ベル君に「まだだ」を求めるのは間違っているだろうか   作:まだだ狂

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物語は終演へと向かい始める。


十一時(クライマックス)

 

 ぱちり。

 

「はっ!?」

 

 睡魔のしかかる(まなじり)を開けたベルが時計を瞳のうちに捉えれば、時刻は五時。夜に支配された世界を陽光の軍勢が侵略する時間帯。

 

(まさか……二時間も寝過ごすなんて……)

 

 平時であれば起こり得ない事態に、ベルは軽くない衝撃(ショック)を受けた。体内時間は今も正確に動いている。身体に違和感もない。頭痛も目眩も動悸も、ない。

 

 肉体は、至って正常だ。二日前、凶星を瞳に宿すライガーファングとの戦闘で負傷した両腕も、既に完治している。

 

(なら、どうして三時に目を覚まさない? これまで一度だって、こんな失態は犯したことないのに……いや、これは……う……胸が、気持ち悪い……)

 

 異常を訴えかけているのは、心の側だった。

 

(なん、だ……?)

 

 嫌な胸騒ぎがした。

 

 風の吹かない森の木々が勝手にさざめき出すような、凪いでいたはず海が突如として大時化るような、抜けるような青さの空が忽然と鈍色の雲に覆われるような、不吉な予兆が胸中を支配する。

 

 やがて不吉な予兆は不安へ姿を変えて心から溢れ出し、ベルの肉体を包み込んだ。

 

「はぁ……はぁ……」

 

 乱れる、呼吸。逸る、動悸。噴き出す、冷汗。歪む、視界。痛む、頭部。

 

 覚醒直後の健常な肉体は瞬く間に腐食して、ベル・クラネルという生命が鉄屑へ成り果てようとしている。

 

「リリ……」

 

 無意識に口からこぼれおちたのは、悪意の化身(ゲド・ライッシュ)に狙いを定められた灰被りの少女(リリルカ・アーデ)の名前だった。

 

 理由は、分からない。ただ、直感が「早くリリルカ・アーデのところへ迎え」とベルに囁くのだ。

 

 直感はいつも、理由も事情も根拠も何一つとして語ってはくれない。あらゆる過程を省き、結論だけを簡潔に伝えてくるのだ。

 

 しかし、たかが直感と侮ることはできない。これまでベルは何度も野性的な直感に助けられてきた。

 

 命落ちる死線も、勝利困難な窮地も、絶望のしかかる状況も、直感を武器の一つとして携えて、ここまで生き抜いてきたのだ。

 

「急がないとっ……!」

 

 絶不調(バッド・コンディション)に陥っている肉体の、休養を望む悲鳴など丸っきり無視して、ベルは慌てて寝具(ベッド)から抜け出すと、食事もとらずに服を着替えた。

 

 純白の装衣と、翡翠の籠手、純黒の二刀がベル・クラネルに纏い付き従う。

 

「んにゅ……?」

 

 あまりに慌ただしかったからだろう。睡魔に微睡む双眸を手の甲でごしごし、と擦りながら、ヘスティアが目を覚ましてしまった。

 

「ベル、君?」

 

「あ、神様。済みません、起こしてしまって」

 

「いや、良いんだよ。……それよりも」

 

 起床後、僅か数秒にしてヘスティアは万物の真意を見通すような神妙な眼差しをベルに向けた。

 

「──リリルカ・アーデのところへ行くのかい?」

 

「はい」

 

 ベルは頷いた。

 

 昨日の夜、ベルはヘスティアにサポーターとして【ソーマ・ファミリア】所属のリリルカ・アーデという小人族(パルゥム)の少女を雇っていることを伝えていた。同時に彼女を取り巻く複雑な人間関係と、犯してしまっただろう罪も。

 

 そして、どんな理由があろうともリリルカ・アーデを救いたいという想いも包み隠さず伝えていた。

 

 全てを聞き終えたあと、ヘスティアは言った。

 

 ──……君が彼女を、リリルカ・アーデを救いたいというのなら、その道を迷わず進むべきだ。ボクは知ってる、ベル君は『したいことをしている』時、誰よりも強くなれるってことを。そして、必ずやり遂げるってことを。何よりも、君は進む道を間違えたりしない。だからボクは君の神様として、背中を押すだけだ。

 

