櫻井裕章の試合、さすが皆様わかっていらっしゃる! パドックを前に、すでに掛け金は三億ドルを突破いたしました! それでは戦場の発表です!

 戦場はここ、チープな造りの湖畔の別荘!

 監視カメラ六台、ピンホール型カメラ三十台! 決定的瞬間を撮り逃さない事をお約束します!

 皆様ご存知でしょうか! その作品は一九八〇年、第一作がパラマウント配給で全米に知られる事となった実に低俗なホラームービー! ホッケーマスクの殺人鬼が、ティーンエイジャーを殺して回るあの映画!

 設定は、ホラームービー、殊更ジェイソン・ボーヒーズのマニア! 鍛えに鍛えた肉体を持て余す、高校時代の栄光が忘れられない低所得の肉体労働者!

 ステロイドで膨れ上がった肉体を、作業着に包む惨めな男……社会の底辺、彼の鬱屈した思いが、現実世界でも新たな惨劇を生む事になるのか!

 クスリをキメてマシェット片手に、金持ちの別荘へと乗り込んだキチガイ野郎! 自身をジェイソンと思い込んでいる、頭のイカれた殺人鬼マニア! 扮するは、新進気鋭のD級格闘士ロイ・マグワイア!

 そして、映画のスクリーンから抜け出してきた殺人鬼に立ち向かうのは、もちろん皆様ご存知のあの男! アンダーグラウンド唯一のS級格闘士! 打撃、投げ、締め、関節技に至るまで、戦いの技術を網羅した男!

 先入場者は、日本! 我らが櫻井裕章です!

 さあ、後入場者はフェンシクリジンの投与も完了して良い具合に仕上がった頃合い! 元々は西洋剣術に長けている格闘士なのですが、これだけハイな状態ならば、力任せにマシェットを叩きつけた方が早いのではあるまいか!
 
 空手を主軸に、ティル・マシェー、キックボクシング、何より過酷な特殊部隊での軍属経験を有するアメリカきっての格闘士! 麻薬で酩酊しながら、どんな戦いを見せるのか!

 なお、今回はS級格闘士とD級格闘士によるマッチングのため、そして何より設定へのリアリティのため、後入場者が麻薬有り武装有りのハンディ戦となっております。

 櫻井の拳は、不死身の殺人鬼に通じるのか? 櫻井はマシェットの攻撃を掻い潜り、痛みを感じない化け物を素手で打ちのめす事ができるのか! 試合後、櫻井の連勝記録は今日もまた伸び続けるのか!

『設定! イカれたホラー映画マニアがマシェット片手にクスリをキメて襲ってきた!』

 櫻井裕章 対 ロイ・マグワイア!

 どうぞ皆様! お賭けください!

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設定! イカれたホラー映画マニアがマシェット片手にクスリをキメて襲ってきた!

 その男には、記憶がなかった。

 

 正確に言うのであれば、二十年近くの記憶がない。頭の中にぽっかりと、大きな穴が空いたように過去が欠落している。

 

 男が覚えている過去は、空手に打ち込んでいた中学生の頃だ。それ以降の人生は空白で、何故こうなったのか、何故ここにいるのか、ひとつとして思い出せはしなかった。

 

 男は黙したまま、そうするのが習慣であるように、己のいる部屋の隅々へと視線を向ける。室内の造りから調度品、扉の位置や小物に至るまで、その全てを確かめるかのように。

 

 六メートルはありそうな、高い天井。部屋の広さは四十畳か、飾り柱などが邪魔をしていなければ、もっと面積があるのかもしれない。家具の良し悪しなど男にはわからなかったものの、マホガニー材で統一された家具は見た目も上品で部屋の雰囲気に良く合っていた。

 

 物音ひとつ聞こえない静かな部屋は、他人の家か──そうでなければ、旅行先のホテルの一室にも似た、余所余所しさに近い雰囲気を醸し出している。まるで、男の存在そのものを拒んでいるかのようだった。

 

 室内における唯一の生物は、まったくと言って良いほどに、この部屋に似つかわしくない。新品の家具の匂いとは相入れない、獣の体臭のような、血と汗が混じり合った臭い。そういうものを、男は総身にまとっている。

 

 部屋の様相が人類の築き上げた文明社会のそれだとすれば、男はまさに人間社会の異物なのだ。鍛え抜かれた分厚い肉体を晒したまま、彼はひとり、手元のメモに視線を向ける。そこに記されている一言一句を、頭に焼き付けるかのように。

 

『俺の記憶は 72時間しかもたない』

 

 新しい情報を学習する能力の障害──脳科学では、前向性健忘と呼ばれるそれ──が、いつから男の脳を蝕んでいたのか。真実を知る者はいないし、真実を知る必要もない。男にとって必要な事は、全て、一切、何もかもが、彼の手の中に記されている。

 

『俺の名前は 櫻井(さくらい)裕章(ゆうしょう)

 

 ページを捲る音。

 

 それは、いつからか男の身に染み付いた習慣だ。故に惑いもなければ、乱れもない。男は機械のように精密に、書き記された文字を読み、ページを捲る。

 

