夢で逢えますように   作:春川レイ

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嘴平伊之助は怒鳴る

 

 

『ーーーーー』

 

 

 

『ーーす……………れ』

 

 

 

 

 

 

大好きな、声が聞こえた

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

***

   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

誰かに名前を呼ばれたような気がして、希世花は目を覚ました。布団の中で数秒間ぼんやりする。今日は学校は休みだ。何も予定はないのでのんびりできる。ゆっくりと起き上がり、時計を確認する。もう昼に近かった。パジャマのままで立ち上がると、カーテンを開けた。

窓の外ではパラパラと雨が降っていた。どんよりとした空をチラリと見て、うんざりと顔をしかめる。冷蔵庫からペットボトルに入ったミネラルウォーターを取り出し、少しずつ飲みながら外の景色を眺めた。街は雨に包まれ、いつもより暗い。今日は予定もないし、家で静かに過ごした方がよさそうだ。

「………」

なんだろう。なんだかモヤモヤする。

希世花は眉をひそめた。なんだろう、なんでこんなに陰鬱な気分になるんだろう。まるで心にポッカリ穴が開いたみたいだ。

一人の時間は好きだ。誰にも気を使うこともなく、好きなことをしてのんびり楽しめる。なのに、なんだろう、この不思議な感情は。モヤモヤが止まらない。心が冷えて、どんどん暗くなっていく気がする。戸惑いながら、気分転換に、部屋にあるダーツを手に取った。安定させるように親指と人差し指で挟むと、ダーツボードをじっと見据え、投げる。ダーツは真っ直ぐにボードの真ん中に突き刺さった。

「………」

狙ったところに綺麗に刺さったのにも関わらず、気分は全然晴れない。

心がどんどん沈んでいく。なんだか寒くなってきたような気がする。夏が来るというのに、おかしい。心の中にも雨が降っているみたいだ。

「………あ」

ふと、その奇妙な感情の正体に気づいて、思わず声をあげた。

これは、寂しさだ。

最近、自分の周りはとてもにぎやかだった。胡蝶家に遊びに行ったり、週末はしのぶや甘露寺と会ったりしていた。

一人で過ごすのは久しぶりだった。慣れている、はずだ。一人で静かな時間を過ごすのは苦じゃない。幼い頃から両親は忙しく、実家では一人で過ごしていたし、前の学校では仲のいい友人はほとんどいなかった。

なのに、

「………へんなの」

ボソッと呟く。こんなに孤独感を感じるなんて、本当に変だ。ぼんやりと窓の外の景色を眺める。

なぜだか、しのぶと逢いたい、と思った。

自分がそんな事を思ったことにびっくりして、目を見開いた。思わず窓の景色から目をそらす。

最初はあんなに恐ろしくて、逃げていたというのに。いつの間にか、彼女が隣にいることが当たり前のようになっている。まあ、学校にいる間はほとんどを、しのぶと過ごしているので当然だが。

しのぶがそばにいないだけで、こんなに寂しさを感じるなんて、自分はおかしくなっている。

希世花は考えるのを放棄して、冷蔵庫を開けた。

「……あー」

冷蔵庫にはミネラルウォーター以外何も入っていなかった。台所の戸棚を漁るが、そこも空っぽだった。買い物に行かなければ。

チラリと窓の外を見て、大きなため息をつくと、クローゼットから適当に服を取り出す。身を整えると傘を持って外に飛び出した。

 

 

 

 

 

マンションから出て空を見上げる。細い雨が静かに降っていた。傘を差して足を踏み出す。しっとりとした空気を胸いっぱいに吸い込んだ。外に出ると、ますます心の中のモヤモヤが大きくなっていく気がした。

少し先にある大きめのスーパーを目指して歩く。買い物をして、何か食べて、それから好きな本を読んだりDVDでも見て気分転換しよう。いつもの休日の過ごし方だ。ずっと一人でそうやって過ごしてきたんだから、大丈夫。そうだ、まだもう少し先だが、テストもある。勉強をすればいい。勉強に集中したら、このモヤモヤだって消失するはずだ。