 炉を想起させる愛情に満ちた言葉は、精霊の導きと合わさってベルの決意を新生させた。

 

 ──もう、怖れない。迷わない。リリの心に触れることを、躊躇わない。

 

 時は戻って、午前五時(げんざい)

 

「リリルカ・アーデの身に、何かあったんだね?」と訊ねる主神の言葉に少年は小さく頷いた。

 

「そっか」

 

 瞼を閉じて、噛み締めるようにヘスティアは言った。

 

 次に瞼を開けたとき、ヘスティアの表情から神らしい厳かな雰囲気は消えて、老若男女を慈しむ優しい笑みをたたえていた。

 

「行ってらっしゃい、ベル君。……リリルカ・アーデを救っておいで」

 

「行ってきます、神様。……リリを必ず救って見せます」

 

 交わす言葉は、【英雄神聖譚(イロアス・オラトリア)】の第二章が十一時を迎えたことを告げていた。

 

 物語の幕引きは、近い。

 

 ○

 

「はぁっ……! はぁっ……! はぁっ……!」

 

 早朝の冷たく鋭い空気を吸って肺を痛めつけながら、ベルは侘しい大通りを駆け抜ける。

 

 筋肉の躍動。ベルは骨の上に纏う肉の撥条(バネ)を弾ませて、今出せる最大限の速度(スピード)中央広場(セントラルパーク)に向かってひた走る。

 

 心に宿る意思が、鋼を取り戻したからだろう。

 

 鉛のように重かった五感は活力を取り戻し、溶けた氷のような脳髄は冷静に還って、鉄屑同然の肉体は金剛石のごとき輝きを放ち始めた。

 

 走れ、走れ、走れ。

 

 意思の伝達淀みなく。ベルは僅か数分で目的地へと辿り着く。

 

「やっぱりっ!」

 

 視線の先、待ち合わせ場所に指定している噴水の前にリリルカの姿は見えない。時刻は五時十五分。

 

 集合時間の一時間以上前からベルの来訪を待ち続ける真面目を極めたリリルカが、「おはようございます」と挨拶して来ない時点で直感が確信へと昇華された。

 

「僕はなんて馬鹿なんだっ!」

 

 昨日、最も近い距離で見たはずだ。リリルカの殺害を宣言した(ゲド)の瞳に潜む悪意を。憤怒を。憎悪を。

 

 もしも。

 

 もしも、リリルカに危険が迫っているのならば、あの男が関与している可能性が高かい。

 

 思えば、あの男が起点だった。

 

 誰よりも執拗にリリルカを追い掛ける存在がいなければ、ベルの人間関係に変化は生じなかっただろう。

 

 リリルカ・アーデという少女と出会う道は、生まれなかっただろう。

 

 だからこそ、ベルに不吉な予兆を抱かせた原因はあの男にあると考えている。根拠などない。全部の要素が推測の域を出ていない。

 

 もしかすれば、今日に限ってたまたま風邪を引いてしまって集合場所に来られないだけかもしれないし、準備に時間が掛かっているだけでもうすぐベルの前に姿を現せるかもしれない。

 

 他にも様々な可能性が考えられる。寧ろ第三者からすればリリルカの身に命の危機が迫っているなど、御伽噺(おとぎばなし)にも劣る与太話にしか聞こえないだろう。

 

 しかし、ベルは常識の尺度で測れば極めて高い可能性の一切合切を無視して、リリルカが命の危機に見舞われているという、確率にして一割にも満たない推測を現実と定めた。

 

「待ってて、リリ……! 必ず、見つけてみせるっ……!」

 

 無駄な思考は、要らない。

 

 肉体を破裂させるほどの想いをほとばしらせて、ベルは朝陽に照らされキラキラと煌めく摩天楼(バベル)へ向けて走り出した。

 

 ○

 

「はぁっ……! はぁっ……! はぁっ……!」

 

 地下迷宮(ダンジョン)へ繋がる唯一の道である摩天楼(バベル)へ辿り着いたベルは、息切れを起こしている肉体の状態を整えもせず、周囲の冒険者に「ここへ大きなバックパックを背負ったフードを目深く被った少女は来ませんでしたか!?」と訊ねた。

 

 推測の答え合わせは、御都合主義とも思えるほど早く提示された。

 

「あぁ、それなら長剣(ロングソード)を背負った黒髪のヒューマンと一緒に、地下迷宮(ダンジョン)へ向かっていったのを見たぞ。早朝から探索に行く奴は少ないから、よく覚えてるよ」