 二十四時間に一度、男──櫻井裕章はメモに書かれた自分の文字を読み返す。失われてしまう記憶を継ぎ足すように、七十二時間という制約によって、残された記憶すらも失ってしまわないように。

 

『日本人』

 

 ページを捲る音。

 

 必要最低限の、本当に必要な事しか書かれていないメモ帳。そこに記された己の言葉だけが、櫻井にとって唯一信じられるものだ。そして、メモに書かれていない事の一切を信じない。これが、彼の決めたルールだった。

 

『俺は強い』

 

 紙が擦れるだけだった環境音に、扉が開く音が混じる。厚手のカーペットの上を踏み締め、靴底を引きずるような足音を伴って、ひとりの男が部屋へと歩み入った。男はソファに腰掛けたままの櫻井に近寄りながら、彼の名を酒焼けしたような声色で呼んだ。

 

「ユウショウ、俺の事を覚えているか?」

 

「ああ」

 

 現れた禿頭の男を一瞥してから、櫻井は手元のメモに視線を向ける。ページを捲る音が、また一度響いた。その行為を邪魔する事なく、男は機を待ってから口を開く。

 

「今からお前がする事も、覚えているか?」

 

 禿頭の男──ヨシフ・ブラトフは、形の良い頭部を掌で撫でながら、慣れた様子で櫻井へと問いを重ねる。櫻井の身体に染み付いている獣性を、ヨシフは恐れない。ふたりの関係は、一日やそこらのものではないと如実にわかる慣れ方だ。

 

 櫻井は、答えなかった。沈黙を回答と受け取って、ヨシフは一度、ため息を漏らす。また忘れちまったのかと呟く声は──忘れてしまう櫻井が知る事はないが──このやりとりにおける、お決まりの文句だ。

 

「今から、お前は戦う」

 

 ヨシフが、何事もないかのように告げる。それを櫻井も受け入れ、ごくわずかな重心移動だけのしなやかな動作で、座り心地の良いソファから音も立てずに腰を上げた。

 

 サクライ・ユウショウはここに来てからそうやって生きてきたのだと、部屋を出ながらヨシフは語った。これから行われる戦いの意味、どうすれば勝者となるのか、インターネットの向こう側にいる観客の事、断片的な情報が櫻井に与えられる。

 

 ヨシフの情報は、簡潔なものだった。無人の廊下を進んだ先、分厚い扉の向こうで対戦相手を待ち、そいつを──心臓も含めて──動かなくする。

 

 勝利条件は大切なものだったが、観客についてはどうでも良いものだった。自分と名も知らない誰かが殺し合う様を、上質なワインや葉巻と同列に楽しんでいる連中の立場や素性に、櫻井はまるで興味がない。櫻井の気にする事は、ただひとつだけだった。

 

『俺は強い』

 

 メモの言葉は、櫻井を裏切らない。

 

 メモの言葉は、櫻井を騙さない。

 

 メモの言葉は、櫻井の真実だ。そこに書いてある言葉を、己の記したその言葉を、櫻井は信じている。藁にもすがるような思いで。たったひとつの、地獄の淵で犍陀多が見た、かぼそい希望の糸のように。

 

「俺の相手は、強いのか?」

 

「お前の方が強いよ」

 

 ヨシフは笑いながら、大した相手ではないと言う。相手の戦績だとか、試合の経験だとか、そういった情報を並べ立てる。心配するなと言うように、櫻井の肩を軽く掌で打ちながら。

 

 自身に向けられたヨシフの激励を、櫻井は信じない。メモに書かれていない事を、櫻井は信じない。

 

 七十二時間前の事を覚えていられない櫻井にとって、メモに書かれた言葉以外の何もかもが、己を騙し裏切るかもしれない存在だった。

 

 送り出すようなヨシフの言葉に、櫻井は無言で背を向けた。一歩を踏み出す寸前で、最後に確認したページを思い出す。

 

『俺が使う格闘技は シラット』

 

 自分が白い歯を見せて笑っていた事に、櫻井は最後まで気付かなかった。戦いを待ち侘びるかのようなその笑みが、牙を剥く猛獣のようであった事にも。

 

 鉄同士を擦り合わせるような耳障りな音を立てて、分厚い扉が開かれた。

 

 今宵もまた、アンダーグラウンドの試合が始まる。

 

 

 

 

 

 先入場者は、待ち伏せ防止の観点から指定の場所で待機する。それが、アンダーグラウンドにおける最初のルールだ。今回のセットは、湖畔に建てられた金持ちの別荘といった風合いだった。いくつか並んでいる窓辺のソファのひとつが、櫻井の指定された待機場所だった。

 

 ゆっくりとした歩調で、櫻井はさほど広くない部屋の中央へと進んで行く。生き残るためには、どんなに些細な情報も見逃してはならない。彼自身は覚えていなくとも、その肉体が覚えているのかもしれない。自然と、それこそ無意識のうちに、櫻井の視線は室内の様相だけでなく武器になりそうなものを探っていた。

 

 二十畳ほどの空間で最も目立つのは、煉瓦造りの本格的な暖炉と皮張りのソファセットだ。磨き上げられたガラスのテーブルに灰皿が置かれ、床には厚手のラグマットが敷かれている。暖炉はオフシーズンだからか、すっかりと冷え切っているのが空気で感じ取れた。