そう考えながら、傘の手元をギュッと握ったその時だった。

「……八神さん?」

後ろから聞こえたその声に驚いて振り向いた。

「………あ」

「こんにちは。奇遇ですね」

胡蝶しのぶが傘を差して微笑んでいた。

逢いたいと思っていたその人が突然現れた事に動揺して、声をあげる。

「……なんで」

「はい?」

しのぶが首をかしげたので、慌てて言葉を続けた。

「あ、……えっと、こんにちは、胡蝶さん。どうしてここにいるの?」

「この近くの本屋で買い物をしていたんですよ」

しのぶが手に持った紙袋を示しながら笑った。

「あ、……そう、なの」

「八神さんも、お買い物ですか?」

「……うん」

「もしよければ、一緒に何か食べに行きませんか?もうすぐお昼ですし……」

しのぶの誘いに一瞬希世花はパッと顔を輝かせたが、すぐに目を伏せた。

「……あー、今日は、ちょっと……」

「何か他に予定が?」

「……………うん」

しのぶから目をそらすように短く答える。そんな希世花をしのぶがじっと見つめて突然距離を詰めてきた。

「わ、……こ、胡蝶さん?」

「何も、予定、ないですよね?」

「………あるわよ」

「あなたは嘘をついたらすぐに分かりますよ」

「えっ……」

びっくりしてしのぶの方へと視線を向けた。

「なんで分かるの?」

「顔に出るからです」

「嘘……、顔に出るってどこに?」

「秘密です」

「えー……、教えてよ……」

「それよりも、何も予定がないなら、なんで嘘をつくんですか?」

希世花はしのぶからまた目をそらした。

「えっと……」

「……私と、一緒にいるのは嫌ですか?」

「ち、違うわよ!逆!」

思わず口を滑らせてしまい、顔をしかめた。

「……逆?」

「………あー、えーと……」

モジモジしながら言いにくそうに小さな声を出した。

「……胡蝶さんと一緒にいると、楽しくて、……一人が、寂しくなるっていうか……一人になるのが悲しくて、たまらなくなるの……。わ、私、一人暮らしだし……、えっと、……なんか、ね、胡蝶さんと、過ごすと、……家に帰るのが、い、嫌になっちゃいそう、だから……」

ボソボソと言い訳のような言葉が漏れた。

「………」

しのぶの強い視線を感じてうつむいた。

馬鹿みたいだ。

今まで、一人でも平気だったのに。いつの間にか、誰かと過ごすことに幸福感を感じるなんて。一人でいることが寂しい、なんて思ってしまうなんて。感情のコントロールができなくなってしまった。でも、どうしようもない。仕方ないじゃないか。

だって、しのぶの隣は、温かい。

なぜだろう。あんなに怖い、と思っていたのに。今はそばにいるだけで、日だまりの中にいるみたいに安心できる。心地よくて、不思議な懐かしさを感じる。

その幸福感に慣れてしまって、今まで平気だった一人ぼっちの日々が、つらい、なんて思ってしまう。

本当に、不思議だ。こんな気持ちになるのは、いつからだっけ。そうだ。胡蝶家に泊まった時に変な夢を見てからだ。

ぼんやりと考えていると、突然手を握られた。そのまま思い切り引っ張られる。

「え、こ、胡蝶、さん?」

「あなたのうちに行きましょう」

「へ?」

「いいでしょう、別に。何も予定がないなら」

「え、え……、ちょっと、待って」

「あ、何か適当に食べるものを買っていきましょう。何がいいですか?」

「ま、待って、待って、待って!ちょっと、話についていけない!」

戸惑う希世花を引きずるようにしのぶはどんどん歩いていった。

 

 

 

 

