ベル君に「まだだ」を求めるのは間違っているだろうか   作:まだだ狂

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変わるために。進むために。灰被りの少女は英雄譚の舞台で踊る。


語り合い(トーク・ダンス)

 正午前。大半の冒険者が怪物(モンスター)を屠るために意気揚々と迷宮探索へ繰り出している時間帯、ベルとリリルカは摩天楼(バベル)の二階へ赴いていた。

 

 閑散とした簡易食堂。

 

 使用者が片手の指で数えられるほどしかいない空間は静寂としていて、喧騒が舞踏する一階とは対照的な、しっとりと落ち着いた雰囲気が漂っている。

 

「この時間はけっこう空いてるから、ゆっくり話ができそうだね」

 

「そう、ですね……」

 

 リリルカとしては、あのまま寄り道をせず真っ直ぐ地下迷宮(ダンジョン)へ向かうだろうと予想していただけに、簡易食堂で一度話をしないかとベルから提案されたのは慮外であった。

 

 彼の言葉を疑心の濾過器(フィルター)を通さずそのまま信じるのなら、目的はお互いを知ることらしい。

 

 本音を言えば、ベルと世間話をすることには多少の抵抗があった。リリルカは自らの境遇に鬱屈とした思いを抱えているのと同時に、恥る思いも抱えていたので、できることなら神々のもとに還るそのときまで秘匿していたかったのだ。

 

 それでも、リリルカがこの提案を受け入れる選択をとったのは、いつまでも過去に囚われているわけにはいかない、と強く感じたからに他ならない。

 

 数刻前まで、リリルカ・アーデという少女は端役だった。誰に知られることもなく、誰の記憶に残ることもなく、流れる歴史の中で消えていくだけの生きていながら死んでいるような存在だった。

 

 今は、もう違う。端役の立場で腐る自らを拒み、英雄譚の出演者になったのだ。

 

 あの時ベルが差し伸べてくれた手を握ったからには、悲しみに満ちた過去から、苛立ちに狂う現在から、そして、これから歩むだろう不透明な未来から逃げることは許されない。

 

 否、逃げ出したくなかった。

 

 向き合わなければいけないのだ、自分自身と。受け入れなければいけないのだ、自分自身を。自分で自分を呪うのを辞める機会(チャンス)はきっと今しかない、とリリルカはそう思うから。

 

 いざ、語り合おう(おどろう)英雄と。灰を被り汚れた衣服(ドレス)で。無様でも、ぎこちなくても、恥知らずでも、変わりたいと願うから。

 

 前を向きたいと想うから。

 

 ○

 

 ぐるりと周囲を見渡したあと、ベルとリリルカは会話をするのに最適だろう最奥の席に歩を移すと、向かい合う形で腰掛けた。

 

 英雄の清澄な瞳が、リリルカを真っ直ぐ見つめる。

 

「まず訊きたいことがあるんだけど良いかな、リリルカ」

 

 リリルカは何度か首を縦に振ったあと「は、はい」と言った。

 

「あと、その……よろしければ、リリのことはリリとお呼び下さい英雄(ベル)様」

 

「うん、わかった」

 

 そう言ってベルは頷く。

 

「そうだ! せっかくだから、リリも僕のことはベルって呼んでよ。そうすればお互いの距離も、もっと縮まると思うんだ」とベルは言った。

 

「そ、そんな! 【未完の英雄(リトル・ヒーロー)】と呼ばれ、今もっとも都市(オラリオ)で注目される御方を呼び捨てだなんて、恐れ多くてできません! 今だって英雄(ベル)様とお呼びするだけで心臓が破裂しそうなほど緊張しているんですよ!」

 

 椅子から転がり落ちそうになるほど動転するリリルカを見て、ベルは苦笑しながらも「無理強いはしないから、そんなに驚かなくても大丈夫だよリリ」と落ち着かせるようにそう言った。

 

 このままでは話が進まない。そう察したベルは周囲を漂う気まずい空気を変えるように、「ごほん」と一つ咳払いをする。

 

「えっと。それじゃあ改めて、リリ。契約をするにあたって、まずは君が無所属(フリー)なのかか、それともどこかの【ファミリア】に所属してるのかを教えて欲しいんだけど」

 

 ベルが訊ねた。

 

「はい。えっと、リリ、は……無所属(フリー)ではありません。とある【ファミリア】に、入ってます」

 

 まだ緊張しているのか、たどたどしい口調でリリルカは返事をした。

 

「どこの【ファミリア】に?」

 

「それは……」

 

