夜は苦手だ。それが灯りの落ちた真っ暗な鎮守府本館の廊下ともなればなおさらだ。昼間の演習報告で提督執務室に忘れ物をしてしまった自分を呪いながら萩風は小走りで廊下を進む。執務室の扉の隙間から灯りが漏れているのを見てほっとしながらノックをして扉を押し開ける。
「司令、失礼いたします。申し訳ありませんが昼間忘れ物を……」
言いかけた萩風の言葉が「あっ!」という声とともに止まる。
萩風の視線の先で気まずそうな表情を浮かべ硬直する提督の姿。その手に持たれているのはカップラーメンのプラ容器。口元に麺を運ぶ途中の格好で凍りつく提督につかつかと歩み寄りながら少し躊躇いがちに萩風は注進に及ぶ。
「司令、差し出がましいですけれどこんな夜中にそのようなものを召し上がるのは……」
「いや、小腹が減ってガマンできなくて……そ、そうだ!萩風の分もあるぞ!」
硬い笑顔を浮かべながら提督は席から立ち上がり戸棚へと足を進める。その動きを目で追いながら萩風は遠慮の言葉口にする。
「司令、せっかくなのですが萩風は夜遅くには……」
「まあまあ。たまにはこういう背徳的なことも悪くないぞ」
戸棚からカップラーメンを取り出し隣のティーテーブルに置かれたポットからお湯を注ぐ。どう断ろうか考えるような顔をする萩風のところにカップラーメンの容器と割りばしを持ってきて提督は萩風に差し出す。
「夜中のカップラは格別だぞ。一度、騙されたと思って試してみろ」
「はあ……」
そこは生真面目な萩風のこと、提督の言葉を無碍にもできずしぶしぶカップラーメンを受け取る。3分ほど経ったところで蓋をめくり、湯気の立つ麺に割りばしを差し込み嫌々口に運ぶ。
麺をほおばった萩風の目が見開かれる。
「……美味しい」
「そうだろ?」
「萩風、カップラーメンって初めて食べました」
「え、そうなのか?」
一瞬驚くものの健康志向の萩風のこと、それもさもありなんと提督は納得する。感心したような表情でカップラーメンをソファに運び黙々と麺をすする萩風に提督は何気なく声を向ける。
「明日は、秘書艦が帰った後で餅を焼くぞ」
ごほ、っと萩風がむせる。どうやら提督のお夜食は日常茶飯事らしい。一言ご注進に及ぼうとして、でもなぜかその言葉に惹かれる自分がいることを萩風は感じていた。
翌日深夜。ぱりっと海苔で包んだ餅を口元に運びながら萩風は困ったようにソファで傍らに座る提督に告げる。
「お餅一個はご飯一膳分のカロリーがあるんですよ?そんな高カロリーなものをこんな夜中に……」
「でも、美味いだろ?」
「……はい」
自身も餅を食しながら提督は嬉しそうに笑顔見せるのだった。
そんなこんなで数日後。もはや恒例となった深夜のお夜食会。今夜の背徳の糧であるポテトチップスを口元に運びながら萩風は困ったようにソファで傍らに座る提督に告げる。
「こんな塩分の強いものをこんな夜中に……」
「でも、美味いだろ?」
「うう……」
実際真夜中のポテトチップスは美味しい。私どんどんいけない子になっていくな、と思いながら萩風は止めようもなくまたポテトチップスの袋に手を伸ばす。その後を追うようにポテトチップスを袋からつまみ出す提督が、ふとポテトチップスを口に運ぶ手を止めて呟く。
「しかしなあ……ここんところ体重が増えてきてなあ……」
少しの逡巡のあとポテトチップスをぱりっと口に入れてから提督は少し思い切ったように言う。
「しばらく、夜食を控えようと思うんだ」
提督の横顔を見上げる。想像していなかった喪失感が萩風を襲う。それでも提督の健康を気遣いながら萩風は目を伏せ小さく呟く。
「その方が、いいと思います」
ぱり、とポテトチップスを口にする。なんだか味がしなかった。
翌日、もうすっかり夜も更けたころ。昨日までなら提督執務室で秘密のお夜食会が開かれていたころ。ベッドの上でまんじりともせず天井を見上げながら萩風は物思いにふける。
同室の舞風に毎晩どこへ出かけるのかを誤魔化す必要もなくなってほっとしていいはずなのに、この沈む心は何だろう。いや、そもそもルームメイトを誤魔化してまでなんで自分は執務室に通い詰めていたのだろう。私、そんなに食いしん坊だったのかな?と思いながら萩風は隣のベッドで寝息をたてる舞風を起こさないように身を起こす。
駆逐艦娘寮の廊下の端にある共用の小さな台所に身を潜らせる。物音を起こさないように気をつけながら冷蔵庫を開け、私物のチーズを食パンの上に乗せてトースターに入れる。
やがてチン、と軽い音を立ててトースターがチーズトーストの焼き上がりを告げる。いつぞや執務室で提督と食べたその味を求め、萩風はトーストを口に運ぶ。
「……美味しくない」
あの時の味は、もうしない。こんな暗い台所じゃあの味はしない。もう、萩風にもわかっていた。あのお夜食がおいしかったのは、提督と一緒だったから。あの続く夜が楽しかったのは、提督が一緒だったから。
頬を一滴の水滴が伝う。
「あ、あれ?」
水滴がぽたりと台所の床に落ちる。
泣いているのだと、気がついた。
翌日、とぼとぼと萩風は鎮守府本館の廊下を歩く。沈む心を抱えながら。なぜ、もっと早く気がつかなかったのだろう。提督の隣に安らぎを覚えていたことを。提督との夜の逢瀬を、こんなにも求めていたことを。
廊下の向こうから今しがた想っていた人の姿が近づく。
「あ、萩風……」
いつもなら忘れない敬礼をその時は忘れた。その代わり、痛む心臓を庇うように片手で胸を押さえた。その萩風に、ひたむきな瞳を向けてくる萩風に提督は立ち止まりながら言葉をかける。
「なんだか久しぶりな気がするな……一日会わなかっただけなのに」
「……はい」
ああ、この想いをどうすればいいのだろう。この想いをどう告げればいいのだろう。昨夜気がついた提督への想い、満ち溢れるのを持て余しながら萩風はどうしようもなく提督を見つめる。
「あのさ、」
言い辛そうに提督が口を開く。
「今夜、また何か一緒に食べないか?健康には悪いんだけど……いや、健康のことはこの際いい。いや、別に何も食べなくてもいい」
揺れる萩風の瞳をひたと見据え、提督は思い切ったように告げる。
「萩風との時間が欲しい……萩風と、一緒にいたい。何言ってるんだと思うかもしれないけれど、俺は萩風と……」
言いかけた提督の言葉が止まる。萩風の涙に止められる。胸を片手で抑えた格好で、涙流す瞳提督に向けながら萩風は提督に震える声紡ぐ。
「萩風と、過ごしてくれるのですか?……萩風は、司令と一緒にいていいのですか?」
萩風の問いかけに力強く答える。
「ああ……俺には、萩風が必要だ」
ただひとつの答えを、萩風は頷きで示す。言葉にならない、言葉もいらない。ただ、ふたりの時間があればいい。二人の場所があればいい。
提督を濡れる瞳で見上げながら萩風は想う。
自分の場所、見つけた。
了