ベル君に「まだだ」を求めるのは間違っているだろうか 作:まだだ狂
ベルの背中を追って『ギルド』の入り口をくぐった三人は、受付の窓口でベルとベルのアドバイザーであるエイナが話しているところを遠目から観察していた。
「なんだか、仲よさげですね」
眉間に皺を寄せながら睨むレフィーヤ。
「あれは、惚れてるね。間違いない。そう
まだ恋敵がいたか、と頬を膨らませるティオナ。
「ベル……」
そして、ベルの姿しか視界に映っていないアイズ。
三者三様の反応を示しながら観察しているとベルは会話が終わったのか、エイナを連れ立って魔石の換金所へ向かっていく。
「へえ。結構、稼いでるんだね」
魔石の換金に随分な時間を要しているのを見て、ティオナは感心する。
「……もしかしたら、『中層』を潜り始めたのかも」
「たしか
ティオナが訊ねる。
「はい、ギルドが正式に公表してましたから間違いないと思います」
「なら、アイズの言う通りかも」
そう言ったあと、ティオナはメインストリートを駆け抜けていくベルの腰に吊るされた袋の膨らみを思い出す。あの、袋を突き破らんとしていた大きくごつごつとした魔石は『上層』に棲息するモンスターのものにしては大きかった。
(一カ月で『中層』って、しかも一人で・・・・・・色々な噂を聞いてたから感覚が麻痺してたけど、改めて考えるまでもなく、尋常じゃない成長速度だよね)
常識では推し量れないベルの冒険者としての歩みに、ティオナは内心舌を巻く。
そもそもベルはLv.1でありながら、ミノタウロスへ立ち向かうような性格の持ち主なのだ。Lv.3へ【ランクアップ】した今、『中層』へ潜ったとしても違和感はない。もしあるとすれば、それはベルを常識で推し量ろうとする行為そのものだろう。
数分後、魔石の換金を終えたベルはエイナと雑談しながら『ギルド』の入り口へ向かって歩き始める。どうやらここでの用事はすべて済んだらしい。
それを見たティオナは咄嗟に受付窓口の角へ身を潜める。
「ほら、アイズも隠れて隠れて」
「・・・・・・どうして?」
隠れる必要性を全く感じていないアイズがこてん、と可愛らしく首を傾げる。
「アイズは知り合いだから大丈夫かもしれないけど。ダンジョンに潜るような装備じゃない私たちが『
だからお願い、とティオナは胸の前で手を合わせて頭を下げる。
「?」
まさかティオナがベルに恋心を抱いているとは予想だにしないアイズは、乙女な彼女の繊細かつ複雑な感情を察せらない。
「わかった」
しかし、ティオナにとっては大事なことなのだと真剣な眼差しから感じ取ったアイズは、Lv.6の【ステイタス】を遺憾なく発揮して疾風のごとく面談用に設けられたソファの背へ身を隠した。
「レフィーヤは・・・・・・って、もう隠れてる!?」
数日間の尾行によって隠伏術を鍛えてきたレフィーヤは、ティオナに言われるまでもなく、誰よりも先に窓際の凹んだ壁と同化するように隠れていた。
「それでは、エイナさん。明日、楽しみにしてますね」
「うん、ベル君。また明日」
ティオナ、アイズ、レフィーヤともに別々の場所で身を隠し、ベルが『ギルド』を出て行くのをこっそり見送る。
幸い、最後までベルにもエイナにも三人は気づかれなかったようだ。ほっと安堵する声がティオナとレフィーヤの口から洩れる。
その代償として他の職員や冒険者たちから怪訝そうな視線を注がれているのだが、ベルに意識が奪われているティオナたちはまるで気づかず、
「よし、追いかけよう!」とティオナが受付所の角から顔を出して意気軒昂と走り出す。
「うん」
「すぅ・・・・・・はぁ・・・・・・ここまできたら、行くしかありません」
