少し早く来すぎたかな、と公園の時計台を見上げて思った。鮮やかなグリーンのビーバーコートが冬風に微かに揺れる。身体を反転させて時計台に背中を預けるパースの耳に、これまたどうやら早く来すぎた様子の提督の声が届く。
「パース、来てたのか」
「提督」
紺のジャケットと白のポロシャツ、ベージュのチノパン姿というパースにとっては物珍しい提督の私服姿にパースの目が見開かれる。一方の提督もまた、グリーンのコートに覆われたオフホワイトのハイネックニットと黒のフレアスカートにタイツ姿という清楚なパースの立ち姿に言葉奪われる。そのまま、呆けたようにふたり見つめあっていたが、ようやく先に我を取り戻した提督がパースに声をかける。
「待たせちまったか?悪かったな」
「あ、ううん。本当に今来たところだから…」
恋人同士になって早2週間、少しはぎこちなさも抜けてきたかと思えばこの通り交わす言葉すら途切れ途切れの有様にパースは思わず苦笑する。自分がこういうことに器用なほうではないことは分かっていたけれど、いざ初めてのデートに相対して自分の不器用さを思い知る。そんなパースの様子にどこまで気がついているのか、それでも提督は微笑み浮かべパースに近づくとその背中を優しく推すようにして誘い並んで歩きだす。コート越しに感じる提督の感触に鼓動跳ね上がるのを自覚しながらパースは提督と肩を並べて歩き出した。
赤い電車に乗ってふたり目指すのは鎮守府のある街の隣の市にある水族館。電車を降りてモノレールに乗り継ぎ、海の上の人工島を目指す。水平線の輝く車窓を見つめながら提督が傍らに座るパースに声をかける。
「オーストラリアには、水族館はあるのか?」
「オーストラリアをどーゆーところだと思ってるの?シドニー水族館は南半球最大の水族館よ」
「行ったことあるのか?」
「…ないけど」
現世に顕現してそう長くない時期にこの国への派遣が決まったパースは、それほど母国の観光地などに足を運んだ経験はない。そんなパースに今からでも様々な経験をしてもらおうと提督がまず選んだのが水族館だった。いつも見慣れた海も、視線を変えればまた新しい側面を見せることをパースが知ってくれることを祈って。
モノレールを降り、陸地と島をつなぐ橋を渡って人工島に上陸する。建物の間を通り過ぎ、ふたりは水族館に到着する。提督がチケットを買う間、パースはきょろきょろと周りの色鮮やかな建物や華やいだ観光客の様子を眺めていたが、提督がチケット片手に近づいてくるのに気がつくと肩にかけたトートバッグを下ろし手を入れながら提督に問う。
「あ、いくらだった?」
「いいから」
「え、そんなわけには…」
「遠慮するな。少しはカッコつけさせろ」
笑ってそんなことを言われてしまってはパースも続ける言葉がない。それでも少し困ったような表情浮かべるパースを安心させるようにひとつ頷くと、提督はやおらパースの手を握る。
「きゃ!」
思わず小さな悲鳴が漏れる。そんなパースを引っ張るようにして提督は水族館のエントランスを潜った。
照明を抑えた水族館の館内で巨大な水槽が淡い光を放つ。鮮やかな黄色の魚たちが群れを成して優雅に視界を横切る。だけど、パースにはゆっくりと魚たちの演舞を見つめる余裕はない。繋いだ手がかっかと火照るようで、負けないくらい顔も真っ赤になっているようで、ああ館内が薄暗くてよく顔が見えなくてよかったなどと思いながらパースは熱くなる頬をもてあます。そんなパースに向かって提督は顔を水槽に向けたまま話しかける。
「どうだ?いつも航海している海も、視点を変えると新鮮だろう」
「え?…ああ、そ、そうね」
心ここにあらずだったのがバレてないだろうか、そんな心配をパースはする。パースの心中知ってか知らずか、提督はパースの手を握ったまま移動する。少し強引な提督のエスコートが、それでもなんだか心地よい。提督に全て任せるつもりでパースは提督に付き従って歩き出した。