 

「それはどれくらい前のことですか?」

 

「うーん、一時間ぐらい前だったんじゃないかと思うけど……」

 

「ありがとうございます!」

 

 頭を下げて感謝の意を示したあと、ベルは突風と化して地下迷宮(ダンジョン)へ突入する。

 

 その数秒後。

 

「ごめんなさい、ごめんなさい。本当にごめんなさい。でも、こうしないと俺が殺されちまうんです……弱い俺を、許してください……」

 

 駆ける純白の背に向けて土下座して、嗚咽しながら謝罪の言葉を繰り返す冒険者に、ベルが気づくことはない。気づけるほどの余裕もない。この時点で悪意に絡み取られているとは思いもしていなかった。

 

(不味いっ! 不味いっ! 不味いっ!)

 

 最悪の展開が、的中してしまった。

 

「頼む、間に合ってくれよっ!」

 

 ベルは願望を叫びながら、薄紫に光る迷路を騎馬で駆るかのごとく走り抜けていく。

 

 道を阻むように立ちはだかる怪物(モンスター)は、壁を地面と見做して駆けて、強行突破。一切の戦闘を行わない。

 

 刹那すら、今は万金。借入ができるのなら、利子がどれほど高くても迷うことなく借りるだろう。

 

「リリはもう、僕の大事な人の一人なんだからっ……!」

 

 少年の声は、囚われの少女には届かない。闇がただ、眼前にあるだけだ。

 

 ○

 

『中層』に木魂する音は一つ。怪物(モンスター)の醜い断末魔。

 

 人間襲う純粋な悪を本能に宿した滅ぼすべき敵を駆逐するのは、人々に希望の光を与える【未完の英雄(リトル・ヒーロー)】ではなく、その対極。蔑み嘲笑い、生命を冒涜するように剣を振るう悪意の化身(ゲド・ライッシュ)だ。

 

 ゲドは、楽しんでいた。本来であれば一矢報いることさえできない格上の怪物(モンスター)を一方的に蹂躙できる快楽に『酔って』いた。

 

 強い。強い。俺は強い。

 

 俺はベル・クラネルを殺せるくらい強くなった。

 

 昨日まで、心を支配していた負の感情の螺旋は解けて。歓楽の蜜に心はどっぷり浸っている。

 

(見ろよ! 悪名高い放火魔(バスカビル)の群れどもが、紙を破るみたいに簡単に斬り裂けちまうぜ! はははははははっ! 最高の気分だ!)

 

 妖術師(エニュオ)から渡されたモノを使う程度で、本当にベル・クラネルを凌駕するほどの驚異的な戦闘能力が手に入るのか、使用直前まで疑っていたゲド。

 

 しかし、蓋を開けてみれば妖術師(エニュオ)の言葉は真実だった。

 

 これまで何をしても成長できなかったゲドは、アレを使うだけで一瞬にして、英雄殺しの力を開花させることに成功した。

 

「おいおい、『中層』の怪物(モンスター)もこの程度かよ! 拍子抜けも良いところだぜ! ノロノロと牛みたいに動きやがってよ、俺は戦いに来てるんだぜ! もっと殺る気だしてくれよ!」

 

 言葉とは裏腹に、ゲドの表情は満面の笑みを浮かべていた。怪物(モンスター)を蹂躙することに快感を得ている様は、サポーターをいたぶっている姿と重なって見える。

 

 無双劇ではあるけれど、見るに堪えない邪悪極まる光景を、リリルカは無感情な眼差しで見つめる。

 

英雄(ベル)様の戦う姿は舞いを踊るかのように美しいのに……どうしてあの男だと、あんなにも醜く悍ましく感じるのでしょうか……)

 

 強い。その一点のみがベルとゲドの共通点。それ以外は全部、真逆。振るう剣技は力任せで洗練から最も遠く。判断能力など持っていないかのように本能で動く様はただの獣。顔に貼り付かせる笑みは、我欲を満たすことしか考えない傲慢な仮面。

 

 悪雄。自然とそんな単語がリリルカの心の中で創造された。

 

 信念の塊のようなベルの反対にあるのが、我欲に塗れたゲドなのだ。

 