ティオナに続くようにアイズとレフィーヤもソファと壁の凹みから抜け出して、『ギルド』を出ていく。
「なんだったんだ?」
「さあ・・・・・・」
小声で話したり、急に身を潜めたり、意気揚々と走り出したりする【剣姫】、【
▲
ティオナたちが『ギルド』を出た頃には世界は薄暮を迎えており、周囲もすっかり暗くなって夜は間近に迫っていた。
店の窓から洩れる温かな橙色の灯り。どこからか響いてくる酔っ払いたちの叫び声に、客引きをする店員たちの呼び込み。
それらが合わさって、夜の喧騒が生まれる。
ベルが『ギルド』を去ってからすぐその後を追いかけていたティオナたちは、メインストリートを歩くベルの後ろ姿をみつけた。処女雪のような白髪はあらゆる種族が生活を営んでいる
それに加えて、ベルの周囲だけ明らかに毛色の違うどよめきが巻き起こっているので、見失う方が難しいくらいだった。
今もティオナの眼前でベルは声をかけてくる人々へ手を振っている。
しかし、人々は英雄とそうでないものを分かつ線が見ているかのように、声をかけることはあっても、近づこうとはしない。
「凄い人気だね」
「・・・・・・うん」
「べ、別にこのくらい、た、大したことありませんよ!」
僅か一カ月でLv.3に【ランクアップ】するという異次元すぎる偉業を打ち立てたベルは、【未完の英雄】としてすっかりオラリオの有名人になっていた。
幸い、誰かと合流する気配はなく、ティオナたちが声をかけるには好機であるように思える。
「よし、突撃!」
「・・・・・・おー」
ティオナの号令に、アイズは小声でありながらもしっかりと応える。
「ほら、レフィーヤも一緒に」
「え、私もですか!?」
ベルとの距離がどんどんと近づいていくにつれて緊張が増して、周囲の音が遠ざかっていくような錯覚を覚えていたレフィーヤは、突如鼓膜に響いてきたティオナの一声に慌てふためく。
「そうだよ! ほら、突撃ー!」
「・・・・・・お、おー!」
結局、ティオナの勢いに押される形でレフィーヤも小さな拳を振り上げた。
こうして一致団結の契りを交わした三人は、ベルへの突撃を敢行する。
用事が済んだからなのか、緩やかな足取りで歩くベルに追いつくのは容易だった。
「おーい!
メインストリート一体に響くほどの大音声でティオナが叫ぶと、名前を呼ばれたベルは立ち止まり、ゆっくりとこちらへと振り返った。
「あれ、アイズさんに、【ロキ・ファミリア】の・・・・・・」
ベルはアイズたちと遭逢するとは思っていなかったらしく、目をわずかに見開いて驚きを露わにしている。
「ベル、久しぶり」
「はい。久しぶりですね、アイズさん」
ベルへ真っ先に話しかけたのは、やはりアイズだった。
アイズにとってベルは恋慕の情を抱く男性であり、ベルにとってアイズは生まれて初めて肩を並べた戦友だ。
それら二つの心緒が混ざり合い一種の独特な雰囲気を醸し出して、傍からに立つティオナとレフィーヤに割り込む隙を与えない。
まるで恋慕と親愛の障壁が、ベルとアイズを現実世界から隔離しているようだった。
「・・・・・・怪我はもう治ったの?」
武装するベルの姿を見て、アイズは心配そうに訊ねた。
数日前、最後に見たベルは全身の皮膚を紫色に変色させて、打撲に裂傷、骨折と、生きているのが不思議なほどの重傷を負っていたのだ。アイズが怪我の具合を確かめたがるのも無理はない。
「はい。神様にしっかり休まないと許さないって言われてしまったので。今日までダンジョンに潜るのは禁止されてたんです」
ベルはそう言うが、
しかし、アイズの瞳に映るベルからは、今日の
まさか、
もしかしたら、自然治癒力が上昇するスキルを持っているのかも知れない、という予想を立てながらもアイズはまず第一にベルの快復を喜んだ。