「………どうぞ」

「お邪魔します」

結局しのぶに押しきられるようにして、一緒に自宅に帰ってきた。途中で買ってきた食料品が入ってる袋を運びながら口を開く。

「胡蝶さん、料理できるの?」

「まあ、多少は。あなたはできるんですか?」

「う……、そんなには……」

言葉を交わしながらリビングに案内する。

「……綺麗な部屋ですね」

しのぶが呟くようにそう言った。

「そうかな?」

「あ、これ……」

しのぶが目に留めたのは部屋にあるダーツボードだった。

「ダーツ、好きなんですか?」

「あー、うーん……、好き、というか得意、かな。たまに気分転換にやるの。自慢じゃないけど結構上手いのよ」

「………」

「どうしたの?」

「…いえ、別に」

しのぶがなぜか笑いをこらえるような顔をしたので、希世花はきょとんとした。

 

 

 

 

しのぶはダーツボードをじっと見つめる。また笑いそうになって、手で口元を抑えた。こんなところにも、面影を感じる。前世の彼女は短刀投げが得意だった。御守りだと言って、いくつもの短刀を隊服の中に隠し持ち、継子だった時に蝶屋敷でこっそり投げる練習をしていたのをしのぶは知っていた。

「……胡蝶さん、あの、なんで笑ってるの?」

「笑ってません」

「笑ってるじゃない……」

「それよりも、昼食を作りますよ。私が作るから手伝いなさい」

「……はーい」

二人で台所に立つ。しのぶに指示されながら希世花は動いた。野菜を洗いながら、包丁で材料を切るしのぶの手元をチラリと見る。

「胡蝶さん、手慣れてるね」

「たまに家で姉さんやカナヲと料理しますからね」

「ちなみに得意料理は?」

「そうですねぇ…、どちらかというと和食が得意ですね…」

二人で話しながら料理を続け、あっという間に完成した。テーブルに二人分の食事を並べる。

「……おぉ」

「どうしました?」

「いや、テーブルの上に、久しぶりに人間らしい食事が並んだから感動しちゃって……」

「あなたの毎日の食生活、一体どうなってるんです?」

しのぶの呆れたような声を聞きながら、お互いに向き合ってテーブルの前に座った。

「いただきます」

手を合わせてそう言い、箸を手に取る。

「……おいしい」

「それはよかったです」

「なんか、家庭の味って感じ……」

希世花の言葉に、しのぶが言いにくそうに口を開いた。

「……八神さん、一人暮らし、なんですよね?」

「うん」

「……あの、失礼ですが、ご家族は……?」

「あー」

希世花は少し笑って答えた。

「……両親とは、離れて暮らしてる。……いろいろあって家を出たの」

「そうですか……」

希世花の言葉にしのぶはそれ以上踏み込めずに黙りこむ。

少しだけ気まずい沈黙が流れた。希世花が誤魔化すように口を開く。

「ええと、そういえばなんで突然うちに来たいなんて言ったの?」

「……だって、さっき、あなたがあんな顔するから」

「あんな顔?」

「まるで迷子になったみたいな、心細そうな、今にも泣き出しそう顔をしてましたよ」

「………」

希世花は羞恥でしのぶから顔を背けた。

「……気を使わせて、ごめんなさい」

