ベル君に「まだだ」を求めるのは間違っているだろうか   作:まだだ狂

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嫉妬の女神(ヘラ・レムナント)

 パリン。

 

 耳朶を打つ硝子の砕ける鋭い音が、室内に鳴り響いた。

 

 キラキラと宙を舞い地面に転がる無色の破片は、ワイングラスの残骸。びしゃりと零れて広がる葡萄酒(ワイン)が芳醇な香りを漂わしながら、紫赤の池を床に作る。

 

 暫くの静寂。それは嵐の前の静けさだった。

 

「やってくれたわね、あの泥棒猫!」

 

 轟くのは、怒号。神の雷。

 

「ゆるさないわ、絶対に! たった今、貴女は一線を超えたのよ! 決して、踏み越えてはいけない、一線を! 私のモノ(オーズ)に傷をつけたのよ!」

 

 ぜぇ、ぜぇと荒い息を竜の息吹(ドラゴンブレス)のように吐きだしながら、雪華を溶かした銀の髪を振り乱して憤激するのは、摩天楼(バベル)最上階の統治者。

 

 黄金と豊穣を司る女神、フレイヤだった。

 

「所詮は闇に囚われた幼子と、これまで大目に見てきたのが失敗だったわ! 怪物祭(モンスターフィリア)であの子の邪魔をした時、すぐに潰しておくべきだった!」

 

 一個ウン百万ヴァリスは下らない大陸屈指のワイングラスと、【ディオニュソス・ファミリア】から取り寄せた最高級葡萄酒(ワイン)を無価値に堕としたことなど気にも留めず。

 

 壁一面を独占する長方形の窓硝子から、遙か下方の街路(メインストリート)を仲睦まじく歩く純白の影と黄金の影を睨みつける様は、まるで阿修羅のごとく。

 

神の力(アルカナム)さえ使えれば……!」

 

 ぎゅう、と力強く噛み締める下唇から葡萄酒(ワイン)に似た赤黒い血を滴らせ、白皙(はくせき)の肌を汚し。皺一つない額には憤怒の証明たる青筋を浮かび上がらせ。紫水晶(アメシスト)の瞳を嫉妬の業火で焼き焦がし。神人魅了する蠱惑的な肢体からは激情のあまり、太刀風がごとき神威をほとばしらせている。

 

「あの子の横に立つのは、この私よ! アイズ・ヴァレンシュタイン、あなたじゃない! あなたであってはいけないの!」 

 

 表情に浮かぶのは焦燥。放たれるのは罵詈雑言。暴れる様は雷神(トール)のごとく。

 

 普段、妖艶な笑みをたたえて悠然としている彼女からは、想像もできない荒れ具合だった。

 

 理由は明白。ベルに関する事柄だからだ。それ以外で、フレイヤがここまで感情を狂わせることはない。美の女神(フレイヤ)としての仮面を外すこともない。

 

「たった一日。それも何も起きていない平穏な日に、どうして……」

 

 呟く声は、衰弱していた。

 

 今日、彼女は地下迷宮(ダンジョン)の探索から帰還したベルをいつものように観察しようとした。

 

 観察するのは、魂。生命が持つ、唯一無二の概念。

 

 フレイヤは『観察眼』と称する、下界に生きるものの『魂』を色として認識する能力を持っていた。これを用いて、摩天楼(バベル)の頂上からベルをじっくりと観察するのだ。

 

 識別は実に容易い。

 

 猛きものは赤。冷徹なるものは紺など。世界に一人として同じ人間がいないように、同じ色の魂もまた存在しない。加えて、魂が放つ輝きには強弱がある。優れた者は太陽のごとき鮮烈なる輝きを、愚かな者は風前の灯火がごとき輝きを発するのだ。

 

 後は、説明するまでもないだろう。約一カ月半の間にLv.3の境地へ至ってみせた【未完の英雄(リトル・ヒーロー)】の魂の放つ輝きが弱いわけがない。ベルが都市(オラリオ)に足を踏み入れた瞬間から、フレイヤは魅了されていたのだ。黄金に輝くその魂に。

 

 欲しい、と一目で欲望の炎が猛った。

 

 絶対に魂の持ち主を【フレイヤ・ファミリア】に入団させると決めていた。決定事項の四文字だけが心を、思考を、理性を、感情を、細胞のすべてを支配した。

 

 伴侶(オーズ)にしたいと、そう思った。

 

 しかし、運命はフレイヤを嘲笑う。わざわざ団長であるオッタルを向かわせて、ベルに入団を提案したのだが、断られてしまったのだ。

 

 なぜ、どうして。

 

 困惑が心のうちに吹き荒れた。【フレイヤ・ファミリア】は都市(オラリオ)でも、【ロキ・ファミリア】と並ぶ一大派閥(ファミリア)だ。現団長であるオッタルはオラリオ最強と呼ばれるほどの強者であり。都市最速の称号を有する副団長のアレン・フローメルを筆頭に、優れた能力を持った冒険者が数多く所属している。