「良かった、後遺症が残らなくて」
「ありがとうございます。僕もそれだけが怖かったんですけど、何ともないみたいで安心してます」
何度か手を握っては開いてを繰り返したあと、ベルは噛み締めるように言った。
「それで」
後ろの彼女たちは、とベルは視線をアイズの背後に立つティオナとレフィーヤに向けた。
ゆえに面と向かって言葉を交わすのは今回が初めてということになる。
ベルから視線を向けられたティオナの胸が、どくん、どくん、と早鐘を打つ。鼓動の
視界からベル以外のすべてが遠のいていく。
「
歓喜と緊張と不安とが入り混じる複雑な感情の波濤を抑えきれなくなったティオナが、小声で呟く。
感情を言葉にしなければ、心の器が決壊してしまいそうな気がしたから。
(遂に出会えた)
面と面で視線を交わすティオナは、内心で狂喜乱舞する。もし今日アイズについていかなければ、ティオナはまだベルと出会えなかったはずだ。妄想の中で語り合うことしかできなかったはずだ。
一方通行な恋模様も今日で幕引き。
雷を纏い、揺るがぬ意志の光を瞳に宿した【未完の英雄】は、目の前にいる。ティオナの心を捕らえて離さない愛おしい少年は、手の届く距離にいる。
冒険者としての先輩から、知り合いになれる。
「最初の印象は超大事なんだから、噛むわけにはいかない」とティオナは胸中で戒めてから、小さく息を吸い、口を開いた。
「あたしはティオナ・ヒリュテっいうんだ! よろしくね、【
言った。言ってしまった。ティオナの緊張を余所に、
「はい。よろしくお願いします、ティオナさん」とベルは柔和な笑みを浮かべて応えた。
眉を顰める様子もなく、頬を引き攣らせることもない。ベル・クラネルという少年が浮かべるだろう自然な笑みがそこにある。
「あ、勝手に
「いえ、気にしないでください。僕のことは好きに呼んでもらって全然構いませんから」
ベルがそう言うと、ティオナはほっと安堵する。
失敗しなかった。その事実がティオナの心にへばり付いていた不安を剥がしていく。
ティオナの自己紹介が終われば当然次はレフィーヤの番なのだが、彼女は険しい表情をしたまま石像のようにぴくりとも動かない。
「えーと・・・・・・」
視線を合わせるだけでキィッと威嚇されるベルは、救いを求めるようにアイズへ視線を送った。
「・・・・・・レフィーヤ」
挨拶はちゃんとしないと、とアイズの双眸から送られてくる
「・・・・・・レ、レフィーヤ・ウィリディスです。よろしくするつもりはありませんが、一応、名乗ってあげます」
これがレフィーヤにできる精一杯だった。伝えたいことは心の奥に閉じこめられたまま、言葉にできず終わりを告げた。
「あはは・・・・・・僕はベル・クラネルです。これからよろしくお願いします、レフィーヤさん」
ベルは反抗期の妹と応対するような苦笑いを浮かべながらも、特に怒っている様子はない。
「挨拶はしっかりしないと、だめ・・・・・・」
「で、ですが、アイズさぁん」
アイズに叱られて捨てられた犬のようにしょんぼりするレフィーヤを見て、「僕は気にしてないですから、大丈夫ですよ」とベルは庇うように言った。
その声音や表情からも、場を宥めるためでなく本心で言っていることがうかがえる。
「それで、皆さんはこのあと予定があったりしますか?」
少しばかり硬化した空気を和らげようと、ベルが三人に訊ねた。
「うーん、特に予定はないんだよねー。あとは家に帰るだけかなー」
「・・・・・・私も」
「私も、です」
元々、ベルと話すことが目的だったのでティオナはその後のことを全く考えていなかった。
