身体を納める枠がかしいだ感覚があった。強いめまいを覚えて提督は廊下の壁に手をついた。後ろから秘書艦の小さな悲鳴が聞こえる。
「提督!」
秘書艦の三隈が提督に駆け寄る。三隈が手を伸ばしてくるのを提督は片手で制する。
「ああ……大丈夫だ」
姿勢を直す提督を心配そうな顔で見上げ三隈は提督に問いかける。
「提督、お疲れなのでは?昨夜も遅くまでお仕事をされていたようですし」
言葉の代わりに提督は微笑を三隈に返す。そのまま何もなかったかのように廊下を再び歩く提督の後ろを追いながら、三隈の眉はひそめられたままだった。
提督執務室に二本のペンの走る音だけが響く。時刻は既にフタマルサンマル、ペンを走らせる手先は止めぬまま提督は自分の机に直角に自分のより少し小ぶりな机を置く三隈に話しかける。
「三隈、もうあがっていいぞ。続きは明日頼む」
いつもならここで三隈はぺこりとお辞儀をして執務室をお暇する。しかしその夜は三隈は提督に向かい言葉向ける。
「いえ、今夜は最後までおつきあいいたします」
昼間、めまいを起こして倒れかけた提督。その提督が激務なことは知っている。しかしいつも先に執務室をあがるので実際どのくらい提督が忙しいのか三隈は知らない。それを知りたいと思う。
「遅くなるぞ。あがれるうちにあがった方が……」
「いえ」
言い出すと頑固な三隈、提督もそれ以上何か言うことを諦める。ひとつ息をつき提督は三隈の好きにさせることに決めた。
時計の針がてっぺんを回った。時刻マルマルサンマル、ようやく提督はペンを置く。
「ひと区切りついたな。今日はここまでにしよう」
「はい……」
明らかに疲労した声でお返事を返しながら三隈は驚く。こんな時間まで提督はお仕事をしているのか、と。今夜はたまたまかもしれないが、明日もお仕事があることを考えるとひと晩でも辛い。提督の激務の一端に触れた気がしながら三隈は重い身体を椅子から起こした。
翌日、時刻はフタマルサンマル。提督執務室に提督のいつも通りの声が通る。
「三隈、そろそろあがりなさい」
「いえ……最後までおつきあいいたします」
「二日連続は辛いだろう。無理するな」
「無理をされているのは、提督もです」
書類から目を上げぬまま三隈はきっぱりと返す。肩を竦めて提督は三隈の好きにさせることにした。
そんな日々が何日か続く。その間、提督がその日のうちに私室に戻ったことはない。聞けば大規模作戦前などの繁忙期には徹夜もあるとの話も三隈の耳に入る。
提督が鍛えられた軍人であることを改めて思い知らされる。艤装を纏っていなければ三隈たち艦娘の身体能力は年相応の少女たちのそれに過ぎない。その少女の身体で提督のお仕事に連日付き合うのは正直キツい。
でも、だからこそ、自分は提督にとことん付き合わなければならないと三隈は思い定める。もう目の前で提督が倒れそうになるなどということのないように。
深夜仕事が続いて何日目になるだろう、書類を繰る手を止めて三隈は額にその細い指を当てる。軽く頭を振ったところで提督が大判の封筒を手に椅子から立ち上がる。
「提督、どちらへ?」
「ああ、この書類を主計課に届けてくる」
「そんなことでしたら三隈が……」
書類を届けついでに他部門の様子も見たかった提督だが、そう言われると断りづらい。「すまないな」と一言告げ提督は三隈に封筒を渡す。重い身体を大儀そうに椅子から起こし、少し ふらつく足取りで執務室を後にする三隈の背中を、提督は何か考えるように見送った。
主計課で顔色の悪さを担当官に心配された。なんとか笑みを作ってその場をごまかした。お使いを終え、三隈は主計課の居室を離れ廊下を歩く。
突然、足元が砂になるような感覚を覚えた。あっと思う間もなく膝が崩れた。遠ざかる意識の中で廊下に倒れこむ自分を三隈は感じた。
後ろから腕を掴まれた。その力に支えられ、三隈はかろうじて床との激突を避けた。ぼんやりと首を振り向かせ、三隈はそこに提督の姿を認める。
「提督……?なぜ、ここへ……?」
「説明は後だ」
言いながら提督は三隈を胸元に抱え上げる。提督の腕の中で身を丸めながら三隈は羞恥を覚えるとともに、大きな安心感をも感じていた。
目が覚めると、医務室のベッドの上だった。ゆっくりと身を起こし、隣にパイプ椅子を置いて座る提督に目を向ける。
「提督……なぜあの場所に?」
先ほどした質問、その質問に提督は簡潔に応える。
「執務室を出ていく三隈の様子を見て、限界だと思ったのでな」
「……申し訳ございません」
うなだれる三隈に提督は穏やかな声向ける。
「いや、詫びなければならないのは俺の方だ。無理をさせ過ぎた」
無理を言ったのは自分の方なのに、わがままを言って提督の言葉に逆らい、挙句身体を壊したのは自分の方なのに、なぜこの人はそんな言葉をくれるのだろう。
そんな人だから私は……と三隈は想う。
そう、三隈は提督に恋をしていた。もう随分前から恋をしていた。だから、秘書艦になれた時とても嬉しかった。全力で提督を支えようと思った。
だから、目の前で提督が倒れそうになったときはショックだった。自分の支えが至らなかったからだと思った。もうこんなことがないように、今まで以上に力を尽くして提督を支えようと思った。
それなのに……と、悔しくなる。目尻に思わず涙が浮かぶ。その三隈のことを提督はしばらく無言で見つめていたが、やがて穏やかな声を向ける。
「なぜ、そこまで無理をする?」
言えない。言う勇気がない。あなたのことが好きだから、だなんて。あなたに無理してほしくないから、だなんて。
唇を噛んで言葉を封ずる三隈の横顔を提督は見守る。しかし、それ以上待っても三隈から返事が来ないと悟ると、提督はひとつ息をつき語りだす。
「俺は、三隈に無理をしてほしくない」
その言葉にも三隈は横顔を向けたまま。その三隈に向けて提督は更に言葉差し出す。
「好きな子が、無理をしているのを見ているのは辛い」
三隈の瞳が見開かれる。その顔が、ゆっくりと提督に向けられる。提督の瞳を見据えながら自らの瞳潤ませ三隈は言葉紡ぐ。
「三隈も……好きな人が、提督が無理をしているを見ているのは辛いです」
そうか、と提督が簡単に応える。提督の掌が三隈の頬を包む。その温かさ感じながら三隈は涙声提督に向ける。
「無理しないでください……ご自身を、大事にしてください。お願いします」
「三隈もな」
もっと、自分を大事にしよう。自分を想ってくれている人のため。もっともっと、この人を大事にしよう。自分の想いの告げるままに。
窓から、紅い陽が差し込んだ。時刻は、いつのまにか夕方だった。
了