北条加蓮にとって、世界とは小さく退屈なものである。
彼女の世界はこの病院と、近所の公園、そしてもはや思い出すのも難しい自宅だけで作られていて。
そのどれもが、小さい世界が、酷く退屈でたまらない。加蓮の目には、世界の全てがセピア色に褪せて見えている。
いったい
最初は、単なる風邪だったはずだ。
それを少し拗らせてしまっただけで、少しだけ入院したら帰れるはずだったのに。そう言われたのに。
入院が延びて、退院できたと思ったらまた入院して、そんなことがしばらく続き、どんどん退院出来なくなって、ここ2年ほどは入院し続けている状態で。
あぁ、自分は一生こうなんだろうなと、加蓮は子供ながらに悟り始めていた。
病院から出られずに、なにも出来ず、何者にもなれずに死んでいくんだろうなと。
たった2年という人間もいるかも知れないが、15年も生きていない加蓮にとって、2年間の入院は心を折るに十分すぎる長さだった。
自分が中学3年生だという自覚すら、今の彼女には気薄で、どうでもいいことだった。
どうせ一生ここにいるのだから、ここにいることしか出来ないんだから、どうだっていい。
採血と、点滴と、検査と、投薬と、彼女の世界はその繰り返しで回っている。
ある意味では、彼女の人生はそこで止まって、留まっていた。
彼女自身、ここが人生の終着点であると、認めてしまっていた。
入院し始める前の、あの頃までが北条加蓮の人生で、本編で──ここから先は、この先にあるのは長い長い、先の見えないエピローグなのだと。
だから、個室から二人部屋に移動になると伝えられた時も、加蓮はなんの興味も関心も抱かなかった。
今更、自分の世界になにが混じってきたって、もうなにも変わらない。終わった物語に、新しいページを書き加えることはできない。
もうなにも、変えられないんだから。
なのに。
「加蓮ちゃん……北条加蓮ちゃんっていうんだね、私は浮島真莉。よろしくね加蓮ちゃん!!!!」
入院してきたのは、自分とは何もかもが違う人だった。共通事項は性別と鳶色の瞳くらいで、その他はまるで正反対。
鮮やかな茶髪に、ハキハキとした声、異次元じみたスタイルに、常に浮かべているのは目が痛くなるほどの笑顔。
彼女──浮島真莉は、加蓮の小さな世界に入ってきて、狭いと言わんばかりに暴れ回った。
いつも大きい声で話しかけてくるし、静かにしてと言っても10分後にはケロっと忘れてまた絡んでくる。話しかけるなと突き放しても、どこ吹く風でちっとも懲りやしない。
彼女がこの病室に来てそろそろ半月になるが、勢いは衰えるどころか益々増している。
なんて元気な病人だ。どうせ直ぐ退院するくせに、自分の世界から消えていくくせに。こういう人間は、社会に必要とされていて、人気があって、今は話し相手が自分しかいないから声をかけてきているだけで、退院したらまるで最初から入院なんてしていなかったように、全てを忘れてしまえるんだ。
あぁそうだ、そうに決まっている。
本当に、憎たらしい。
本当に、鬱陶しい。
本当に、本当は──
■ □ ■
『後ろの席まで、ちゃあんと見えてるからねえぇーーーー!!!!』
備え付けのテレビの中。
一人の少女が、ステージの上から客席の一番奥を指して、そこに向かって投げかけるように声をあげる。
たったそれだけの言葉で、会場のボルテージが限界まで上がっていく様子が、画面越しにでも伝わってきて。
北条加蓮は、ベッドに立てかけた枕へ頭を預けながら、ジッとその画面を見つめていた。
流れているのは今週末に発売されるライブDVDの販促番組で、ダイジェスト映像を流しながら、出演していたアイドルに生の感想を聞いていく、という内容だった。
代わる代わる、ドレスを模した綺麗なステージ衣装のアイドルが、それぞれの持ち歌を披露する姿が流れていき、本人のコメントがそれに続く。
テレビの中のアイドルは誰もが輝いていて、自分とは余りにも違うその輝きに、加蓮は目を離すことが出来なかった。
全てが色褪せていく中で、これだけは鮮明に、色鮮やかに、色付いて見えたから。
「加蓮ちゃんって、アイドル好きなの?」
「……別に、浮島さんには関係ないでしょ」
不意に、向かいのベッドから声をかけてきたのは、ここ最近の悩みの種、浮島真莉であった。
無視したって構わなかったけれど、会話の内容がアイドルだったせいか、加蓮はつい返事をしてしまった。その上で、これ以上踏み入ってくるなと、そう言わんばかりに突き離す。
