プシューッと、客を下ろし終え乗せ終えたバスはそんな音を鳴らしドアを閉め、窮屈そうにバス乗り場から走り去っていく。
3月末日。
中学生最後の春休みが終わりを迎えようとしている頃、俺は都内の某病院を訪れていた。
といっても、俺は至って健康体であり、これといって身体的な不自由があるわけでもない。
晴れて中学3年生になり、学校の健康診断でよろしくない結果が出た日にはお世話になるかもしれないが、今日のところは医者要らずだと言える。
なので俺の目的は診察を受けることではなく、そして特別な事情があるなんてこともなく、単なるお見舞いであった。
そう、お見舞い。
この病院に入院している、正確には数日前に地元の病院から転院した、姉のお見舞いだ。
俺自身こちらに越したばかりで、明日から通う予定である中学校の下見やら、新しい家の整理やらで忙しく顔を出すのが遅れていたところ、姉からの催促がメッセージアプリに届いたのである。
曰く、新しい看護師が厳しいだの。大部屋から二人部屋になったと思ったら、同室の子がめちゃくちゃ可愛くて昨日はほとんど寝られず寝不足だの。ざっくりそんな感じの文章がつらつらと書かれており、最後はおまけのように早くお見舞いに来いという一文で締められていた。
いや知らん、眠いんだったら寝てくれ。というかお隣さんに迷惑をかけるな。
しかし、流石に無視するわけにもいかず、元より行く予定ではあったので、こうしてバスに乗って病院まで来たわけだ。
しかし、まぁ話には聞いてたけれど、実際来てみると。
「……でっか」
でかいな、新しい病院。
想像の3倍くらいでかい。
地元の病院も県では1番の大きさだったのに、これと比べられたら豪邸と一般住宅だ。
バス停から入り口までのそこそこ離れているし、そこから見える……これは庭ってことでいいんだろか、暫定庭も広々としていて、レンガの敷かれた道には、たくさんの人が歩いている。
東京って凄いんだな……
とはいえ、いくら広いとはいえ、1分も歩けばそこはもう入り口だ。
二重になった自動ドアを通り過ぎて、ロビーに足を踏み入れる。そこもまたわけの分からない広さで、俺は目を白黒させながら受付カウンターを探す。
幸いカウンターは、当然といえば当然ながら目につきやすい場所にあったので、すぐ見つけることができた。
病院特有の雰囲気にソワソワしながら列に並び順番が回ってくると、受付のお姉さんは聞き取りやすい穏やかな声で。
「おはようございます、御用件をどうぞ」
「えっと、お見舞いです。姉が入院してて」
「お見舞いですね。お名前をうかがっても宜しいですか?」
「はい──
「……ご家族のお名前をうかがっても宜しいでしょうか?」
「あっ、えっと……」
終わった、俺はこれからこの病院の受付で『聞かれてもないのに名乗った小僧』として語り継がれていくんだ……そうだよな、普通に考えれば誰の見舞いに来たのかの確認に決まってるのに。
気落ちしたまま姉の名前を伝えると、4階の409号室が目当ての部屋だと教えてくれた。
中央の階段を使って4階まで上り、案内図に従って409号室のある廊下へと向かう。
にしても、さっき名乗った時の、お姉さんの苦笑いをどうにか押さえ込もうとしていた顔を思い出すと、これから病院に来るたびさっきの失敗を想起しそうで、俺は早くも勝手な苦手意識をこの病院へ抱いていた。
──なんて、考え事をしていたのが不味かった。
「──っとと、すみません」
廊下の突き当たり。
T字になってる箇所を右折しようとした俺と、右側から歩いてきた少女の進路が重なりかけたのだ。
黒髪の少女だ。
二の腕辺りまで伸ばされた髪はボサボサで、前髪も好き放題に伸びているため今の角度だと目がよく見えない。
