前略、ドアを開けると、別人のようになった北条さんに挨拶された。
「……えと、こんにちは北条さん。すみません、ちょっと驚いちゃって」
あまりの衝撃に、ぽろっと名前だけを呟いてしまったが、今日は北条さんの方から挨拶してくれたのだと思い出した俺は、しどろもどろになりながら言葉を返す。
「うん、イメチェンしてみたんだ」
イメチェンをしたのだと、驚きを隠せない俺に北条さんは言った。
イメチェンとは、ご存知の通りイメージチェンジの略語である。
たいていの場合、髪型や髪色、もしくは服装を、印象をガラッと変えた人に対して使われる言葉であり、そういう意味ではボサボサで好き放題に伸びていた黒髪を切り揃え整えた北条さんにも、この言葉は当て嵌って然るべきなのかも知れない。
が、しかしだ。
俺が驚いたのはそこではなく、そこだけではなく、彼女の表情についてだった。
無気力でも、無関心でも、無感情でもない。本来そうであったのだろう、無邪気な笑みを浮かべる北条さんに、そのパッチリ開いた鳶色の瞳に見つめられて、俺は思わず視線をそらしてしまう。
「あー、その。似合ってます、凄く」
「あはは、ありがとね」
挨拶されたばかりか、お礼まで言われた。
月の初めに出会った頃とは大違いで段違いな対応だ。
なんて返せばいいんだろう。
そもそも、彼女とはもとより大して絡みがあったわけでもないので、これ以上の会話をいかに続けるべきなのか、俺は分からなくなってしまった。
「…………」
「…………」
無言の時が流れる。
話しかけてくれたのは嬉しいけれど、会話のノリを量りかねるというか、どんなテンションで話すべきなのかが定まらない。
すると返事に迷う俺の態度を、はたしてどう受け取ったのか、北条さんは眉を八の字に傾けて。
「……ごめん、困らせちゃったかな。急にこんな風にされても戸惑っちゃうよね」
「い、いや!! そういうんじゃなくて……」
ションボリとした北条さんの表情に、俺は反射的に否定する。
確かにちょっとだけ困ったけど、今少し戸惑ってるけどっ。決してマイナスな意味ではない、びっくりはしたが、北条さんの態度が軟化したのは俺にとっても喜ばしいことだ。
少なくとも、初対面のときよりはずっといい。
うちの姉とも是非この調子で仲良くしていただきたい。そういえば、この変化を俺以上に喜びそうな、狂喜乱舞しそうな姉の姿が見えない。
こういう空気が微妙なときこそ、あの猪突猛進暴走マシンである姉の出番だというのに、どこに行ったのやら。
なんて、心中に姉への愚痴をこぼしていると。
「ん? あぁ、真莉姉さんなら、お手洗いだよ」
「あ、どうもです」
俺の視線から意図を読み取ってくれたらしく、北条さんは姉の居場所を、居場所を……真莉姉さんんん??????