それは一言でも言いからベルと語らいたかったアイズや偶然ついていくことになったレフィーヤも同じだったらしく、首を振る。
「なら」
三人の答えを聞いたベルは僅かに逡巡したあとに言った。
「一緒に食事しませんか?」
「「「え?」」」
まさかベルから誘いを受けるとは思っていなかった三人の言葉が重なる。
「実は神様・・・・・・僕の主神が今日の夜、用事があるらしくて。僕一人で食事をするのは寂しいなって思ってたところなんです。だからもし良ければなんですけど、どうですか?」
「い、良いの!?」
食い気味にティオナが問う。恋する人から食事に誘われるという
まさかベルと知り合えただけでなく、一緒に食事ができるだなんて。ティオナの歓喜で膨らんだ感情は破裂寸前だ。
「はい、勿論です」とベルが頷いた瞬間、ティオナは「行く!」と食い気味に了承した。
「アイズさんとレフィーヤさんはどうですか?」
「・・・・・・行く」
ベルの問いかけにこくこくと嬉しそうに何度も頷くアイズ。彼女もまた断る理由を持っていなかった。一秒でもいいからベルの傍にいたい。それが、アイズの願いなのだから。
恋慕の情を金色の瞳に灯した憧れの人の横顔を見たレフィーヤは胸中で嫉妬を燃やしながらも、「アイズさんが行くなら」と消極的ながらついていく意思を表明する。
「ね、ね! それで、どこに行くの? 誘ってくれるってことは
「はい。豊穣の女主人というお店なんですけど」
「そこ知ってるよ! ご飯、美味しいよね!」
ベルが口にした店の名前にティオナは心覚えがあった。それは、半月ほど前に『深層』から帰還したあと【ロキ・ファミリア】の面々で宴会を開いた店だった。
そして、アイズとベルが名前を交わしあった店でもある。
「忘れるわけ、ない」
今でもアイズは克明に思い出せる。夜空に浮かぶ満月に照らされたベルの姿と、ベルが紡いだ会話の一言一句を。月下の出会いがあったからこそ、アイズはベルへの恋心を自覚するようになったのだから。
「では、豊穣の女主人でいいですか?」
「うん」
「私は、どこでも」
「あたしも良いよー!」
ベルの問いに三人は頷く。
「それじゃあ、豊穣の女主人に出発!」とティオナが先頭に立って歩きだそうとした、その時だった。
「あの、ベル・クラネル!」
レフィーヤが歩き出すベルの足を引き留めるように叫んだ。
「なんですか、レフィーヤさん?」
振り返るベルの円らな瞳が、レフィーヤを見つめる。あまりに真っ直ぐなベルの瞳と目を合わせることに耐えられず、レフィーヤは咄嗟に俯いてしまう。
(言わないと。今しかないんです。今を逃したら、きっと私はずっと先送りにしてしまう)
ベルにある言葉を伝えると決断しても尚、レフィーヤの喉を堰き止める不必要な自尊心。それこそが前へ進もうとするレフィーヤの口を縛る鎖だった。
「・・・・・・」
じい、と下を向いたままレフィーヤは沈黙する。しかし、ベルは先を急かすこともなくレフィーヤを見つめ続けている。
そうだ、ベル・クラネルはこういう人間だ。私がこうして不自然に黙っていても、何も言わずにじっと待ってくれる。
他人を慮るベルの優しさが、今だけは辛かった。
ベルの心が鋼で出来ているなら、私の心はきっと硝子だ。
懸絶した心の硬度に、涙を流したくなる気持ちがふっと湧いてきて心を揺さぶる。
それでも
忘れてはいけない。
第一級冒険者の攻撃が通じないほど凶悪なモンスターの群れだ、もしあのまま倒れていたら死んでいた未来だってあったかもしれなかった。
どれだけ悔しくても、『ベル・クラネルに助けられた』という事実から目を逸らしてはいけない。それは
だから、レフィーヤは大きく息を吸って、
「ベル・クラネル!
