ベル君に「まだだ」を求めるのは間違っているだろうか 作:まだだ狂
○
「おーい、ベルくーん!」
時針が十を刻んだとき、往来する群衆を掻き分けるようにしてエイナがベルのもとへとたとたと駆け寄ってくる。
麗しき相貌の頬を火照られ、鋭く尖る耳を緊張で微かに揺らすエイナの姿をみとめた瞬間、ベルは意識を切り替えた。
雑念の一切を払い、強きを望む冒険者としての己を封じ、今はただ自らの瞳に映る
『女性とのデート中に余計なことは考えるな』
これもまた、今は亡き祖父の教えの一つだった。
「……お、おはよう、ベル君」
「おはようございます、エイナさん」
向かいあった二人が挨拶を交わす。片方は照れくさそうに、もう片方は柔和な笑みを浮かべて。
「その、待った、かな?」
潤む緑玉色の瞳、紡ぐ言葉はたどたどしく。普段のお姉さん然とした鷹揚な態度は彼方へ消えて、今のエイナはベルを想う一人の女性となっていた。
「いえ、僕も少し前に来たばかりですよ。だからそんなに気にしないでください」
「そ、そっか……」
よかったぁ、と呟きエイナは胸に手を当てながら安堵の息を吐く。
「それで、さ。その、ベル君……」
ちらちら、とエイナがベルに何かを求めるような視線を向ける。
レースをあしらった白のブラウスに丈の短いスカート。何よりも普段かけている眼鏡を外しているその姿は、ぴっしりとしたギルドの制服姿とはまるで違った、華やかな印象を受けた。
見るだけで伝わる。今日の彼女はアドバイザーではなく、一人の女の子。ただのエイナ・チュールだと。
だからベルは思ったままの言葉を彼女へ贈ると決めた。エイナのような美人には、お世辞も優しい嘘も必要ない。
エイナがベルに求めているのは、真実の想いなのだから。
「エイナさんの私服姿、とても似合ってますよ。普段の大人びた雰囲気も素敵ですけど、今日のエイナさんは、うん。とても可愛らしいです」
言い終えたあと、ベルの瞳に映ったのは、時が静止しているかのように動きを止めたエイナの姿だった。
「……」
「エイナさん?」
何の反応も示さなくなったエイナを現実へ引き戻すために、ベルは顔を近づけて名前を呼ぶ。
するとエイナの瞳にゆっくりと意思の光が戻ってきて、
「ふえ!?」
と可愛らしい声が洩れた。
気づけばベルと見つめあっている状況に、エイナの顔は熟れた林檎のように紅潮していく。湧き上がる羞恥と歓喜に思考は混乱状態。
しかし、今日という日のために何時間もあーでもない、こーでもない、と服装を悩んだエイナにとって、ベルから贈られた褒め言葉はこれ以上ないくらいに嬉しいものだった。
「あ、ありがとうベル! ……凄く、凄く嬉しいわ!」
ぱぁ、と咲き誇るエイナの笑顔。それを間近で見て、ベルの頬も自然と緩んでいく。
「喜んで貰えて、僕も嬉しいです」
「ふふっ。ベル君も嬉しいんだ」
「はい。エイナさんの喜んでいる顔、凄く可愛いですから」
ベルがさらりとそう告げると、羞恥心が限界に達したのかエイナが顔が真っ赤に染まる。
「も、もう! ベル君! あんまりお姉さんをからかうんじゃありません!」
「僕は本心を言っただけですよ?」
ベルはにやっとからかうような笑みを浮かべながらそう言った。
「べールーくーーん!」
抗議するようにベルの名前を呼ぶエイナ。本人は怒っているつもりなのかもしれないが、ベルの瞳に映るのは可愛らしく拗ねる女の子だ。
「あはは、ごめんなさい」
「ねぇベル君、キミ全然反省してないでしょ?」
じとりとした視線が槍を突くようにベルの頬に刺さる。
「はい。さっきも言ったとおり、エイナさんが可愛いと思ったのは本心ですから」
何の躊躇いもなくベルは本心を言葉で綴った。表情に照れはなく、自然な笑みを浮かべている。だからこそ、伝わる。ベルは、ただ、本当にそう思っただけなのだと。
「……まったくもう。ずるいなぁ、キミは」
嬉し恥ずかしで情緒が乱れに乱されたエイナは、どこか困ったような笑顔を浮かべながらぽつりとそう呟いた。誰にも聞こえないような小さな声で。
「なにか言いましたか?」
