肩を噛まれ、キスをされ、危機感から逃亡してから早三日。
クー・フーリン【オルタ】を見かけても、彼から近づいて来ようとはしなかった。
いや、彼は元々そういうタイプだ。つまり、自分が彼に近付くことを避けている。
「……なんで、罪悪感がするんだよ」
「へえ、罪悪感なんて感じてるのか」
零れた呟きに反応したのは、キャスターのクー・フーリンだった。
今、上半身裸で、キャスターのクー・フーリンと対面しているのにはもちろん理由がある。肩に残った噛み傷の手当てを、キャスターのクー・フーリンがしてくれているのだった。
「俺自分で出来るんだけど」
「位置的にやりにくいし、誰にも言えねえんだろ?」
逃げたところで偶然目撃され、事の経緯を話したこのサーヴァント以外には。
「くっそ、魔獣に噛まれたとか言っとけばよかった」
「さすがに獣の歯形じゃねえからなあ」
キャスターのクー・フーリンが微かに声を上げて笑う。
「笑い事じゃねえよ」
ついつい口調が乱雑になりながら、手当てしてくれると言うのなら、素直にしてもらっておく。
「もうそろそろ塞がりそう?」
「まだ生傷だなぁ。あいつ相当深く噛んだみたいだな。喰うつもりだったんじゃねえのかってくらいには深い」
「笑えねぇ……」
「ほい出来たぞ」
「いたい」
叩くな。傷関係なく普通に痛いわ。
一日一回連行されてるの、普通に雲隠れしてやろうか。
「そのわりに、手っ取り早くルーンで治せとか、自分で魔術で治そうとは思わないんだな?」
服を手に取り、頭から被ろうとしていた動作を止めた。
キャスターのクー・フーリンが、じっとこちらを見ていた。
このサーヴァントが、そんな簡単なことに気がついていないはずがなかったか。彼の言う通りだ。この程度の傷、さっさと治す術は持っていた。
「制限時間だよ」
目を逸らし、手当てされた部分に触れながら、答えた。
「制限時間?」
「そう、その間に俺は答えを出すんだ」
「何の」
「俺は、あいつとの正しい距離を計らなきゃいけない」
「【オルタ】の俺とのか」
そうだと頷く。
「正しいってなんだ」
「あるべき、ってこと」
「あるべきってなんだ」
違和感を覚え、逸らしていた目を前に戻した。
そのときには、距離はいつの間にか縮まっていた。
「こうあっちゃいけねぇのか?」
手が直に肌に触れ、体を引き寄せられた。
クー・フーリン。その顔が近付く。
「俺からも逃げたくなるか?」
息がかかる。息を感じる。
ただ危機感は感じなくて、けれど離れようと体は判断して。
完全に、警戒などしようはずがない瞬間を突かれた──間一髪、間に滑り込ませた手のひらにクー・フーリンの口が触れた。
「逃げたくはならない。危機感っていう意味ではな」
キャスターのクー・フーリンと、クー・フーリン【オルタ】が持つ性質はやはり違うのだ。根本は不明であれ、普段の雰囲気は間違いなく異なる。
「こうあっちゃいけないのかは、分からない。──ただ、今のお前が本気じゃなかったのは分かる。だから、そうあろうとは俺は思わない」
「ああ、そうだろうよ。そういう意味では、オルタの『俺』はおふざけするタイプじゃない」
キャスターのクー・フーリンは、魔術師の頭をぽんと叩いて、元の位置に戻った。
「もう三日経ってるわけだろ? だがお前さんの考えは一歩も進んでいるようには見えねえ」
図星である。
「俺が思うに、このままその傷が治っても、結論は出てないんじゃねえか?」
「……そこ指摘するってことは、何か進むような案を授けてくれるわけだ」
「単純だ。この際、直接向き合えばいい。直感で、自分がどうしたいか決めてしまえばいい」
オルタがどう行動しようと、次は、多少考えられるちょっとの余裕くらい持てるだろ、とキャスターは言った。
手の甲の令呪があることを確認して、だ。
緊急脱出手段確認しながらって、随分いい加減では?
しかしながら、さらに二日、ちっとも結論はでなかった。
傷は完治までしばらくかかりそうだが、果たして治るまでに自分は答えと言う答えを見つけられるのだろうか。
出るとは思えないと言ったキャスターの言葉が頭を過る。
クー・フーリン【オルタ】を避けて五日。最初の数日で答えが出なかった時点で詰んでいたのかもしれない。どれだけ同じ環境で考え続けても、同じ考えが巡るのは当然とも言える。
「くそ」
……と言うか、ここまで悩まなければいけない理由があるか?
答えを見つけなければいけないのか?
考えすぎて、けれど答えが出ないことで、もはや思考を放棄したい。
穏便に、普通に、この限界状態の世界で付き合っていけないのか?
「……何考えてるんだ、俺」
崩壊寸前状態で、ぎりぎりの世界で何を穏便や普通があると言うのか。
それも、【オルタ】という存在に対して。
「きゃっ」
前方不注意どころか、全方位不注意状態だったので、誰かとぶつかって、ぶつかった方から華奢な声がした。
「わ、ごめん、メイヴちゃん」
ぶつかったのは、女王メイヴだった。
いつもなら小言の一つや二つもらっていたはずなのだが、彼女はしーと静かにするようにという仕草をした。
「……どうかした?」
「クーちゃん寝てるの」
クーちゃん、とはクー・フーリンのことだ。
どのクー・フーリン?