 

 そんな派閥(ファミリア)の眷属になれば、得られる恩恵が計り知れないのは明らか。英雄になりたいと望むベルにとって、最高の環境であるはずだった。

 

 しかし、現実はフレイヤの予想と矛盾した。

 

 オッタルの報告によれば、ベルは一顧だにせず拒否したという。逡巡さえなく一瞬で、首を横に振ったのだと。

 

 オッタルは嘘をつかないし、神相手に嘘をつく意味もない。ゆえに真実。覆しようのない、現実。

 

 ベル・クラネルは、【フレイヤ・ファミリア】に入らない。

 

『あぁ……そんな……』

 

 結果、感情が粉砕するほどの悔しさに襲われたフレイヤは三日三晩寝込んだ。

 

 だが、自らの眷属にはできないという残酷な現実を受け入れてからは、毎日ベルの魂を眺めてその成長を見守ってきた。誰よりも長く、誰よりも近くで。

 

 誰よりも、愛おしく。

 

『やっぱり、欲しいわ』

 

 自らのモノにならなくても尚、諦められないほどの魅力。ベルの『魂』の本質(いろ)は黄金。直視できないほどの目映い閃光。

 

 これまで幾人もの魂を見てきたフレイヤの中でも、他の追随を許さない圧倒的な輝きを放っていたのが、現在都市(オラリオ)で【未完の英雄(リトル・ヒーロー)】として勇名を馳せているベル・クラネルなのだ。

 

『誰にも、渡さない』

 

 そうだ。諦めるなど、ありえない。選択肢の余地にすら入らない。ベルを手に入れる、これはフレイヤにとって決定事項なのだから。

 

 しかし、今、前提条件が崩れ去ろうとしている。バラバラと、ボロボロと、音を立てて。

 

 フレイヤが心の底より欲するのは、黄金の魂を輝かせるベルなのだ。そうでなくてはならないのだ。

 

「なのにっ!」

 

 ──どうして!! 

 

 声の限りに叫んだ瞬間、壁の窓が女神の怒りを畏れるようにがたがたと揺れた。

 

「っ……」

 

 ガリッと歯を噛み締める音が響く。

 

 今、フレイヤの瞳に映るベルの『魂』には不純物が混ざっている。黄金の中に生じた僅かなそれは、白金(プラチナ)

 

 黄金の、鮮烈で雄々しく他者を狂わせる光とは違う、清廉で優しい他者を慈しむ光。

 

 それは、黄金を愛するフレイヤにとって不純物以外のナニモノでも無かった。

 

「なぜ、あれほどの輝きを放っていた貴方の魂が、道化女の小娘(アイズ・ヴァレンシュタイン)と関わった程度で変化しようとしているのよ!」

 

 巫山戯るな、そんなこと絶対に許さない、と呪詛を吐くフレイヤの姿が嫉妬の神(ヘラ)と重なる。

 

白金(プラチナ)ですって? そんなのあなたにはまるで似合わないわ。光のように真っ直ぐ、雷のように激しく、己が道を阻むものの一切を斬り捨てて、前へ前へと雄々しく進むのがベル・クラネルでしょう?」

 

 これまでフレイヤは何度も見てきた。ベルの本質(いろ)を。

 

 ミノタウロスの死闘、黄金。

 

 シルバーバック強化種との死闘、黄金。

 

 常識ではかれば決して勝利を掴み取れないだろう格上を相手に、命を、魂を、燃やして闘う英雄は、思わず絶頂してしまいそうになるほどの黄金の輝きを放っていた。

 

 すべて、計画通りだったはずだ。黄金の閃光(ベル・クラネル)は、自らの導きによって英雄の道を駆け上がっていくはずだった。失敗なんてない。蹉跌(さてつ)なんてない。

 

 成功だけが、あるはずだった。

 

 なのに、一手。たった一手を誤っただけで、フレイヤの計画は破綻してしまった。

 

 アイズとの共闘こそが、運命の岐路(ラグナロク)

 

 戦場にて孤高、肩を並べる戦友などいないことこそが、ベル・クラネルの『魂』を黄金たらしめていた。

 

「なのにっ!」

 

 英雄の舞台に闖入した謎の怪物(モンスター)へ立ち向かうベルに、なぜかアイズは並び立ってしまった。並びたつことをベルが許してしまった。

 

「どうして、どうして、どうして、どうして、どうして……」

 

 絹のように滑らかな髪をぐしゃぐしゃと掻き毟りながら、フレイヤは目を血走らせて狂乱する。

 

「おかしいでしょう? ベル・クラネル。あなたは誰かと肩を並べて闘ったりしないし、自らの選択を悩んだりしないし、為すべきことの総てが常識外れなはずでしょう?」

 

