閑静な住宅街を高級車が走っている。運転席に座る老年に差し掛かりつつある男は、持ち主として相応しい風格を持ち合わせており、成金等の類でない事が分かる。
男は全国的に名の知れた存在であった。と言っても芸能人ではない。職務に相応しい服を脱いでしまえば、大衆に紛れてしまうような存在だ。
外務大臣。それが男の持つ肩書きである。
向かう先は職場でも自宅でもない。だがそのどちらにも関わっている場所である。
メディアの前では決して表情を崩さない事で有名な男が、焦りを如実に見せていた。それが運転に現れてしまわないようにと、努めて平静を装っているが、もし知己が見れば十分荒い運転になっていた。
車が止まったのは、特筆すべき事のない一軒家だった。
慌ただしく車を降りた男は、小走りで門扉に向かう。インターホンを押そうとした所で、それを知っていたかのように玄関扉が開いた。
「お久しぶりですね、外務大臣」
壮年の男が、平時と変わらぬ沈着さで出迎えた。
「お上がり下さい。今飲み物をご用意します」
「ーーいいモノだな」
「でしょう。老夫婦が営んでいる店で買ったのです。宜しければお教えしますよ」
応接間に通された大臣は、男が淹れた茶を飲む事でようやく一息を付いた様子だった。茶だけではない。尋常の用向きではない事は、大臣の雰囲気を見れば火を見るより明らかである。であるにも関わらず、男はどこまでも平静であった。感情がなく平坦なのではない。大樹のように根を張りつつ、柳のような柔軟さを持ち合わせているのだ。それが勘違いでない事を知っている大臣は、事態が解決していない事を自覚しつつ安心感を得ているのだ。
「それで。アポも無しに来るとは、余程の事態だと考えても?」
「そうだ。いや、世間にとっては必ずしもそうではない」
男の質問に対し、肯定しつつ否定した。それはつまり国内ではなく、それも大きな影響もない何かが起きたと言う事。
「君は音楽家の雪音夫妻を知っているかね」
視線が宙を漂う。
「詳しく存じている訳ではありませんが、確かヴァイオリニストと声楽家の夫妻でしたかな。NGO活動を精力的に行なっていると報道で見た事があります」
「その通りだ。今夫妻はバルベルデ共和国で活動している」
その国名を聞いた男が目を細める。日本ではあまり報道されていないが、海外のニュースサイトで頻繁に目にする国名である。南米に存在する小国で、軍事政権国家である。常に政情不安定となっており、日本とは長く国交を断絶している。
「国連の使節団と共に行動していたのだが……その使節団共々連絡が取れなくなっている。複数国を経由したものだが、現地で戦闘に巻き込まれ死亡したとの情報も入ってきている」
胸中に広がる苦味は、茶を飲んでも紛らわす事はできなかった。
「現政権はこの件に対し不干渉を決めている」
世界最強の国家と言われるアメリカでさえ、手出しできない程の火薬庫と化しているのだ。PKO派遣の審議さえされていない事を責められるものではなかった。
「私も、もし事前に彼らと会わなかったらその決定を飲んでいただろう」
「……子供も同行しているのですね」
「そうだ……!それも女の子だ」
呻くように肯定した。男も思わず溜息を吐いてしまう。
夫妻やNGO団体は、内戦地に赴く以上こうした事態が起きる事を覚悟していた。
しかし子供はどうだ。「死」と言う概念を理解していたとしても、それが理不尽に自分や家族に降り掛かってくる事を覚悟できているだろうか。断言しよう。それを理解できているのは、それはその理不尽な死を経験している者だけだ。大人でさえ大半がその理不尽の存在を知っていても、理解できていないだろう。
ならば何故連れて行ってしまったのか。
テレビ番組に出演する時、夫妻は一貫して音楽の可能性を語っていた。「音楽が平和を齎す」と。そしてそれを子供にも見せたいと。その理想自体を否定するつもりはない。共感できる部分があり、高尚で尊いものだと思える。
