執務室にペンの走る音が重なる。提督の机の横に直角にもうちょっと小ぶりな机を配置して榛名は提督とともに書類を片付けてゆく。やがて柱時計が重い音を立て定時の訪れを告げる。
「榛名、もういいぞ。ご苦労だったな。」
「はい、お疲れ様です。」
ペンを動かす手を止めて自分をねぎらう提督に榛名は笑顔でお返事返す。そのままふたり無言になる。今日は、榛名の秘書艦勤務最後の日。
秘書艦を務める艦娘は定期的に交代することになっている。秘書艦の業務は激務なため艦娘への負担が大きいのと、それだけに艦娘の技能向上に大きく寄与する業務のため、より多くの艦娘が経験することが望ましいからだ。
だから、いずれこの日が来ることはわかっていて―――分かっていても、惜しむ気持ちがこみ上げること止められぬまま提督は傍らの榛名に語りかける。
「長い間、ありがとうな。」
「いえ、お役に立てたのなら榛名嬉しいです。」
「榛名には本当に世話になった。」
「ありがとうございます、提督。」
「たまには、ここにも顔を出せ。」
「はい。」
「…風邪、引くなよ。」
「はい。」
このまま会話を終わらせると何かが終わってしまいそうで、提督は言葉を探し目を泳がせる。しかしかける言葉もこれ以上見つからないまま、ふたりの時は終わりを告げる。これからも鎮守府で顔を合わせることなど何度でもあるだろうに、なにかふたりに避けがたい別れが訪れたような気がしながら提督は椅子から腰を上げる。
「じゃあ、ちょっと事務方に顔出してくるから…その間に、引き揚げろ。なにか、残ってる用事はあるか?」
「はい、榛名は大丈夫です。」
私物の片付けもあるだろうが、自分がいたのではやりづらいだろう。そう提督は結論付けると事務方の居室に向かうため執務室を出る。ぱたんと扉が閉まり提督が執務室から姿を消すと、榛名はひとり胸に手を当て目を閉じ寂しげに呟いた。
「榛名は、大丈夫です……。」
夜のとばりも降りた時間、榛名の去った執務室で提督はひとり机に向かう。この部屋、こんなに広かったかなと思いながら。ペン先の走る音以外物音のしない執務室に、突然黒電話のベルが鳴る。内線電話だな、それにしてもなんでこの鎮守府の備品はいちいち見かけが古臭いんだろうな、と思いながら提督は黒電話の受話器を取る。
「はい、提督執務室…ああ鳳翔さん?どうしました?」
空母娘の中でも一番の古株の鳳翔、電話は彼女の店からだった。一線を半分退いた格好の鳳翔は、鎮守府の片隅で小さな建物を借り居酒屋を営んでいる。提督も何度か顔を出したその店からの電話の内容に提督は顔色を変える。
「…榛名が?」
息せき切って赤ちょうちんを掲げる鳳翔の店に駆け付ける。がらり!と勢いをつけて引き戸を開け暖簾をくぐる。どうやら今日は客の少なかった日らしい、がらんとした店内で提督の視界に映ったのは徳利の何本も転がるテーブルと、そのテーブルに突っ伏して腕を枕に目覚める気配のない榛名。
いつもの榛名のイメージとは縁遠い光景に言葉をなくす提督の横で、鳳翔が恐れ入ったように説明する。
「珍しく、ひとりでいらして…途中、何度も止めたんですけどね。なんだか、今夜に限って聞かなくて…」
なにはともあれこのままじゃ埒が明かないと提督は榛名の突っ伏すテーブルに近づき榛名の腕を取り立ち上がらせようとする。しかし榛名はふにゃふにゃと身体を揺らすばかりで立ち上がれそうもない様子。仕方なしに提督は、榛名を抱え上げ背中に背負うと店を出る。
「とりあえず、勘定は俺のツケで…すまなかったですね、鳳翔さん。」
「いえいえ、提督さんもお気をつけて。」
鳳翔に見送られながら提督は榛名を背中に夜の鎮守府を歩き出した。
榛名の体温が背中に伝わる。榛名の芳香が鼻をくすぐる。落ち着かない気分で榛名を運びながら提督は知らず眉を寄せる。安全な鎮守府の中とはいえ、うら若い乙女が酔いつぶれるとは―――と、目を覚ましたらしい榛名が顔を上げて甘えた声を出す。
「あ、テイトクだ~あ…」
いつもの落ち着いた静かな佇まいの自分忘れたように榛名は横顔を提督の背中に擦り付け呟く。
「テートクぅ…榛名、秘書艦やめたくな~い…」
くすん、と鼻を鳴らしたかと思うと突然榛名は言葉を出せない提督の背中で「うえ~ん…」と泣き出す。ぴーぴー涙流しながら榛名は次々に駄々をこねる。
「榛名、秘書艦のままでいた~い、榛名、提督の傍にいた~い、榛名、提督とお仕事した~い、榛名、提督とお食事した~い…」