 所属を問われたリリは、わなわなと震えながら顔を俯かせた。その視線は膝に置かれた小さな手にのみ注がれていて、目深く被ったフードからは不安に揺れる円ら瞳が薄らと見えた。

 

「……言いたくないなら、無理はしなくていいよ。答えなかったからといってサポーター契約を止めるつもりはないよ。それに、僕は君を傷つけたいわけじゃないんだ」

 

 本心だった。

 

 ベルにとって、所属の有無は決して重要ではない。派閥(ファミリア)がどこかも関係無い。ただ、少しでもリリルカ・アーデという少女のことが知りたい、不信の城壁で覆われた心に近づきたいだけで、苦悩の種を植えつけるのは本意ではなかった。

 

 そんなベルの真摯な思いが少しは通じたのか、リリルカは怯えた表情を浮かべながらも、ゆっくりと面を上げて言った。

 

「【ソーマ・ファミリア】、です……」

 

 か細い声だった。耳を澄ましていなければ、聞き取ることさえできなかっただろう微かな呟きからは、言いたくはなかったという思いがひしひしと伝わってくる。

 

 それほどまでにリリルカが言葉にするのを躊躇った理由(わけ)について、ベルは薄々ながら察していた。

 

【ソーマ・ファミリア】。

 

 神ソーマを主神として崇める探索系の派閥(ファミリア)。実力は中堅、所属する冒険者の能力値は平均より僅かに上程度、と特筆すべき点は見当たらない。敢えて特徴をあげるなら、構成員の数が多いことだろうか。

 

 しかし、他の探索系派閥(ファミリア)と決定的に違う点が一つだけあった。それは、酒の販売だ。

 

【ソーマ・ファミリア】製の酒は絶品だと神人問わず評判で、市場に流す量が少ないことから希少性も付与されており、都市(オラリオ)での需要は想像以上に高い。

 

 つまり、【ソーマ・ファミリア】は地下迷宮(ダンジョン)の探索で得た収益と販売した酒の収益の二つが派閥(ファミリア)を運営する資金源の柱となる。

 

 これだけであれば、特に問題がない、ごくごく一般的な派閥(ファミリア)に思えるだろう。それどころか資金を獲得する手段が二つあるのだから、他の探索系派閥(ファミリア)よりも恵まれた立場にあるとも言える。

 

 問題は、ここからだ。

 

 噂によれば【ソーマ・ファミリア】の構成員たちは仲間内で稼ぎなどを巡り激しく競い争っているらしく、魔石の換金所では査定された金額に毎度のごとく文句(ケチ)をつけたり、鑑定職員へ罵詈雑言を浴びせるなど、金への執着を剝き出しているというのだ。

 

 その異常な態度、言動、行動が次々と冒険者の目に、民衆の耳に入った結果、【ソーマ・ファミリア】の構成員は金の亡者ばかり。そんな悪印象が都市(オラリオ)で蔓延するようになった。

 

 当然、ベルもこれらの黒い噂を耳にしていたので、リリルカが所属の派閥(ファミリア)を口にするのを躊った気持ちは十分に理解できた。口にすれば、サポーターの件を撤回されるかもしれないと危惧したのだろう。

 

 だから、ベルはリリルカの不安を払うためにも早々にこの話題を切り上げることにした。

 

「【ソーマ・ファミリア】だね、わかった。それじゃあ、次の質問なんだけど」

 

「え?」

 

【ソーマ・ファミリア】の件について一切触れられなかったリリルカが、戸惑いの声を洩らす。

 

「どうかした?」

 

「い、いえ……」

 

 追求されることを望んでいるわけではないリリルカは、首を振って誤魔化した。

 

「そっか、じゃあ次の質問。リリは探索する階層が『中層』だけだとしても同行できる?」とベルが問う。

 

 暗に、冒険者が僕一人でも大丈夫か。万が一の場合自分で身を守る手段はあるのか訊ねているのだと察したリリルカは、こくりと頷いて肯定の意を示す。

 

「はい、大丈夫です。これまでも何度か他の冒険者様たちと『中層』は探索したことがあるので、出現するモンスターについての知識は持っていますし、対策などもしっかり身に付けていますから」

 

 ならよかった、とベルは安堵の息を吐く。

 

 二人だけで『中層』を潜るといえばその危険性から断わられてもおかしくないと考えていただけに、彼女の自信に満ちた返答は素直に嬉しかった。

 

 最初にして最後の難関を無事に越えたことで、強張っていた理性が弛んだベルは、「ごめん、喉が渇いちゃって。水飲んでもいいかな?」と訊ねた。

 

