ベル君に「まだだ」を求めるのは間違っているだろうか 作:まだだ狂
パリン。
耳朶を打つ硝子の砕ける鋭い音が、室内に鳴り響いた。
キラキラと宙を舞い地面に転がる無色の破片は、ワイングラスの残骸。びしゃりと零れて広がる
暫くの静寂。それは嵐の前の静けさだった。
「やってくれたわね、あの泥棒猫!」
轟くのは、怒号。神の雷。
「ゆるさないわ、絶対に! たった今、貴女は一線を超えたのよ! 決して、踏み越えてはいけない、一線を!
ぜぇ、ぜぇと荒い息を
黄金と豊穣を司る女神、フレイヤだった。
「所詮は闇に囚われた幼子と、これまで大目に見てきたのが失敗だったわ!
一個ウン百万ヴァリスは下らない大陸屈指のワイングラスと、【ディオニュソス・ファミリア】から取り寄せた最高級
壁一面を独占する長方形の窓硝子から、遙か下方の
「
ぎゅう、と力強く噛み締める下唇から
「あの子の横に立つのは、この私よ! アイズ・ヴァレンシュタイン、あなたじゃない! あなたであってはいけないの!」
表情に浮かぶのは焦燥。放たれるのは罵詈雑言。暴れる様は
普段、妖艶な笑みをたたえて悠然としている彼女からは、想像もできない荒れ具合だった。
理由は明白。ベルに関する事柄だからだ。それ以外で、フレイヤがここまで感情を狂わせることはない。
「たった一日。それも何も起きていない平穏な日に、どうして……」
呟く声は、衰弱していた。
今日、彼女は
観察するのは、魂。生命が持つ、唯一無二の概念。
フレイヤは『観察眼』と称する、下界に生きるものの『魂』を色として認識する能力を持っていた。これを用いて、
識別は実に容易い。
猛きものは赤。冷徹なるものは紺など。世界に一人として同じ人間がいないように、同じ色の魂もまた存在しない。加えて、魂が放つ輝きには強弱がある。優れた者は太陽のごとき鮮烈なる輝きを、愚かな者は風前の灯火がごとき輝きを発するのだ。
後は、説明するまでもないだろう。約一カ月半の間にLv.3の境地へ至ってみせた【
欲しい、と一目で欲望の炎が猛った。
絶対に魂の持ち主を【フレイヤ・ファミリア】に入団させると決めていた。決定事項の四文字だけが心を、思考を、理性を、感情を、細胞のすべてを支配した。
しかし、運命はフレイヤを嘲笑う。わざわざ団長であるオッタルを向かわせて、ベルに入団を提案したのだが、断られてしまったのだ。
なぜ、どうして。
困惑が心のうちに吹き荒れた。【フレイヤ・ファミリア】は
そんな
しかし、現実はフレイヤの予想と矛盾した。
オッタルの報告によれば、ベルは一顧だにせず拒否したという。逡巡さえなく一瞬で、首を横に振ったのだと。
オッタルは嘘をつかないし、神相手に嘘をつく意味もない。ゆえに真実。覆しようのない、現実。
ベル・クラネルは、【フレイヤ・ファミリア】に入らない。
『あぁ……そんな……』
結果、感情が粉砕するほどの悔しさに襲われたフレイヤは三日三晩寝込んだ。
だが、自らの眷属にはできないという残酷な現実を受け入れてからは、毎日ベルの魂を眺めてその成長を見守ってきた。誰よりも長く、誰よりも近くで。
誰よりも、愛おしく。
『やっぱり、欲しいわ』
自らのモノにならなくても尚、諦められないほどの魅力。ベルの『魂』の
これまで幾人もの魂を見てきたフレイヤの中でも、他の追随を許さない圧倒的な輝きを放っていたのが、現在
『誰にも、渡さない』
そうだ。諦めるなど、ありえない。選択肢の余地にすら入らない。ベルを手に入れる、これはフレイヤにとって決定事項なのだから。
しかし、今、前提条件が崩れ去ろうとしている。バラバラと、ボロボロと、音を立てて。
フレイヤが心の底より欲するのは、黄金の魂を輝かせるベルなのだ。そうでなくてはならないのだ。
「なのにっ!」
──どうして!!
