第一戦隊の旗艦・大和が作戦報告を終えて提督執務室を離れた直後、その執務室にひとりの駆逐艦娘が駆け込んできた。
「しれえ!雪風も戻りました!雪風頑張りました!」
えへへ、と笑顔を浮かべて提督机の真ん前まで走ってくる雪風に提督は立ち上がって机越しに手を伸ばすと雪風の前髪のあたりを撫ぜる。
「お疲れさん。大和にも聞いたよ。よく頑張ったな、雪風」
「えへへ、雪風、今度も頑張りますね!」
提督に撫ぜられて本当に嬉しそうな顔をしながら雪風は身体をきゅっと縮めて目を閉じた。
それから何日か後、演習を終えた雪風が提督執務室に駆け込んでくる。
「しれえ!雪風、また練度あがりました!これからもますます頑張っちゃいます!」
そうか、と笑顔浮かべながら提督は雪風に応え立ち上がって机越しに雪風の前髪のあたりを撫ぜる。気持ちよさそうにしながら雪風は「えへへ」と小さな声上げた。
それから何日か後、仕事中のその時間に雪風が提督執務室に駆け込んでくる。頭の上に両手で持った市販品の板チョコを掲げながら。
「しれえ!チョコあげます!買ってきたチョコです!きっと美味しいと思います!」
はいどうぞ、と両手でチョコを差し伸べて満開の笑顔浮かべる雪風のあどけない姿に提督の顔もほころぶ。「ありがとう」と一言告げて提督は雪風からチョコを受け取る。そのまま立ち上がって机越しに手を伸ばし提督は雪風の前髪のあたりを撫ぜる。くふっ、と小さな声上げて雪風は柔らかな感触堪能した。
雪風が去ったあとの提督執務室で提督は肘の上に顎を乗せ、「う~ん」とひとり考え事に耽る。
雪風に慕われている、それは明らかにわかる。正直言って悪い気はしない。しかし雪風は艦娘、自分の部下であり人類の希望たる護国の乙女だ。おいそれと手を出していい存在ではない。それに雪風はなんといっても幼すぎる。もう20代も中盤に差し掛かった自分にとっては、見かけ13歳程度の雪風はいくら美少女とはいえ恋愛対象にするには少しばかりならず問題があるような気がする。
「それとなく、伝えるか…」
はあ、とため息ひとつつき提督は少しばかり気が重くなるのを感じていた。
台風が鎮守府のある地域を襲っていた。海も荒れ放題に荒れ、全艦娘は出撃演習を控え艦娘寮の自分の部屋に待機していた。鎮守府の他の要員も前泊した最小限の人員を除いて自宅待機となったその日、鎮守府に寝泊まりしているため否が応でも出勤せざるをえない提督は秘書艦の大淀も自室待機なのでひとり執務机に向かっていた。
遠慮がちに重い扉を開ける音、その音に提督が怪訝そうに顔をあげるとはたして雪風が扉越しにこちらを窺っていた。
「雪風?どうしたんだ、台風が来る前に艦娘には自分の部屋に戻るよう言っておいたはずだが」
「はい…えっと…」
キレの悪い返答とも呼べぬ呟きを返しながら雪風は手を後ろ手に一歩一歩執務室に入ってくる。この天気なら、艦娘がみな部屋に戻ってしまった今なら提督と執務室でふたりきり、その程度の企みは雪風もする。そんな雪風の思いどこまで気がついているのか、提督は書類に再び目を落とし目の前まで来た雪風に語りかける。
「この台風じゃ今から寮に向かうのも危ないからな、俺の私室にいるといい」
「えっと…」
「なんだ、ひとりだと台風が怖いか?はは、雪風もまだまだ子供だな」
それは何気なさを装った提督の意思を湛えた一言。自分と雪風を隔てる壁を端的に物語る言葉。その言葉に雪風はびくっと身を竦ませ胸に片手を当てて目を見開く。
強風が窓を叩く。窓枠がガタガタと激しく揺れる。ふと気配を感じ、提督が顔をあげると雪風は泣いていた。
決して声をあげず。ぽろぽろと涙だけを零して。ひたむきな想い、その瞳に宿して。