 

 ソファに腰を下ろすと、ビニールでは味わえない匂いと、床に固定されているらしいどっしりとした安定感がある。得物としての用途には適さないと判断して、櫻井の口からほうと小さなため息が漏れた。

 

 暖炉の近くで目を惹くものと言えば、咄嗟の鈍器になるであろう灰皿に火かき棒だ。壁には猟銃がかけられているものの、弾丸は装填されていない。当然ながらその情報を櫻井は知らないが、彼は猟銃への信頼を持たなかった。これ見よがしに配置された銃は罠だと、戦士としての直感で警戒をしていた。

 

 不意に、扉の開く音が櫻井の鼓膜に届く。それから若干の間を置いて、どす、どす、と重たい足音。厚底のブーツが床石にぶつかるようなそれに、元より鋭い櫻井の双眸が鏃のように切れ味を増した。

 

 後入場者は、大柄な男だった。軽く見ても、二メートル──百九十センチはまず下らない。作業着の上からでも筋肉の隆起を感じ取れる丸太のような腕は、並の男の太腿ほどもありそうな太さをしていた。だが、何より異質なのは男の顔を覆うホッケーマスクと、その手に握られた刃渡り五十センチはあろうかという山刀だ。

 

 娯楽として下らない映画を嗜む者なら、誰もが、一度はそれを見た事があるだろう。そうした趣味の持ち主ならば、大男の姿を見て、それを連想しない者などいない。

 

 櫻井は、無論それを知らない。記憶にある最後の光景は沖縄で、朝から晩まで空手に打ち込んでいた。だからそういう映画を見に行く事もなかったし、そういうキャラクターが存在する事も知らなかった。故に、彼は判断する。今回の相手は、武器を持った狂人であると。

 

 対峙しても、すぐには戦いは始まらない。後入場者である──男がD級格闘士である事も、そしてその名前も櫻井には知る由もない情報だが──ロイ・マグワイアには部屋の間取り、家具の配置を見る時間三十秒が与えられ、先入場者である櫻井裕章と対等の条件にする。

 

 先入場者たる櫻井は今も部屋を見回す事を許されているが、大男から目を外さなかった。忘れてしまってこそいるが、かつてもそうしていたように、この大男がルールを守る保証がないという理由から櫻井は決して警戒を解かなかった。

 

 七十二時間しか記憶が持たない櫻井は、自分以外の言葉は百パーセントは信じない。

 

 常に守ってきた櫻井のルールが、今回の戦いでは言葉の通りに彼を救った。大男の手にした山刀が突如として振り下ろされ、厚い刃が櫻井の待機場所であったソファを乱暴に引き裂く。注視しても見落としてしまいそうな大男の変化──足先へのわずかな重心移動に気付いた櫻井がその場を飛び退いてから、秒にも満たない間の事だった。

 

 床の上を転がり、間合いを離して櫻井が立つ。振るわれる山刀と同様に、家具の破壊音さえも潜り抜ける流水のような身体操作。ふたりが相対してから数秒の間を置いて、作り物の別荘に備え付けられた鳴るはずのない電話が悲鳴のような音を奏でた。本来であれば、それが試合開始の合図だった。

 

 緩く一度、息を吐く。身体が自然と取った櫻井の構えは、打撃の威力を高めるために重心を低く落としたそれだ。右の指を立てたまま、ゆるりと顔の前面へ。開いた指のどれもが太く、敵に向けた掌の皮はいかにして鍛えられたのかざらりとして分厚い。対する左の指は床を向き、腰の後方へと据えられた。半身の姿勢は、人体急所の集まる正中線を隠すもの。柔らかく緩めた膝関節が、地を蹴る瞬間を待ちわびているようだった。

 

 ──来る。

 

 櫻井の目が細まると同時に、大男が山刀を振りかぶる。当たれば頭蓋骨を割られ、防げば四肢を落とされる。刃物を相手にするとは、そういう事だ。それを理解しながらも櫻井は退かず、後ろ足を用いて身体を前方へと送り出した。力任せに太腕を振るう鈍い音が、櫻井の鼓膜には語りかける死者の声のように聞こえた。

 

 得物を振るう腕の付け根を、右の掌打で弾いて力の方向を歪める。間髪を入れずに、肋骨へと突き刺すような左の縦拳。夫婦手の技法で振るったそれは、空手で言うならば逆突きだ。軌道を逸らして背面──裏へと回り込む動きは、打撃と回避が一体となったもの。本来であればそこから相手の重心を崩すはずだったが、櫻井は咄嗟に大きく跳び退いていた。その軌道上で、鈍く光る鋒が空を切った。

 

 半歩でも遅れたならば、山刀で喉を裂かれていた。打った筋肉の厚さが、尋常ではない。だが、それは問題ではなかった。何かが違うと、目前の敵と比較する記憶を持たない櫻井にさえわかる異変があった。あったのだが、答えに辿り着く時間は与えられない。

 

 何か違う。何が違う。こいつは何だ、何が違う。

 