「これで終わりっと。ほら、さっさと魔石を回収しろ。テメエのバックパックが隙間なく埋まるまで探索を続けるんだ。ちんたらしてたら陽が沈むぜ」

 

「は、はい」

 

 怯えで震える喉を必死に動かし、何とか一言を絞り出して、リリルカは地面に転がる魔石をバックパックに放り込んでいく。

 

「おわりました」

 

「んじゃ、行くぜ。遅れず、付いてこいよ」

 

「はい……」

 

「おーおー、しっかり返事できるようになったじゃねえか。はははっ! 嬉しいぜ、やっと罪の意識を抱くようになったみたいだな。いい心がけだ」とゲドは言った。

 

 罪の意識も糞もない。返事をしなければ、手加減のない暴力を振るわれるのだから、死を拒絶するリリルカは「はい」と言うしかないだけだ。

 

「あの……」

 

「あん、なんだ?」

 

 若干不機嫌そうにしながら、リリルカを見るゲド。

 

「次は、十七階層ですよね」

 

「そうだな」

 

「大丈夫、なんでしょうか……」

 

「何がだ」

 

 言っている意味がわからないとでも訴えるように、ゲドは眉間にしわを寄せる。

 

(本当にわかっていない……?)

 

 ゲドの態度に違和感を抱くリリルカだが、言葉として本音を吐き出すような危険な真似はできない。

 

「何も心配することはねえよ。今の俺は英雄擬き(エセ・ヒーロー)を超えてるんだからな!」

 

 そうだろう? 

 

 鋭く尖った双眸がリリルカを捉えた。

 

「それ、は……」

 

 命じられた二文字を言葉にしようとするが、本能が、心が、魂が、リリルカ・アーデという存在が、生存本能すら凌駕して抵抗する。

 

「おい、返事はどうした」

 

「っ……!」

 

 ビクリ、と身体が跳ねるが、リリルカは視線を逸らしてゲドが求める一言を口にしない意思を示す。それだけは、絶対に言葉にするわけにはいかなかった。

 

 天地がひっくり返ろうと。明日、世界が滅亡しようとも。拒絶の先に、死が待っているのだとしても。

 

 嘘で塗れた自分がようやく得た本当(おもい)を、捨てることなどできない。絶対に。

 

 ──殺すなら、殺せ。

 

「ちっ」

 

 舌打ちが、一つ。

 

「がはっ──!?」

 

 次にリリルカを襲ったのは意識が一瞬途絶えるほど強烈な殴打だった。狙われたのは頬。手心が加えられているわけなどなく。歯が何本か折れる音を鼓膜が拾うと同時にリリは壁に叩きつけられ、地面に崩れ落ちた。

 

「俺は残念でならねえよ。テメエの罪を綺麗さっぱり浄化してやりたいのに、テメエ自身がそれを拒絶してるんだからな。救えねえ、全くもって救えねえ」

 

 はぁ、とゲドは嘆息する。

 

「もう少し遊んでいたかったんだが、ここらが潮時らしいな」

 

 意味深な言葉を呟いて、ゲドは意識朦朧とするリリルカを担ぎ上げた。

 

「な、にを……」

 

「なにって、一つしかねえだろ。役立たずで塵屑で犯罪者のテメエにできることなんざ英雄擬き(エセ・ヒーロー)を誘き出す餌になるくらいしかねえだろ。そんなこともわからねえのかよ」

 

 哂う。嗤う。

 

「本当に馬鹿な奴だな、リリルカ・アーデ! どうせ俺に騙されたところで逃げ出せばいいとでも思ってたんだろ? 生き残りさえすればいいってよぉ! でも、残念! 俺は英雄殺しの力を手に入れたんだ! 鈍間(のろま)なテメエじゃ、俺から逃げ切るなんざ不可能なんだよ!」

 

 そして、哄笑(わら)う。

 

 リリルカの霞む視界に映るゲドは、悪魔の姿をしていた。コウモリに似た翼に、釣り上がった双眸。口元から牙が剝き出して、耳は縦に尖っている。

 

「テメエが付いてきてくれたお陰で、英雄擬き(エセ・ヒーロー)は死ぬんだ。よかったなぁ、わざわざ変わる努力をしなくて済むぜ。俺に感謝しろよ」

 

「ここに……来る……とは……限らない……ですよ……?」

 