しかし見通しが甘かったとしか言いようがない。バルベルデ共和国を選んでしまった事も、そこに子供を連れて行ってしまった事も。子供を連れて行くのならば、せめて復興支援の使節団として向かうべきであった。
しかしそれを自業自得で済ませられるほど、大臣も男も冷血漢ではなかった。
「酷な事を言うが、もし死んでしまっているのならば、それが一番いい。しかしもし、生き残ってしまったのなら……」
「そうですね。下衆な物言いになってしまいますが、
夫妻の容姿は優れていた。その血を引く娘の容姿が凡百であるはずがなかった。
子供、特に女子ともなれば役目は多岐にわたる。場所が戦地ともなれば、気性の荒い男も多いだろう。尋常な扱いを受けられる訳がない。
その言葉でリアルに想像ができてしまったのか、大臣は突然床に手を付き頭を垂れた。
「無茶な事を言っているのは重々承知している!それでもあの子を助けてやってくれ!」
日本は不干渉を決めた。それはつまり、行動全ての責任が男1人に帰結すると言う事。もし捕まりでもしてその存在が露呈したとしても、日本がそれを認知する事はない。解放の交渉も、救助の手配もしない。見捨てるのだ。死ねと言っているのだ。唾を吐きかけられても可笑しくない。
「いいでしょう」
あっさりと大臣が求めていた言葉で答えた。しかし頼んだ大臣自身が信じられないと言った面持ちで顔を上げた。
「ただ一つだけ条件があります」
「何でも言ってくれ。報酬もどうにか用意しよう!」
「いえ。彼女を無事に連れ戻したら、不自由のない生活ができるよう万全のサポートをお願いしたいのです」
「……それだけで、いいのか」
「ええそれだけで結構です。もし彼女が夫妻の理想を受け継ぎ、世界に平和を齎せたらそれだけでお釣りが来ますからね」
「すまない……すまない……!ありがとう……!」
応接間を出て行く男に大臣は只管礼を言い続けた。
「巌……!」
両親の子供として生まれた事が、クリスは誇らしかった。長距離移動が多く、同年代の友人ができない事など不満はあった。
それでも行く先々で父の奏でるヴァイオリンの音色と、それに乗せられた母の声が受け入れられ、元気を与えられている事が我が事のように嬉しかった。
言葉が伝わらずとも、涙を流しながら聞き酔いしれ、身振り手振りで礼を伝えようとしてくれる事がうれしかった。
何もしていない自分の事を乱暴に撫でてくれる事が嬉しかった。
この国でもそれができるんだと、言葉を交わせずとも分かり合えると、そう思っていた。
街に入ってから、今までの場所とは何か違うと漠然とだが感じていた。
大人達の自分達を見る目付きが怖かった。子供達の自分達を見る目付きが不気味だった。
今まで嗅いだ事のない臭いがずっと鼻をついていた。
建物には小さな穴が沢山あった。
道端で寝ている子供がいたから起こしてあげようとしたら、慌てた様子のママに止められた。
いつもは笑って会話してる大人達も不安そうな顔をしていた。
パパが子供に声を掛けられていた。苦しそうな顔で首を振っていた。
この街を好きになれそうになかった。我が儘を言って困らせたくなかったから、ここを早く出ようとは言わなかった。言えば、もしかしたら2人は……。
雪音クリスは生きていた。大きな怪我もなく、健康であった。しかしその心は違った。
両親が目の前で死に、頼れる大人も全員いなくなり、拉致され、劣情を隠そうともしない男達の視線に晒されているのだ。この時点ですでに精神の均衡を崩していてもおかしくはない。寧ろ、年齢を考えれば未だ正気を保っている事の方が奇跡と言える状況だ。
「…………」
目は開いていても、何も見えていない。そこに映っているのは、死に行く両親の顔。クリスは自身が泣いている事にも気付いていなかった。
男は夫妻達と同じようにグアテマラ経由で入国した。国境に近いため、激戦区からは離れているが、それでも戦火の跡はあちらこちらに見られた。辛うじてライフラインは生きているが、どれもが非常に不安定な供給状況となっている。
周辺を見回していると、青年が1人近付いていた。
