鎮守府のレンガ造りの建物の一角、赤ちょうちんをつるした夜が更けてなお灯りの窓から漏れる一角がある。多忙な鎮守府のこと、深夜になっても灯りを照らす部署は少なくないが、この一角から漏れる光は心なしか他のものより暖かだ。小料理屋・鳳翔、軽空母娘鳳翔が半ば第一線を離れて営む鎮守府名物の店である。
「……というわけで上には上の思惑があるのは分かるんですがね。それにしても勝手なことを言うなあと思ったわけですよ」
「提督も気が休まりませんね。お疲れ様です」
カウンター席に腰を落ち着け自分と向かい合って座る提督の話に鳳翔は頷き相槌を打つ。他の艦娘や鎮守府勤務の者たちの姿も今はなく、ふたりきりの時間が流れる。この時間を、鳳翔は愛おしく思う。提督とふたり、外の世界と時間が隔絶したようなこの時が。
「こうして鳳翔さんと過ごす時間が私にとって一番の癒しですよ」
「そう言っていただけますと」
何気なさを装ってお返事するが、鼓動がトクンとひとつ跳ねるのを自覚する。染まる頬に気づかれぬようとしてか提督から目を逸らし、鳳翔は話題を変える。
「それにしても私に敬語を使わなくても……事実上一線を退いたとはいえ、提督は私の上官なのですし」
「まあ、それはそうなんですけれどね。なんとなく、鳳翔さん相手にはこっちの方がしっくり来て」
白い割烹着姿を小さくすぼめ、鳳翔は恐れ入る。緩やかに流れるこの時間、それがいつまでも続けばいいと思う。
提督への想いを自覚したのはいつの日だったか、つのる想いは静まってくれることはなく鳳翔の胸を切なく焦がす。夜が明ければ提督はまた最前線の指揮官として他の艦娘たちに囲まれる事となる。その娘たちの中に自分がいないこと、そのことを未だに寂しく感じることがある。今まで何度か口にしようとして躊躇われた言葉、その言葉を今夜は形にして提督に向かい差し出す。
「あの……」
「なんですか?」
「私も、久しぶりに前線に出撃させてもらうわけにはいかないでしょうか」
提督が驚いたように目を開き手にしたお猪口を口に運ぶ寸前で静止させる。実戦で活躍するには正直スペック的に厳しくなり、ある作戦で激しく損傷したことを機に今の立場に収まった鳳翔の思いもかけぬその言葉を提督は今一度反芻する。なぜ今になって、とは思うものの提督は鳳翔の真意には気づかない。鳳翔が未だ提督のお役に立ちたいと心のうちで願っていることを。癒しの場として以外にも、提督にとって必要な存在でありたいと願っていることを。
しばしの沈黙の時間ののち、お猪口をひと口含んでから提督は返事をする。
「まずは、演習への参加から……実戦投入は、その後からでも遅くないでしょう」
目を伏せ簡潔にそれだけ告げる提督の言葉に心が躍った。自分も存在価値を示すことができる、そのことに鳳翔は大きな喜びを感じていた。
よく晴れた青空の下、埠頭に空母艦娘たちを始めとする機動艦隊の姿があった。久しぶりの艤装の装着感に懐かしさと少しばかりの違和感を感じながら鳳翔は五航戦と並んで姿勢を正し、ひとつ大きく深呼吸をする。と、瑞鶴が両手で支え持つ、まだ矢の形に姿を変えていない艦載機のフォルムが目に映る。見慣れたそれとは明らかに異質なその姿に、鳳翔の唇から疑問の声が漏れる。
「瑞鶴さん、その子は?」
「え?ああ、橘花改です。ジェット戦闘攻撃機ですね」
「ジェット機……」
テレビも見るし雑誌も読む。だからジェット機という存在はごく自然に知っている。しかし自分たち艦娘の装備品としてかの機体が配備されたとはついぞ知らなかった。プロペラを持たない流線型のその姿を見つめながら鳳翔は改めて自分が第一線を離れている間にいろいろな事が変わっていることを自覚せざるを得なかった。