「いや、来るさ。摩天楼(バベル)の前には俺が脅した冒険者がいる。もしベル・クラネルが姿を見せたら、俺らが地下迷宮(ダンジョン)へ向かったと伝える手筈になってるんだよ。待ち合わせ場所(セントラルパーク)も同じだ。もし、摩天楼(バベル)に向かわないようなら自分から話しかけて伝えるように命令してある。どうだ、完璧だろ」

 

「そん……な……」

 

 リリルカの細やかな反抗は、ゲドに叩き潰された。

 

「英雄気取りのあのガキは、随分とお前にお熱らしいからな。ここにいるってわかれば、絶対に追いかけてくるだろうよ」

 

 悔しいが、事実だった。リリルカの知るベルであるのならば、間違いなく追って来る。それが、ベル・クラネルという存在(えいゆう)の気質だから。

 

(もう二度と……迷惑をかけないつもりだったのに……英雄(ベル)様を誘き出す餌にされるなんて……どこまで最低なんですか、リリは……)

 

 これまでとは比較できない深度の絶望が、リリルカの心を貪り喰らう。

 

 死んでいく、心が。褪せていく、感情が。

 

 底知れぬ嘆きの海に沈んだリリルカは、一滴の涙すら流せず、人の形を模しただけの抜け殻になろうとしていた。

 

 ○

 

 怪物(モンスター)の気配が絶えている奥行き二百メドル、幅百メドルの直方体をした空間に足を踏み入れる命知らずが二つ。

 

「到着だ、リリルカ・アーデ」

 

 十七階層の中心部で足を止めたゲドは、虚ろな眼差しをしたリリルカを塵でも捨てるかのように乱雑に地面へ放り投げた。

 

「……」

 

 もはや、呻き声をあげる気力さえリリルカには残っていない。

 

「おいおい、少しは泣いてみせたらどうだ? 怒鳴るのでも構わないぜ、『リリを利用して英雄(ベル)様を誘い出すだなんて絶対に許しません! この外道!』くらい言ってみせたらどうだ?」

 

「……」

 

 尚も、沈黙。

 

 はぁ。

 

「つまらねえ奴だなぁ、リリルカ・アーデ。ここは嘆きの大壁、英雄が命を散らす悲劇の地となる場所だぜ! もっと感情を昂ぶらせろよ!」

 

 両手を挙げて高らかに叫ぶゲドに、リリルカは(から)の瞳を向けて言った。

 

「死ね……」

 

 露出する殺意を耳にしたゲドが顔を歓喜で染めあげる。

 

「そうだよ、俺が見たかったのはソレだ! 【未完の英雄(リトル・ヒーロー)】の足を引っ張ってるのはテメエの癖に、八つ当たりでもするみてえに俺を睨むその顔が見たかったんだよ!」

 

 歪み狂った男は、呪詛(カース)をまき散らすように抑え込んでいた鬱憤を吐き出し続ける。

 

「あー愉快愉快。満足したぜ」

 

 ふぅ、と吐息するゲドの顔は充足していた。

 

「さて役目を終えたテメエは、偶然リスポーンしたゴライアスにあっけなく殺されることになるわけだ。はぁ、運命ってやつは本当に悲しいもんだよなぁ」

 

「く……」

 

 悪逆非道を告知するゲドを前にして、未だ意識朦朧とするリリルカは睨みつけることしかできない。

 

「そして、そしてだ。俺は運悪くゴライアスに殺されたテメエのバックパックを頂戴するって寸法さ。そのまま放置するのは勿体ないからなぁ。弔いの意味もこめて、有効活用してやらないと」

 

 そう言うゲドの表情は、醜く歪んでいた。

 

「俺は荒稼ぎできて、罪を犯したテメエには相応しい罰が下る」

 

 悪くない提案だろ? リリルカ・アーデ

 

 その名を紡ぐと同時にパチンとゲドは指を鳴らした。

 

 瞬間。

 

 十七階層全体が怒りを露わにするかのように震動し始めた。

 

「さて、お姫様がペチャンコになるのが先か。王子様が助けに来るのが先か。どっちだろうなぁ?」

 

 ピキリ。

 

 揺れる十七階層に、不穏な亀裂音が響く。

 

 ピキリ、ピキリ、ピキリピキリピキリ。響く亀裂音の発生源は凹凸のある壁や天井とは違い、まるで石工の手によって造り出されたように研磨された、十六階層から見て左の壁。『嘆きの大壁』と呼ばれる、十七階層の王を産み出す胎からだった。