 なのにどうして取るに足らないパルゥムごときに頭を悩ますの。どうして憎悪に焦げる少女なんかに心のうちを明かすの。

 

 窓硝子に掌を押し付けながら、フレイヤはベルの『魂』をじぃと睨み続ける。

 

「あぁ、本当に」

 

 いつ見ても美しい。眩しく、尊く、綺麗な輝き。微かに存在を主張する不純物さえ無視すれば、何時間だって観察できる。

 

 それほどまでに、フレイヤはベルの『魂』の虜になっていた。

 

 誰かを魅了する側であるはずの美の女神が、未だ十四歳に過ぎない少年に心を奪われてしまったのだ。

 

「ベル・クラネル……」

 

 この胸に猛る想いは、恋ではなく愛。それも絶頂が際限なく更新されていく、究極の愛だ。

 

 嗤いたければ、嗤え。嘲りたければ、嘲るといい。世界に生きる総ての負の念を集めようとも私の愛に傷一つとしてつけられない、とフレイヤは断言できる。

 

 それほどの、愛。

 

 だからこそ、ベルの変質をフレイヤは看過できない。既に完璧で完全だった色が、濁っていく様を、呆然と眺め続ける被虐的趣味(マゾヒズム)など持ち合わせてはいないのだ。

 

「ふぅ……ふぅ……」

 

 数十分間、激情のままに暴れていたフレイヤはベルの魂(不純物を除く)だけをじっくりと見つめることで、ようやく落ち着きを取り戻し始めた。

 

「あぁ」

 

 喉が渇いた。そう思ったときには、静かに背後で侍っていたオッタルが、水の入ったグラスを差し出していた。

 

 ごくり。ごくり。ごくり。

 

 奪い取るように掴んだグラスを傾け、喉を鳴らして潤いを満たしていくフレイヤ。髪が乱れ、服が乱れ、息が乱れているのもまるで気にせず、急くように己が眷属へ二杯目を要求する。

 

 オッタルは無言で主の要求に応じ、そっと空になったグラスを受け取って、新たな水を注いだ。

 

「良い子よ」

 

 そう言って、フレイヤはグラスを受け取ると即座に傾ける。今度は、一気に半分ほど飲み干し、そこでやっと心に冷静の涼風が吹き込むのを感じた。

 

「…………もう、起こってしまったことを悔やんでも仕方がないわ。ええ、そうよ。大事なのはこれからよ。まだ白金(プラチナ)は欠片ほどしか浸蝕していないのだから。不純物が生まれたなら、それを消し去って再び黄金一色に戻せばいいのよ。それだけの話しじゃない」

 

 どこか自分へ言い聞かせるように呟くフレイヤ。

 

「であれば……」

 

 彼女がぎろりと鋭い視線を向けた先には、立派な本棚が鎮座していた。幅は広く、また高く、まるで聳え立つ山のようである。

 

「あれを使いましょう」

 

 そう言ってフレイヤはふらふらとどこか覚束ない足取りで本棚まで歩くと、震えた細指で下段に収まる一冊の本を引き抜いた。

 

 ふわり、と本の独特な香りが鼻腔をくすぐった。

 

「ふふふ。何事も、備えておくものね」

 

 それはフレイヤが万が一に備えて、特注で製造された特殊な魔導書(グリモア)だった。

 

 もはや、傍観者ではいられない。本当は直接干渉するつもりはなかったが、悠長に構えていられる状況ではなくなったのだ。

 

 フレイヤは手に持つ本を開き、ぺらぺらと頁を捲って万が一にも中身の内容が間違っていないかを確認する。

 

「本当は貴方が英雄として窮まるまで、観客でいるつもりだったのだけれど……」

 

 ぱたん、と本を閉じて獰猛な笑みを浮かべる美の女神。

 

「もう大人しくするのは止めたわ。淑女らしくしても、意味がないとわかったもの。……待っていなさい。すぐに思い出させて上げるわ、あなたが何者なのかを」

 

 あなたが誰のモノなのかを。

 

 真贋見極める右眼を持つベルに本を渡す方法は、既に思案してある。

 

 楔は既に打った。

 

 あそこ(・・・)へ置いておけばよいのだ。

 

 彼を愛し、彼を想う人が待つあの店(・・・)に。

 

 そうすれば、運命に導かれるがごとく、かの英雄は自然と本を手にすることになるだろう。

 

「さぁ、早く正気に戻って。私だけの英雄。……あなたが抱いていいのは、この私だけなんだから」

 

 葡萄酒(ワイン)の芳醇な匂いが立ちこめる部屋の中、フレイヤは本をぎゅぅと胸に抱きながら、ベルを手に入れた未来を夢想し頬を恍惚と赤らめるのだった。

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