一航戦を相手にしての五航戦と鳳翔の演習結果は鳳翔たちにとって散々な結果に終わった。索敵を任された鳳翔は、しかし練度の高い一航戦の索敵機に大きく後れを取ってしまった。嵐のように襲い掛かってくる艦攻艦爆の群れを前にして直衛隊はなすすべがなく、ようやく発艦させた追加の迎撃隊も敵役の戦闘機隊の餌食となるだけだった。
演習を終え、ペイント弾に染まる全身を小さくすぼめながら鳳翔は五航戦姉妹に謝罪する。
「ごめんなさい……」
「やだなあ~、謝らないでくださいよ鳳翔さん。こんな日もありますって」
朗らかに答える瑞鶴の笑顔も鳳翔の心を軽くはしてくれなかった。こんな日、と瑞鶴は言ったが何度繰り返しても結果は同じになるだろうことは明らかだと鳳翔には感じられた。自分は、五航戦の足手まといにしかならなかった。自分が小料理屋を営んでるうちに実戦経験を積んだ艦娘たちはもはや自分の手の届かない高みにまで登ってしまっていた。
夕暮れの埠頭にひとり鳳翔は立つ。艤装を外した姿で長い髪を海風に靡かせ、悲し気な瞳水平線に向けながら。提督のお役にまだ立てるかもしれない、などというのは甘い考えだった。自分はもはや、望んでも第一線には戻れない身になっていた。
こんな自分にここ鎮守府にいる意味はあるのだろうか。こんな自分に艦娘としての存在価値はあるのだろうか。提督にとって、ここに至り自分とはどんな存在なのだろうか。提督にとって、自分はもはや不要な存在なのではないだろうか――――
ぐるぐるとらせんを描き沈んでいく心をどうすることもできないまま、鳳翔は視界が滲むのを感じる。と、背後でコンクリをしゃり、と踏む音が聞こえ鳳翔は慌てて涙を拭う。
「ここにいたんですね、鳳翔さん」
一番聞きたくて、今一番聞くのが辛いその低い声。その声の主が近づいてくる。鳳翔は振り向かぬまま声の主が近づいてくるがままに任せる。
やがて提督が鳳翔の隣に立つ。鳳翔と同じように海の向こうを見つめながら提督はゆっくりと口を開く。
「申し訳ない、鳳翔さん……あなたの希望を叶えたつもりが、辛い思いをさせてしまったようだ」
「謝らないでください。全て、私の実力不足が招いたことです」
演習結果と合わせて鳳翔の様子を演習艦隊旗艦の翔鶴から聞いたのだろう。鳳翔を責めるどころか気遣ってくれるその優しさが、嬉しくもあり同時に辛くもある。提督に戦果を誇って喜んでもらうどころか気を使わせるようなことになろうとは。
大人げないな、と思いつつも弱音の言葉鳳翔の唇から漏れる。
「もう、私が鎮守府にいる理由もないようですね……知らぬ間に、私の居場所はここにはなくなっていたようです」
「あなたにはまだここに居てほしい」
簡潔にして率直な提督の言葉を、しかし鳳翔は素直に受け止めることができない。目を伏せ、か細い声で鳳翔は呟く。
「どうしてですか?もはや、空母として皆についていくことのできない私を……」
「空母としてではなく」
一度言葉を切り、声に力を込めて提督は言葉発する。
「ひとりの、女性として」
その言葉に、目を見開く。顔をあげて、提督の横顔を見つめる。今しがた告白したばかりの提督は唇を強く引き結び、黙って鳳翔の言葉を待つ。
「そんな、私、私なんかが……私なんかより、もっと提督にはふさわしい娘が……」
「鳳翔さんと過ごす時間が、私にとって一番大切な時間なんです」
そう告げ提督は鳳翔に顔を向ける。言葉が、提督の真摯な眼差しが鳳翔の小さな身体を貫く。胸を満たす熱さに名前も付けられぬまま、その感情は水滴に形を変え鳳翔の瞳から溢れ出す。
提督の手が、鳳翔に伸ばされる。指で提督は掬うように鳳翔の涙を拭う。その優しい感触に鳳翔は悟る。自分の居場所は、ここにあるのだと。自分の存在は、この人の隣でこそ意味を持つのだと。
提督の手が鳳翔の頭の後ろに回される。そのまま、提督は鳳翔のことを引き寄せる。鳳翔の小さな身体が提督の胸に収まる。提督に抱きしめられながら、鳳翔は目を閉じひたすらに願う。
――――どうか、この場所を永遠のものとさせてください、と。
了