牛歩のごとき更新の遅さにはなりましょうが、始めた以上は終わらせる所存でありますので、どうぞよろしくお願いいたします。
――――人が倒れている。
数十日前の午前中、近所の海辺へと散歩に出かけた時のことだ。波打ち際で倒れる人影を見つけた。
黒いセーラー服のようなものを身にまとってうつぶせに倒れるその人物は、髪の長さや線の細い体格、セーラー服――おそらくは合っているはずだ――という格好から自分と同じくらいの年ごろか、少し年下の少女であるように思われた。
背中まである長い黒髪は、海水に浸かっていたのか彼女の体にべったりと張り付いていて、その髪の張り付いた顔は病的なまでに青白かったように思う。砂浜に倒れていて髪が濡れているという状況からして、どこからか流れてきたのだろうから青ざめていたのは当然なのだろうが。
たしかあの時は、柄にもなく大慌てで少女へと駆け寄っていったはずだ。冷静というか、どこか達観しているように感じるというのがいまのクラスメイト達からの評価だが、やっぱり慌てることもあるものか、と一人苦笑する。苦笑した部分を見られていたのか隣の席から訝しげな視線が飛ばされるが、それを気づいていないことにするべく、教師が黒板へと書き綴る数式をノートに書き写す。
この数学教師は物事を丁寧に教えてくれるのはいいのだが、恰幅のいいというか、(失礼な言い方にはなるが、)ありていに言えば少し太めな体つきをしているうえに、現在解説されているであろう部分の板書を書きながら説明するために一体何の説明をしているのかよくわからないのだ。授業後に質問に行けば驚くほどわかりやすいので特に不満の声などは上がらないのだが。
見える範囲の板書を写し終えたところで、再びあの時のことを思い返す。
駆け寄った後は救急車を呼ぶべく一一九番に連絡を入れてから、以前にこの高校で習った応急処置などをしたのだったか。あのときほど講習を真面目に受けたことを感謝したことはない。授業や講義は真面目に受けるという自分のポリシーにも感謝だ。
応急処置をしているうちに救急車がやってきて彼女は病院へと運ばれていったが、あのあとはどうなったのだろうか。無事に助かったのならいいのだが。
「それじゃあ次の問題を……
彼女が運ばれた病院は偶然なのか、それとも必然的に大きな病院であるそこだったのかはわからないが母親が看護師として勤務している場所であり、母には何かあれば伝えてくれるようにお願いしている。まあ、病院内のことのためあまり細かいことまでは教えてもらえないのだろうけれど。
「羽川くーん? 聞こえてますか―?」
そういえば、よくよく思い返してみれば海に倒れていたあの少女はどこか人間離れした美貌を持っていた気がする。それこそテレビや雑誌で見かけるイケメンだとか美人だとか言われる人物と同等以上の、だ。そしてあの長い黒髪といい線の細い体格といい、まさに自分の
「理想の女子……なあ」
「…………えっ」
ぼそりと呟いたとき、ふと、左隣から声が聞こえたような気がしてそちらに顔を向ける。そこに座っているクラスメイトの女子は、なぜだか真っ赤にした顔の前で両手を激しく横に振っていた。擬音を付けるのならばわたわた、だろうか。その女子が小柄なこともあってか、なんだか小動物めいた可愛らしさがある。このまましばらく眺めていたらどんな反応をしてくれるのかとまた思考の海に潜ろうとしたとき、何かに右肩を叩かれていることに気が付いた。
前の席の人物が何か用なのかとそちらに顔を向ければ、先ほどまで黒板の前で板書をしていたはずの数学教師がところどころを可愛らしいリボンなどで飾られた指示棒――本来は各教室に設置されているスクリーンを天井から降ろすためのものなので先端にはフック状のものが付いている――をこちらに向けていた。どうやらこれで肩を叩かれたらしい。
「何度名前を呼んでも返事をしないから寝てるのかと思いました……。とりあえず、あの問題を解いてください」
教師が指をさす先には”微分せよ”の文字とともに問題として出されているのであろう数式が記されていた。そして教師の話からすると結構な間ぼうっとしていたらしい。どうやら授業の進行に支障をきたしてしまったようなので、すみません、と一言述べてから黒板に向かう。
今回の授業は単元のまとめであり、その問題自体がかなり単純なものだったせいなのかもしれないが、数学を苦手とする自分にしてはいつもよりもあっさりと解けたような気がした。
「んで、羽川。お前、さっきの数学のとき何してたの? なんか意識飛んでたみたいだけど」
昼休み。のんびりと昼食を食べている中、一緒に食べている友人からそう聞かれる。やはり気になっていたのだろう。他の友人たちもうんうんと頷いている。誤魔化すこともできるのだろうが、彼らには海で少女を助けたことを話している。まあ、その時には妄想乙。の一言で一蹴されたわけだが。
「前に話したろ、女の子助けましたーってやつ。あの時のことをちょっと思い出してた」
「だからそれなんてギャルゲなんだよ?」
「事実ですー」
言い合って、また妄想こじらせてやがる。なんて言われる。
やっぱりこうなった。まあ、こうやって話のタネにできるというか、現実味のないことだからこそ遠慮なしに言い合えるのだから信じてもらう必要なんてどこにもない。自分だけが知っていればいいことであり、他人とは共有したくない、自分だけの思い出でもある。
「ふーん。まあ、クラス内での認識的には妄想系男子ってのも間違ってないな。と、いうことはだ。社会的にアウトな羽川少年の人生やいかに……!
……羽川の冒険は、まだまだこれからだ!」
「まだだ、まだ終わらんよ……!」
しれっと自分の人生を打ち切りにするような物言いをされたのでとっさに言い返す。返しはしたのだけど、それは使いどころ違うだろー、なんて笑われる。こうやって笑っていられる空間があるのだから、自分の人生はまだまだ終わらない。……はずだ。
そうしてひとしきり笑いあったあと、ふと着用しているブレザーの右ポケットが震えていることに気づく。ここには最近購入したスマートフォンを入れていたはずなので、おそらく誰かからの着信なのだろうと考えながらいまだに振動しているそれを取り出す。
白を基調とした薄型新モデルの液晶画面には、ただ一文字、”母”とあった。友人たちに一言かけてから廊下に出て、電話に応答する。
「もしもし? どうしたのさ、こんな時間に」
「この間様子を見てほしいって言ってた女の子、目を覚ましたよ。検査なんかもあるから夕方までは面会できないけど、どうする? 面会に来るなら予約を入れとくよ」
年相応に落ち着いた母の声が聞こえるスピーカーからは、多数の人の話し声や食器の鳴る音などが聞こえたので、おそらく今は昼食をとっているのだろう。そうでなければ職務中に電話を掛けるという問題行動をとっていることになってしまうのだが。
しかし、面会か。そこは考えていなかった。個人的にはきちんと助かってくれてさえいればそれでよかったので、入院している彼女に会おうなんて考えが全く思い浮かばなかったのだ。会って何かがあるわけでもないので、母には面会には向かわないことを告げて電話を切った。
しかし、本当に良かった。目を覚ましてくれたのか。あとは彼女に後遺症などが何もなければいいのだが。
晴れ晴れしい心とは裏腹に、廊下の窓から見える空は薄暗く、なんだか曇ってきているように感じられた。