窓もなく蛍光灯が光を与えるだけの書庫は、そびえる書棚とそこに隙間なく収められた書類の存在もあって独特の雰囲気を放つ。書棚のひとつの前で踏み台に乗って陽炎はファイルの一冊に手を伸ばす。
「あった!これね!」
「すまないな、陽炎。こんなことまで手伝わせて」
「いいって、いいって。これも秘書艦の仕事だからね……一応ね、一応!」
提督の両手の上にうずたかく乗った書類の束に新しいファイルを追加しながら陽炎はおどけてみせる。姿勢を直して陽炎はまた書棚に向き直る。
「えーっと、それの追加資料は…あ、あった!」
うん、と背伸びして陽炎は上の段の書類ファイルに手を伸ばす。しかし、少しだけ手が届かないで陽炎は必死に背を伸ばす。
「う、ん…あとちょっと…」
「陽炎、無理するな。そこは俺が…」
言いながら両手の上の書類ファイルの束を提督が床に下ろそうとしたのと、踏み台の上でつま先立ちする陽炎がバランスを崩したのが同時だった。
「きゃ!」
「わ!」
背中から床に墜落していきながら陽炎は衝撃に備えてきゅっと身体をすぼめ目を閉じる。提督の腕が陽炎の身体に伸ばされる。しかし陽炎の方に思い切り身体を伸ばした提督もバランスを崩し、ふたりもんどり打つように絡み合いながら床に激突した。
……床に転がった弾みで姿勢が入れ替わったため、提督が陽炎にのしかかるような格好になる―――そのこと気づき陽炎は、鼓動が早くなるのを感じる。
ふたり、何故か身動きできぬまま硬直する。提督に押し倒された格好で自分の鼓動をうるさく聞きながら陽炎は思わず考える。
―――今、目を閉じたらどうなっちゃうんだろう……
おずおずと陽炎の瞳が閉じられる。提督を誘うように。そのまま、薄紅の唇を半開きにして陽炎は少女としての決定的な瞬間を待つ。
陽炎を見下ろしながら提督は思わず唾を飲み込む。そのまま、幾ばくかの時が流れる。ひどく長く感じるその沈黙の時間の後―――提督は、静かに身を起こす。
陽炎に背中を向け、座り込んだまま制服を直す。自分の上から気配が消えるのを感じ取った陽炎が目をゆっくりと開く。期待していた瞬間が訪れなかったことに失望する表情を隠そうともせず、陽炎は身を起こし直して提督の背中に問いかける。
「…どうして?」
「…年頃の娘が、そんなに自分を雑に扱うものじゃない」
「私は…司令になら、司令にだけなら…」
うつむき床に目を向けて、きゅっと唇を噛みながら陽炎はそれだけ口にする。いつしか胸に秘めていた提督への想い、陽炎は静かに提督に差し出す。しかし、それに対する提督の答えは陽炎の予想しないものだった。
「陽炎、お前はいにしえの艦の生まれ変わりなんだろう?」
「え?…うん、そうだけど……」
「お前には、かつてお前に乗っていた英霊達の想いが載っている」
話の行方がわからないまま、それでも膨れ上がる不安感に襲われて揺れる瞳で提督を見つめる陽炎の視線背中に感じながら提督は陽炎に背中を向けたまま言葉向ける。
「個人的な感情でお前に手を出したとあっては…その英霊達に、申し開きが立たん」
言いながら提督は立ち上がる。しかし、陽炎は立ち上がることができない。床に手をつきかろうじて自分の身体支える陽炎から震える小さな声漏れる。
「なによ、それ…」
囁きは次の瞬間絶叫となる。
「なによそれっ!」
その叫びを合図にしたように陽炎はすっくと立ち上がる。瞳から溢れる涙提督に見られぬようにか、陽炎はそのまま走り出し書庫の提督の背中を追い越し廊下へと駆け出した。
涙流しながら陽炎は廊下を走る。その向こうからこちらに歩いてくるのは陽炎の姉妹艦の不知火。
「陽炎?廊下を走っては……」