声の限りに叫んだ瞬間、壁の窓が女神の怒りを畏れるようにがたがたと揺れた。
「っ……」
ガリッと歯を噛み締める音が響く。
今、フレイヤの瞳に映るベルの『魂』には不純物が混ざっている。黄金の中に生じた僅かなそれは、
黄金の、鮮烈で雄々しく他者を狂わせる光とは違う、清廉で優しい他者を慈しむ光。
それは、黄金を愛するフレイヤにとって不純物以外のナニモノでも無かった。
「なぜ、あれほどの輝きを放っていた貴方の魂が、
巫山戯るな、そんなこと絶対に許さない、と呪詛を吐くフレイヤの姿が
「
これまでフレイヤは何度も見てきた。ベルの
ミノタウロスの死闘、黄金。
シルバーバック強化種との死闘、黄金。
常識ではかれば決して勝利を掴み取れないだろう格上を相手に、命を、魂を、燃やして闘う英雄は、思わず絶頂してしまいそうになるほどの黄金の輝きを放っていた。
すべて、計画通りだったはずだ。
成功だけが、あるはずだった。
なのに、一手。たった一手を誤っただけで、フレイヤの計画は破綻してしまった。
アイズとの共闘こそが、
戦場にて孤高、肩を並べる戦友などいないことこそが、ベル・クラネルの『魂』を黄金たらしめていた。
「なのにっ!」
英雄の舞台に闖入した謎の
「どうして、どうして、どうして、どうして、どうして……」
絹のように滑らかな髪をぐしゃぐしゃと掻き毟りながら、フレイヤは目を血走らせて狂乱する。
「おかしいでしょう? ベル・クラネル。あなたは誰かと肩を並べて闘ったりしないし、自らの選択を悩んだりしないし、為すべきことの総てが常識外れなはずでしょう?」
なのにどうして取るに足らないパルゥムごときに頭を悩ますの。どうして憎悪に焦げる少女なんかに心のうちを明かすの。
窓硝子に掌を押し付けながら、フレイヤはベルの『魂』をじぃと睨み続ける。
「あぁ、本当に」
いつ見ても美しい。眩しく、尊く、綺麗な輝き。微かに存在を主張する不純物さえ無視すれば、何時間だって観察できる。
それほどまでに、フレイヤはベルの『魂』の虜になっていた。
誰かを魅了する側であるはずの美の女神が、未だ十四歳に過ぎない少年に心を奪われてしまったのだ。
「ベル・クラネル……」
この胸に猛る想いは、恋ではなく愛。それも絶頂が際限なく更新されていく、究極の愛だ。
嗤いたければ、嗤え。嘲りたければ、嘲るといい。世界に生きる総ての負の念を集めようとも私の愛に傷一つとしてつけられない、とフレイヤは断言できる。
それほどの、愛。
だからこそ、ベルの変質をフレイヤは看過できない。既に完璧で完全だった色が、濁っていく様を、呆然と眺め続ける
「ふぅ……ふぅ……」
数十分間、激情のままに暴れていたフレイヤはベルの魂(不純物を除く)だけをじっくりと見つめることで、ようやく落ち着きを取り戻し始めた。
「あぁ」
喉が渇いた。そう思ったときには、静かに背後で侍っていたオッタルが、水の入ったグラスを差し出していた。
ごくり。ごくり。ごくり。
奪い取るように掴んだグラスを傾け、喉を鳴らして潤いを満たしていくフレイヤ。髪が乱れ、服が乱れ、息が乱れているのもまるで気にせず、急くように己が眷属へ二杯目を要求する。
オッタルは無言で主の要求に応じ、そっと空になったグラスを受け取って、新たな水を注いだ。
「良い子よ」
そう言って、フレイヤはグラスを受け取ると即座に傾ける。今度は、一気に半分ほど飲み干し、そこでやっと心に冷静の涼風が吹き込むのを感じた。
「…………もう、起こってしまったことを悔やんでも仕方がないわ。ええ、そうよ。大事なのはこれからよ。まだ
どこか自分へ言い聞かせるように呟くフレイヤ。
「であれば……」
彼女がぎろりと鋭い視線を向けた先には、立派な本棚が鎮座していた。幅は広く、また高く、まるで聳え立つ山のようである。
「あれを使いましょう」
そう言ってフレイヤはふらふらとどこか覚束ない足取りで本棚まで歩くと、震えた細指で下段に収まる一冊の本を引き抜いた。
ふわり、と本の独特な香りが鼻腔をくすぐった。
「ふふふ。何事も、備えておくものね」
それはフレイヤが万が一に備えて、特注で製造された特殊な
もはや、傍観者ではいられない。本当は直接干渉するつもりはなかったが、悠長に構えていられる状況ではなくなったのだ。
フレイヤは手に持つ本を開き、ぺらぺらと頁を捲って万が一にも中身の内容が間違っていないかを確認する。
「本当は貴方が英雄として窮まるまで、観客でいるつもりだったのだけれど……」
ぱたん、と本を閉じて獰猛な笑みを浮かべる美の女神。
「もう大人しくするのは止めたわ。淑女らしくしても、意味がないとわかったもの。……待っていなさい。すぐに思い出させて上げるわ、あなたが何者なのかを」
あなたが誰のモノなのかを。
真贋見極める右眼を持つベルに本を渡す方法は、既に思案してある。
楔は既に打った。
彼を愛し、彼を想う人が待つ
そうすれば、運命に導かれるがごとく、かの英雄は自然と本を手にすることになるだろう。
「さぁ、早く正気に戻って。私だけの英雄。……あなたが抱いていいのは、この私だけなんだから」