背格好からして同い年くらいだろうか。
とっさに避けられたはいいものの、不注意だった自覚もあった俺は素直に謝った。
「…………」
すると少女の顔がこちらを向き、俺はようやっと彼女の瞳と目があった。
鳶色の、大きな瞳。
驚いたせいで見開かれていたのであろう目は、どんどん閉じられていって、ほぼ半開き状態で止まる。
とても無気力で、無関心な瞳だと俺は思った。誰にも、そして何にも期待していない、そんな瞳。
地元の病院にも、こういう目をした人がいたのを覚えている。
少女はほんの数秒だけ俺を見て、元からほとんど無かったような興味を完全に失ったらしく、なんの返事もせずに廊下の向こう側へと去っていった。
静かな廊下に一人取り残され、ちょっと気不味い。俺の前方不注意が原因ではあるんだけど。
気を取り直して、今度こそ右に曲がって409号室を目指す。407、408……お、ここか。
廊下の突き当たり、奥まった場所に409号室はあった。
確か二人部屋になったんだったか。
お隣さんに悪印象を与えないよう、俺はノックをした上で──
「お、おじゃましまーす」
ゆっくりと、409号室のドアを開けた。
■ □ ■
「いたーい!! 幸太が殴った!! 暴力反対だよっ、この低身長!! 155cm!!」
「身長のことを言うんじゃねえ!!」
俺は躊躇なくもう1発手刀を喰らわせた。
悪いか?
中学生3年生にもなって155cmしかないのは悪いことなのか?
このバカ姉、お見舞い初日から下らないドッキリを仕掛けた上に言ってはならないことを、それを言ったら戦争だろうが……っ。
「ぶったね……二度もぶった……親父にもぶたれたことないのに!!」
「某モビルスーツアニメの名台詞を逆ギレのために使うな、しかも微妙に誤用だし……」
「こんなことするなんて、親の顔が見てみたいっ」
「あんたの親と同じ顔だよ!!」
そういやそうだね。と、ゲラゲラ笑う姉──
この姉は昔からこうなのだ。
元気だった頃は俺を引きずり回して町内の公園を征服しようとしたり、入院してからは大部屋の姫として君臨し好き勝手、転院して少しは大人しくなるかと思えば、病人の死んだフリとかいう一ミリも笑えないドッキリを容赦なく仕掛けてくる。
書いて字の如く病的に白い肌、俺も人のことを言えないが派手な茶髪は手入れが行き届きサラサラしてて、加えて我が姉ながら顔が良いせいで、周りの人は父さん母さんを筆頭として皆んな姉に甘い。
だからその分、こうして俺が厳しくしているのだ
決して身長が174cmもある姉への当て付けではない。ないったらない、ないから10cmくらい寄越してくれ。モデルかよ。
なにが悲しくて姉に19cmも高いところから見下ろさなければならんのか。
神様ってやつは不公平である。
「つーかマジで止めろよな、こっちの心臓が止まるかと思ったわ」
「いや、あの……心臓を患ってる人の前でそういう発言はどうかなーって……」
「いっぺん止めてやろうか!!」
「ちなみに今のは高槻やよいちゃんの真似だよ」
いや知らんし。
テレビを見てことあるかも知れないけど、写ってるときに言ってもらわなきゃ分からん。
「で、どうよ新しい病院は」
「んー、病院食はこっちのが美味しいかも。けど看護師さんがちょっと厳しい人なんだよねぇ、こう理詰めしてくるというか」
「姉ちゃんにはそのくらいが丁度いいと思う、だいたいもう
「歳のことを言うなぁー!! 私はウサミンみたいに永遠の10代でいるんだから!!」
「ええい、見苦しい!!」
両肩を揺すってくる姉を振り解き、ベッドに押し戻す。ったく、歳のことを言われたくない歳でもないだろうに。
しかし厳しい看護師さんか。