深々と頭をさげながら、ベルに感謝の気持ちを伝えた。
「・・・・・・」
返事がない。一秒、二秒、三秒、と待っても沈黙が場を支配している。
奇妙な沈黙に耐えかねてレフィーヤが顔を上げると、視界に現れたベルはきょとんとした表情のまま固まっていた。
予想外の事態である。まさか一世一代の告白に対して、間抜けな顔をされるとはレフィーヤは思ってもいなかった。
「な、なんですかその顔は!」
思わずレフィーヤは怒りを発する。まるで悩みに悩んだ果てになけなしの勇気を絞り出した私が馬鹿みたいじゃないですか! と抗議したいくらいだった。
感謝を受けた張本人であるベルは顔を真っ赤にしたレフィーヤの怒声を聞いて、ようやく我を取り戻した。
「いえ、ただちょっと驚いてしまって」
ベルは困ったように頬をかきながら言う。その様からは、感謝されるとは微塵も思っていなかったように見える。
「その、僕として当然のことをしただけですから」
そう言った瞬間、レフィーヤは「私の感謝を突っぱねるつもりですか!」とベルの襟袖を掴もうとする。
「でも、そうですね」
だが、寸前のところでレフィーヤの手が止まる。
その直後、
「どういたしまして」
ベルは柔らかな微笑みをレフィーヤに贈った。
「っ!?」
完全に不意打ちだった。
(なんですか、これは。胸が熱く・・・・・・知りません、こんな気持ち。これは、何なんですか!)
胸に突如として産み落とされた感情に、レフィーヤは混乱する。
(そ、そうです。これは、ようやく
自らの感情をそう解釈したレフィーヤは、守られる側の境界線を踏み越えるように
「あのときは不覚を取りましたが、もう二度とあなたに助けられるような失態は犯しません! むしろ、次は私があなたを助けてみせます!」
「レフィーヤさんが、僕を」
「そうです! だってあなたは私の
この日、レフィーヤはベルの
▲
豊穣の女主人でベルたちを迎えたのは、空色の瞳に薄緑色の髪が特徴的なエルフ族のウエイトレス。リュー・リオンだった。
「いらっしゃいませ、クラネルさん。・・・・・・それと、お連れの方々」
先頭に立つベルを視界に捉えたリューは僅かに目尻を下げる。だが、少し遅れて現れた三人を見た刹那、リューは双眸を鋭く尖らせた。
表情は変わっていないのに、ぐつぐつと煮えたぎるような怒気が放たれているのを感じたベルは「シルという人がいながら、なぜ女性を囲っているんですか?」と視線で威圧してくるリューを見て、頬を引き攣らせる。
「・・・・・・どうかした?」
「いえ。こちらへどうぞ」
怪訝そうな表情で訊ねてくるアイズを見て、リューは表情を接客用のものに戻し、四人を先導するように歩き始める。
【ロキ・ファミリア】の第一級冒険者と【未完の英雄】の組み合わせはあまりに目立ちすぎるという理由から、ベルたちが案内されたのは店内の隅にあるテーブル席だった。
「料理が決まったら、またお呼びください」
淡々とそれだけ告げると、リューは足早にベルたちのテーベルを去って行く。彼女の背からはどこか刺々しい雰囲気が放たれているようにベルは感じた。
「・・・・・・ベル、あの人と何かあった?」
「いえ、何にもありませんよ。はい」
とアイズからの質問に苦笑いしながら答えるベル。
脳裏に過ぎるのは『あなたはシルの伴侶となる方なのですから』と真剣な面持ちで告げるリューの姿だ。
なぜ、僕とシルさんが? という疑問をベルは抱いているが、あの様子から見て口を割ってくれそうにない。
(
胸中で呟くベルに共鳴するように、右眼から僅かに稲妻がほとばしる。しかし、それは一瞬の出来事で誰も気づくことはなかった。
席についた四人は机の上に並べられたメニューを手に取ると各々が好きな料理を注文する。
