朝、鎮守府本館の廊下で出会い頭にこんな挨拶を食らった。
「おはよう、司令官!今日もかわいいね!」
黄金色の髪と瞳、にこにこと屈託のない笑顔。その皐月に苦笑するでもなく穏やかな微笑みを向けて提督は返す。
「おはよう、皐月。今日も元気だな」
「エヘヘ、ボクはいつだって元気だよ!」
可愛らしい笑顔を見せて皐月は提督を見上げる。一言二言言葉を交わし、ふたりはそのまますれ違う。すれ違ったところで皐月は一部始終を見ていたらしい文月の姿に気がつく。
「おはよう、文月!」
「おはよう皐月……皐月はすごいね~」
「ん?」
「だって司令官に『かわいい』とか言っちゃうんだもん」
何がそんなにすごいのか今一つ分からず皐月は文月に問いかける。
「そんなに変なことかな?」
「変というか……」
「だって司令官はいつも一生懸命でかわいいじゃん!ボクも、応援したくなっちゃうよ」
へらっと笑って首を傾けそんな台詞を口にする皐月に、文月はある種尊敬にも似た感覚を覚えるのであった。
鎮守府の一角、大樹の並ぶ並木道がある。この季節、少し日差しを避けたい気分の時はここの木陰はありがたい。木漏れ日を肩に躍らせながら文月は書類を片手に並木道を歩く。
「おーい、文月―」
聞き慣れた皐月の声、その声の出所を探して文月はきょろきょろと辺りを見回す。
「こっちこっちー」
声は頭上から届いてくる。顔を上げ、文月は大樹の一本の枝の上に皐月の姿を認める。
幹に手を当てて身体を支え、太い枝に立つ皐月は首を思いっきり逸らさないと見えないほど高い位置にいる。ちょっとひやっとして文月は皐月に声を向ける。
「皐月~、危ないよ~」
「へーき、へーき!文月も登っておいでよ、気持ちいいよ!」
「え~」
どうしたものかわからない文月の後ろから長身の人影が近づいてくる。人影の方を見て文月はその正体を悟る。
「あ、司令官……」
「なにやってんだ皐月は、しょうがないな」
呆れたような顔で皐月を見上げ、提督は皐月に向かい声をあげる。
「皐月ー、降りてきた方がいいぞー」
「司令官も怖いの?へへっ、かわいいね!」
「いや、そーじゃなくてな。そんなに高いところに立っていたらスカートの中がここから……」
提督の言葉に皐月は一瞬ぼへらっとした顔をするが、すぐに気がついて真っ赤な顔でスカートの裾を両手でばっと抑える。枝に立った姿勢で幹から手を離したのだからたまらない。ずりっと足を滑らせて皐月は枝から真っ逆さまに背中を地面に向けて落っこちる。
「わっ!」
大砲の直撃弾を食らうのとどっちが痛いだろ、と考え衝撃に備えて身を固くする。しかし目を固く閉じる皐月を捉えたのは、優しく自分を包み込む感触だった。
「あっぶね、危機一髪……」
その声に目を開くと視界に映ったのは冷や汗をかく提督のアップ。自分が提督に抱き留められていることをようやく皐月は悟った。
「ふ、わ……」
自分を支える逞しい腕の感触、身体に感じる提督の厚い胸板。男の人だ、と急に意識が膨れ上がり皐月は鼓動をばくばくと早める。ゆっくりと提督が皐月を地上に戻すとき、足元がふわふわと揺れる感覚を覚える。心ここにあらずの皐月が地面に立つと文月が駆け寄ってくる。
「うわ~ん、皐月、よかったよぅ~」
「あ、うん……ごめん、びっくりさせて……」
ぼんやりと皐月が視線を巡らせると、提督はもうこちらに背中を向けて離れていくところだった。
その翌日の朝ごはんの時間、駆逐艦寮の食堂のテーブルに向かい合わせについていた文月が皐月に問いかける。
「皐月、どうしたの?ぼ~っとして」
「え?」
「お箸が止まってるよ?」
言われてようやく自分がぼんやりしていたことに気がつく。昨日からずっとこんな調子だ。お陰で昨晩はお風呂でのぼせかけた。箸を刺したままの鮭の切り身をほぐす動きを再開させながら皐月はまたも想念に沈む。
司令官の腕、太かったな……
司令官の胸、広かったな……
油断すると提督の顔が頭をちらつく。その現象になんと名前がついているか、知っているようで、でも自覚するのが怖くて、皐月は鮭のかけらを口の中に押し込んだ。
岸壁を皐月はひとり歩く。頭を少し伏せ気味に、頼りない足取りで。気がつくと心を占めている提督の面影に振り回されている気がしながら岸壁を皐月はひとり歩く。
海の方を向いて立ち止まる。髪を靡かせる海風が、少し頭をすっきりさせてくれる。もう、皐月にも分かっていた。自分が、提督を意識していることを。異性として、提督を意識していることを。
「どうすればいいんだろう……」
多分、この気持ちはずっと前から。提督のことを「かわいい人」と思っていたその頃から。それでもいきなり噴き出したようなこの想いをどうすればいいかわからない。
「皐月」
背中から声をかけられてびくっとする。振り返り、そこに提督の姿を認める。純白の海軍将校制服、見慣れたはずのその姿が今日はやけに眩しい。
「自由時間か?通りがかったら姿が見えたものだから……」
穏やかに微笑み近づいてくる提督に、なぜか怖さにも似た感覚を覚える。思わず皐月は後ずさる―――自分が海際に立っていたことも忘れて。
「わ!」
「危ね!」
バランスを崩して海面に落ちるその一瞬前、提督の手が皐月の腕を掴む。そのまま提督は皐月の小さな身体を自分の胸元に引っ張り寄せる。
「あっぶね……またも危機一髪」
提督に抱きすくめられる格好になった皐月の心臓が張り裂けそうなほどに激しく脈打つ。提督の胸板に両手を当て、その厚みにどきどきしながら皐月は言葉失い提督の胸の中で立ち尽くす。
「あ、すまん。思わず」
皐月を抱きしめていることに気がつき提督が気まずそうに身を離そうとする。その瞬間、皐月は提督にすがりつく。
「……皐月?」
「かわいい人だと思ってた……」
夢の中のような声を出し、皐月は顔を提督の胸に埋めて呟き漏らす。
「でも、男の人なんだね……それに気がつくのが怖かった……」
ひとつしゃくりあげ、皐月は小さく、しかしはっきりと呟く。
「自分の気持ちにも、気がついてしまうから」
それっきり、皐月はすすり泣く。その皐月をもう一度提督は抱きしめ直す。さっきよりも、静かに。さっきよりも、優しく。
「俺は、自分の気持ちにずっと前から気がついてたよ」
皐月の髪を撫ぜながら提督は皐月に囁く。
「皐月のことが、好きなんだって」
提督の胸の中で皐月が目を見開く。新たな涙が、皐月の瞳を潤ませる。提督を全身に感じながら、皐月は今この瞬間に酔う。
「司令官、ちょっと力が強い、痛い……」
「がまんしてくれ。力いっぱい皐月を味わってみたいんだ」
「……司令官がそんなことを言うなんて」
提督としての仮面を外した男の人の素直な欲求、その欲求に身を捧げながら皐月は笑う。
「かわいいね、司令官は」
皐月もかわいいよ、とは司令官は返さなかった。言葉の代わりに、皐月を抱きしめる腕に力を籠めた。全身で愛おしい人の体温を感じる。全身で愛おしい人の存在を感じる。
全身で、かわいい人の温かさを感じる。
了