「ううん、なんでもない」
ゆっくりと首を横に振ってから、エイナは何事もなかったようにふわりと微笑んだ。
「それよりも、そろそろ行こっか。あんまりゆっくりしてたらあっという間に日が暮れちゃうわ」
「そうですね、それじゃ……」
ごく自然とベルはエイナへ手を差し伸べる。
「い、いいの?」
どこか躊躇うように問うエイナに、ベルは朗らかな笑みを浮かべて言った。
「今日はエイナさんとのデートですから」
不安に負けずに一歩を踏み出して本当に良かった、と握るベルの掌の温もりを感じながら、エイナは心の底からそう思うのだった。
○
仰ぐ大空に曇はなく。爽やかな蒼の天蓋がどこまでも広がっている晴天の中、ベルとエイナはゆったりとした足取りで北のメインストリートを南下していた。
これから二人が向かう先は、
昼前のメインストリートは人の往来が激しく、道ゆく人を店に呼び込む商店の店員の大声や、迷宮へ向かう冒険者たちの足音や喋り声が絶え間なく、賑やかに響き渡っている。
「そういえばベル君は【ヘファイストス・ファミリア】のテナントって覗いたことはあるの?」とエイナが言った。
「はい、一度だけ」
「へぇ、そうなんだ。ベル君のことだからてっきり迷宮に潜ってばっかりだと思ってた」
エイナから見たベルは日常生活のほとんどを迷宮探索や鍛錬に費やしている印象が強かったので、今の返答は意外だった。
「【ヘファイストス・ファミリア】の武具はとても有名なので、参考までに一度見ておこうと思って……」
そう言いながら、ベルの脳裏に浮かんだのは洗練された武具の数々ではなく、店を回る中で偶然出会った真っ赤に燃える髪と眼帯が印象的な
どこか他人とは思えない、隻眼の神様。彼女との会話は不思議と心地よく、まるで一度どこかで出会い、絆を育んだような、温かな感情をベルは抱いた。
「あ、ベル君。今、他の女性のこと考えてたでしょ」
「いや、あはは……」
図星。
見事に心のうちを言い当てられたベルは、冷や汗を流しながら苦笑いすることしかできない。女の勘の鋭さについては昔、祖父から口酸っぱく言い含められていたのだが、実際に体験するとその恐ろしさがよくわかった。
「もう、ベル君ったら。お姉さんとのデート中に他の女性のことを考えるのは関心しないなー」
ぷくりと頬を膨らませていじけるエイナ。確かにデート中に他の女性のことを考えるのは失礼な行いだと、ベルは胸中で己を叱咤した。
そして、
「ごめんなさい」
と素直に頭を下げて謝罪した。
「別に怒ってるわけじゃないから、そんなにしょんぼりしなくていいよ。ちょっといじわるしたくなっただけだから」
そういって、エイナは柔和な笑みを浮かべた。
「こほん。それで、ベル君は【ヘファイストス・ファミリア】の武具を見てみてどう思った?」
話題の軌道を修正するようにエイナが改めて訊ねる。
「……月並みな言葉かも知れませんけど、どれも凄く優れていると思いました。多くの冒険者が買い求めるのも納得だとも。流石は第一線級の冒険者たちが求める武器を鍛える派閥だと僕には感心することしかできません」
記憶に刻まれた
そして、思い出す。自分たちが向かっているのも【ヘファイストス・ファミリア】だと。
ベルが不安そうな表情を浮かべて、「あの、エイナさん。僕、【ヘファイストス・ファミリア】の防具を買うほどのお金はまだ持ってないんですけど……」と言った。
昨日、迷宮の『中層』に進出し、一日の稼ぎが増えたからといってとても手を伸ばせるような代物ではないことをベルはよく知っていた。記憶が正しければ【ヘファイストス・ファミリア】の武具を購入するには最低でも数百万ヴァリスは必要なはずだ。
「大丈夫だよ。ベル君」
「……どういう意味ですか?」
「ふっふっふ、それは着いてからのお楽しみ!」
「わ、わかりました」
そういって悪戯っぽい笑みを浮かべるエイナに、ベルは困惑しながらも同意を示す。エイナのことだから、発言どおり着けばすべてわかるのだろう。
「んー、今の話を聞いて少し気になってたんだけど、ベル君は