 後ろへ退がりながら、櫻井は違和感の正体を考える。その間にも、大男は山刀を振り回した。櫻井のいた空間を刃がなぞり、振り抜いた勢いで家具を破壊する不快な音が繰り返し奏でられる。床にぶち撒けられる無数の破片は、素足の櫻井にとって小さくない問題となっていく。

 

 相手は格下だから、今回のはハンディ戦だ。ヨシフの言葉を思い出し、櫻井は改めてその意味を理解する。ブーツに守られた足は尖った破片を物ともせず、柔らかな素足を容易く踏み潰すだろう。鉄板でも入っていようものなら、蹴りの威力も段違いに跳ね上がる。軍靴を思わせる厚手の革甲は、大男が手にした山刀よりもよほど強力な装備だった。

 

 櫻井は物言わず、肺の中身を吐き出していく。どうすればいいのか、どうすれば勝てるのか、どうすれば強さを示せるのか。ただそれだけを考えて、己の肉体に問いかける。彼我の距離を目測しながら、己の記憶を手繰る。敵対者との間、テーブルの上にある灰皿を手にするまでの道のりには、山刀が立ちはだかる。そして、大男が肝心のテーブルを蹴り飛ばした事で、ガラスの砕ける音と共に灰皿が床の上を転がった。あれはもう使えないと、櫻井は思考を切り替える。

 

 一歩分の距離を退がり、顔を薙ぐ山刀をスウェーで躱す。そこからもう一歩を退がったところで、櫻井の背中が冷たい煉瓦に触れた。一瞬で決着の付く状況下で、櫻井は咄嗟に右手を下ろし、掌でその感触を確かめるように軽く撫ぜる。火の入っていない暖炉は、これ以上の逃げ場がないと櫻井に知らしめる。だが、そんな事は櫻井にとって問題ではなかった。

 

 櫻井が、下げていた右腕を振り上げる。最初に聞こえたそれは、大男の山刀が風を切る音よりも、ずっと鋭いものだった。次いで、耳障りな金属音。山刀から火花が散り、同時に巨体を支える大男の膝裏へ櫻井の足刀が突き刺さっていた。

 

 肉を抉る強烈な痛みを与えても、悲鳴は上がらなかった。櫻井は動きを止める事なく側面へと回り込み、今しがた手に入れた火かき棒を大男の肘へと強かに打ち付けた。細い金属棒はその衝撃で歪んだが、ぐぎ、と鈍い音が肘関節を砕いた手応えを感じさせる。それでも、悲鳴どころか声ひとつ上がらなかった。

 

 痛みを感じているようには、見えない。それが、櫻井の感じ取った異変の正体だ。今の攻防で、確かに骨を砕いた。だと言うのに、丸太のような腕が山刀を取り落とす事はない。肩を揺するようにして呼吸を荒げながらも、眼前の敵は苦痛に呻きもせず、戦いを恐れる様子もない。ひと呼吸の内に、櫻井の思考は猛烈な勢いで駆け巡った。

 

 じゃりと音を立てて、ブーツの靴底が細かなガラス片を踏み潰した。大男は、言葉を発しない。駆け引きもなく、威嚇もしない。ただ、手にした武器で目の前の生命を刈り取る、そのためだけに行動をしている。人間というよりも、機械か何かのようだと櫻井は感じた。格闘士らしい感情の変化が、まるで読めない。

 

「やり辛いな……」

 

 目に見えない答えを探すように、敵の正体を見定めるように。振り下ろされる山刀を射抜く櫻井の視線が、今まで以上の鋭さを宿した。

 

 

 

 

 

『やはり強い、S級格闘士らしい戦いを見せます櫻井裕章! しかぁし! こいつを打ち殺すには、やはり細い火かき棒じゃ持たない!』

 

 戦うふたりの預かり知らぬところで、マイクを手にした男が叫ぶ。スクリーンに映し出される様々な人種の観客たちもまた、手に汗握る攻防に歓声を上げていた。

 

 振り下ろした山刀が壁材を抉り、攻撃を潜り抜けた櫻井が反撃を試みる。そして観客たちはワイングラスを傾けながら、安全なところで他者の生命のやり取りを楽しむのだ。

 

 アンダーグラウンドとは、そういうものだ。インターネット越しに人間が殺し合う様を観戦し、そして大金を賭けて勝敗を予想する。悪趣味の極みとも言える世界だからこそ、こうした悪趣味な戦いが実現する。

 

 フェンシクリジン──PCP、あるいはエンジェルダストとも呼ばれる。起源を見れば麻酔薬の一種だったが、今ではドラッグの一端として数えられるそれは、極めて強い痛覚減少を使用者に呼び起こす。

 

 櫻井が決して辿り着く事のない正解は、今夜の設定のためだけに用意された品物だ。投与を受けたロイの人格は、入場の段階で混濁状態に等しい有様だった。痛みに止まる事もなく、言葉を発する事もない。恐怖もなければ慈悲もなく、そして何より人間性が感じられない。

 

 それはさながらフィクションの、映画の中の殺人鬼、ジェイソン・ボーヒーズのようだった。

 

『マグワイア、そのマシェットは飾りじゃないぞ! 櫻井の頭蓋骨を両断して、我々にピンク色の脳味噌を見せてくれぇ! 櫻井、ジェイソンを殴り殺せるのはお前だけだ! 我々は、人の手で無様に死んでいく化け物が見たいぃ!』