そこまで駄々をこねてこてん、と顔をまた提督の背中に埋め榛名は最後に目を閉じながら囁く。
「榛名、提督と離れたくなぁ~い…」
その言葉を最後にすーすーと安らかな寝息を榛名は立て始める。多分明日には記憶もないだろうな、と思いながら提督は榛名の深酒の理由思い知る。思っていたよりだいぶ軽い榛名の重み背中に感じながら提督は眉寄せ夜空に向けて呟く。
「俺だって、離したくねえよ…」
その呟きに答えるのは星々と背中の榛名の「むにゃ…」という寝息のみ。聞かれなくてよかったような、聞かれなくて残念なような、そんな気分の提督だった。
翌日、新任の秘書艦の那珂とともに今日も今日とて提督は書類仕事を進めてゆく。ふたり分のペンの走る音が執務室に流れる。どれだけ時間がたっただろうか、突然那珂が机に突っ伏すと大げさな声を上げる。
「あ~も~那珂ちゃん限界~!秘書艦のオシゴト、忙しすぎ~!書類、ありすぎ~!」
「叫んだって書類はなくならないぞ…顔を上げて手を動かせ。」
「やだやだやだ~!もう無理もう無理もう無理~!」
突っ伏したまま足をじたばたさせて机を両腕でぽこぽこ叩きながら那珂は駄々をこねる。さすがに一言言おうと提督が顔を向けると、那珂は悪戯っぽい表情で傍らの提督に提案した。
「これは、秘書艦の秘書艦が必要だね?」
数分後、那珂が連れてきた艦娘の姿に提督は言葉を失いわなわなと震える。
「那珂、確かに俺は手伝いを頼んでもいいと言った。いいと言ったが…。」
組んでいた指をほどき目の前に那珂と並んで所在なく立ち尽くす榛名を指差し、提督は中を一喝する。
「なんでよりによって榛名なんだ!?昨日まで榛名は秘書艦やってたばかりだろーが!」
「だからいーじゃん、慣れててー。」
悪びれもせずに言ってのける那珂の笑顔にまた言葉をなくす。へらへら笑う那珂の顔と困ったような榛名の顔を交互に見比べる。と、那珂が突然くるりと提督に背中を向けてそのまま執務室の扉の方に歩き出す。
「ちょっと待て、那珂!どこに行く!?」
「ライヴの練習~♪」
あまりにあまりなその答えに手を中の方に差し出したまま固まる提督の目の前で、那珂は扉を開けると足取りも軽く執務室から姿を消した。
執務室を出たところで那珂は姉妹艦の神通に出くわす。
「あら?那珂、なにニコニコしてるの?」
「ん?イイコトした後は気持ちいいなぁと思って。」
その意味不明な答えに神通は不思議そうな顔を向け、次に執務室の扉に目を転じて那珂に問う。
「秘書艦のお仕事、ほっぽらかしてていいの?」
「ああダイジョーブダイジョーブ、榛名ちゃん代わりに置いてきた♪」
那珂のご機嫌なその答えに神通はきょとんとした顔を那珂に向ける。やがて神通は困った人ね、といった笑顔を顔に浮かべると簡単に那珂に問う。
「…知ってたの?」
何を、と聞く代わりに笑顔浮かべ那珂はウインクするとピースサイン突き出し宣言する。
「アイドルの観察力と情報網、甘く見ちゃいけないよっ!」
那珂の出ていった扉に提督はしばらく手を差し伸べて硬直していたが、やがて食いしばった歯の間から苦し気な言葉漏らす。
「…せめてサボるにしたって“自主演習”とか言えよあの野郎…」
「あの~…」
気弱なその声に初めて気が付いた気がすると、提督は弾かれたように立ち上がる。机の前に立ち尽くす榛名に顔を向けたまま提督は机を回り込み、榛名の目前に立ち尽くす。言葉を探して、それでも見つからない提督の前で榛名は瞳を伏せ遠慮がちに問いかける。
「提督、榛名、どうしたらよいでしょう?」
「あ、あ~…秘書艦が逃亡したのでな、しょうがないから代わりやってくれ。」
その言葉に榛名は顔を上げる。帽子のつばに手を当てて気まずそうな表情見せ眼を合わせない提督の姿が目に入る。榛名のまっすぐな視線感じながら提督はたどたどしく言葉続ける。
「とりあえず、秘書艦代理だ。」
「はい。」
「事務方なんかには、俺から言っとく。」
「はい。」
「まずは、那珂の置いて言った仕事から片付けてくれ。」
「はい。」
あくまで事務的な提督の口調、その口調のまま提督は最後に付け加える。
「…ずっと、俺の傍にいてくれ。」
思わずきょとんとした顔を榛名は向ける。言葉の意味が染み渡ると、榛名は満開の笑顔浮かべ元気よくお返事する。
「…はい!榛名は、大丈夫です!」
嬉し涙が眼尻に浮かぶのを感じながら榛名は言葉を付け足す。
「榛名、とても幸せです!」
窓からの陽光が榛名の笑顔を照らす。きれいだな、と提督は思った。
了