言いかけた不知火の言葉が陽炎の涙に気がつき止まる。驚き思わず立ち止まる不知火に陽炎は駆け寄ると、そのまま不知火の細い身体にしがみついた。なにがあったのか不知火が聞く前に陽炎の唇から抑えきれぬ嗚咽が溢れ出た。
手伝うものがいなくなったために予定より時間を食いながら、それでも目的の書類を見つけ終え提督は書庫を離れる。両手で捧げ持つようにして書類の山を運ぶ提督の目の前に不知火が立つ。
「不知火?」
「陽炎に、たった今聞きました。陽炎の想いを断ったそうですね」
単刀直入に斬り込んでくる不知火に一瞬提督はどう答えようか考えるものの、すぐに下手なごまかしや言い訳をするよりはと素直に認める。
「ああ、そうだ」
「陽炎の英霊に顔向けができないから……それを理由に、自分を抑え込んだわけですね」
不知火の言葉に改めて不知火の顔を見直す。その一見何を考えているかわからない提督の無表情な顔に微笑み向けながら不知火は「わかりますよ」と提督に告げる。
「司令の陽炎に向ける眼差し、陽炎を気遣う態度……それくらい、見ていればわかります」
「怖い話だな、他の艦娘にも気づかれていたのか」
「それはわかりませんが……不知火にとって陽炎は大事な姉妹艦なので」
妖艶に微笑む不知火の珍しい表情から目を逸らし提督は呻くように話し出す。
「いずれにせよ、それは俺の個人的な感情だ。英霊達は――」
「陽炎の英霊達は、陽炎の幸せを望んでいます」
不知火のその言葉に、提督は陽炎を見つめ直す。その提督の問いかけるような視線受け止めながら不知火は続ける。
「そして、陽炎を幸せにできるのは司令だけです」
「…そのふたつの根拠は?」
「カンです」
「勘か」
「確信です」
微笑み浮かべたまま瞳に強い光宿し、不知火は提督に告げた。
「不知火たちは……艦であると同時に、女ですので」
埠頭に立ち風を受け止めながら陽炎は海を見つめる。その背後からこんくりをしゃり、と踏む音が届く。陽炎が振り向くと、こちらに近づいてくるのは白い海軍制服に身を包む提督の姿。
思わず振り向き、痛む胸を片手で押さえる。その陽炎の強ばった表情、強がった視線に提督は自分の犯した罪を知る。今更こんなことを伝えるのが許されるのだろうか、そんなことを思いながらそれでも提督は陽炎に言葉向ける。
「不知火とさっき話した。陽炎の英霊達は、陽炎の幸せを望んでいるだろうって…」
「…………」
「だから、その……俺が、陽炎を幸せにできるというなら……」
「……なにそれ」
途端、その紫の瞳に怒りの色湛え陽炎は叫ぶ。
「さっき英霊に顔向けできないって私をフッて、今度は英霊のために私とつきあうって!?バカにしないで!そんなの―――」
「そうじゃない!」
言葉が通じないもどかしさに、想いが伝わらないもどかしさに提督はいつもの落ち着き忘れ一歩踏み出すと陽炎の華奢な腕をつかみ引き寄せる。抗うこともできぬまま陽炎の小柄な肢体が提督の胸に納まる。陽炎を強くかき抱きながら提督は陽炎に向かい一言叫ぶ。
「俺がお前を好きなんだよ、陽炎!」
ぴくり、と陽炎の身体が提督の胸のうちで震える。その陽炎の耳元に唇を寄せ提督は陽炎に思いのたけ告げる。
「お前が好きだった…ずっと、好きだった」
「……なによそれ……勝手すぎるわよ……」
「すまない」
「…謝らないで」
提督の胸に額を擦り付ける。白い制服に縋り付く。くすん、とひとつ鼻を鳴らし陽炎は提督に囁く。
「謝らないで……その代わり、もう一度今の言葉を言って」
「好きだ、陽炎」
返事の代わりに縋り付く腕の力を強くする。海風が、ふたりを撫でていく。陽光が、ふたりを照らし出す。
誰かたちが祝福してくれている、陽炎にはそう感じられた。
了