 

 観客たちは、期待を込めてふたりの戦いを見つめている。殺人鬼に扮したロイの山刀が、映画のように櫻井の首を撥ね飛ばすのか。それともアンダーグラウンド唯一のS級格闘士、サクライ・ユウショウの拳が不死身の殺人鬼を打ちのめすのか。

 

 振り下ろされる山刀の一撃はどれもが必殺で、生身の人間が受けられるものではない。五分の見切りとでも言うのか、肌を裂かれて血は流すも、櫻井は肉を斬らせない。身体を捻り、膝を柔らかく使って、重心移動とフットワークで鋒を尽く躱してみせた。

 

『やはり櫻井は良いね、マシェットの殺傷範囲をしっかり見切って回避している。あれはかなりの高等テクニックだ、刃物に対する恐怖心も克服している。躱しながら的確に、相手の関節を壊しに行ってる打撃だ』

 

『後の先というやつだろう、先に斬らせてから躱して、打つ。カウンターの基本だがね、刃物を相手にやってのけるというのは何度見ても素晴らしい! こういう試合は、ここでないと観られないからねえ!』

 

 決して闘争などしない資産家たちが、したり顔で蘊蓄を語る。自分に闘争の知識がある事をひけらかすその声は、本当の戦いを続けるふたりには決して届かない。

 

 振り下ろされる刃を掻い潜っての、猿臂。ロイが腕を振り上げると同時に、櫻井は刃を恐れず飛び込んで、腋下と背面を挟み込むように左右の肘で打ち据える。肋骨を砕かれた程度では、山刀は止まらない。数度の攻防で理解できた時点から、櫻井の打撃は変化を見せる。

 

 己が首を狙う殺意には、櫻井は怯まない。至極冷静に、だが決して計算ではない行動で眼前の敵に対応してみせる。直感だとかセンスと呼ばれる類のものが、彼はずば抜けて優れているのだ。

 

 太腕に添えた手でほんのわずかに力を加え、受け止めずに進行方向をずらす。同時に櫻井が膝を屈めて腰を落とすと、横薙ぎの一撃は頭上を駆け抜けた。勢いを殺しきれずに、ロイの上体がその場で大回りする。がら空きになる背面を前にして、拳を握る音が響いた。

 

「せっやあ!」

 

 裂帛の気合が、寡黙な櫻井の口から迸る。低く鋭いその声は、聞く者の腹に響く重さがあった。ロイの腎臓を打ち貫くのは、腰を深く落として捻りを加えた、教本のような櫻井の正拳突きだった。

 

 痛みを感じずとも、慣性というものは生ずる。元より重心の崩れていた巨体は、櫻井の拳で言葉の通りに吹き飛んだ。百二十キロはあろうロイの身体が宙に浮いたと思えば、固定されたソファの背もたれにぶち当たって粉砕し、床の上を転がっていく。放り出された山刀が壁にぶつかる、耳障りな音が響いた。

 

 これは通じないなら、こうする。これもダメなら、こうする。これが無意味だったなら、これを試す。記憶になくとも、櫻井の肉体は刻み込まれた技を忘れない。対戦者が無限に錯覚するほどの流派を即座に切り替え、打極投を用いて攻める。

 

 変幻自在、完全無比。それこそがS級格闘士、サクライ・ユウショウだった。

 

『き、決まったぁぁぁ! まさに一撃! まさに必殺! 山本陸よ、お前は櫻井に勝てるのかぁ! 皆様、これこそ! これこそが本当の戦い、本物の強者です! ドラッグで痛覚を抑え込んでも、櫻井裕章には通じなかったぁ!』

 

 アンダーグラウンドの全ての──この試合を見ている誰もが、櫻井のファンと言って間違いない──観客が見たがっていたものが、これ、この光景だ。

 

 あまりに強すぎて試合を組めなくなった達人を下し、武装した男を当然のように容易く倒し、棒切れひとつで猛獣さえも打ち殺す。その櫻井の戦績に、新たな白星が刻まれる瞬間を、誰もが心待ちにしている。

 

『ですがご安心を、これで終わりなどありえない! 我らがロイ・マグワイア、彼はこんな程度でへこたれる男ではありません、ご覧ください! さあ、立ち上がれマグワイア!』

 

 そして、櫻井に敗れる相手は弱者であってはならない。アンダーグラウンドの戦いとは、常に強者同士の戦いでなければならない。故にこの程度の攻防で、試合が終わってはならなかった。

 

 だからこその、ハンディ戦だ。持ち込んだ山刀は失っても、ロイは未だ生きている。投与された薬物によって、痛みを感じる事も、自分の肉体の何処が壊されているのかを知る事もないままに立ち上がる。不死身を思わせるその姿に、観客たちがどっと沸いた声を上げる。

 

 正拳が打ち込まれたロイの背部は、手首の深さまでめり込んだ陥没跡が残されていた。ロイは自身の腎臓が破裂している事を知らないが、ホッケーマスクの呼吸穴からは赤黒い血が溢れていた。痛みはなくとも、肉体へのダメージは確かに存在しているのだ。

 