楽天家な姉が他人を厳しい人と評すのは珍しいけれど、そういうからには中々の人物なのだろう。ぜひ仲良くしたい。あわよくば自由奔放が過ぎる姉の抑止力になって欲しい。
「あっ、でもね、同じ部屋の子がちょー可愛いんだ」
「そういやそんなこと言ってたっけ」
「うん、おかげで昨晩は悶々して寝られなくって」
「さもお隣さんに責任があるような言い方してるけど自業自得だぞ?」
姉は可愛い子が好きだ。
恋愛対象という意味ではなく、可愛い子を愛でることが大好きな、変態という名の淑女なのである。
でも18歳の誕生日、隣のベッドにいた女子中学生に膝枕をしてもらっていた姉は、普通にやべー奴なんだと改めて再認識させられた。
そんな姉と二人部屋……顔も見たことのないお隣さんに、俺は早くも憐憫の感情を抱いていた。どうか強く生きて欲しい。
「いやー幸太も会わせてあげたかったんだけどなぁ、次の機会に期待だね」
「そうかい……んじゃ明日、当面の着替えやら何やら持ってくるよ」
「ん、ありがと」
この辺りはもう慣れたもんだ。
俺も、そして姉も。
入院生活が始まって早くも5年目、姉は長期入院における心得を知っているし、俺もそれを支えるのに必要なことを弁えている。
だから、大丈夫。
きっと新しい生活にもすぐ慣れる。
これだけ大きな病院で診てもらえるのだから、いつか無事に五体満足で退院できる日も来るだろう。
そしたらまた、家族四人で一緒に。
俺はその日を──
「あ、加蓮ちゃんおかえり!!」
声がデカい、病人のくせに声も態度もデカいんだこの姉は。
そして姉のデカい声に驚きつつ、振り返る。
はたして、そこには一人の少女がいた。
ボサボサの黒髪が目立つ、病院で買ったのであろう白い無地のパジャマを着た女の子。
というか、さっきすれ違った女子だった。
あぁ、この人が姉のお隣さんなのか。まいった初対面の前からやらかしてるぞ俺。
少女は先ほどと同じように、無気力な瞳で俺たちを見る。興味のない、無関心な瞳で。
「ねぇねぇ加蓮ちゃん。紹介するねっ、弟の幸太だよ。幸太、こちらは北条加蓮ちゃん!!」
姉に振られて、俺は姿勢を正す。数分前の失態を挽回すべく、ちゃんとした挨拶をしなければと。
「あの、初めまして、浮島幸太です。うちの姉がご迷惑を──」
「うるさい、静かにしてよ……私寝るから、邪魔しないで」
気怠げにそれだけ言って、黒髪の少女──もとい北条さんはベッドに入ると、布団へ潜り込んでしまった。
「ね? 可愛いでしょ?」
「どうなってんだあんたの判断基準」
小声で自慢げにドヤ顔を披露してくる姉に、俺は同じく小声でそう返す。
毛虫みたいな髪に阻まれてよく見えなかったけど、確かに顔のパーツは整っているようにも見えたけど、可愛くはあっても可愛げはないだろ。
びっくりだよ、挨拶の途中であんな風にバッサリ切り捨てられるとは思わないじゃん。
ちょっと心にくる。
「私の可愛い子アンテナが過去最高にビンビン反応してるんだもん、加蓮ちゃんは20年に一人の逸材なんだってね」
「そりゃアンテナが出来てから20年なんだからそうなるって」
というか壊れてないかそのアンテナ。
呆れ顔でそう言うと、それでも姉は鳶色の瞳を輝かせて。
「私があの子を、ピカピカに磨き上げて見せるっ!!」
「いや、誰目線なんだよ姉ちゃん……」
アイドルのプロデューサーにでもなったつもりかよ、いやプロデューサーの仕事とか知らんけどさ。
姉のお見舞いに来るたびにこんな調子だと思うと、胃が痛い。なんとか関係の改善に努めて欲しいところだが、この様子だとそれも難しそうだ。
結局その日、俺が引き上げるその瞬間まで、北条さんが起きることは一度もなかった。