も頭を下げる始末、と散々な有様であった。
「い、いや、流石に『下層』まで行ったりなんかしませんよ。はい」
エイナの半分冗談の言葉に、ベルは頬をヒクつかせて露骨に視線を逸らす。先程まで真っ直ぐだった視線が、空中をぐるぐると当てもなく彷徨い始める。
「あれ?」
瞬間、動揺するベルを見て、エイナの表情が凍りついた。
目を細めて微笑をたたえているにもかかわらず、エイナの顔には
しまった。エイナさんを怒らせてしまった、と確信するベルだが、時既に遅し。
「ベル君、なんで、目を逸して言うのかな? ちゃんと、お姉さんの目を見て、正直に言いなさい」
眉毛をひくひくと痙攣させて、鋭い視線をベルに向けながら、エイナは受付カウンターから抜け出して、じりじりとにじり寄ってきていた。
格上のモンスターであるミノタウロスやシルバーバックへ果敢に立ち向かった英雄の姿はそこにはなく。ベル少年は蛇に睨まれた蛙のように、その場で硬直していた。
「で、本当のところは? どうなのかなぁ?」とベルの両肩に優しく手を添えながら、エイナは
「あー、いやー。ほんの少しだけ、行ってみようかなー、とは考えてみたりは、しました」
ははは・・・・・・と空笑いしながらも、誤魔化せないと悟ったベルは、悪戯がバレた子供のように頭をがしがしと掻きながら本音を語り始める。
『中層』のモンスターとも落ち着いて戦えたこと、『下層』のモンスターとも戦えるのではと思ったこと、もっと先へ進みたいと思ったことを全部、包み隠さずエイナへ伝えた。
「はぁー……全く、君って子はぁ……」
すべてを聞き終えたエイナは頬に手を当て困ったように、体中の空気を外へ出すような深い、とても深い溜息をついた。
「考えただけで踏みとどまって偉かったわねぇ、ベル君」言葉とは裏腹に、笑顔を浮かべるエイナの頬はぴくぴくと引き攣って、瞳の奥は全く笑っていない。
「す、すみません」
「反省してないのに謝らないの。「それでも僕は冒険し続けます」って顔にくっきりと書いてあるんだからね」
怒気を滲ませながらエイナが言う。
図星だったベルはうっ、と呻き声を一つ漏らすだけで、決して反論しようとはしない。正にエイナの指摘通りだったからだ。
無理、無茶、無謀を押し通してきたこれまでの人生で、ベルを「心配」する声は数多くあった。危険だ、命が惜しくないのか、もっと自分を大切にしろ。それはどれもベルを慮っての言葉であり、悪意など欠片も無かった。
(みんなに心配されてしまった・・・・・・僕は、まだこんなにも弱い)
だからこそ、尚更ベルは自分を許せなくなった。皆に心配されてしまうほど弱い自分を。
彼らの声は、彼らの想いに反してベルにより堅い決意を抱かせてしまった。
過去を想起し覚悟の深度が増すベルの双眸を見て、エイナはますます頭を悩ませる。
「でも、思っただけで、実際に行動しなかった分、今回はマシなのかな。一週間ちょっと前にミノタウロスと死闘を演じたばかりなのに。今じゃ『中層』のモンスターと戦えるんだもんね。本当に成長したね、ベル君」
「成長、したんでしょうか?」エイナの賛辞にベルは露骨に表情を曇らせる。
Lv.1だった時、ベルは無謀でしかないミノタウロスとの一騎打ちに挑み、勝利し、【ランクアップ】することができた。
成長のために賭けたのは、己の命。一手でも誤れば、無惨な死体へと成り下がる、そんな死闘に身を投じたからこそ、【ランクアップ】できたはずだ。
死地を踏破せんとする覚悟を持たず、危険に満ちた『下層』へと挑戦せず、平静を保てば対処できる『中層』の探索に甘んじている今の自分は果たして、過去の自分を超えられているのだろうか?
Lv.3に【ランクアップ】したことに胡座をかいているのではないだろうか?