アイズはナポリタンを。
ティオナはステーキを。
レフィーヤは魚のフライを。
そしてベルは鶏の香草焼きを頼んだ。
「あとはあたし、
「私は果実酒で」
「僕も果実酒を頼もうかな」
「・・・・・・私は
料理を選び終えて、最後に飲み物を頼み始めるベルたち。
「あれ、アイズさんはお酒飲まないんですか?」
「・・・・・・ロキに駄目って言われてる」
まさかの解答にベルは意外そうな目でアイズを見る。
「あー、アイズは酒癖がちょっとねえ」
アイズの酒癖の悪さを目の当たりにしているティオナは、明後日の方向を見ながら言葉を濁す。
「そうなんですね」
アイズの意外な一面を知ったベルは、嬉しそうに微笑む。深紅色の双眸が見つめる先には、恥ずかしそうに頬を紅潮させるアイズがいた。
注文から十数分後、リューが芳ばしそうな香りを漂わせる料理たちをお盆に乗せて次々と机の上に運んでくる。
「お待たせいたしました。ごゆっくりどうぞ」
リューは手早く料理を配膳すると、一礼して去っていった。
注文の品がすべて届けられたのを確認したベルは「それでは皆さん料理もきたことですし、いただきましょうか」と言って果実酒がなみなみと注がれたジョッキを高々と掲げる。
「乾杯!」
「「「乾杯!」」」
こうして、四人の酒宴が始まった。
▲
「
「アイズさん、あたしのフライもどうぞ!」
「ありがとう、レフィーヤ」
「うん、美味しい」
冒険者らしくわいわい騒ぎ合いながら食事を楽しむ三人を眺めながら、ベルは不思議な感覚に陥っていた。誰かと笑い合いながら卓を囲めるなど、
ベルは人間を襲う絶対悪であるモンスターを、
力が欲しかった。善なる人間の幸福を不当に奪い、不幸に陥れる卑劣な悪を滅ぼせるだけの絶対なる力が。
どれほど高潔な正義を掲げようと、どれほど輝かしい理想を掲げようとも、実行できるだけの力が無ければ弱者の妄言でしかない。
他者を弱者を嬉々としていたぶる塵屑にも劣る悪を打倒するには、この世に跋扈する悪党を絶滅させるには神より授かる『
最高の環境で最速の成長を成し遂げなければ、ベルの目的は叶わない。
ベルの肉体、血液、五臓六腑、心。何よりも
なのにベルは今、アイズたちとの食事を楽しんでいる。久しく忘れていた楽しいという気持ちが心地よくもあり、気持ち悪くもあった。
エイナは成長していると言ってくれたが、ベルの心のどこかで「食事を楽しんでいる場合ではない」とナニカが怒るのだ。
「お前が幸福を享受している間にも、善なるものの幸福が邪悪なるものたちに穢されているのだぞ」とナニカが告げるのだ。
ならばどうして、ベルは三人を食事に誘ったのか。
それは、きっと・・・・・・
「ベル、大丈夫?」
思考の海で溺死しそうになったベルを見て、アイズが心配そうに見つめてくる。
少女。夕焼けに照らされて輝く稲穂の海のように美しい金色の髪と瞳を持った少女。心の奥に闇を抱える、孤独な少女。
そして、ベルと共に戦った初めての少女。
アイズ・ヴァレンシュタインが、ベルを見ている。
そうだ僕は。
彼女のことが知りたいんだ。あの日、
だからアイズたちを食事に誘ったのだと、ベルは今になって自分の本心に気づいた。
「ベル?」
「あ、はい。大丈夫です、ちょっとぼーとしてたみたいで」
誤魔化すように、ベルはジョッキを煽る。
「・・・・・・ベル、パスタ食べる?」
「えっ」
アイズからの突然の申し出にベルは言葉を詰まらせる。
(そうか、アイズさんは僕を気遣って)
表情に出したつもりはないが、アイズはベルが鬱屈とした感情を抱いていたことに気づいたのだろう。金色の瞳にはベルを慮るような優しさが滲んでいる。