「終わらない、か」

 

 勝利の条件はただひとつ、こいつを動かなくする。櫻井は改めて、空手の構えと共に肺の中身を吐き出した。こおと、独特な息吹の呼吸音が尾を引いて響く。

 

 櫻井に襲い掛かろうとしたロイが、初めて動きを止めて、己の右腕に視線を向ける。元より関節が砕かれていた肘は、折れた骨が内側から皮膚を突き破り、ぶらぶらと力なく揺れていた。交通事故にでも遭ったかのように、先の一撃で吹き飛ばされた折に、右腕はより痛々しく破壊されていたのだ。

 

 最早、指の一本も動かせない事を本能的に悟ったのか、ロイは機能しない右腕を捨て残った左腕で足元の武器を持ち上げる。人の頭ほどもありそうな、鈍器としての用途に十分すぎる重さの灰皿だった。

 

『なあに、アンダーグラウンドの格闘士ならばまだまだ戦える! 右腕がなければ左腕で殴れば良い! 頑張れマグワイア、お前に賭けてるお客様のためにも大逆転を演じてみせろ!』

 

 ある者は戦闘継続を見越したMCの煽り文句に興奮し、ある者は痛々しい人体破壊の様相に興奮する。両者の殺し合いを止めようとする者は、この場にひとりとして存在しなかった。誰もが皆、自分の関係ないところで、人が死ぬのを観たいのだ。

 

 櫻井は鈍器での攻撃よりも、足場の悪さを避けるために動く。床のあちこちへと無数に散った家具の破片は、撒き菱のようなものだった。壁際を伝いながら、じりじりと相手の側面に回り込むように足を滑らせていく。ロイもまた、それを追って櫻井との間合いを詰めた。

 

 ふっ、ふっ、と短く繰り返される、獣の息遣いに似た呼吸音はロイのものだ。理性を持たない今、ロイは勝てない敵との戦いに恐怖心を抱いていない。辛うじて覚えている、相手を殺せば出られるという言葉だけを頼りに、彼は暗闇のような思考の中で泳いでいた。

 

 無論、櫻井に相手の事情を考える余裕はない。殺さなければ殺されるのは、どちらも同じだ。生きてこの部屋から出るための道は、いつだってひとつしか存在しない。記憶に残ってこそいなくとも、櫻井は常にその道を勝ち取って来た。

 

 常勝の中で、どれだけの死線を潜り抜けたのか。そんな事は、もう忘れてしまって思い出せない。強い相手もいたのだろう、弱い相手もいたのだろう。その全てを忘却してしまうからこそ、櫻井が縋るたったひとつの言葉があった。

 

「俺は、強い」

 

 櫻井の構えが、変わる。片足を引き、同時に引いた側の腕を天へと掲げる。もう一方の腕は地を翳す。指先を少し窄めて力を込める。その光景を見ただけで、モニター越しに騒ぎ立てていた観客たちが、水を打ったように静まり返った。

 

 それは櫻井が、自ら攻める時にのみ見せる構えだった。空気が張り詰め、緊張感が増していく。本来ならば煽り立てるのが役割の、マイクを手にした男でさえも、その一瞬は言葉を失ってスクリーンに釘付けとなる。

 

 櫻井を──過去の対戦を知る観客たちは、誰もが固唾を飲んで、片時も目を離さずに戦いの行方を見守っていた。

 

 いよいよ、このふたりのどちらかが死ぬのだ。

 

 

 

 

 

 後の先を取る。

 

 対手に先に打たせながらも、打たれる前に己が打ち、倒す。それが、櫻井の戦い方だった。

 

 櫻井の試合を観戦する多くの者は、それを圧倒的な力量差が故の戦術と見るが、実際にはそうではない。ただ単純に、櫻井は攻撃の仕方を思い出せないだけだ。故に彼は、戦いにおいて後の先を取るしかなかった。持って生まれたセンスだけで、条件反射のみで戦っていた。

 

 だが、人生の大半を喪失した櫻井が、この構えだけは身体ではなく頭で覚えていた。掲げた右腕の意味を、何処でこれを見たのかを、手刀を放つ師の姿を、櫻井は知っていた。

 

 どれだけ掬い上げてもこぼれ落ちてしまうその中でさえ、数少ない記憶のひとつを、櫻井の脳は手放していなかった。これだけは、この技だけは思い出す事ができた。

 

 この手は、鉈だ。

 

 野牛の頭蓋を割るように、熊の眉間を砕くように。記憶の中の自分には、成せなかった一撃を放つ。今の俺ならできるはずだと、櫻井は肉体に染み付いた呼び名も知らない感覚に従った。

 

 櫻井の足が、緩やかに前へ出る。手刀の間合いまで、もう一歩。ロイの太い指が、力いっぱいに灰皿を握り締める。乾いた音を立てて、厚く重たいガラスの塊に白い濁りのような亀裂が走った。

 

 呼吸を、鼓動を、身体の隅々に至るまで筋肉の運動を感じる。腹の奥、丹田の辺りから、熱い何かが込み上げてくる。

 