 

「うーん、いい音色じゃねえか」

 

 亀裂はまるで稲妻が走ったようであった。

 

「こ……れは……」

 

 バキッ。

 

 響く音は激しさを増して、震動は暴れるように大きくなり、遂には壁面がボロボロと涙を流すように崩れ落ちていく。

 

『嘆きの大壁』と呼ぶに相応しい悲しい音色が、英雄の訪れを願うように奏でられる。

 

「さあ、舞台の開演(ショータイム)だ!」

 

 ゲドの叫びに応えるように壁を突き破って産まれ落ちたのは、人間を何十倍も大きくしたような容姿(フォルム)をした、灰褐色の怪物(モンスター)だった。

 

「あ……あぁ……」

 

 リリルカの口から洩れる声は、戦慄で震えていた。

 

 放たれる気配、隔絶。歯向かう意思すら折る、邪気。今まで『中層』に蔓延っていた雑兵とは次元が違う、絶望的な脅威。

 

迷宮の孤王(モンスターレックス)』の名を戴くに相応しい威容をほとばしらせる巨人の名を──

 

 人は『ゴライアス』と呼んだ。

 

『オオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!』

 

 十七階層が崩落するのではないかと不安になるほどの轟音が、ゴライアスの口から放たれた。

 

 死。死。死。死。死。

 

 リリルカの脳内が死、一色に染め上げられる。

 

「……あなたも、無事では……済みませんよ……」

 

「まさか。今の俺はあの英雄擬き(エセ・ヒーロー)より強いんだ。図体がデカいだけの化物をぶっ殺すなんざ、俺一人だけで充分なんだよ」

 

「本気……で、言ってるんですか……?」

 

 ゲドは肩を竦めるだけだ。

 

「はは……」

 

 事ここに至り、リリルカが洩らしたのは嘲笑だった。

 

 ゲドは『酔って』いる、ベルを殺せる自分に。必然、ベルを殺せる自分がゴライアス程度に負けるわけがないと、本気で思い込んでいるらしい。

 

「はは……あはははは……馬鹿ですね、貴方様は……」

 

 ピキリ。

 

 嘆きの大壁に亀裂が生じたときを再現するように、ゲドの笑みに亀裂が走った。

 

「今、何て言った?」

 

 声は不気味なほど平坦だった。

 

 どう足掻こうと死の運命から逃れられないと悟ったリリルカは、取り繕うのを止めた。

 

「馬鹿だって言ったんですよ。自分に『酔って』いる貴方様ごときが、ゴライアスに勝てると思ってるんですか? ……それだけでも噴飯ものなのに……」

 

 道に捨てられた塵でも見るような目付きでゲドを見上げながら、リリは言った。

 

「|英雄『ベル』様に勝てると思うだなんて、本当に救いようがない御方ですね。あまりに救いがなさ過ぎて、いっそ憐れに思えてきましたよ」

 

 可哀相に、と言ってリリルカはくすくすと嗤った。

 

「は、はは……ははははは……あははははははははははっ!」

 

 手で目を覆い、仰け反りながら大笑するゲド。リリルカの猛毒を塗り込んだ罵倒を聞いても、まるで気にしていない風に見えた。

 

 次の瞬間。

 

「死ね」

 

 能面のように表情を凍らせたゲドが、リリルカの胸倉を掴んでゴライアスの足もとへ勢いよく投げ飛ばした。

 

 ゴロ、ゴロ、と地面を転がるリリルカ。視界が廻り続け、天井と床が何度も立場を逆転させて。

 

 やがて、止まる。

 

(ふふ、馬鹿ですねリリは。大人しくていれば、もう少し長生きできたかも知れないのに……)

 

 それでも、最後の最後でゲドの真顔を見られたからいいか、と迫り来る死の恐怖の中でリリルカは満足する。

 

「…………あ」

 

 ふと顔を上げた先には、死が待っていた。

 

『オオ……』

 

 ギョロリ。

 

 真っ赤な眼球が、見下ろしている。塵を見るような目で、見下している。

 

(あの男の、言う通りなのかも知れませんね……因果応報、リリがこれまでしてきた罪への罰が目の前のコレ……)

 

 生きるために必死だった。【ソーマ・ファミリア】から退団するための唯一の手段だった。言い訳は幾らでも重ねられる。

 