「どうぞ、気にしないでください」

 

 リリルカの了承を得たベルは、渇いた喉を潤すために腰のポシェットから革水筒を取り出して、ごくりと一口、喉の奥に水を滑らせた。

 

 冷たい水が旱魃(かんばつ)した喉の渇きを癒やすように染み渡っていくのを感じて、ほうっと思わず溜め息をこぼしてしまう。

 

「リリも飲む?」

 

「い、いえ。喉は渇いていないので大丈夫です」

 

「そう?」

 

「は、はい。気を遣っていただいてありがとうございます」とリリルカは言った。

 

 嘘だった。

 

 リリルカの口内は極度の緊張で、草木の生えない砂漠のようにカラカラに渇いていた。月のような好意と太陽のような畏敬を抱くベルでなければ、いいえと答える余地はあったかも知れない。

 

 だが、相手は英雄だ。英雄と間接的ではあるが接吻(キス)をしてしまえば、感情が熱烈して意識を失う自信があった。

 

 それゆえの虚偽、それゆえの遠慮。

 

 しかし、彼女の嘘をしっかりと見抜いていたベルは手早く革水筒をしまう。喉の渇きを必死に我慢している人の前で、図太く水を飲み続けるつもりはなかった。

 

「じゃあ、次は僕の番だね。色々と知って欲しいことがあるんだ」

 

「え、いや……そんな。……リリなんかが、英雄(ベル)様のことを教えていただくわけには……」

 

「『リリなんか』だなんて、自分を卑下しないで。僕がリリに知って欲しいんだ、ベル・クラネルがどんな人物なのか。それに、リリばかりに話してもらうのは平等(フェア)じゃない。……僕もリリも同じ人なんだ。どちらかが一方的に知るだけの関係なんて、とても寂しいと、僕は思うよ」

 

 ベルはふわりと微笑んで、諭すように優しく語りかける。

 

「あっ……」

 

 洩れる声に込められた感情は、歓喜か敬慕か。

 

 平等、という言葉にリリルカの傷だらけの心が癒やされていく。これまでの人生で、不当かつ不平等な扱いばかりされてきた彼女にとって、平等の二文字は黄金よりも遙かに価値のあるものだった。

 

 それを、今、目の前にいる少年が与えてくれたのだ。

 

(眩しい……)

 

 こんなにも真っ直ぐで清らかな心を持ち合わせているベルだからこそ、皆は惹かれるのだろう、とリリルカは直接その人柄に触れたことで強くそう思った。

 

 都市(オラリオ)の人々が語るとおり、ベル・クラネルは正しく英雄。

 

 恩を仇で返した愚かな少女に、もう一度手を伸ばす器の広さ。冒険者でありながら荷物持ち(サポーター)を平等に見る謙虚さ。低俗下劣な輩では決して持ち得ない鮮烈な輝きを、ベルはその心に宿している。

 

 これまでの裏切られるだけの人生で、すっかり人間不信になっていたリリルカだったが、ベルだけは信じてもよいのではないか、ベルだけは信じられる人なのではないか、と僅かながら思い始めていた。

 

 それほどまでに、眼前で微笑を浮かべる英雄は、人の心を魅了する光のような雄々しい気配(オーラ)を放っていたのだ。

 

「はっ……」

 

 リリルカが感動の飛翔を終えて意識が現実に戻ってきたのは、「まずは所属からだね」とちょうどベルが喋り始めた時だった。

 

「僕の所属は【ヘスティア・ファミリア】。主神は神様……えっとヘスティア様で、眷属はまだ僕一人。今は神様と二人、誰も使ってない教会の地下で生活してるんだ」

 

「教会の地下、ですか?」

 

 衝撃の告白に、思わずリリルカは聞き返した。

 

「そうだよ。ふふ、びっくりした?」

 

「は、はい……」

 

未完の英雄(リトル・ヒーロー)】の勇名轟くベルが、【ヘスティア・ファミリア】なる知名度の少ない(この表現はリリなりのベルへの配慮であり、実際の知名度は皆無)派閥(ファミリア)に所属していることは噂で耳にしていたが、まさか廃墟の地下で生活しているとは思ってもいなかった。

 

 リリルカの想像では、決して広くはないけれど優れた間取りの賃貸で、神ヘスティアと二人仲睦まじく暮らしている景色を、勝手に想像して、勝手に羨んでいたので、驚きもひとしおだった。

 

 誰も、あのベル・クラネルがそんな寂れた場所を生活拠点にしているとは思っていないだろう。

 

 もしやとんでもない情報を知ってしまったのでは、とリリは胸中で戸惑った。

 

