その晩、加蓮は自分ではどうしようもない理由で目を覚ました。
早い話がお手洗いである。
モゾモゾと布団から抜け出し、上履きに足を通す。ベッドから降りて、ふと視線を上げると、窓枠に置かれたオレンジの薔薇が目に入った。
これは浮島真莉の弟であるところの、浮島幸太が買ってきたものだ。最初に買ってきたのはもう2週間前の話になるので、切り花の寿命を考えれば、この薔薇は3〜4代目になるはずである。
背格好からして中学校へ上がったばかりに見えるあの少年は、姉の見舞いと言って、あれからほぼ毎日この病室を訪れていた。
あんな姉の弟とは思えないくらい、いやこういう姉がいるからこそなのか、浮島幸太はいたって常識人であった。きちんと話したことはないけれど、あれだけ献身的に姉の世話をしているのだから、よほど人間ってやつが出来ているのだろう。
少なくとも、自分が中学生になった頃よりはしっかりとしている。
もっとも、その頃の加蓮はすでに入院が日常化していて、しっかりする余裕など何処にもなかったのだが。
カーテン越しの月光に照らされて、オレンジ色の薔薇がボンヤリと、病室の暗闇に浮かび上がる。
薔薇だけじゃない。
真莉の周りには幸太の持ってきた物達が溢れていて、とても賑やかだ。対して自分の周囲には、ベッドや棚やクローゼットには、必要最低限のものしかなく、加蓮はなんだか惨めな気持ちになった。
きっと望めば、彼女が欲しいと伝えれば、加蓮の両親は喜んでそれらを持ってきてくれるだろう。
でも、そしたら期待させてしまう。
加蓮が気力を吹き返したと、そういう期待を抱かせてしまう。もしかしたら、これをきっかけに娘は元気になるんじゃないかって。
そんなこと、起こるはずがないのに。
思えば入院したての頃は、親にあれこれとねだって、自分のベッドも真莉のように賑やかだった気がする。
友達も入れ替わり立ち替わりにお見舞いに来てくれたりして、普段味わうことのない非日常に、少しドキドキすらしていた。
しかし、入退院を繰り返しているうちに……加蓮も、両親も、友人も、みんな疲れてしまった。
疲れて、疲れ果ててしまった。
だから今更、伽藍堂な自分の周りを惨めに思うのはおかしいはずなのに、それなのに、加蓮はなぜだか惨めで悲しい気持ちになってしまう。
それもこれも、目の前で呑気に寝ているこの人のせいだ。
この人が来なければ、こんな気持ちを思い出さずに済んだのに。全て過去のものとして、忘れたままでいられたのに。
──とっくに忘れていたはずの、自分の夢を、憧れを、思い出さずにいられたのに。
直視していられなくなった加蓮は真莉から目をそらすと、病室のドアを開けて歩き出した。
深夜の病院というのは、人によっては不気味に感じるかも知れないが、加蓮にとってはこの薄暗い廊下も見慣れた光景であり、迷いのない足取りで進んでいく。
人が入ってきたことを察知して、洗面所のライトが独りでに点灯し、加蓮は明かりに目が慣れるのを待ちながら瞬きを繰り返す。
瞬きに合わせて、コマ送りのようにまぶたの裏へ映るのは、ステージに立つアイドルの姿であった。
大きなお城のお姫様みたいに、煌びやかな衣装を身につけた、キラキラしている女の子。
それはまるで、御伽噺に出てくるシンデレラのようで。
──もし、あんな風になることができたなら。
(馬鹿馬鹿しい……なに考えてるんだろ、私)
不可能な話だ。
無理だ、無謀だ、無意味だ。
そんなこと、とうの昔に分かっていた。分かっていたからこそ、忘れていた。
忘れたことに、していた。
それを。
(なんで、なんで思い出させるの……っ)
思い出したくなんて、なかった。
忘れたままでいたかった。
思い出したところで、それこそなんの意味もない、無意味だって知っていたから。
用を済ませて蛇口の下へ手をやると、自動で流れ出た水が、加蓮のか細い指の間を淡々と通過していく。
手を洗い終えて、ふと顔を上げると、鏡の中では泣きそうな顔の少女が加蓮を見ていて。
つまり。
今にも泣きそうな北条加蓮の顔が、そこにはあった。
なんて顔だ。
これじゃあまるで、自分が諦め切れてないみたいじゃないか。
夢を叶えられないどころか、挑戦すらできないことを、本気で悔しがっているようではないか。
(やめてよ、どうせ無理に決まってるのに……どうして忘れさせてくれないの)
過去を振り切るように、水を切って乾かして、部屋へ戻るべく加蓮は洗面所のドアに手をかけた。
ドアを開けば、いつもと変わらない廊下の暗闇が加蓮を出迎えてくれる。
そうだ、これでいい。
自分は暗闇にいればいい、輝くステージには立てないのだから、無謀な希望なら最初から持たない方がいい。
だって一度持ってしまったら、抱いてしまったら、落とした時に傷つくのは自分だ。指の間を抜けていく水滴のように、ポロポロと零してしまったら、きっと今度こそ心が折れてしまう。
だから、北条加蓮は夢を見ない。
叶えられもしない夢を見ないよう、余計なものが見えないように、好き放題伸ばした髪の隙間から、廊下を眺めて前に進む。
一歩進んで、二歩進んで。
──三歩目を踏み込んだ瞬間、加蓮は呼吸をし損ねた。
「え……あっ、た……っ」
し損ねたというより、気道が急に狭まって、空気が入ってこなくなった。
助けて。そう言おうとして開いた口から出てきたのは、意味を成さない音の切れ端だけ。
足がガクガクと震えて、立っていられなくなり膝を着く。
懸命に声を上げようと、懸命に開いた口、その端から垂れる涎が床に落ちたのを見て、加蓮の脳裏にハッキリと最悪の事態がよぎった。
(えっ……死ぬの? 私、ここで? こんなにあっさり?)