 でも、少なくとも、盗みを働かなければ、こんな無慙な死に方はしなかったはずだ。

 

『オオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!』

 

 判決は死刑、と告げるようにゴライアスは(ガベル)を振り上げた。

 

(あぁ……悔しいなぁ……やっと変われると、思ったのに……)

 

 逃れられない死を前にして、リリルカはぎゅうと瞼を閉じた。

 

 途端、瞼の暗幕に今までの人生が映し出される。

 

 人はそれを、走馬燈と呼ぶ。

 

 幼き日、愛の代わりに暴力を与えてくれた両親との記憶を見て、リリルカは失笑する。

 

 ──馬鹿ですよね本当に。あの人たちはリリのことを小金稼ぎの道具としか思ってなかったのに。愛してくれるかもなんて、叶いもしない希望を抱いて……

 

 齢を重ねること数回、『神酒(ソーマ)』の魅力に溺れて愚行を重ねる記憶を見て、リリルカは自嘲する。

 

 ──愚かですよね、本当に。Lv.2の構成員が『賞品(ソーマ)』を独占しているとわかっているのに、金を稼ごうと躍起になるなんて。そんなことをしても、飲めるわけがないのに……

 

 その数ヶ月後、『神酒(ソーマ)』の呪縛から解き放たれたあと【ソーマ・ファミリア】を抜け出した先で手に入れた細やかな幸せが崩れる記憶を見て、リリルカは溜息をついた。

 

 ──馬鹿ですよね、本当に。金に狂う彼らがリリという都合の良い奴隷を手放すわけがないのに、一般人に成りすませばどうにかなると思っていたんですから……

 

 更に時間は加速し数年後、派閥(ファミリア)の脱退と冒険者へ意趣返しするために窃盗を繰り返す記憶を見てリリルカは嘆いた。

 

 ──救いようがないですよね、本当に。八方塞がりな人生に絶望して、未来(まえ)のことなんて一切考えずに犯罪を繰り返したんですから……

 

 過去を振り返ってみて、改めてリリルカは自分が本当の意味で役立たずであったことを思い知る。

 

 ──ずっと、ずっと、嫌いでした。リリを産んだ両親も、『神酒(ソーマ)』に狂う団員も、彼らを放置するソーマ様も、サポーターを蔑む冒険者も。

 

 ──けど、何よりも、誰よりも、リリは、一人では何もできないリリ自身が嫌いでした。ですから、本当は嬉しいはずなんです。やっと、苦しみしかない現実から解き放たれる時が来たんですから……なのに、どうして……

 

 最後──

 

 ベルが差し伸べてくる灰色ではない唯一の記憶が、リリルカの前に現れた。

 

 そして、声が響いた。

 

『僕の名前はベル・クラネル。よろしければお嬢さん、君の名前を教えてくれませんか?』

 

 ベルの声は鐘の音に変じて凜となり、リリルカに一つの記憶を思い出させた。それは出会いの日。裏路地で犯した後悔の記憶だった。

 

 ──そう、です……リリはまだ、あの時のことを謝れていないんです。リリに手を差し伸べてくれた恩返しも、何も、できていないんです。全部、ここからなんです。

 

 瞬間、瞳から死にたくないと想いが涙となって溢れ出した。

 

 ポロポロ、と灰被り姫の頬を伝う涙。

 

 走馬燈が引き伸ばした魔法のような時間は解けて、ゴライアスの叫び声が再び、リリルカの鼓膜を震わせた。

 

 怖い、このまま蹲ってじっとしていたい。

 

 だけれどそれは、死の運命を黙って受け入れるということ。

 

 決意は今、変わるのも今だ。

 

 ──開けろ。

 

「っ」

 

 恐怖に抗いかっと開く双眸、迫る死を前に、リリルカは初めてベルへの本音をほとばしらせた。

 

「助けて、ベル様ぁああああああああああああああああああああああああ!」

 

『十七階層』に轟く絶叫。

 

「おいおい。今さら、助けを呼ぶのかよ。かー、みっともねえなぁ……」と悪意の化身は嘲るが。

 

 その叫びは、確かにベルのもとへ、届いていた。

 

 ──ああ、助けてみせるよリリ。今の僕は、君だけの英雄なんだから。




少年は少女の叫びによって、英雄と成る。
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