態度と、そして言葉で、壁を作る。
だというのに、来るなと言っているのに、浮島真莉という人は、基本的に人の話を聞こうとしない。
「もー、浮島さんなんて他人行儀な言い方しないで、真莉姉さんって呼んでいーんだぞ?」
「いや、意味わかんないし」
なにが真莉姉さんだ。
こんな姉、こちらから願い下げである。
こんな、拒んでも離れてもくっ付いてこようとする、諦めの悪い姉なんて。
加蓮は視界に真莉の姿が入らぬよう、テレビの画面だけが目に入るように、身体の向きを調整した。
画面の中では、明るい金髪の眩しいアイドルがアップテンポな曲に合わせて踊っているところで、生命力の躍動を感じさせる彼女は流れる汗すら美しいと感じさせる。観客もその圧倒的なパフォーマンスに沸いていた。
思わず、加蓮の中にも熱いものが込み上げてくる。世界は小さくて退屈だけど、この四角形の中で踊る彼女たちを見ていると、不思議と気持ちが昂ってくる。
「凄いよねー、アイドルって。あんな風になれたら、きっと最高に楽しいんだろうなぁ」
しみじみと、噛み締めるように、浮島真莉はそう言った。
そして、彼女への苦手意識が染み付いていたせいか、そんな言葉にすら、加蓮は言い表せない感情を抱いてしまい。
「……なれるわけないじゃん」
反応しなければいいと分かっていたのに、しなければ良かったのに、それでも加蓮は言わずにはいられなかった。
アイドルは簡単になれるものじゃない。
簡単になれていいものじゃないと、加蓮の心が訴えていたから。
アイドルというのは、もっと崇高で、高みにあって、それで。
そうだ、だからこそ。
「いやいや、分からないよ? もしかしたら数年後には、加蓮ちゃんがトップアイドルになっているなんて未来も──」
北条加蓮は、その言葉を許すことができなかった。
「だから、なれるわけないでしょ!! 私みたいなのが、アイドルなんて。なろうとしたって、無理に決まってる!!」
そんなつもりはなかったのに、気がつけば大声を出していた。久しぶりに出した怒声に、彼女自身の喉が驚いているようだった。
加蓮は初めて、自分から真莉の目を見た。
自分と同じ鳶色の瞳を、正面から見据えて、思い切り睨み付ける。
それは加蓮が、一番言われたくないセリフだった。
加蓮にも理由はよく分からなかったけど、無性に腹が立った。自分がアイドル? ふざけるな。この狭い病室で、小さな世界で、朽ちていくしかない自分がアイドルなんて。
加蓮にとって、アイドルはそんなに簡単で単純なものじゃない。
気軽に口にしていい言葉じゃないし、軽々しく扱っていい言葉でもない。
北条加蓮にとってのアイドルとは、アイドルっていうのは。
「加蓮ちゃんは──憧れてるんだね、アイドルにさ」
「は? なにを言って──」
自分の気持ちを知られたくなくて、心に踏み込まれたくなくて、そうすることでしか自分を守れなくて、とっさに反論しようとした加蓮へと、真莉は畳み掛けるように言葉を続けた。
おちゃらけた空気はいつの間にか消えていて、聞いたことのない穏やかな声色で。
「そうでなきゃ、そんな真剣な顔はできないよ」
ハッとして、加蓮は自分の頬に手を当てる。そして当ててから気がついた。この動作が、真莉の言葉が図星であり、正しく当てはまっているという何よりの証拠になってしまっていると。
沸々と、加蓮の心に怒りに似たなにかが噴き出してくる。
なんなんだ、この人は。
さっきから心を見透かしたようなことを。
仮に自分がアイドルが好きだとして、憧れているとして、それがなんだって言うんだ。
もし仮に、そうだとしても。
そうであるとしても。
「だから、関係ないって言ってるでしょ!! どうせ直ぐ退院するくせに!! もう知らない、意味わかんない!!!!」
吐き捨てるようにそう言って、かけ布団を被り、これ以上なにを言われても聞こえないように閉じこもる。
彼女と話していると、心を覆っているものが剥がれていきそうで、心を剥き出しにする事がどうしようもなく怖くて。
そうなった時に、どうしていいか分からなかったから。
そして、完全に意識を閉じる直前。
「えっ、なにこの空気。今の声ってもしかして北条さん? おいバカ姉、今度は一体何をやらかしたんだ。今すぐに吐け、キリキリ吐け」
随分と慌てた様子の、場違いな、そんな声が聞こえた気がした。