とっさの思考が疑問を持ち、そのまま尋ねた。
「わたしのクーちゃんよ」
つまり、それは。
「わたしリツカに呼ばれてるから行くわ。もう、こんなときに限って」
ぷりぷりしながらでも行くのだから、根が優しい。
「あ、ぶつかったのは許せないけど、いいところに来たわ」
「うん?」
「駄目元だけど、写真撮っておいて」
「何の」
「クーちゃんの寝顔!」
クーちゃんの、寝顔。
示されたのは、すぐ近くの部屋である。
さっき寝ていると聞いたのは、確か、クー・フーリン【オルタ】である。
むり。
「わたしが撮ろうとすると、クーちゃん起きて阻まれちゃうの」
「気配頑張って消して。と言うか、サーヴァントに撮れないのに、俺に撮れると思うのかよ」
「駄目元だって言ったでしょ。わたしにぶつかった罰だと思いなさい」
そう言われると、断れない。
「……了解でーす」
駄目元だと言ってるのだから、撮れていなくてもやっぱりかとしか思われないだろう。
とっさにそんな計算をしつつ、返事した。
「撮ってくれたらご褒美あげるわ」
じゃあくれぐれも起こさないようにと言って、メイヴは去っていく。
その艶やかな髪が揺れる背に、声をかけていた。
「なにかしら」
彼女は振り向いた。
「……いや、何でもない」
「このわたしを呼び止めておいて何よ」
ごめん、何でもないよと言うと、何よとちょっと不機嫌顔になりながらメイヴは去っていった。
女王の姿が見えなくなってから、リンドウは動き始めた。
写真は撮る努力をするつもりもないのに、部屋を少し、覗いた。
クー・フーリン【オルタ】が、『あの日』のように、目を閉じ、そこにいた。
メイヴ。クー・フーリン【オルタ】を作り出した女王。
メイヴ、あなたは何を思い、何を込めて、彼を聖杯に願った。
クー・フーリン【オルタ】。
オルタ。
通常と言い表せる、ランサークラスとキャスタークラスで現界しているクー・フーリンとは性質が異なる存在。本来はいなかった存在。
女王メイヴが願った存在として生まれた。
だが、単にメイヴに靡いていない辺り、単にメイヴが作り出したものでしかないわけではなさそうで、それとも靡かない様はメイヴがクー・フーリンのアイデンティティとして願ったのか。
分からない。
知っているのは戦う姿と、時折見かけていた静かな静かなこの光景のみ。
部屋には静けさが満ちていた。
一歩、音も立てず部屋の中に入った。
静かな、静かな、この空気が好ましかった。
気がつけば、目を閉じているクー・フーリン【オルタ】の前までやって来ていて、静かに静かにしゃがみこんだ。
ぼんやりとしばらく眺めて、ぼんやりと口を開いた。
「クー・フーリン【オルタ】」
クー・フーリンと性質が異なることから、オルタとつく呼び名。
「俺は、お前が分からない」
分からなかった。分からなくなった。
俺は、お前とどう接していけばいい?
その距離さえ分からなくなった。
今、手を伸ばせば届く距離にいる。けれど、この距離が正しいのかどうかも感じられない。
俺はどうしたい。俺は自分がどうしたいか分からない。どうするのが正解か分からない。
──じゃあ、お前はどうしたい
「……なあ」
オルタ。
手を伸ばす。手は、少しだけ、彼に触れた。
「お前は、俺を一回喰えば気が済むのか?」
喰いたいのなら、喰えばいい。
答えが出せないなら、相手に任せてしまえばいい。
直接向き合って、その場で答えを出そうとしたならば、きっとこうなる。
──その獣を、宥められる気がしないのだから
避けずに接するためには、喰われる他ないのだと本能が言う。
「…………ああ、でも、これが、答えか?」
そうかもしれない、と思う。
だって──。
目の前で、血のように赤い目が露になった。
目が合う。
「……寝たふり?」
「目を閉じているだけなのに寝ていると勝手に判断しているのはそっちだ」
確かにな。
ああ、メイヴちゃん、そりゃ気づかれるよ。そもそもオルタ寝てないんだよ。
「おまえは、少しは学べないのか、わざとなのかどっちだ」
常時鋭い視線に射ぬかれる。
「何が?」
リンドウは、彼を見上げ、首を傾げる。
「オレはもう止まってやる気はないと言った。オレの前に無防備にいる意味が分かっているだろうな」
「そうだなぁ」
突然相対することになった事態に、動揺は微かに生まれた。しかしさざ波のようで、すっと収まる。
寝ていたと思っていたとしても、近付いたのはこちらだ。
リンドウはおもむろに立ち上がり、そして、クー・フーリン【オルタ】の隣に腰を下ろした。
「おい」
低い声が、その行動を咎めた。
「そろそろ懲りろ。警戒しろ」
優しいな、お前は。ちゃんと警告してくれている。
「なんで警戒しなけゃなんねえの?」
そこが分からない。ずっと分からない。
リンドウは、少し、笑った。笑い飛ばすように微笑した。
「俺は、お前といるのが嫌いじゃないんだ。──少なくとも今、離れようとは思わない」
逃げようとか、何だとか。
これは、キャスターのクー・フーリンが言ったように多少の心構えが出来た証拠なのか、単にオルタが危機感を感じない雰囲気だからか。
「その代償なのかなぁと思ったり、するわけだ」
側にいられる道を選びたいのなら、相手との妥協点を探すべきだ。
警戒したくないなら、その代償を払うことを良しとするべきだ。
魔術師は、目を隣に向けた。
なあ、オルタ、と唇を動かした。
「お前は、一度俺を喰ったら、満足すんの?」
血のような色の目が、色彩の濃度を増した気がした。
口が開き、鋭い歯が覗く。
先日、肩を貫いた歯が。