距離感という言葉がある。ふたりの人間の心理的なへだたりの度合いを表す言葉だ。その意味で言えば、この艦娘の提督に対する距離感は、近い。
「提督―!差し入れ持ってきたわよー!一緒に食べましょ?」
「おお、ゴトランド。いつもすまないな」
「改まらなくていいわよ、ゴトと提督の仲でしょ?」
ニコニコ笑いながら小さな紙袋片手に提督執務室に現れるゴトランドを提督は歓待する。
「美味しいクッキーが手に入ったの。この間の百貨店の名産品展でね」
「それは楽しみだな。コーヒーを淹れよう」
「あ、このクッキーには紅茶の方がいいな」
「はは、了解」
提督が執務机から立ち戸棚に向かうのを見ながら、ゴトランドはソファの前の背の低いテーブルに紙袋を置く。カップを用意する提督の隣に立ち白いお皿を取り出すゴトランドに提督は声を向ける。
「いやしかし、ゴトランドの顔を見るとなんだか安心するな」
「そう?」
なにげなく応えて見せるが心臓がひとつ跳ね上がる。想い人にそんなことを言われて、嬉しくない女性はいない。
「なんだか、幼馴染みと一緒にいるみたいだ。俺は親が転勤族だったから本当の幼馴染みはいないけれどな」
「あら、嬉しいこと言ってくれるわね」
また鼓動が跳ね上がる。幼馴染み―――今はそれでいい。いつか、そう遠くないうちに、きっと提督の恋人になるんだから―――ゴトランドは密かに決心新たにするのであった。
鎮守府本館からほど近い鎮守府厚生棟、艦娘や軍人の憩いの場となっているその場所でゴトランドは今日の逢瀬を反芻する。白い丸テーブルに肘をつき顎を手に乗せ、思わず笑顔が浮かぶのも構わずにゴトランドは考えを巡らせる。
幼馴染み、そう言われた。きっと、自分が一番提督にとって距離の近い艦娘、いや一番距離の近い女性だ。この位置を保っていればそのうち―――
「幼馴染みって、なんで負けヒロインになりがちなのかな」
突然聞こえたその声に、ドキリと心臓が鼓動を打つ。声の方角に目を向けて、そこに自分と同じように丸テーブルにつきどうやら少女漫画の単行本らしきものを読みふける風雲の姿に気が付く。ゴトランドに凝視されていることには気が付かないまま、風雲の前に座る秋雲がもったいぶったように腕を組んで講釈垂れる。
「そりゃー距離が近すぎるからよ。異性としてじゃなく、家族としてみられちゃうんだよね」
「ふーん、そんなもんかな」
「恋人になるには、適度な距離のある相手の方がいいんだって」
言葉がいちいち突き刺さる。心臓が嫌な音を立てている。自分の置かれた立場を知らされて、それでもそのことにどうすることもできずに、ゴトランドはきゅっと拳を握った。
寮の自分の部屋に戻りながら、歩きスマホで検索をかける。スマホの小さな画面を見つめていたから、前から来た艦娘の姿に気が付かなかった。
「ゴトランド、危ないわよ」
「うにゃあ!?」
突然声をかけられて大げさに驚いてスマホを取り落とす。手を伸ばすより先に声をかけた由良がスマホを取り上げる。見るともなく画面を見てしまうと、目に入ったのは検索サイトの入力欄に入力された文字。
『男の人 距離の取り方』
真っ赤な顔で身をすぼめるゴトランドの前で由良は画面を見つめ直し呟いた。
「……なにこれ?」
ゴトランドの部屋に招かれ由良は一部始終を聞く。提督に、幼馴染みのようだと言われたこと。でもどうやら、幼馴染みは負けヒロインであること。
「ふーん……」
ベッドの上に並んで腰かけ、身を小さくするゴトランドの横で由良は視線だけゴトランドに向けて諭すように言う。
「あまり、考えすぎない方がいいんじゃない?男女の仲にあまり駆け引きみたいなものを持ち込むとうまく行かないわよ?」
「でもこのままじゃゴト負けヒロインになっちゃう!」
小さく叫ぶゴトランドの姿に由良は肩をすくませる。とりあえず何を言っても無駄なようだと気がつくと、由良は言葉の代わりに手のひらをポンとゴトランドの頭に置いた。
その日を境にゴトランドの提督執務室詣では止んだ。
一週間の時が過ぎた。その間、提督の顔を一度も見ることはなかった。寂しさは馴染んでくれることはなく、むしろ日が経つごとに会いたさが募っていく。
鎮守府本館の中庭を俯いてゴトランドは歩く。提督に会わなくなった分空いた時間を持て余しながら。ふと、顔を上げると遠くに今まさに会いたいと思っていた人の後ろ姿が目に映る。
もう頃合いだろう、そう思って走り寄ろうとする。その瞬間、足が止まる。
声って、どうかけるんだっけ?
近づくって、どうやるんだっけ?
わからない。わからなくなってしまった。あんなに自然にできていたことが、意識すればするほど、できなくなってしまっていた。
脚が竦む。身体が震える。縋るように提督の背中を見つめ、それでもどうすればいいのかわからなくて、ゴトランドは踵を返してその場を走り去った。
建物の角を曲がりちょうど影になる場所で立ち止まる。顔を覆い、すすり泣く。
由良の言っていた通りだ。小賢しいことを考えた、これは罰だ。今まであったものを大切にせずに、結果今まであったものまで失った。下手な駆け引きを挑んで、見事にしっぺ返しを食らった。
もう一度、あの場所に帰りたい。もう一度―――
「ゴトランド?」
聞き慣れた、聞きたくてたまらなかったその声に弾かれたように振り向く。果たしてそこにいたのは、あれだけその姿を熱望した提督その人。
「泣いているのか?」
「あ……」
慌てて涙を拭う。まだ何を言っていいのかわからないゴトランドに提督は静かな声向ける。
「なにか、あったのか?」
「あ、気にしないで……たいしたことじゃないから」
「そうか……それならいいが。なにかあったなら、言ってくれよな?」
そこで一度提督は言葉を切り、今度は少したどたどしくほんの少し言い辛そうに口にする。
「ゴトランドが泣いていると、俺も辛い」
ゴトランドを見つめ、提督は今度ははっきりと告げる。
「ゴトランドの顔が見られなくて、辛かった」
その言葉が、真っ赤に染まった提督の引き締めた表情が、ゴトランドの言葉を溶かした。しゃくりあげながらゴトランドは必死に提督に言葉向ける。
「ゴトも……提督の顔が見られなくて寂しかった!」
その言葉に提督の表情が緩む。ゴトランドに提督は微笑み向ける。
「また、俺の近くにいてくれるか?……俺の、一番近くに」
「はい……はい!」
「好きだ、ゴトランド」
返事をしなくちゃ、そう思うのに言葉が喉につかえて出てきてくれない。だから、ゴトランドは身体で示す。その華奢な身体を、ぶつけるように提督に投げ出し、提督の胸に収まる。
そっと、提督の腕がゴトランドを包む。その温かさ感じながらゴトランドはこの場所を離さないと誓う。
ずっと、この人の、一番、近くで。
了