あれこれと思考を巡らすベルの表情は、より一層険しくなっていく。
今まで目にしたことのない「迷う」ベルを見たエイナは思わず目を見開いた。
彼の成長した姿が目の前にある。一ヶ月前、初対面のベルは少年だった。十日を経て、ベルは鮮烈な光を放つ英雄になった。
そして今、ベルは迷いながらも前へ進もうとしている。これを成長と呼ばず、なんと呼ぶのか。エイナは他に相応しい言葉を知らない。
(やっとアドバイザーとして、力になって上げられる)
エイナはベルの心に巣くう不安を払わんと胸の内にある想いを吐露する。今度は嘘偽りのない、エイナ・チュールの本心を。
「ベル君は成長してる。一歩ずつ、確かにその足跡は前へ向かって進んでる。ずっと側で見てきた私が保証するよ。ふふっ・・・・・・まだ私、君のアドバイザーになって半月くらいだけどね?」とエイナは、ベルの白髪を撫でながら優しい声で答えた。
「もっと、君は強くなる。沢山の人の心に希望を与える英雄になれるって、お姉さんはそう信じてる」
「・・・・・・ありがとうございます、エイナさん」
エイナの言葉で「迷い」の闇が振り払われたのかベルは、自然と頬を綻ばせた。
(変わったね、ベル君)
エイナはベルの変化をまざまざと実感した。
一ヶ月前のベルのままであったら、きっと逡巡することなく『中層』を超えて『下層』まで降りていたに違いない。
エイナにはその確信がある。これまでの過去を振り返れば、「迷い」が生まれた今のベルの方がおかしいくらいだ。
エイナが見てきたベルは迷うことを知らず、まるで定められた道を雷鳴のごとく疾走するように前だけを見続けてきたから。
しかし、よく考えてみれば当然の話だ。ベルはまだ十四歳の少年、【
(ベル君が変わり始めたのは、アイズ・ヴァレンシュタイン氏に出会ったからなんだよね、きっと。私じゃない。はぁ・・・・・・お姉さん、ちょっと嫉妬しちゃうなぁ)
ベルの心に変化を生じさせるほどの大きな影響を与えたのが、自分ではなく【剣姫】アイズ・ヴァレンシュタインであるだろうことに、エイナは密かに嫉妬を燃やす。
数日前オラリオ全域に駆け巡ったアイズ・ヴァレンシュタインとベル・クラネルの共闘の噂は勿論、エイナの耳にも届いている。
その噂を聞いたからこそ、エイナはベルの心に変化をもたらしたのがアイズだと確信できた。
ベルは決して誰かと並び立って戦うようなことはしない。誰も彼もを救わんと一人で敵に立ち向かい、傷つきながらも打ち倒すのがベル・クラネルである、とエイナ・チュールは誰よりも知っている。彼の主神であるヘスティアにだって負けないほどに。
そんなベルとアイズが共闘した。つまり、それは、アイズが、ベルの隣へ並び立ったということ。あの雄々しく鮮烈な光を放つベルの後ろ姿をただ見つめるのではなく、手を伸ばしたいと恋い焦がれるのでもなく、隣に並び立ちたいと本気で想ったということ。
手の届かない。否、伸ばしてはいけないと思っていたベルの隣に寄り添ってみせたアイズに、エイナは尊敬と嫉妬が混合した複雑な感情を向ける。
アイズはベルの雄々しい姿に焼かれることなく、一人の人間として向き合ったのだ。それがどれだけ困難なことかは、言葉にする必要もなかった。その難しさをエイナは嫌というほど知っている。
しかし、いつまでもアイズへ嫉妬を向けてばかりはいられない。数日前までと同じままでは、胸に猛る想いの種を花咲かせることはできない。
エイナは頭を軽く振って思考を切り替えた。
「それにしても、ベル君」
エイナはベルの頭長から爪先まで舐めるように見つめてから言う。
「なにか汚れでもついてますか?」
「いや、そういうわけじゃなくて。中層に潜るのに、今の防具じゃ流石に貧弱すぎると思ってね」
エイナの瞳に映るベルの姿は、『中層』を潜る冒険者の装いにはとても見えない。