「アンタかい案内を探してるってのは」
「そうだ。君がその案内人かね」
「……ついてきな」
青年に先導され、クレーターが点在する道を歩く。
「しかし外国人は変な奴が多いな。この間来た奴らもそうだが、こんな所に何しに来てんだか」
「この間、と言うのは音楽家の事かい?」
青年は比較的裕福なのか、ガレージ付きの家を持っていた。シャッターを上げると、ビンテージ物と言っても差し支えのない古い車があった。あるはずの後部座席には何もなかった。ここに至る過程で取れたのか盗られたのか。
「あー……確かそんな集団だった気がするな。ガキまで連れて気が知れねえぜ。話じゃ向こうで殺されたって話だぜ。……ちっ、掛かれってんだよポンコツ!」
機嫌の悪いエンジンに毒付く青年。脅しが効いたのか、ようやく火が点いた。
「ふむ。……全滅したのかね」
ヘタったクッションに、イかれたサスペンションが男の尻を容赦なく叩く。尤もそれだけで悲鳴を上げるような柔な心身は持ち合わせていないが。
「さあな。ただ子供には利用価値があるからな。巻き込まれてるならともかく、生き残ってるのを殺そうとはしねえだろ」
暫し無言となる車内。効いてるのか分からない空調から濁った空気が漂う。
「前にも説明してるが、案内は手前までだぜ。見つかりゃ、稼ぎが吹っ飛ぶからな」
「構わないさ。ただそこまではしっかり送ってもらいたい」
小さなクレーターを踏んだのか、派手に揺れる。
「……アンタ、あんな所に何の仕事で行くんだ」
「申し訳ないが、守秘義務のある仕事でね」
「こんな所で漏らしたって、どうやってアンタの会社が知るんだよ」
「日本人と言うのは、見てる者がいなくともルールを守ろうとする民族でね」
尻に伝わる揺れが激しくなっている。
「良い子ちゃんだな。でもあんな街で仕事しようってんなら、アレだろ『死の商人』て奴だろ。
「どっち、とは?」
「惚けるなよ」
「ふむ。その前に質問を1つ構わないかな」
「あ?」
「この車は
青年の右手が落ち着きなく手慰みをしている。頻繁に視線が顔ごと外れる。まるでドアポケットにある
「随分とルートどころか街道を外れているようだが」
木の根を踏み、車が跳ねる。何かに気を取られているように運転が御座形になっている。
質問に質問で返された青年は俄かに顔を強張らせた。それがバレた瞬間、青年の意識はドアポケットにあるハンドガンに集中していた。何気ない動作で取り出すか、素早い動きで取り出すか。しかしもしそれにさえ対処されてしまったら。男から感じる得体の知れない雰囲気に、青年は圧迫されていた。
「
その言葉で青年の精神は弾けた。ドアにぶつける勢いで手を伸ばし、ハンドガンを取った。安全装置は掛かっていない。持たされているだけの素人に安全意識などない。
言葉で脅す必要などない。真横の男に突き付けようとし、既に男が動いている事に気付く。だが撃ってしまえばこちらのものだ、と大して警戒しなかった。
照準を付けるよりも早くその手首を握られ固定。もう一方の手でスライドをオープンさせ薬莢を排出、リリースボタンを押し弾倉を落とす。1発も撃たぬまま弾切れとなる。
「は?」
何が起きたのか理解できなかった。そして理解できぬまま、喉元への手刀を喰らい、それで下がった顔をハンドルに叩き付けられ意識を刈り取られた。
サイドブレーキを引き、減速させた上で樹木にぶつけ強引に停車。
運転席から引きずり出した男を手と足を縛り上げ、地面に転がしておく。時間が惜しいため、それだけで済ませておく。尤もそれが青年を助ける結果になるかは分からないが。
車の調子を確認し終えると、街道へと向かう。一帯の地図は頭に叩き込んであるため、本来であれば案内など必要なかった。バックアップが無い状態で、雪音クリスと共に脱出するには軍政権の影響力がどこまで伸びているのかを確認する必要があったのだ。
ここまで伸びている事を考えると、現地の基地を即座に壊滅させるか、気付かれずに脱出するかになる。
「…………」
少し厳しい事になりそうだと感じた。