「あー……その、実はあまり詳しくなくて」
気恥ずかしそうにベルは言った。
【ヘファイストス・ファミリア】のテナントを見て回ったのはあくまで興味本位からであって、その他の時間の多くをエイナの想像どおり迷宮探索と自己鍛錬ばかりに費やしていたベルは、鍛冶師と呼ばれる存在についての知識は全くといっていいほどもっていなかった。
「まあ、まだオラリオに来て、一カ月くらいだもんね。当然といえば当然か……」
そう口にして、改めてベルの異常なまでの成長をエイナは実感する。一ヶ月前のベルは、
しかし、今では(といってもまだ一ヶ月しか経っていないが)神人問わず、都市の誰もを魅了する期待の冒険者だ。
早い、という言葉では到底片付けられない驚異的な成長に、エイナはベルと出会ってからもう何年も月日が流れたような錯覚に陥った。
「でも、ベル君。キミはかなり例外的な存在とはいえ、括り的には上級。それも第二級冒険者なの。鍛冶師だけじゃなくて色々なことを知っておかないと、これから大変だよ」
「……ですね」
正論だった。
これから更に成長し、【ランクアップ】を果たし、『中層』を突破して、『下層』へと足を踏み入れ、『深層』を切り拓くというのであれば、エイナの言うとおり様々な知識を蓄える必要があるだろう。
今のベルは冒険者としては、あまりにも未熟だった。
「ということで、テナントに着くまでお姉さんが鍛冶師について教えてあげましょう」とエイナが言った。
「いいんですか?」
「勿論」
「それじゃ、よろしくお願いします! エイナさん!」
貪欲に知識を求めるベルの快活な声が、メインストリートに木霊した。
○
鍛冶師についての勉強会を開きながら歩くこと十数分後、ベルとエイナは空へ向かって真っ直ぐ聳える
この門は全方位に存在し、どの方角からでも摩天楼の中に入れるように設計されていて、今も四方八方から様々な人間が出入りしているのが見える。
「さ、私たちも行こっか」
「ですね」
そう言って門をくぐり大広間に足を踏み入れると、二人は周囲を見渡して、空いている
「それで、何階へ行くんですか?」
ベルが魔石昇降機に備え付けられた装置を操作しながら訊ねる。
「お目当ては八階なんだけど、せっかく摩天楼に来たんだし、四階にも寄っていかない?」
「良いですね。僕ももう一度見てみたいと思ってたんです」
エイナの提案に同意して、ベルは行き先を四階に設定すると、魔石昇降機が地面を離れて上昇していく。
ぐんぐん、と上へ昇り続ける魔石昇降機はほどなくして停止。四階へ到着したことをベルとエイナに伝えた。
がらりと閉まる扉を開いて一歩足を踏み出せば、ベルの視界には多種多様な武具が並べられている清潔な店内の様子が映し出される。
「この四階から八階までが全部【ヘファイストス・ファミリア】のテナントなんですよね……」
そう口にして、ベルは改めて目の前に広がる光景に圧倒される。
「流石は都市が誇る鍛冶師系ファミリアだよねぇ」
「はい……」
エイナの言うとおりだった。
フロアを丸ごと、それも五階層も借りるなど並大抵のことではない。テナント料だけで、どれほどの金額を支払っているいるのか日々の生活費を稼ぐので手一杯のベルには想像もつかない。加えて、ベルの
近づき覗く
だからこそ、ベルは思う。腰に佩いた二刀がいかに優れた武器であるのかを。使用された素材、洗練された造形、込められた鍛冶師の想い。そのどれもが陳列窓に飾られている武具を圧倒している。否、比べることすら烏滸がましいと感じてしまうほど隔絶している。
「いらっしゃいませ、お客様! 今日は何の御用、で、しょう……か……」
ベルが腰に佩いた二刀と陳列窓の向こう側にある刀をじぃと真剣に見比べていると、背後から聞き覚えのある声が響いてきた。
「ん?」
まさかと思い、がばっと勢いよく振り向けば、そこにはあどけなさを残す可愛らしい相貌にたわわな双丘に、墨を溶かしたように艶やかな黒髪を左右に束ねてふりふりと揺らす、紅色のエプロンタイプの制服をした少女の姿が。