「別に。前からあなたの家に行ってみたいと思ってましたし。ちょうどよかったです」

しのぶが少し笑いながら食事を口に運んだ。

食事の後は食器を洗いながら他愛もない話を続ける。

「……これ、どうやるんですか?」

「え?」

後片付けをした後、しのぶがダーツボードを見ながら希世花に声をかけてきた。

「普通にダーツを投げてボードに刺せばいいのよ」

「普通にって……」

首をひねるしのぶに希世花は笑うと、ダーツを手に取り、軽く投げた。手から飛び出したダーツは真っ直ぐに飛んでいき、真ん中に突き刺さる。

「……見事ですね」

「まあ、よくしてるしね」

「一度やらせてください」

「どうぞー」

ダーツを手渡すと、しのぶが思い切り投げた。しかし、ダーツは的に当たらず下に落ちていった。

「意外と難しいですね」

「まあね。ちょっと持ち方が違ったわ」

そう言うと希世花はしのぶの後ろへ回って、その手を握った。

「………っ」

「 4本で持つのもいいけど、親指と人差し指でこう挟んで、中指を添えるようにするの」

小さな手にダーツを握らせ自分の片手も添える。そして今度はしのぶの顔に片手を伸ばした。

「顔を正面に、まっすぐに両目で的を見て。肘を中心に動かすの。あまり力を込めずに……」

しのぶが黙りこんだため、希世花は眉をひそめた。そして、自分がしのぶに身体をこれ以上ないほどくっつけているのを自覚して慌てて身を離した。

「あ、ご、ごめんなさい!」

「いえ……」

しのぶが大きなため息をついたので、焦る。

「あ、あの、怒った?」

「なんで怒るんですか、馬鹿。びっくりしただけですよ」

そしてしのぶは希世花から顔をそらすようにして今度はリビングのソファに座った。

「……あー、なんか、見る?」

また気まずくなった空気を消すため、希世花はテレビをつけた。

「……お茶でも入れてくるね」

しのぶが黙ったままなので、逃げるようにして台所に戻った。熱いお茶を用意して戻ると、しのぶはCDやDVDを収納しているラックを眺めていた。

「……どうしたの?」

「あ、ごめんなさい。勝手に見て」

「ううん。別に構わないわ。何か見る?」

「……じゃあ、これ。前から興味あったので」

しのぶが指したのは数年前話題になったサスペンス映画だった。DVDをラックから取り出し、レコーダーで再生する。二人並んでソファに座り、テレビに視線を向ける。

「なんか、胡蝶さんのお家に泊まった時のこと、思い出すわね」

「……あの時は、姉さんに思い切り抱きついてましたね」

「……あー……、やっぱり怒ってたの?」

「ええまあ。あなたって姉さんのこと、大好きですよね。……相変わらず」

「うん?」

妙に引っ掛かる言い方が気になったが、映画が始まってしまい、しのぶがそっちに集中し始めたようだったのでそれ以上は聞けなかった。

映画が始まって半分過ぎた頃、希世花は目蓋がどんどん重くなっていくのを感じた。ほとんど目を開けていられないほどの強い眠気が襲ってくる。

あ、これ、まずい。起きなきゃ。

そう思うのに、意識が朦朧となっていくのを止められない。そのままゆっくりと眠りの海へと沈んでいった。

 

 

 

 

 

 

 