薄いシャツに布生地のズボンと薄い胸当て。腕や足を守る籠手も具足もなく、駆け出し冒険者だと一目で分かる貧弱な初心者装備。腰に佩いた二本の刀が立派なだけに、より装備の貧弱さが際立つ。これが現在オラリオを席巻する【未完の英雄】の姿だった。
「うん、駄目。全然、駄目。それじゃ、もしモンスターの攻撃を受けたとき、間違いなく大怪我を負うわ。流石のベルくんでも危険すぎるよ」
「いや、実は神様にも同じこと言われてて。流石にこの装備じゃもう無理なんですね・・・・・・」
今朝、
『ベル君! そんな装備で『中層』に潜ることがどれだけ危険なことか分かっているのかい! 控え目に言って馬鹿だね、いや阿呆だよ! ベル君、そこに正座するんだ! 今度という今度こそ、君に常識というものを叩き込んでやる! いいな!』、と怒りで顔を真っ赤に染めたヘスティアにしばらく説教されたのだ。
ベルがヘスティアにここまで怒られたのは、ミノタウロスとの死闘以来だった。
ヘスティアは初心者装備で『中層』を探索しようとするベルに対して猛烈に反対したのだが、
結局、話し合いの末に今週中に防具を新調することが決まったのだ。
「神様にもしっかりとした装備を買うようにってお金を貰ったので、早めに新調しようと思います」
「うん、そうしなさい」
エイナは微笑みながら言った。
普段、傷だらけになりながら帰って来るベルを見てきたエイナとしては、少しでも良い防具を纏って身を守ってほしい。
あのとき防具を買っていれば、と後悔してからでは遅いのだから。
これでベルが「必要ない」と首を横に振ったならば、エイナはあらゆる言葉を尽くして考えを改めさせるつもりであっただけに、素直に首肯してくれて心の底から安心する。
ベル君にも、欠片程度ではあるが常識が残っていた、と。
「それで、さ」
ここからが、エイナにとっての本題だった。これまでの会話はエイナにとっても、ベルにとっても雑談の範疇に過ぎない。普段であれば、「装備をしっかり整えるのよ」と話を締め括って別れを告げていただろう。
だが、今日は違う。一歩前へ踏み出すと決意した。
「どうかしましたか?」
「いや、ええと」
しかし、いざ言葉にするとなってエイナは緊張や不安から誰かに救いを求めようように、視線を右往左往させて口籠もってしまう。
だが、誰もエイナを救いの手を差し伸べることはできない。最初の一歩は誰かに背を押してもらうのではなく、自ら踏み出すしかないのだから。
「なんていうか、その」
伝えたい言葉ははっきりしているのに、伝えたい人は目の前にいるのに、唇だけが上手く動いてくれない。
このままではダメなだと分かっていても、どうしようもなく言葉は声になってベルへ届けてくれない。
やっぱり、何でもない。不安の波に心が飲み込まれて、思わずそう答えそうになった時、ベルが柔和な笑みを浮かべて言った。
「焦らなくても大丈夫ですよ、エイナさん。僕はエイナさんが話してくれるまでずっと待ってますから」
そうだ、その笑みだ。いつもは凜々しい顔をしているのに、時折見せる優しい笑顔が私の心を捕らえて離さない。
先ほどからエイナの心をかき乱していた不安の嵐はぴたと止んで、気づけば想いは言葉となってあふれだしていた。
「……ベル君、明日の予定って空いてる、かな?」
耳の先まで真っ赤に染まっているだろうことを自覚しながらも、エイナはベルの瞳を見つめて言った。どくん、どくん、と心臓が痛いほどに脈打ち、喉はカラカラに渇いて、断られた時の妄想が脳裏を過ぎる。
数秒の沈黙が何倍にも引き延ばされるような感覚に陥りながら、エイナはじっとベルの答えを待った。
わずかな逡巡のあと、ベルの唇が動き出す。
ゆっくりと紡がれていく言葉が風に乗って、エイナの耳から心へと運ばれてきた。胸に歓喜が、押し寄せる。見える景色が、生まれ変わる。
「はい、空いていますよ。エイナさん」
ベルは、エイナが恋をした優しい笑顔でそう答えたのだった。