「ありがとうございます、アイズさん。それじゃあ、いただいてもいいですか?」
「う、うん」
アイズはぎこちない手つきでフォークにパスタを巻き付けると、緊張で震える手を必死に抑えて何とかベルの口元まで持って行く。
「・・・・・・あ、あーん」
あむ、と頬張るベルを見てアイズは固まってしまう。
(ど、どうしよう・・・・・・あ、あーんしちゃった)
アイズの顔が徐々に紅潮していく。恥ずかしさからか、顔の赤みが耳にまで広がっていく。
それを目敏く目撃していたレフィーヤが叫ぶ。
「ベル・クラネルゥ! なぜアイズさんにあーんして貰ってるんですかぁ、羨ましいです! 許せません!」
彼女はすっかり酔いが回っていて、顔を真っ赤にさせてどこか目も据わっている。今日、四人の中で一番酒を飲んでいるのは間違いなくレフィーヤだった。
「レフィーヤも、する?」
「いいんですか!?」
「うん」
アイズは先ほどよりも手慣れた様子でフォークにパスタを巻き付けると、レフィーヤの口元へ持って行こうとする。
「じゃ、あたしが代わりに
「ティオナさんもですか?」
それを聞いた瞬間、レフィーヤの口元まであと少しというところまで近づけていたスプーンがぴたと止まる。
「はい、あーん!」
「あの、一口にしては大きくないですか?」
「育ち盛りなんだから、がっつり食べないと! ほら!」
「は、はい」
ティオナがベルに『あーん』をしているところを見たアイズは、胸に針が突き刺さるような痛みを感じた。
(なに、この痛み。ティオナとベルが仲良くしてるだけなのに、どうしてこんなに胸が痛いの?)
アイズは胸を傷つける感情の正体を探すように周囲を見渡すが、恋を教えてくれた
「アイズさぁーん・・・・・・」
「・・・・・・ご、ごめん。レフィーヤ」
涙目を浮かべるレフィーヤからの悲哀漂う声を聞いて、我を取り戻したアイズは慌てて謝るのだった。
▲
食事も残り僅かとなり四人の酒宴が終わりへ近づいたころ、ティオナが酔った勢いに任せるように言った。
「ねえ、ねえ。
「急ですね」
前の会話とは全く脈絡のない質問に、ベルは苦笑いする。
「いいじゃん、いいじゃん。減るもんじゃないんだし。ね、教えてよぉ」
「私も、気になる」
「アイズさんもですか?」
まさかな人物の加勢に、ベルは思わず聞き返す。
「すごく、気になる」
アイズは深々と頷いた。
声音は淡々としているが引き締まった表情からは興味津々であることが伝わってくる。
ちなみにレフィーヤは酔い潰れて、「ベル・クラネルゥ・・・・・・」とぶつぶつ呟きながら卓の上に突っ伏している。
「ほら、アイズもこう言ってるし。ね?」
ティオナの熱意に折れたベルは、ジョッキに注がれた果実酒の水面を見つめながら少しばかり思索する。
(そんなこと、考えてもみなかった)
祖父を失った日から今日に至るまで、ベルは『強くなる』ために前だけを向いて生きてきた。過去など振り返らない。振り返る必要を感じない。目的を果たすために正しい努力を続けることがベルにとっての当たり前だったから。
ゆえに好みの女性は誰なのか、自己に問うという発想自体が無かった。
「そう、ですね」
ベルは言葉を口の中で転がしながら、改めて考えてみる。
ベルにとって好ましい女性とは、誰か。まぶたを閉じて自己の内側へ意識を向ける。最初は何も浮かばず、心象風景は真っ暗な闇に包まれていた。
しかし、じいっと心の奥に目を凝らしてみると朧げながらその輪郭が浮かび上がってくる。
そうだ僕は。
深い深い闇の中に、ベルは一人の女性を見た。
答えを得たベルはゆっくりとまぶたを開く。
そして、陶磁器を扱うように丁寧にその言葉を紡ぎだした。
「ずっと一緒にいたい。そう思える女性ですね」