頭を打った。
痛みが肩を貫いた。
ぶつりと肌を破る感覚は前に比べると弱かった。治りかけの柔らかい部分に、寸分違わず歯を突き立てたような感覚だった。
ただ、痛みは同じだ。
痛い。
ぽたりと、頬に液体が落ちてきた。
視界には、こちらを見下すクー・フーリン【オルタ】がいた。
一瞬の間に床に倒されたのだと、今理解した。頭を打ったし、今も後頭部がじんじんする。
「苦い」
一言、オルタが発した瞬間に、その鋭い歯を赤い雫が伝う。落ちる。
ぽた、ぽた。
無造作に頬に触れ、落ちてきた液体に触れると、確かめた指は赤くなっていた。オルタの歯を染める色と同じ色だ。
次に、熱を持つ肩に触れると──指は真っ赤に濡れた。
まったく、どうしたって噛むのか。
「キャスターのクー・フーリンに言えよ。あいつの薬なんだ。材料は俺は知らないからな」
苦かったのは血ではなく、たぶん薬だ。
「どうして治していなかった」
「……それ、何か、すごい矛盾だぞ」
自分でまた噛んでおきながらその言葉おかしくないか。
「制限時間にしてたんだ」
キャスターのクー・フーリンに答えたことと同じことを答える。
「お前との距離を計る。この傷が治るまでに、どうあるべきか、答えを出す」
「出たのか」
「どうだろうな。でも、まだ傷は治ってないし、また当分治りそうにないしなぁ」
何でかって、今新たに深くなったから。
だから今、答えが完全に出てなくても自分の定めたルールに違反しているわけではない。
「なあ、オルタ。お前は、俺を一回喰ったら満足するの?」
同じ問いを放ってやる。
さっき答えをもらっていない。
「しないだろうな。そこにおまえがいる限り。オレの手が届く限り」
「なんで」
「知るか」
投げやりか。
本能的なのか。
「おまえは、俺が側にいると喰いたいと思う?」
「ああ。喰われたくなければ隙を見せるな。オレの側で無防備になるな。オレに不用意に近付くな」
クー・フーリン【オルタ】は視線を落とし、「令呪はあるな」と言った。
なんでお前が、俺の逃げ道の確認すんの。
魔術師は笑った。
危機感は覚える。また肩を喰い破らんばかりに噛まれたのだ。肉がいくらか剥がれていても驚きはしない。
この状況──獣のような獰猛さを前にして、危機感を覚えない奴はきっと感情がない奴だ。
本能的な危機感を否応なしに感じさせられながら、見上げる顔に手を伸ばした。
口に触れる。歯に触れる。歯を赤く染める血は、自らのものだ。
キャスターはああ言ったが、魔獣に噛まれたって言っても、通じたんじゃないのか。
鋭い歯が親指に触れる。
ぶつりと、指の腹が切れた。
オルタがぴくりと反応した。
その間にまたぽたりと顔に落ちた血の滴は、当然自分のものだ。
ぽたりと落ちる赤い雫、つー、と指を伝う赤い筋。
「近付くさ。お前にとっては無防備にな。味方陣営で一々気ぃ張ってたまるか」
そうとも。なぜ気を張らなければならない、警戒しなければならない。
これが勝手だと言うのなら、
「俺は好きにする、お前も好きにする。いいよそれで。俺は嫌だとは思わない」
お前も勝手にすればいい。
誰にだってそう思うわけではない。自分の身に噛みつかれるなんてことをされたなら、普通は殴る。嫌う。誰が悩むか。
そうしないのは、出来ないのは、クー・フーリン【オルタ】だからだ。
「俺はさあ」
もう一つ、答えが出た気がした。
「俺はお前を好ましく思ってるよ、クー・フーリン【オルタ】」
ただひたすらにマスターの槍であろうとする、その姿をどうして嫌いになれるだろう。むしろ、好まずにはいられない。
それが深い意味を持たない好意的感情であれ、信頼が形となったものであれ、意味を持つ愛であれ。
立香も、クー・フーリン【オルタ】が分からないと言っていたが、このサーヴァントに嫌悪の類いは抱いていない。
おそらく、その逆だ。
自らを槍とし、とことん戦い抜くこのサーヴァントを信頼している。
だから分からないと口にした。分からない状態が不快だったのだ。そのままそれでいいかと放り投げるのは簡単なことのはずなのだ。
──だがきっと、お前が何を考えているかなんて、一生分からない。
「だから、喰いたいなら喰えばいい。俺は、──っ」
首に噛みつかれた。
痛みに息が詰まり、声は出なかった。
「……手加減、知らないのかよ」
喉を触らなくとも血まみれなのは分かった。
喉を何かが伝う感覚と、血のにおいがする。
そして、眼前の顔。オルタの口が、さらに赤く染まっている。
「つーか、さすがに喉はやばい」
「おまえがうるさいからだ」
「理不尽だな」
黙らせにきたと受け取ると、黙らせ方が物騒に直接的すぎる。
「後悔しても泣いても、遅いぞ」
逆らえない令呪で逃げる以外で逃がす気などないくせに。体を押さえる力が物語っている。
は、と魔術師は笑った。
「クー・フーリン【オルタ】」
血のような色の目を、真下から覗き込むようにリンドウはわずかに首を傾げた。
お前の考えていることは一生分からない。でも、少しでも、感じることはできるだろうか。
それくらいの時を、過ごせるだろうか。
「この世界が救われるまで、お前は俺の槍だ」
口の中に、血の味が広がった。