何を言っていいかわからずそれでも何かを言おうとする提督の前で雪風は身を翻し執務室を駆けだす。雪風のいなくなった執務室で、雪風の消えていった扉に思わず手を伸ばしながら、提督は小さく舌を打った。
台風一過の秋の晴天、その晴れ空の下を提督は歩く。開発工廠での明石と夕張の様子を確かめ、ぐるりと鎮守府を巡って昨日の台風の被害が大したことないのを確かめながら提督は本館提督執務室への帰路を歩く。と、建物の間の中庭で提督は雪風を見つけた。
「雪風、」
「しれえ…」
ベンチに座って足元を見つめていた雪風が提督の声に顔を上げる。昨日泣かせてしまった相手、その相手に流石に気まずさを覚えながらそれでも提督はベンチの雪風に近づく。雪風の目の前に立ちその小さな姿を見下ろすと雪風は提督から目を逸らすように顔を伏せる。
「昨日は泣かせてしまって悪かったな…やっぱり、台風が怖かったのか?」
「いえ…」
雪風の顔を伏せたままでの否定の呟きを聞かなくても、提督にもそんなことが理由ではないことくらいわかる。それでも、どこかで雪風とは一線を引かなければならなかった。たとえ、そうすることが予想していたより遥かに提督の胸に喪失感をもたらしていたとしても。
ぽたり、と雪風の膝に水滴が落ち白いワンピーススカートに小さな染みを作る。思わず怯む提督の耳に雪風の消えそうな呟きが届く。
「これは…」
しゃくりあげながら雪風は呟きを続ける。
「…昨日と同じ、涙です」
勢いよく雪風は顔をあげる。溢れる涙隠そうともせず、濡れた瞳を真っ直ぐに提督に向けながら。涙とともに溢れる想い、雪風は正面から提督にぶつける。
「しれえ、雪風は子供ですか?雪風じゃ、ダメですか!?雪風は、提督から女の子としては見てもらえませんか!?」
言葉は思いもかけず激しく提督を穿つ。思わず提督は身じろぎし、一歩後ろに後ずさる。その提督瞳の力で留めおこうとするかのように雪風は提督を見つめ続ける。
台風の残した風が一陣中庭を吹き抜ける。風音の後、世界は一瞬沈黙する。そのまま何秒過ぎたか、提督は突然声を上げて頭を掻きむしる。
「あークソ!」
雪風はいきなり腕を引っ張られて提督に引き寄せられる。視界が白く染まり、全身を圧迫感が包み込む。圧迫感の正体が提督の腕と胸板だと知ったとき、提督に抱きしめられていると気がついたとき、目の前を白く染めるものが提督の純白の海軍制服だと悟る。
「あ、あの…しれ、え?」
「そんな目で見つめられて、そんな言葉言われて、自分を抑えられるワケがねえだろう!ダメじゃねえよ、ダメなんかじゃねえよ!雪風は間違いなく女の子だよ!」
提督の腕にますます力がこもる。息苦しくなるような抱擁の中、雪風はまだ事態の急変についていけてない。頭より先にどこか胸の奥が抱きしめられていることを知覚したときから雪風の鼓動がドクドクと早鐘を打ち顔が燃えそうなほど熱くなる。
そのまま幾ばくの時が過ぎただろう、提督は雪風を解放する。流石にこんな中庭の真ん中でいつまでも抱き合っていたらいつだれが通りがかるかもわからない。それでも名残惜しそうに雪風の両肩に手を置いたまま提督はさっきまでとはうって変わった静かな声で雪風に問う。
「すまない、つい興奮した…大丈夫か?」
「は、はい…雪風は、沈みません…」
ちぐはぐな返事をしながら雪風は足元見つめ息を整える。提督を上目遣いに見つめながら、雪風はおずおずと提督に問いかける。
「あの、しれえ…あの、雪風で本当にいいんですか?」
「雪風じゃなきゃ、ダメなんだ」
その言葉にぱあっと雪風の顔が華やぐ。雪風は、今度は自分から提督の胸に飛び込む。提督の逞しい腕が自分を受け止めるのを感じながら雪風は初恋が実った幸福感に酔う。
雪風の頬を伝う涙は、さっきまでのとは違って温かかった。
了