 櫻井は、前へ出る。手刀の間合いまで、あと半歩。うなじをじりじりと這い上がる感覚に、鍛え込まれた大きな広背筋を汗がひと筋、流れて落ちた。厚底のブーツが、床を踏み締める音。ロイの左腕が、ガラスの灰皿が高々と振り上げられた。

 

 開放。

 

「ぜえあっ!」

 

 櫻井が発した獣の咆哮にも似た気合が、大気そのものを震撼させる。わずかに遅れて、ばぎん、と聞き慣れない独特の音が放たれる。床を打つのは、凶器となるはずだったガラスの塊だ。鉈の理合いを表した櫻井の一撃が、ロイの頭蓋ではなくあの灰皿を割っていたのだ。

 

 全くの偶然だった。櫻井の攻撃が開始される地点と、ロイの攻撃が開始される地点が一致したのだ。振り下ろした手刀はホッケーマスクの上から頭蓋を砕かず、振り下ろした灰皿は半ばから両断されるように砕かれていた。

 

 一命を取り留めた、ロイに知性が戻っていたならそう判断したのかもしれない。必殺の一撃を、武器を代償にしたとは言えどもやり過ごした。薬物さえ投与されていなければ、そう考えたのかもしれない。覗き穴から見える目は、確かに、砕かれた灰皿のあった空間を凝視していた。驚愕こそしないが、そこにあったはずのものを探すように。

 

 結果として、反応が遅れる。上ではなく、下。ロイは天から降り注ぐ雷を見上げるあまり、地から襲い来る牙に気付けなかった。それは、仮に知性が戻っていても変わらなかっただろう。

 

 地を翳した左手が、拳となって跳ね上がっていた。対手が手刀を防ぐと同時に、龍の顎門が如く咬み砕く。胸骨を粉砕する、不快な音を伴って。櫻井の拳は、ロイの胸部──力強い収縮を繰り返す心臓へと、突き刺さっていた。

 

 大男が、たたらを踏む。厚い胸板の装甲によって、内臓破裂は免れた。即死こそしなかったが、肉体は眼前に迫った死によって綻びを見せ始める。ごぷと音を立てて、再びホッケーマスクの呼吸穴から血液が逆流した。櫻井の拳に屈したように巨体が崩れ、とうとうロイは床の上へと膝を突いた。

 

 櫻井の構えは、その段階で変わっていた。龍を思わせる形象拳から、詠春拳のそれへ。詠春拳のそれから、とある技を放つ寸前のそれへ。手刀を戻さず、同じ高さへロイの胸部から引き抜いた牙を添える。左右の手が連れ立って構えられるそれは、奇しくも琉球空手における、夫婦手のようだった。

 

 来る! 来る! 来る! 来る! 来る!

 

 試合を見届けるのは、アンダーグラウンドの観客たち。その歓声は、櫻井には届かない。だが、届かなくても存在する。千人ほどの選ばれた悪趣味共が、この瞬間、心を繋いだように胸を躍らせた。たったひとつの思考を共有したように、誰もが拳を握り締めた。

 

 詠春拳が有する、最速の連打。その連打は、チェーンソーのように腕を回しながら打つ事からこう呼ばれる。

 

『来る、来る、来るぞぉ! 櫻井、チェーンパンチの構えだぁぁぁ!』

 

 割れんばかりの声援も、MCの煽りも、櫻井の耳には届かない。聞こえるのはただ、拳が肉を打ち骨を砕く音ばかり。

 

 最初に砕けたのは、カーボンファイバー製のマスクではなく、その留め具だった。ぱきんと乾いた音は殴打音にかき消され、剥がれたマスクの下から内出血で腫れ上がった素顔が露わになる。だが、櫻井の連打は止まらない。打たれる反動で、ロイの首が折れたようにがくがくと揺れる。だが、櫻井の連打は止まらない。

 

 二発、四発、八、十、十四、十八、二十六。打っている櫻井にも、打たれているロイにもわからない。それどころか、観戦している者たちにさえ、あまりに速すぎて数えきれない。右が、左が、また右が。打ったと思った時にはもう一方が突き刺さり、瞬きを挟むより先に引いたはずの一方が打ち砕いている。

 

 鼻が折れて血が吹き出し、歯が砕けて宙を飛ぶ。頬骨が陥没し、破裂した眼球からはどろりとした液体が溢れ出した。最早、ロイに意識はない。薬物によって無痛化しても、そのダメージは人間の脳の許容量を超えていた。ただ打たれるだけの、肉の塊。鮮血を撒き散らしながら、跪いた巨体が痙攣を繰り返す。

 

「俺は、強い──」

 

 どの瞬間、どのタイミングで切り替わっていたのかは、誰の目にもわからない。櫻井自身も、意識しないうちに構えを変えていた。百を優に超える連打の果て、すでに死に体、辛うじて生命活動を続けているだけの対戦相手に引導を渡すために。

 

 片足を引き、同時に引いた側の腕を天へと掲げる。もう一方の腕は地を翳す。指先を少し窄めて力を込める。

 

 それを防ぐ手立ては、最早、ロイには残されていない。か細い呼吸も微弱な鼓動も、肉体が勝手に続けているだけの生命活動だ。左の腕を持ち上げて、身を守る力すら残されていなかった。

 

「俺は、強い!」

 