手を繋いでいるのが恥ずかしいような、いつまでもこうしていたいような、そんな揺れる心を抱えながらパースは水槽の前を次々横切っていく。青の、赤の、銀の魚が色鮮やかに流れるように泳いでいく。そういえば秋刀魚漁の護衛なんてこともやったな、などと思い出しながらパースは心の半分以上を繋がった手の感触に持っていかれながら、それでも残る半分で水中の生き物たちの姿を堪能する。
次のコーナーは北極圏の生き物たちのコーナーだった。魚類のみならず海に関係する大型陸上生物も展示するこの水族館で、パースは初めてホッキョクグマやセイウチを見た。その大きさにほぅ、と息をつくパースの視線が、とあるガラス張りのコーナーに向けられる。
「ペンギン?」
「ああ、ペンギンもいるのか」
思わず今度は提督を引っ張るようにしてパースはとことことペンギン槽に近づく。近づくパースに気が付いたのか、何羽かのアデリーペンギンがパースの方を向く。ドキッと胸が高鳴るのを感じながらパースは子供のような無防備な表情で紫水晶の瞳をアデリーペンギンに向ける。
そのまま、しばしペンギンたちと見つめあう。そんなパースを見つめる提督の目は、穏やかな色を湛えていた。
頭上を覆うガラスのトンネル、その向こうで回遊する魚たち。何万もの群れを成し優雅に水中を踊るイワシの群れに、パースは思わず言葉失う。感動のあまり、思わず提督の手をぎゅっと強く握り返す。パースの温かく柔らかな手の感触が提督の心をほぐす。海底のトンネルを進みながらイワシの群れを見つめるパースの目の前で、突然群れが進路を変えて消えるように遠ざかる。
イワシのいなくなった場所に現れたのは、悠然と泳ぐ巨大なサメ。その遠目にもわかる鋭い牙を見つめながらパースの唇から言葉が漏れる。
「…サメも一緒に飼ったりして、お魚みんな食べられちゃわないのかしら?」
「そうだよなあ」
サメに畏怖するように提督の手を握るパースの手にさらに力がこもった。
クラゲの乱舞、水草の舞踊。漂うように泳ぐクオリアにタツノオトシゴ。怖い顔をしたウツボはよく見るとひょうきんな出で立ちで、タコの舞はどこかコミカルで。海中散歩を心の底から堪能しながら提督とパースは足を進める。
館内を抜けて屋上に出る。眩しい陽光がふたりを包む。思わず紫水晶の瞳を細めながら提督と手をつないだままのパースは青空見上げる。
今頭上に広がる青空見つめ、今しがたまで見つめてきた海中思い出し、パースは思わずそっと呟く。
「きれい。この時代、この時間…大切、ですね」
パースの呟きに提督が空に向けていた顔をパースに向ける。提督の視線頬のあたりに受けながらパースは空を、雲を見つめていたが、やがて視線を下ろし提督見つめる。
そのまま、風が髪を撫でるに任せながらふたり見つめあう。行きかう人々の狭間で、ふたりの間だけに流れる時間が過ぎる。
ふ、と提督が息をつき魔法の時間を終わらせる。はっと気がついたような表情パースが浮かべる。そんなパースに笑顔向け、提督は明るい声を出す。
「さて、ちょうどいい時間だな」
「え?」
「イルカのショーが始まるんだよ、もうちょっと行ったところで観られる」
パースの手を引き歩き出す。引かれるままにパースも歩く。繋いだ手を信じて、惹かれるままに歩き出す。
「イルカって頭いいのよね…提督と、どっちが頭いいの?」
「お前いくら何でもそれは…」
「ふふ、冗談よ」
繋いだ手が、温かい。もう、戸惑うこともない。この繋がりをただ信じて、パースは提督と歩いていく。
ふたりだったら、どこまでも行ける。ふたりだったら、どこへでも行ける。そうパースには信じられる。提督のことが、信じられる。
だから、提督と手を繋いで、ふたり並んで歩いていこう。
どこまでもこの空の下―――
了