ほ、北条さんが姉のことを真莉姉さんって、え? ナンデ? マリネエサンナンデ? 前に来たときは一発即発の、むしろもう爆発してる空気だったのに。
どうしてそうなった。
「は、あ、ま、真莉姉さんって、真莉姉さんって……あの、北条さん」
「う、うん」
思考回路がバグった挙動で話しかけてしまったが、おかげで北条さんもびっくりさせてしまった様子だったが、それどころではない。
なぜなら、俺には北条さんからわけを聞くという使命があったからだ。
「弱味でも握られて脅されたんですか?! 大丈夫ですよ無理しなくても、俺がキッチリ締めておくんで。あんのバカ姉タダじゃおかねえ!!」
全く本当に。
出会って一ヶ月の相手に自分を姉呼びさせるって、どうなってんだ姉の頭ん中は。
いったいどんな手口を使ったのかは知らないが、そっちがその気なら俺にも考えってものがある。
なにせ姉の娯楽ラインを握っているのは他ならぬ俺なのだ、やろうと思えば姉を干して退屈にするなど造作もないこと……どうしてやろうか、どうしてくれようかバカ姉め。
俺は拳を握りしめ、姉への制裁を誓った。
そして、誓った俺を見て、北条さんは耐えかねたように。
「──ふふっ、あははは、あっはははは!!」
「ほ、北条さん?」
笑いだした。
堪えようとしていた感じの小さな笑いが、次第に我慢できなくなったのか、ついには声に出して笑い始めてしまった。
「ど、どうかしたんですか? なんで急に……」
姉の脳天へ落とすために振り上げたゲンコツが、落とし所を見失って宙ぶらりんになる。
所在なさげに揺れる俺の拳を横目に、笑いすぎて目尻にたまった涙を、人差し指で拭いながら、北条さんはなおもクスクス笑いながら。
「だって、だって弟くん──真莉姉さんの話題になった途端に元気になっちゃうんだもん」
「なぁ?!」
なんてことを言い出すんだ。
俺が姉の話になったからって、それで元気になったって、我田引水のいき過ぎもいいところである。
「あれ、違うの?」
「ち、違いますよ!! 俺はただ、姉ちゃんが北条さんに迷惑をかけてるんじゃないかって」
「別に慌てなくても、真莉姉さんを盗ったりはしないって」
「だぁからぁ!! 違いますって!!」
なぜか知らんが、北条さんが食いついてきた。あれだけ忌避していたはずの姉の話題に。マジになにがあったんだ。
話題を、話題を変えなくては。
……こういう時に限って、ろくな話題転換が思いつかない。
あぁ、でも。そうだ、いい物があるじゃないか。
こんなタイミングで使うことなるとは思っていなかったし、想定もしていなかったけど、話の舵を切るには丁度いい物があるじゃあないか。
俺は手に持っていたビニール袋から、それを取り出し、半ば突き出すように北条さんへ差し出した。
「あの、北条さんっ。これどうぞ」
「これって……」
「ガーベラです。花瓶もあるんで、もし良ければですけど、窓枠にでも置いてもらえたらって」
姉に買った白いガーベラとは別に、北条さんへの贈り物として買ったオレンジ色のガーベラだ。
姉と北条さんの、関係修繕の切っ掛けというか、その一端を担えればと思い購入したのだが、なので本来の役割とは全く違った使い方になってしまったが、やむを得ない。
だいたい、俺の見立てではもう、その意味ではもうすでに、使う必要はないように思えた。
「……ありがとうね。それと、ごめんなさい。前は凄く失礼なことを言っちゃって……反省してる」
受け取ったガーベラを、花瓶ごと抱きしめながら、北条さんはお礼の言葉を返してくれた。
「今は気にしてないですよ。誰だって、間違えることはありますから」
だから、間違えたら謝って。
そして、謝られたら許せばいい。
完璧な人間なんていないんだし、不完全な人と人とが付き合っていくのだから、そのくらいが丁度いいのだと、俺は思ってる。
これはあの破天荒な姉と、なんだかんだと15年付き合ってきて得られた知見であった。
「……なんか、自信失くすなぁ」
なにか眩しいものでも見るように目を細めて、北条さんはそう溢した。
「私、小さい頃から入院続きだったからさ。周りには大人の人が多くて、学校の同級生よりも、その人たちと話している時間の方がよっぽど長かったんだよね」
「はぁ、そうだったんですか」
北条さんの伝えようとしていることが分からず、解せず、俺は生返事をしてしまう。
ただ、少なくとも、彼女のこれまでを取り巻いていた状況の、その端っこくらいは垣間見えた気がした。