温かい。

「……うーん」

なんだろう、これ。すごく心地いい。

「………あ、起きました?」

目を開けると、真上にしのぶの顔があった。目を見開く。どうやらソファの上でそのまま眠ってしまい、しかもしのぶに膝枕をされているらしい。

「おはようございます。と言っても、もう夜ですけど」

「………」

「八神さん?」

何も言わずにじっと見つめてくる希世花を不思議に思ったのか、しのぶが首をかしげた。希世花はゆっくりとしのぶの顔に腕を伸ばす。その柔らかい頬を撫でた。

あれ?なんか前にもこういうこと、あったような…………、

「八神さん?」

「あ、ごめん。起きるわね」

ハッと我に返り、慌てて体を起こす。そして、窓の外が思ったよりも暗いことに気づいてギョッとした。いつの間にか、雨も止んでいる。

「え……、今何時!?」

「えーと、7時ですね」

「もうそんな時間!?」

思ったよりも長い時間寝ていたようだ。

「ごめん。いつの間にか、寝ちゃって……。足、痛くない?」

「大丈夫ですよ。そろそろ何か食べましょうか」

「いや、それより、胡蝶さん、お家の人……先生とかカナヲさんが心配してるんじゃない?帰らなくて大丈夫なの?」

「あ、それなら大丈夫です。さっき連絡して外泊の許可を取ったので」

「……へ?」

しのぶの言葉に希世花は思わず変な声を出した。

「と、……泊まるの?」

「ダメですか?明日も休みですし……」

「い、いや、いいけど……」

なんか今日はいつもより更にグイグイくるなぁ、と思いつつ、希世花は困ったように首をひねった。

「えーと、…でも、うち、布団ないから、とりあえず胡蝶さんは私のベッドで寝てくれる?私はソファで……」

「あら、ベッドがあるなら一緒に寝ればいいじゃないですか」

「えっ」

希世花はポカンと口を開けた。

「い、一緒に……?」

「ええ」

「それは……」

「あなた、カナヲには同じ布団で寝ましょうって言ってたじゃないですか。それとも、なんですか?カナヲはよくて、私と一緒は無理なんですか?」

「えーと、そういうわけじゃ…」

「じゃあ、別にいいでしょう?ベッドがあるのはどの部屋です?」

結局流されるようにしのぶと寝ることが決まってしまった。

適当に夕食を済ませ、順番にお風呂に入った後、寝室へと向かう。

「結構大きなベッドですね……」

「ちょっと狭いけど二人寝られそうで、よかったわ」

しのぶに自分の部屋着を貸して、二人でベッドに入った。

なんでこんなことになったんだろう。横たわって天井を見ながら考える。怒涛の一日だった。孤独感はいつの間にか消失していた。チラリと横のしのぶを見る。いつも一人で寝るこの場所に、誰かがいるのは不思議な感覚だった。

でも、この感覚が嫌というわけではない。それどころかーーーーーー、

「……ありがとうね」

突然希世花がお礼を言ったので、しのぶは横たわったまま、そちらに視線を向けた。

「何がです?」

「……今日、楽しかったの。……なんか、ね、うまく言えないけど、最近、ずっと周りがにぎやかだったから……、一人が寂しいって、初めて知ったわ」

少し照れ臭くなって、天井を真っ直ぐに見たまま、言葉を続けた。

「すごく、ね、寂しかったから。胡蝶さんが遊びに来てくれて、嬉しかったわ。本当に、ありがとう。何かお返しをしなくちゃね……」

「……じゃあ、今、お返ししてください」

「うん?」

その言葉にしのぶの方へと顔を向けた。

「名前……」

「え?」

「名前で、呼んでください。胡蝶さん、ではなくて、名前を…」

「え……お返しが、それ?」

「呼べないんですか?あなた、蜜璃さんの事は名前で呼んでるじゃないですか」

「ま、まあ……」

「ほら、早く呼びなさい」

強めにそう言われて、その勢いに負けて口を開いた。

「……しのぶさん」

「さん、はいりません。しのぶの方がいいです」

「………………しのぶ」

「そう。それでいいです。これからはそうやって名前で呼んでください。いいですね?」

しのぶが嬉しそうに微笑んだ。その笑顔に一瞬見とれてしまう。

「……あ、そ、それじゃあ、私の事も名前でーー」

「あ。それは結構です」

「なんで!?」

「……なんとなく」

「なんとなくって……」

希世花はポカンと口を開けた。

「ほら、そろそろ寝ますよ。おやすみなさい」

しのぶが会話を絶ち切るようにそう言って瞳を閉じた。希世花はしばらく呆然としていたが、やがて再び強い睡魔に襲われ、ゆっくりと眠りへ落ちていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……だって、あなたは菫なんだもの」

希世花が眠ったことを確認して、しのぶは呟いた。その寝顔をじっと見つめる。

希世花、とそう呼ぶのは簡単だ。でも、今の名前を呼んだら、彼女が完全に別人になるような気がして怖かった。

彼女は、圓城菫だ。少なくともしのぶの中では。

だけどーーーーーー、

「……ずっと、ずーっと待ってたのに」

ずっと、待ってる。今も、これからも、待つ。あなたが帰ってくるのを。

「………あなたは、思い出したくないの?もう、思い出してくれないの?」

ゆっくりとその顔を撫でる。

「…………菫」

しのぶの小さな呟きが部屋に響いた。

 