 そんな絶賛困惑状態なリリを余所に、ベルは話を続ける。

 

「次は地下迷宮(ダンジョン)の方についてだね」

 

「は、はい。おねがいします」と言ってリリルカは耳を傾ける。

 

「僕が冒険者を始めたのはだいたい一カ月半くらい前で、Lvは3。今は『中層』を探索してて、慣れたら『下層』へ挑戦するつもりだ」

 

「…………はぁ」

 

 無意識のうちに、気の抜けた声がリリルカの口から洩れた。度を超した驚愕は、思考を停止させるらしい。

 

 ギルドの発表でベルが僅か一カ月半でLv.3へ到達したのは、都市に住む人の多くにとって周知の事実だろう。リリルカもそのうちの一人だ。加えてベルが『中層』を探索していることも、二日前に偶然すれ違ったリリルカは知っている。

 

 だが、既に『下層』の探索を視野に入れているのは、予想の範疇の遙か外側だった。

 

「あの、失礼な質問かもしれませんが、英雄(ベル)様は『中層』を潜ってどれほど経つんですか?」

 

 おずおずとリリルカは訊ねた。

 

「まだ一日だね」

 

「はい?」

 

 逡巡なく放たれた驚愕の発言に、リリルカは自分の耳を疑った。

 

(今、英雄(ベル)様がとんでもないことをおっしゃったような……いえいえ、流石にリリの聞き間違いですよね。まさか、一日だなんてそんなわけ……)

 

 胸中でそう呟いて、リリルカは動揺する心を必死に落ち着かせようとする。打ち寄せる驚きの津波、に動悸が乱れているような錯覚さえ覚えた。

 

 だが、ベルの次の発言で自らの耳が極めて正常であり、動悸が一切乱れていないことをリリルカは思い知ることになる。

 

「二日前に初めて『中層』に潜ってモンスターと戦ったんだけど、どうにも手応えが感じられなくて。多分、短期間でLv.2からLv.3へ【ランクアップ】したのが原因だと思うんだけど……」

 

 でもこれじゃあ僕は強くなれない、と呟いたあとベルは悔しそうに下唇を噛んだ。

 

「命の危険を感じる死線に身を投じるのが強くなる最も効率的な手段なのに、僕は冒険せず、勝てる可能性が高い戦場(ぬるまゆ)の中にいるんだ。その事実が、情けなくてしかたがないよ……」

 

 そう言って、ぎゅうと音が鳴るほど強く両の拳を握るベル。

 

 ああ、やっぱり彼は英雄だ。

 

 サポーターにならないかと誘われたとき、リリルカはベルに少年を見た。けれど今、眼前で苦渋に満ちた表情を浮かべるベルは、神話や伝説に語られる英雄そのものだ。

 

 雷のごとき鋭さと激しさを持った、英雄。

 

 常識に鑑みれば、理解不能な発言。死を恐れる以上に、自らの願いが果たされないことを恐れる精神性は、正に鋼鉄。死が心臓をわし掴もうとも、常識が剣となって刃を向けてこようとも、決して砕けず傷つかない鋼鉄の精神を宿す英雄。

 

 当たり前に囚われないから、異常を業と受け容れるから、彼ら(ベルを含めた)は英雄なのだとリリルカは思い知る。

 

 だって、そうだろう? 

 

 冒険者になって二カ月も経ていないのに、『下層』の探索を視野に入れる人間など、古今東西、大陸全土を見渡してもきっとベルしか存在しない。他の誰が口にしても馬鹿だ、無理だと詰られるだけだろう。

 

 けれど、ベルは、ベル・クラネルは本気で『下層』へ挑むつもりだ。そして、生きて帰ってくるつもりだ。至極当然に、無謀を偉業と成し遂げるつもりでいる。

 

(【未完の英雄(リトル・ヒーロー)】なんですね、本当に。英雄(ベル)様は今の自分に全然満足してない。なら……)

 

 ここで一つの疑問が生まれた。決して無視できない、大きな疑問が。

 

英雄(ベル)様、一つどうしてもお訊ねしてしたいことがあります」

 

「うん、言ってみて。僕に答えられることならなんでも答えるよ」

 

 リリルカが初めて能動的に動き、自らの意思で質問を投げかけてきたことに歓喜を噛み締めなが、らベルは首肯した。

 

「でしたら、どうか教えてください。誰よりも強さを求めると言った貴方様が、どうして足でまといにしかならないサポーターを雇おうと思ったんですか。これはリリだけではありません、サポーターという存在そのものに対してです」