 櫻井が、吼えた。たったひと言、メモ帳に記されたその言葉を信じて。

 

 龍の顎門が、牙を剥く。打ち下ろす手刀は、剣ではなく鉈の理合いを表したもの。師が野牛の頭蓋を割った、少年の頃の記憶をなぞるように。あの光景を実現するに足る肉体へと鍛え上げられた、渾身の一撃を櫻井が放つ。

 

 無抵抗のロイにとって、それは処刑人の刃となったのだろうか。櫻井の手刀は、第二中手骨の深さまで頭部にめり込み、髄膜を引き裂き大脳を粉砕して、大男の生命活動を完全に停止させた。

 

 手刀を引き抜くと、櫻井は動かなくなったロイから視線を外した。あちこちに散らばった家具やガラスの破片を踏まぬようにしながら、最初に入ってきた扉へと向かう。歩み出すのを待っていたようにどうと音を立ててロイの亡骸が倒れ、長いようで短い試合がようやく終わった。

 

『つ……強い! 強い強い、強すぎる! さすがはS級格闘士、これがアンダーグラウンド最強の男! 櫻井裕章、櫻井裕章の勝利です!』

 

 櫻井裕章の戦績に、またひとつ、白星が加わる。常勝不敗の格闘士を、観客たちは声の届かぬところから持て囃し、万雷の拍手と声援を送った。櫻井の勝利に酔い、人の死に浮かれ、本物の闘争を観た余熱で格闘論を好き勝手に語り尽くす。

 

 そのどれもが、ひとつとして櫻井の耳には届かない。闘争の場に立つ観客は、ひとりとして存在しない。決着の瞬間、櫻井の耳に聞こえたものは、たったひとつの音だけだ。

 

 人の頭蓋を割る音は、耳慣れない、酷く不快な音だった。

 

 

 

 

 

 ページを捲る音。

 

 高級ホテルのスイートを思わせる、生活感のない部屋の中。上質なソファに腰掛けたまま、男はひとり、メモに記された文字を追う。

 

『俺の記憶は 72時間しかもたない』

 

 ページを捲る音。

 

 背中を丸めて、鍛え抜かれた肉体を惜しげもなく晒したまま。掌に収まるほどのメモを、そこに記された言葉を追いかける。

 

『俺の名前は 櫻井裕章』

 

 ページを捲る音。

 

 それは、一種の儀式、あるいは宗教における祈りにも似ていた。失われていく記憶を継ぎ足す、二十四時間ごとに繰り返してきた不可欠な行為。この男にとっての、絶対的なルール。

 

『日本人』

 

 ページを捲る音。

 

 そこに混じるのは、扉が開く音。やや遅れて、厚手のカーペットを擦るような、靴底を引き摺る足音。部屋に現れた禿頭の男は、酒焼けしたような声でメモを見つめる男の名を呼ぶ。

 

「ユウショウ、俺の事を覚えているか?」

 

「ああ」

 

 やり取りは短く、そして変わる事はない。男にとっては初めてだとしても、それ以外の者からすれば、飽きるほど繰り返した問答だ。次の答えも、次の言葉も、昔からずっと変わっていない。

 

「今からお前がする事も、覚えているか?」

 

 ページを捲る音。

 

 問われた男は答えない、問いかけた男の口からはため息が漏れる。忘れてしまった男にとっては、これもまた、初めてのやりとりだ。

 

「今から、お前は戦う」

 

「ちょっと待て、まだ記憶の確認が終わっていない」

 

 ページを捲る音。

 

 そこに記された文字を、男は目蓋の裏に、どうせまた忘れてしまうであろう己の脳に焼き付ける。記憶の中に実感がなくとも、その言葉を揺るぎない真実として胸に抱く。

 

『俺は強い』

 

 それが、男にとっての、自分自身の存在意義だ。それを証明するためだけに、男は今日も戦いを続ける。

 

 七十二時間がすぎても忘れない記憶を手にするために。史上最強と思える相手と戦い、勝利するために。自身が、人類史上最強の人間であるという記憶を、脳に刻み込むために。

 

 ページを捲る音。

 

『俺が使う格闘技は シラット』

 

 男は今日も、戦いを続ける。

 

 記憶の確認を終えると、争いの場に連れ出され、ルールの説明を受けて、扉を潜る。その先で出会う相手の動きを、心臓の鼓動も含めて完全に止める。その瞬間を迎えるために、力強く歩みを進める。

 

 強すぎた者は、戦う相手がいなくなった。強すぎた者にとって、戦う事は麻薬だった。故にどれだけ不利な条件が課せられても、戦う事が止められなかった。

 

 明日も、明後日も、その先も、そのずっと先も、忘れてしまいながら戦い続ける。きっと、恐らくは、彼が死に果てるまで終わる事なく戦い続けるのだ。

 

「ユウショウ、お前は──」

 

「それは覚えている」

 

 たったひとつの、シンプルで心地良い事実。ただひとつの、信じるに足る疑いようのない事実。男が抱き続ける、揺らぐ事のない事実。

 

「俺は強い」

 

 男は今日も、戦いを続ける。

 

 その事実を、完全なものとするために。その事実を、男が新しく覚えた、唯一の記憶とするために。



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