 

 

 

 

 

 

目が覚めたら隣にしのぶはいなかった。

「……あれ?」

ぼんやりと起き上がり周囲を見渡す。窓の外は昨日とは打って変わっていい天気だった。澄みきったような空が広がっている。

「あ、起きましたか?」

しのぶが部屋に入ってきた。

「……おはよう」

「おはようございます。簡単ですが朝ごはんを作ったので食べましょう」

「あー、……ありがとう。ごめんね」

ほんの少し倦怠感を感じながら立ち上がった。客に朝食の用意までしてもらったことを申し訳なく思いながらフラフラと寝室を出る。

テーブルには既にしのぶが作ったらしい朝食が並んでいた。

「昨日の残り物で簡単に作りました。もう食材がないのでまた買いに行かないと行けませんね」

「……なんか、ごめんね。本当に。いただきます」

謝りながら箸を手に取った。

結局その日も一日中しのぶと共に過ごした。二人でまたDVDを見たり、本を読んだり、買い物をしたりと、のんびりと静かな時間を過ごす。

「そろそろ帰りますね」

夕方になってしのぶがそう言った時、希世花は落胆した。しかし、明日は学校なのでさすがに帰らなければならないのは分かっていた。分かっていても、寂しい。

「そんな顔をしないでください。また遊びましょう」

「……うん」

「寂しかったら電話してください。いつでもいいですから」

「……いいの?」

「ええ」

しのぶが微笑んで頷き、希世花も笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

「楽しかったなぁ……」

その次の日、登校しながら希世花は呟いた。昨日までの二日間、しのぶと一緒に過ごして本当に楽しかった。数週間前までは彼女の存在が恐怖で怯えていたのに、こんなにも仲良くなれたなんて今でも信じられない。

そう考えながら歩いていたその時、後ろから大きな声が聞こえた。

「猪突猛進!猪突猛進!」

希世花は後ろを振り向いて首をかしげる。

「……あ、伊之助、さん?」

「グワハハハ!よう、子分!」

振り向くと、そこには後輩の嘴平伊之助がいた。初めて会った時から、希世花の事を“子分”と呼ぶ不思議な後輩だ。弁当だけを抱えて裸足でこちらに向かってきた。

「おはよう、伊之助さん。相変わらず元気ねぇ」

「おう!子分も元気か!?」

「ええ。おかげさまで」

「しのぶとは今日は一緒じゃねえのか?」

「あんまり登校で一緒になることはないわねぇ。帰りは一緒に帰るけど……」

その元気いっぱいな姿に笑いながら希世花は答えた。

「そういや、子分、お前、そろそろ思い出したか!?」

突然伊之助からそんなことを聞かれ、首をかしげた。

「何を?」

伊之助が希世花の答えにチッと舌打ちをする。

「てめえ、早く思い出しやがれ!!」

「だから、何を?」

「ふっざけんなよ!しのぶとあんなにホワホワしてるくせに、忘れてんじゃねえよ!!」

「え………」

「早く、思い出せ、馬鹿野郎!!」

伊之助がそう怒鳴ると、再び「猪突猛進!」と叫びながら走り去った。

残された希世花は呆然と佇む。最近感じる奇妙な違和感が心を支配した。

『早く、思い出せ』

何を?

『忘れてんじゃねえよ』

忘れてる?

何を思い出すの?

私、何かを忘れてる?

何か、とても大切なことーーーーーーーー

「………痛っ」

その瞬間、ズキリと頭が痛んで思わず声をあげた。痛みに顔をしかめながらゆっくりと学校へ向かって再び歩き始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

※嘴平 伊之助

睡柱の最期を見届け、ある意味いろいろわだかまりがある後輩。主人公に今世で再会した時は喜んだが、全てを忘れてしまった事に対しては割りと怒ってる。記憶が戻ったら伝えたいことがあるから、早く思い出してほしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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