あまりに急過ぎる。
残酷なほどに唐突だ。
なんの伏線も、フラグもなく、唐突に呼吸を奪われて。お前の死に様なんか、そんなもんだと突き付けられるように。
加蓮は思った。
ここで死んだら、こんなところで死んだら……あれ、死んだら、なんだろ。
死ぬ前に、何かしたいことでもあっただろうか。と。
このまま小さく退屈な世界に閉じ込められて生きるくらいなら、今死んでしまっても別に構わないのではないか。
両親はきっと悲しむだろうけれど、悲しんでくれるだろうけれど、このまま病気の娘を延々と背負わせてしまうくらいなら。
もういっそ、ここで終わらせてしまっても。
そう考えても仕方がないくらいの絶望を、北条加蓮は抱えて生きてきた。
だから。
だったら。
なぜ自分は、今もこうして。
──必死に、息をしようと足掻き踠いているのか。
「……はぁ、あぁ、たすっ」
理由なんて、加蓮にも分からなかった。
人として当たり前の、生存欲が働いたのか。それとも、自分でも気がついていない生きる理由が身体を突き動かしたのか。
掠れた声を振り絞る。
掠れに掠れて、声にしたところで届くはずもない音を、それでも必死に絞り出す。
「………………たす、けて」
やっとの思いで出した声は、いっそ笑えてしまうくらいに小さかった。
うん、駄目だ。
自分は頑張ってみたところで、これが限界なんだ。
こんな声じゃあ誰にも届かない、誰にも気がついて貰えない。
北条加蓮の人生は、これにて終幕。
実に下らない物語だった。
見る価値のない、見返す価値のない物語だった。
エピローグすら綺麗に閉められない、三流作家が書き損じてゴミ箱に投げ捨てた、しわくちゃの原稿用紙に書かれているような人生だった。
でも、最後に一つ言い残すのなら。
北条加蓮の本音を、最期に言わせてもらえるのなら。
やっぱり、私だって本当はアイドルに──
「──加蓮ちゃん!!!!」
どこまで深く、底の底まで落ちていく加蓮の意識を引っ張り上げるような、そんな声だった。
慌ててここまで駆けてきたのだろう。彼女は、浮島真莉は、とても辛そうな表情で、けれどどこか安心するような声で言う。
「大丈夫、だよ……はぁ……直ぐに、えほっ……先生たちが……こほ、来てくれるからね……」
浮島真莉は、崩れ落ちた加蓮の体を支えるように抱きしめると、自分自身も息絶え絶えになりながら、一緒に床へと倒れ込んでしまった。
二人は床に寝転んだ状態になり、鳶色の瞳が交差する。
意識を保っていられる限界のところで、加蓮は呆然と、信じられない様子で真莉の顔を見ていた。
尋常ではない量の汗をかいて、顔を真っ赤に染め上げながら、それでも彼女は加蓮に微笑んでいて。
──その笑みが、いつかテレビで見た、輝かしいアイドルの笑顔に重なって見えた。
■ □ ■
翌々日。
晴れて体調復活を果たした加蓮は、いつもの病室の自分のベッドに戻ることを許されていた。
幸いなことに発作は急ではあったが短いもので、念のため1日経過を見る流れにはなったものの、今日からいつも通りの元通り。
しかし、現状を語るのならば、今の病室について語ろうとすると、元通りとは言い難く、その理由は向かいのベッドにあって。
向かいのベッドは、依然もぬけの殻だった。
加蓮は心ここにあらずといった様子で、ボーッとした目付きで件のベッドを、本来であれば浮島真莉が寝ているはずのベッドを眺める。
あの晩、加蓮のもとへ駆けつけた真莉は、心臓の調子を崩して寝込んでしまったらしい。
朝一で部屋に戻った加蓮は、なにをするでもなく真莉の帰りを待ち続けた。
現在の時刻はそろそろ午後5時を回ろうとしていて、それでも真莉は戻って来なくて、そもそも。
(戻ってきたら、なにを話せばいいんだろう……)
浮島真莉は、恩人だ。
あそこで彼女が来てくれなかったら、きっと自分は死んでいた。
実際に死の淵に立たされて、あと一歩で落ちるところまで追い詰められて、加蓮はようやく本当は生きたがっている自分に、気がつくことができた。
だから、北条加蓮にとって浮島真莉は命の恩人だ。
(でも、酷いこと沢山言っちゃったし……今更どんな顔をして……)
まずは謝らなくちゃならない。
謝罪を受け入れてもらえるか、許してくれるかは別として、加蓮は真莉に頭を下げる必要がある。
それだけのことを、自分はしたのだから当然のことだ。
そうだ、まずは謝って、そしてそれから。
なにを話せばいいんだろうか?