 

 ベルの本質を捉えた鋭利な言葉を、リリルカは放つ。

 

「それ、は……」

 

 ここで、初めてベルは言葉を詰まらせた。

 

 口を僅かに開きながら言葉に繋がる単語たちを探すが、それらは文章にはならず、バラバラになって泡が弾けるように消えていくばかり。

 

「……」

 

 一度の探索で得られる稼ぎを増やしたいから。魔石を回収する手間を煩わしいと思ったから。戦闘に集中したいから。常識に則った考えが幾つも思い浮かんだが、それはどれもが虚偽の星。本音でない言葉を、真実として騙ることなど、ベルにはできなかった。

 

「ごめんなさい、英雄(ベル)様。でも、どうしても知りたいんです。これさえ知ることができれば、リリは英雄(ベル)様のサポーターとして全力を尽くすと約束しまう。だから」

 

 願いします、答えてください。

 

 リリルカはがばり、と頭をさげて頼み込んだ。

 

 暫しの沈黙。

 

 簡易食堂の使用者が少ないことも相まって、鉛のように重く水中のように息苦しい静寂が二人を覆い尽くす。

 

 リリルカの瞳に映るベルは、眉を顰め、手を口に当てて、じいと視線を机に注いで熟考の海に沈んでいる。しかし、嘘を考えているようには見えない。

 

 ただ、何と言葉にすればよいのか深く深く迷っているようだった。

 

「……」

 

「……」

 

 ちく、たく。静かな空間に時計の針の廻る音が響く。微かに香る料理の匂いが、やけに嗅覚をくすぐった。

 

 もどかしい、そう思いながらもリリルカは辛抱強く待ち続ける。急かしたところで、真実は語られない。むしろ遠ざかるだけだと、経験から学んでいたからだ。

 

 秒針が六十を刻むこと数回、ようやくベルは思考の海から浮上して、口を開いた。

 

「リリ、ごめん。それは僕にもわからないんだ。……誤解しないで欲しいっていうのは理不尽かも知れない。でも、本当に、本当に僕自身、わからないんだ……」

 

 ベルは申し訳なさそうにそう言った。

 

「リリの言う通り、強さを求めるのなら単独(ソロ)地下迷宮(ダンジョン)に潜るべきなんだ。僕もそれが最適解(せいかい)だと頭では理解してる。でも……ごめん、なんて言ったらいいのか。僕自身、直感に身を委ねて動く経験は初めてなんだ……間違っているとわかっている選択を取るのは、初めてなんだ……」

 

 沈痛な面持ちを浮かべて謝るベル。 

 

「でも、これだけは断言できる。僕は君を騙したいわけじゃない。何かを隠しているわけでもない。悪意を持って近づいたわけでもない。本当に僕は、君を、リリをサポーターとして雇いたいんだ」

 

 リリルカに真剣な眼差しを向けるベルの顔に、虚偽の色は見えなかった。深紅(ルベライト)の双眸に宿るのは真実。他には何も映らず。純粋で、清廉で、透き通るような想いだけが、そこにある。

 

(嘘は、ついてない。本当に、英雄(ベル)様はどう言葉にすればいいのかわからないんですね……)

 

 望んだ答えではなかったが、リリルカの中に生じた疑問は解消された。そも、不信や不安を抱いたわけではない。返答次第でこの場を去るつもりもない。

 

 ただ、ベル・クラネルという英雄が何よりも強さを求めているのならば、どうして遠回りするような道を自らの意思で歩もうとするのか、引っかかっただけだ。

 

 答えは既に、決まっている。差し伸べてくれた手を握った時点で決まっている。

 

「貴方様がリリを騙そうとしていないこと、しっかり伝わりました」

 

 ──信じます。

 

 もう二度と使うと思っていなかった言葉を紡いで、リリルカはベルに微笑みかけた。

 

 ベルはぱちりと瞬いたあと、安堵したような表情を浮かべる。

 

「それではこれからよろしくお願いします、英雄(ベル)様」

 

「…………うん、よろしくね、リリ!」

 

 微笑と笑顔の花が咲き、語り合い(トーク・ダンス)の幕が閉じる。

 

 こうしてベルとリリは正式に契約を締結して簡易食堂をあとにすると、地下迷宮(ダンジョン)の『中層』へ向かい始めるのだった。

 




英雄は思い知る、悩むことの辛さを。理性に抗うことの難しさを。それでも、助けたいと思ったから。手を差し伸べたいと思ったから。今はただ、選んだ道を進むのみ。例え道の先が闇に覆われていたとしても
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