午後の提督執務室、少女の凛とした声が響く。
「以上で、演習報告を終わります」
顔を報告書から上げた瞬間、少女の緩くまとめたおさげが揺れる。今しがた演習報告を終えた朝潮型駆逐艦八番艦・峯雲に提督は「ご苦労」と軽く声をかける。その厳しい表情を和らげ、提督は机の引き出しを開けながら言う。
「峯雲、ハードな演習で疲れただろう。甘いものでもどうだ?」
言いながら提督は引き出しから取り出した板チョコを峯雲に差し出す。意外そうに峯雲は目を見開くが、おずおずとその手を差し出す。
「ありがとう、ございます」
板チョコを受け取った瞬間指が触れ合った気がして、峯雲は胸を少し高鳴らせた。
寮の部屋に戻ってベッドに腰かける。提督のくれた板チョコを見つめる。包みの端に両手の指をかけて開封しようとする。その姿勢のまま峯雲はしばらく動きを止めていたが、やがて指を板チョコの包みから離し持ち直すと部屋を離れた。
寮の自由に使える共同台所、その一角に共用の冷蔵庫がある。冷蔵庫に備え付けの付箋に自分の名前を書いて貼り、峯雲は板チョコをそっと冷蔵庫の奥に仕舞った。
それからしばらく日々が流れたのち、峯雲は寮の廊下を村雨と歩く。
「峯雲ちゃん、冷蔵庫の中のチョコレートあなたのだよね?ずいぶん長い間あるみたいだけどそろそろ処分しないと粉吹いちゃうよ?」
「あ、えっと……」
村雨の言葉に顔を伏せる。顔を赤らめ存外素直に峯雲は応える。
「あれは、提督さんに貰ったものなので……」
その言葉に村雨は目をぱちくりさせる。その表情が意味ありげな笑みにとって代わる。
「ふ~ん、そうですかあ~。それはもったいなくて食べられないわね~」
「そ、そういうことじゃ……そうなんです」
最後の方は消え入りそうな声で峯雲は呟く。なんの変哲もない板チョコがくれた人によって宝物になる感覚、その乙女心に触れて村雨は胸がくすぐったくなる。ますます顔を真っ赤にして俯いてしまう峯雲を村雨は優しい顔で見守る。
廊下の向こう、共同台所の方角から卯月が歩いてくる。笑顔で、板チョコをほおばりながら。その表情が峯雲と村雨を認めた瞬間ぎょっとした表情になる。
叢雲たちも足を止める。叢雲の視線が卯月の持つ齧りかけの板チョコに向けられる。愕然として、峯雲は掠れた声を出す。
「そのチョコ、まさか……」
「あ、あはは~。みつかっちゃったっぴょん」
額に汗を浮かべ卯月は固い笑顔を作る。
「しょ、しょうがないっぴょん。うーちゃんがちょうどチョコの気分だった時に冷蔵庫におあつらえ向きにチョコがあったんだぴょん。でも見つかっちゃったのはしょうがない、新しいの買って……」
乾いた音が響いた。頬を張られた卯月の顔が、かしいだ。あまりのことに卯月と場にいた村雨も硬直するが、一瞬のち卯月が峯雲に食ってかかる。
「な、なにするっぴょん!チョコくらいで……」
言いかけた卯月の言葉を止めたのは峯雲の涙。卯月の頬を張った手は振り抜いた姿勢のままで、きっと歯を食いしばり卯月を睨むその瞳から峯雲は涙溢れさせる。
「そ、そんなにこのチョコ好きなんだっぴょん?わかった、二枚買ってくるから……」
おろおろと峯雲のことをうかがう卯月と隣でやるせない表情をする村雨に見つめられながら峯雲は泣き顔を手で覆った。廊下の向こうから、寮監の女性が走ってくる足音が聞こえた。
それから間もなく、提督執務室に峯雲の姿があった。
「寮監から話は聞いた」
「はい」
目を閉じ、両手を身体の前で合わせ峯雲は提督の前に立つ。その峯雲の観念したような様子を提督はしばらく見つめていたが、やがて口を開く。
「板チョコが事の発端だそうだな」
「はい」
「なぜだ?チョコ一枚くらいで、暴力をふるうお前じゃないだろう」
提督の問いかけに峯雲は無言を貫く。本当の理由なんて、言えるはずもない。
そのまま、無言の時が流れる。柱時計の針の音がコチコチと部屋に響く。
やがて、沈黙に耐え切れなくなった峯雲がぽつりと呟く。
「提督さんが……」
「ん?」
「提督さんがくれた、チョコだったから……」
それきり叢雲は唇を噛んで下を向いてしまう。言葉より、峯雲の真っ赤に染まった顔が、閉じた瞼に浮かんだ涙が、峯雲の想いを提督に伝える。泣き出しそうな峯雲の様子を提督は黙って見つめていたが、椅子から腰を上げると机を回り込み峯雲の横に立つ。
「そうか、俺から貰ったチョコがそんなに大事だったか」
「…………」
「だったら、チョコよりいいものをやるよ」
その言葉に峯雲が目を開く。不思議そうに自分を見上げる峯雲に提督は微笑んで一言告げる。
「俺を、やるよ」
言葉が、峯雲の胸で広がる。瞳から一筋涙零す峯雲に向けて提督はもう一度、言葉差し出す。
「俺のことを、峯雲にやるよ。受け取ってもらえるかな?」
必死で何度も頷く。何か言葉を返そうとして、言葉が詰まる。しゃくりあげる峯雲を提督はそっと自分の胸に誘う。
優しく、峯雲は抱きしめられる。チョコレートのように甘い感覚が、峯雲の胸を満たす。
了
村雨