「………………何をしてるんですか、神様?」
否、ヘスティアの姿があった。
気まずい沈黙に支配される
「……」
「……」
両者ともに何とも言えない表情で凍り付いたまま動かない。何を言えば良いのか、わからない。
気まずい沈黙が継続するほど数秒後、先に動いたの
「あー…………な、何かございましたら、お呼び下さい! それでは!」
そう言って、そのまま脱兎のごとく逃走を図ろうとするヘスティアの腕を咄嗟に掴むベル。
「それで誤魔化せると思ったんですか」
目を半眼にしたベルの視線が、真っ黒な後頭部にグサグサと突き刺さる。
「うぐっ!?」
もはや逃げ切れないと悟ったヘスティアは、おずおずといった様子でベルの方へ向き直った。しょんぼりとした表情。心なしかツインテールも萎れているように見える。
「……神様。僕は余裕はないですけど二人で生活できるくらいのお金は稼げるようになったと思っていました。なのに、どうしてここでもバイトしてるんですか? やっぱりまだ生活が苦しいんですか?」
そう問うベルの声音はヘスティアを慮る想いに溢れている。優しい。しかし、今はその優しさがヘスティアにとってはたまらなく辛かった。
「ベル君、いいかい。君はなにも見なかった。ここには来てないし、君の大好きで大好きな愛おしい神様にも出会わなかった。そういうことにするんだ、わかったね!」と叫びながら必死に腕を振り解こうともがくヘスティア。
「いや、そんな横暴な!」
全く納得できないベルは掴んだ手を離して、ヘスティアの両肩を抱いてその目をしっかりと見詰めた。
「何か理由があるなら教えて下さい。お金が足りないなら僕がもっと……」
頑張りますから、と言いかけて、やめる。ベルの脳内でこの瞬間、複数の要素が繋がって、一つの結論を導き出した。
「まさか、神様……」
ぽつりと言葉をこぼして、ベルは視線を二刀に落とした。
さきほど自分で思ったじゃないか。陳列窓に飾られた武器とは比較できないほど、腰に履く二つの刀は優れていると。ならばそれを神様はどうやって手に入れた? 一体誰に鍛えてもらった?
たどり着いた真実をベルが震える唇で紡ごうとした瞬間、ヘスティアが言葉を覆いかぶせた。
「何も言うんじゃない。言っちゃ駄目だ、ベル君。これは僕が選んだ道の結果なんだ」
女神の真摯な眼差しがベルを貫いた。
「でもっ」
「……ベル君」
声は厳しく、また優しかった。親の声、子を第一に想う母の慈愛に満ちた声だ。
「……わかり、ました」
その声を聞いてしまえば、ベルはこれ以上なにも追求することはできなかった。これはヘスティアの選択だから。ベルを想い選んだヘスティアの道だから。
追求するということは、ヘスティアの献身を無碍にすることになる。そんな、恩を仇で返すような選択をベルが取れるわけがなかった。
「良い子だね、ベル君。キミは賢くて、強くて、そして優しい子だ」
ヘスティアがベルの頭を優しく撫でる。その優しさがベルの心に吹き荒ぶ後悔の嵐をはらった。
「おーい、新入り! 遊んでねえで、とっとと次の仕事しろー!」
遠くから、ヘスティアを呼ぶ野太い声が響いてくる。
「は、はーい! それじゃ、僕は行くから。ベル君は早く帰るんだぜ」
こくり、とベルは頷く。それを見て安堵したヘスティアはもう一度だけベルの髪を撫でると、慌てて駆けだしていった。
「神様、ありがとうございます。あなたと出会えて、あなたの眷属になれて、本当によかった」
ベルは去って行くヘスティアの背に最大限の感謝の
「ベル君、話は終わった?」と会話が終わったのを見計らって、エイナがベルの隣へ歩み寄ってきた。どうやらヘスティアとのただならぬ雰囲気を察して、遠くから様子を窺っていてくれたらしい。
「はい、待たせてしまってすいません」
「いいの、いいの。大事な話だったんでしょ?」
「……はい。でも、もう終わりました」
「それじゃあ、お姉さんとのデート再開ね。そろそろ上へ行きましょう」
ベルは頷き、エイナとともに今回の目的地である摩天楼の八階へ向かいはじめた。