結局、話が一周して、ぐるりと回ったタイミングで、病室のドアが開いた。
入ってきたのは、待ち人である浮島真莉ともう一人、看護師としての正装に身を包んだ20代後半の女性であった。
「真莉ちゃん。最後にもう一度言うけれど、無茶は絶対にダメよ? 今回の件だって、貴女の働きには私を含めて病院関係者の誰もが感謝をしていることに違いはないけれど……それと、無理して走った事とは全くの別問題で、その点に関しては怒っているんだからね?」
「あはは、ごめんなさい後藤さん。あの時は必死になっちゃって、つい」
「気持ちは、わかるけどね……事実として、貴女の役目は私たちをあの場に集めた時点で立派に果たされていたのだし、加蓮ちゃんのところまでダッシュして心臓に負担をかける意味は、ハッキリ言ってしまうとなかったんだから」
「はーい……反省してます」
「うん、分かってくれたらいいのよ。真莉ちゃんは良い子なんだから、あまり心配をかけさせないように、ね?」
じゃあ安静にね。と、最後に付け加えて、看護師の女性──後藤さんは去っていった。
彼女の気配が部屋から遠ざかると、真莉はベッドに座り、困ったように笑いながら。
「いやぁ参った参った、後藤さんってば私が起きてからずっとあんな調子なんだもん。まさか
参ったという割に、困った笑みを浮かべているにしては、どことなく嬉しそうな言い方だった。
「なんというか、たった二日会ってなかっただけなのに、久しぶりな気がするよ。加蓮ちゃん、体調の方はもう大丈夫?」
「……はい。その、浮島さんこそ、大丈夫、なんですか?」
おずおずとした加蓮の言葉に、真莉は大袈裟に仰け反りながら。
「え、ちょっとやめてよー加蓮ちゃん。敬語なんてさ、今まで通りでいこうよー。あ、身体は大丈夫だよ。でないと後藤さんが部屋に戻るのを許してくれるはずもないしね」
確かにその通りだ。
後藤さんは口調は柔らかく、本人も至って柔和な性格をしているけれど、言うべきことはハッキリガッツリと言うし、譲れない一線は手子でも動かさない人だ。
真莉よりも数年長い付き合いの加蓮は、そのことをよく知っている。
「でも……浮島さんは年上だし」
「えー、この間までは普通に話せてたじゃん?」
「それはっ……あの、失礼な態度ばかりで、本当にゴメンなさい」
謝っても、自分の誤ちが消えるわけではないけれど、一つのケジメとして加蓮は謝罪した。頭を下げて、赦しを請うた。
すると真莉は、いつぞやの様に優しい声色で。
「加蓮ちゃん……隣、座ってもいい?」
「……はい、どうぞ」
「ん、ありがとう。お邪魔しまーす」
ギシッと、二人分の体重を受けてスプリングが沈み込む。
「とりあえず、敬語は禁止ねっ。加蓮ちゃんは、加蓮ちゃんのままでいいんだよ」
じわりと、真莉の言葉は加蓮の心に染み渡るようで。
加蓮が隣に座った真莉を見ると、真莉も加蓮のことを見ていて、あの日の夜を思い出す。
鳶色の瞳が交わる中で、加蓮は思わず病室に戻ってからずっと考えていた質問を、口から溢した。
「浮島さんは……どうして、その」
「ん? あぁ、なんであの場に居たかって話? 実を言うとね、加蓮ちゃんがベッドから降りたタイミングで目は覚めてたんだ。それで、歩き方とか重心の運び方とか、小さな違和感があったから……おおっと、こうやって言うと変態チック。いや、まぁそれで嫌な予感がして追いかけたってわけだね」
「いや、えっと、そうじゃなくって……」
そこではない。
加蓮自身が気づけていなかった不調の兆しを感知していた真莉の洞察力にも驚きはしたが、昨日の爆音といい一般人の枠から数歩はみ出している感すらあったけれど、加蓮が聞きたかったのはそこではなく。
「どうして、私のことを助けてくれたの? 私、凄く嫌なやつだったのに……酷いことも、たくさん言って、なのに……どうして」
あんな必死な顔で、駆け寄ってきてくれたのか。
自分で言うのもなんだが、今になって思うと相当当たりの強かった、同情の余地がない自分を、なぜ。
