提督執務室のソファの上でおさげの少女がうつぶせに身体を伸ばしハードカバーに目を落としている。足をぶらぶらさせながらハードカバーを読みふける北上に執務中の提督が書類に目を落としたまま何とはなしに声をかける。
「北上はよくここにいるな」
「そう?そーかもねー。なーんか居心地よくってねー」
「そりゃ光栄だな」
「勘違いしないように。居心地がいいのは提督のそばじゃなくて執務室」
「へいへい」
書類に目を落としたまま苦笑する提督を北上はちらりと盗み見する。そんなことを言ってみたものの本心は提督のそばにいたいから。提督のことが、好きだから。
それでも、その想いは言葉となって北上から放たれることはない。勇気がなくて、思い切りができなくて、そして―――
「あ、北上さん、やっぱりここにいた。そろそろ遅くなりますよ」
「はーい」
ノックもなしに扉を開けて隙間から顔をのぞかせる大井に北上は生返事返して身を起こす。提督に告白できないのは、この人の想いを知っているから。自分に向けられるその想いを、無下にすることなどできないから。
「じゃあねー、提督」
背中越しに手をひらひらと振って北上は執務室を離れた。
鎮守府本館の廊下を北上の一歩前を歩きながら、大井は背中越しに声を投げる。
「北上さん、よく提督執務室にいますよね」
どきっとするが「そう?」となんでもないかのようにお返事する。しかし続く大井の言葉はそれこそ北上の心臓をお月さまの高さまで跳ね上げた。
「告白、しないんですか?」
足を止め、上がる鼓動の衝撃に耐える。そんな北上に向かい大井は振り向く。なにかを湛えるその瞳見つめ北上は震える声を出す。
「そ、そんな私は別に……」
「バレバレですよ」
「……大井っちは、それでいいの?」
不安げに瞳震わせ北上は問う。何を考えているのかわからない顔をしばらく大井はしていたが、身体を北上の方に振り向かせると言い聞かせるように北上に説く。
「いいですか?北上さんが誰を好きになろうと、誰と結ばれようと私の北上さんに対する愛は変わりません。北上さんが幸せになることこそが、私の幸せなんです」
大井の言葉に圧倒され、北上は声を失う。その北上の瞳覗き込み、大井は念を押すように問う。
「北上さんは、どうしたいんですか?]
翌日、夜も更けた提督執務室。指定席になっているソファの上でうつぶせになった北上はハードカバーに目を落とす。でも、ハードカバーの内容は全然頭に入ってこない。ちらちら提督をうかがう仕草が止められない。
「どうした?ちらちらこちらを見て」
「え!?あ、その、なんというか……」
書類に目を落としながらも北上の視線には気がついていたらしい提督のツッコミに北上は大げさに動揺する。しばらく逡巡したのちソファから身体を起こし北上は提督の前に歩み寄る。
「あのさー……提督、あのさー」
「ん?」
机越しに優しく自分を見上げてくる提督を見つめ返し、ふと北上は思う。
自分は、本当にこの人を愛せているだろうか。
大井のように、この人の幸せだけを願えているだろうか。
この人に告白して恋人になりたい、それは自分のことしか考えていないひどく自分本位な想いなのではないだろうか。本当に、この人のことを自分は想えているだろうか。
「……なんでもない」
「そうか」
その一言を合図に提督は再び書類に目を落とす。その姿を見つめながら自分がひどく自分勝手な存在のような気がして、北上はすんと鼻を鳴らした。
巡洋艦寮の自室のベッドに座り込み、北上はひとり思いに沈む。大井のようになりたくて。大井のようになれなくて。
部屋の扉ががちゃりと開かれ、風呂から帰ってきたところだろう濡れた髪の大井が姿を見せる。
「あら?北上さん、今日はもうお戻りだったんですか?」
言いながら大井は北上の隣に腰を下ろす。柑橘系の香りが大井から香る。シャンプーや石鹸、タオルなどを入れた洗面器を抱えたまま、大井はさりげない口調で北上に問う。
「告白、できたんですか?」
俯き、北上は小さく呟く。
「できなかった」
ますます顔を俯かせながら北上は微かに震える声を漏らす。
「私は、大井っちみたいにはなれないなあって……相手の幸せだけを、願えないなあって。自分も幸せになりたくて、そんな私が提督に告白なんてできなくて……」
見たことのない北上の様子をしばらく大井はうかがっていたが、やがて一言口にする。
「北上さんって意外と」
北上に向けたことのない口調で大井は言い放つ。
「ヘタレですね」
言葉の内容より、それを大井に言われたことの方がショックだった。どきっと心臓がひとつ跳ねた。驚いたように自分の方に顔を向ける北上を見つめながら大井は一言一言言い聞かせるように口にする。
「いいですか?北上さんのそれは”恋”で私のは”愛”です。恋を経ずして愛にはたどり着けません。私のようにはなれないと北上さんは言いますが、北上さんはまずその前段階にも達していません」
「よくわかんないんだけど……」
「わからなくていいです。今は、北上さんがどうしたいかです」
ずいっと顔を北上に寄せ、北上の瞳を覗き込み、大井は問う。
「もう一度訊きます。北上さんは、どうしたいんですか?」
それからまもなく、提督執務室に北上の姿があった。
「どうした北上、忘れ物か?」
机の向こうから優しい声をかけてくる提督につかつかと北上は近づいていく。机越しに提督を見つめ北上は提督に向け口を開く。
「提督」
怯懦、逡巡、それら全てを振り払い北上はただ一言提督に告げる。
「私、提督が好き」
柔らかな日差しが、鎮守府中庭を照らす。昨夜結ばれたばかりの恋人たちが、その中を歩く。北上に歩幅を合わせるように提督はゆっくりと北上の隣を進む。そのふたつの背中を遠くから見つめる大井の姿。
「おめでとう、北上さん」
その瞳に、微かに光るものがあった。
了