「そんな毎日だったから、かな。久しぶりに学校に行くと、クラスメイトが皆んな子供っぽく見えちゃったりして……今思うと、そんな風に思ってる私が、実は一番子供だったんだろうけど」
クラスに一人や二人はいる、斜に構えたやつだったのだろう。自分は周りの子供とは違うんだと思っている子供。
彼女がそうであったことは、そうであった理由も含めて、理解できる気がする。
「でも、まぁ自覚してからは、自覚したからには、ちょっとは大人になれたのかなー。なんて、思ってたんだけどね」
そう言って、長い前置きを言い終えて、北条さんは俺に向かって言い放った。
「弟くん──幸太くんだっけ? 中学生になったばかりとかだよね。なのに、私なんかより凄くしっかりしてるんだもん」
「お・れ・は!! 中学三年生だあぁぁあぁっ!!!!」
思わず叫びながら、俺は制服のポケットから学生証を取り出し、彼女の眼前へよく見えるように、見逃すことのないように提示した。
「えっ、中三? 本当に?」
「流石に信じてくださいよ、身分証明書見たんだからっ!!」
「ってことはタメじゃん。しかも同じ中学だし、ウケる」
「ウケるな!! もう俺は北条さんのキャラが分からねえよ!!」
いくらなんでもブレ過ぎだろう。
うっかり敬語もかなぐり捨ててしまった、いや同級生ならタメ口でも不思議ではないのだが、てか中学校も一緒なのか……立地を考えればおかしな話でもないけれど。
「真莉姉さんと話してて思い出したんだけど、私って元はこんな感じだったんだよね。幸太くん……いや、同い年だし幸太でいっか、いいよね?」
「えっ、いや、その……いい、ですけど……」
「んー、敬語は止めない? 小慣れてるのは分かるけど……せっかく同級生だって分かったんだしさ」
北条さん──いや、北条がそういうのなら是非もない。
「……分かったよ。北条、これでいいか?」
「お、いいじゃん。なんか同い年の人と話すの久しぶりだなぁ……花まで貰っちゃったし」
俺だって同い年の女子に花を贈ったのなんて初めてだ。
やばい、北条が同学年だって判明したせいか、今更になって恥ずかしくなってきたぞ。
さっきとは別の意味で、二の句を続けられない。会話の流れを変えるために渡した花が、今度は会話の流れを堰き止めてしまった。
「加蓮ちゃんただいまーっ。お、幸太もいるじゃん、久しぶり。……なになにこの雰囲気、加蓮ちゃんてば見慣れない花持ってるし、私のいない間に二人の距離が縮まっちゃったって感じなの? 私の入る隙間はもうないってことなの? どうなの幸太」
「一息が長え」
ドアを開き、浮島真莉登場。
現れたと思ったらポンポンよく考えもせずに言葉をばら撒きやがって。
聞きたいことがあるのは俺の方だ。
「姉ちゃんこそ、北条となにがあったんだよ。この間は怒られてた癖に、真莉姉さんってなんだ真莉姉さんて、なにがどうなったらこうなるんだ?」
「雨降って地固まる。ってやつ? いやー、ほら私と加蓮ちゃんは今やベストパートナーだからね、例えるならサイモンとガーファンクルのデュエット!! ウッチャンに対するナンチャン!! 高森朝雄の原作に対するちばてつやの“あしたのジョー”!! そうだよね加蓮ちゃん?!」
ね? と姉が同意を求めると、北条は申し訳なさそうに首を横に振った。
「えっ、ごめん真莉姉さん。その例えはちょっと分かんない」
「なん……だと?」
「はっはー!! ざまあ見晒せ、全人類がジョジョ4部を履修してると思ってるからそういう目に合うんだ!!」
自分の言葉で伝えないから痛い目に合うんだよ。
「あのさ幸太、勝ち誇ってるところ悪いんだけど、後ろ後ろ」
「ん? なんもねえけど」
北条に言われて振り返ってみたが、そこには窓があるだけである。
「じゃなくて、真莉姉さんの後ろ」
「え………あっ」
「気がついてくれてありがとうね、幸太くん。毎週お見舞いに来てくれてることは、私も尊敬しているんだけどね、それでも気をつけなきゃいけないことは、いくつかあるよね? 例えば、病室で大声を出したりとか」
スッと、初めからそこにいたのであろう看護服の女性が、姉の影から現れた。
俺は、彼女の名を知っている。
後藤さん。姉の見舞いに行くとたびたび遭遇する看護師さんで、姉から厳しいと評判の人でもある。
今日までそんな印象は全く受けなかったのだが、優しいお姉さんだとばかり思っていた俺に、彼女はとてもよい笑顔で、さながら絞首台へ登る罪人に告げるように。
「少し、お話ししようか」
本日得られた新しい知見、後藤さんを怒らせてはいけない。