加蓮は尋ねたはいいけれど、答えを聞くのがなんだか怖くて、目線を下げてしまった。
そこから数秒、間が空いて。
ギュッと拳を握りしめ、肩を震わせる加蓮へと、浮島真莉は一呼吸置いて、静かに語り始めた。
「──私ね、アイドルになりたかったんだ」
あの日テレビの中で、歌って踊っていた、光り輝くアイドルに。
自分はなりたかったのだと、真莉は語る。
「子供の頃からずっと憧れてて、夢見てて……高校生なってすぐ養成所に申し込んでさ、合格を貰ったの」
「…………えっ?」
知らなかった。
真莉はとてもお喋りで、この半月の間加蓮に色々な話をしていたけれど、彼女がアイドルの養成所にいたという話は聞いたこともなかった。
けれど、同時に合点が入った。
あれだけの大声を出すことができたのは、彼女が然るべき機関でトレーニングを受けていたからなのだと。
「たくさん練習して、オーディションも受けたりして……16歳の時に、デビューが決まって」
「…………」
「でも、結局1度もステージには立てなかったんだよね。その前に、ここが言うことを聞かなくなっちゃってさ」
「…………っ」
ここ。と、心臓を指差しながら、真莉は笑った。決して笑えない話のはずなのに、それでも笑顔を浮かべて。
「だから、かな。アイドルを観る加蓮ちゃんを見てたら、放って置けなくって……いや、これは後付けかな。きっと特に理由がなくても、私は加蓮ちゃんのところに走ってたと思う」
それが私だから。
それが浮島真莉って人間だから。
だからこそ、真莉は加蓮の瞳を覗き込みながら、あの日と同じ質問を繰り返した。
「加蓮ちゃん、アイドルは好き?」
「……うん、好きだよ」
「あんな風になれたらって、思ってる?」
「うん……あぁいう風になれたらって、ずっと思ってた」
驚くほど素直に、加蓮は頷くことができた。それが自分の本心なのだと、受け入れることができた。
「だったら、それでいいんだよ加蓮ちゃん。好きなものは好きで、なりたいものはなりたいって、胸を張っていこうよ」
心を覆っていたカサブタが、剥がれていく。一度深く傷ついて、カサブタだらけになっていた心が、再び剥き出しになっていく。
以前の自分なら耐えられなかっただろう心境も、隣に彼女が居てくれると思えば、そう悪いものでもなかった。
確かに、真莉の言うとおりだ。
自分の思いに、憧れに、夢に、蓋をして閉じ込めたって、思いや憧れや夢が消えて無くなるわけではない。いくらそれを隠して諦めたフリをしても、結局辛いのは自分自身だ。
だったら、素直になろう。
好きなものは好きだと言って、なりたいものにはなりたいと声に出そう。
それが叶うかは分からないけれど、声に出さずに仕舞い込んでいるよりはずっといい。
「私ね、いつか退院したら、もっかいデビュー目指して頑張るんだ」
それがどれだけ困難であるかを誰よりも理解しながら、それでも真莉は断言した。
だから、加蓮も言わなくちゃと思った。
自分の思いを、忘れたことにして封じ込めていた、あの日抱いた大切な夢を。
今までの、今日までの不貞腐れた北条加蓮を終わらせて。
新しい北条加蓮を、その人生のプロローグを始めよう。
「私も……なりたい。身体を治して、アイドルになって、ステージに立ちたい」
「じゃあ、退院したら私たち、ライバル同士ってことになるね」
額を突き合わせるように近付けて、真莉は挑戦的な笑みを見せてくる。
そんな風に言われては、性根のところで負けず嫌いな加蓮は、応えずにはいられない。
コツンと額と額をぶつけ合って、真莉は未来のライバルへ宣言した。
「負けないよ、加蓮ちゃん」
それに対し、加蓮は一瞬考える素振りをして、邪魔な前髪を避けながら。
「うん。今はまだ、なにもない私だけど、気持ちだけは確かに持ったから。だから、負けない。その……ま、真莉姉さんにも、負けないアイドルになる。それで──」
それで、いつか見たあのシンデレラに、今度は自分がなるんだ。